7. 受験(3)


 2106年2月29日。午後5時45分。


「た、ただいま……」

「おかえり理人! どうだった!?」


 よろり。緊張が抜けたのか、或いは疲れからか、金城は玄関口で膝をついた。顔からは随分と生気が失われ、肌が白を通り越して土気色になっている。

 靴を脱がず、座り込んだ金城の元へ金城の母が駆け寄り、心配そうに声をかけた。


「多分、大丈夫だったと思う……400メートル走では49秒切ったし……」

「凄いじゃない理人! よく頑張ったわね」


 掠れた声に母は笑顔を見せて、労りの言葉をかけてやった。それに対して金城はぎこちなく笑い、ふっと息を零す。


「とりあえず風呂はいってゆっくりしてきなさい。ご飯ももうすぐ出来るから。今日はあんたの好きな餃子よ」

「おお……あんがと」


 思わぬ朗報に疲弊した心が少し浮き立ち、気分も上昇する。考えてみれば昼も緊張で碌に食べていなかった。その事実に気付くと、途端に腹が空腹感を覚え、金城は早く夕食にありつけるようにと速足で脱衣所へと向かった。


「一番の問題は筆記試験ね……」


 ぼつりと、沈んだ声色を零す金城の母。脳裏を過るのは昨晩の金城の様子。

 別に特段変わったところは無かった。いつも通りの息子だなと、思いはした。だがふとした瞬間に、その面差しに陰りが見えたのだ。

 その理由を問いただすことも考えたが、今はそっとしておいた方が良いだろうという結論に辿りつき、金城の母は未だにその話題には触れずにいた。


「……もう、祈るしかないのよね」



◆  ◆


 芳しい大蒜と胡麻油の香りに誘われ、唾が金城の咥内を満たす。じゅるり、そんな音を立てながら金城は次から次へと餃子を口の中へと放り込んだ。パリッとした皮に歯を立てた瞬間、じゅわりと肉汁が溢れだし、その郁郁たる香が口内から鼻まで込み上げてきた。キャベツだろうか、シャキシャキとした食感が己の食欲をさらに掻き立てる。その食感をもう一度味わいたくて、また次の餃子へと箸を伸ばす。皮も手作りされているため、市販のものより厚く、もっちりとしていた。


「ちゃんと小麦粉から作ったからね、美味しいでしょ?」

「うん、うまい」


 返事をおざなりに、また次の餃子へと手を伸ばす金城。気が付けば50個ほどあったはずのそれは30個へといつの間にか減っていた。


「……あんまり焦って食べるんじゃないわよ」

「わかってふ」


 はふはふと口いっぱいに餃子と白米を詰めながら言葉を返す金城。その様を見ながら、母が苦笑した。


「まったく……」


 どうやら己の心配は杞憂だったらしい。目の前でガツガツと元気そうに食事をかきこむ金城を視界に収めながら、安堵の息を漏らした。


「……そういえば」

「ぐん?」


 こんもりとごはんを頬張った金城の顔がまるで栗鼠、或いはハムスターのようで金城の母は思わず笑ってしまいそうになった。もう頬袋と呼んでいいのではないか、というほどに頬を膨らましている金城。鼻は呼吸しづらいのか、ピクピクと穴を広げていた。


「土宮先生が今日いらしてくださったわよ」

「っふぐ!!」


 その言葉に、金城は思わず噴きそうになった。だがそんなことをすれば食卓が台無しになる。それを避けたい一心で唇を固く引き結んだが、肺からこみ上げる息を止められず、けっきょく塞がれた口ではなく、口に含んでいたものを巻き込んで、ありとあらゆるものを鼻から吹き出してしまった。


「ごほっゲホっ……おえ!」


 酷いありさまだ。実に筆舌に尽くしがたい光景ではあるが、兎にも角にも金城は咽せた。喉を詰まらせることより、ある意味苦痛なそれを金城は耐えようとする。

 そんな息子の苦渋の様子など素知らぬふりをして、金城の母は言葉を重ねた。


「良い先生じゃない。今日わざわざケルベロスくんを迎えに来てくれてね、」

(……そういえば確かにあの糞犬がいねーって思ったら)


 きょろり。視線を室内に走らせると、金城は改めて番犬ケルベロスが居ないことに気がついた。その事実にホッと安堵しながら母の話に耳を傾ける。


「言ってたわよ、土宮先生」


――『落ちるときは落ちますし、受かるときは受かります。悩む暇があるなら万が一、落ちたときの対処、及び取るべき行動を考えておいてください』


 お茶を勧めたが、スッパリと断り家を出ようとした土宮香苗。最後には「突然お邪魔してすみませんでした。ケルベロスを三日間も預かっていただき、有り難うございました」と頭を垂れながら、置き土産を渡された時のことを思い出して、金城の母はクスリと笑った。


「月影屋の饅頭、もらっちゃった」

「……いや、ツッコミ所が多いんですけど」


 暢気に饅頭を頬張る母を呆れた目で見ながら、金城は頭を抱えた。


「なんだよ、落ちたときって……言わねーだろ普通。あいつ絶対俺が落ちるって思ってるよ」

「そんなことないわよー」


 「あ、これ栗がぎっしり詰まってる」なんて軽やかな声で言葉を返す母。どこが“良い先生”なんだか……。


「下手な励ましより、お母さん落ち着いたわよ。確かに悩んでも仕方ないし、ドンと構えるしかないのよね、やっぱ」

「……母さん」


 お前は絶対に可笑しい。そう言いたくはあったが、言えない金城。本当に自分はこの女性から生まれてきたのだろうか、と己の遺伝子を疑いたくなった。


「それに、最後に言ってたわよ先生」

「……なに?」


 どうせ碌なことじゃないだろ。今までの記憶をたどりながら、土宮香苗による暴言の数々を耳奥で蘇らせてみた。


「“己がした努力が消えることは無いし、それがマイナスになることは決してない”だって、」

「……意外とまともなこと言った!?」


 予想外の言葉に金城が衝撃を受けた。

 その様子に金城の母は眉を顰めながら言ってやった。


「なぁに言ってんの。あんなに熱心に生徒に付き添ってくれる先生、中々いないわよ。それにまだ実習生だっていうじゃない。事が落ち着いたらお礼をしにいかないとねぇ……」


 何が良いかしら、と金城の母は頬に手を当てながら思案した。だが、それに反して金城の顔色はどこか悪い。


(どうしよう……なんか益々いやな予感がしてきたんですけど。俺、落ちたとか無いよね?)


 「明日には槍でも降るのではないのか」と金城の胸に不安が募る。落ち着いていたはずの鼓動がまた早鐘を打ち始めた。

 食事に再び手を伸ばそうにも、なぜか動けず、食欲がピタリと止んでしまった。


(……おれ、大丈夫だよね?)


 励ましとなるはずの土宮香苗の言葉は天変地異の前触れとしか捉えられず、皮肉にも心は不穏な感情で苛まれるのであった――。



◆  ◆


 そして夜。

 月が雲に隠れ、暗闇が空を支配する中、金城は一人布団の上で寝転がっていた。時刻は既に深夜の1時を回っているのだが、明かりを消すと更に不安を煽られるような気がして金城は電球を点けっぱなしにしていた。

 ほんのりと橙色の明かりが灯る寝室で、金城は思考に耽る。瞼の裏に蘇るのは先日、あの問題用紙を熱誠なる想いで埋めていた時のこと——試験終了まで残り30分。金城は最後の問題に、ぶち当たっていた。


 ――なんだよ、これ……。


 唖然と、白い用紙を見つめる金城。その視線の先には、一つの問いがあった。


“問100. 

実際に自分が機関士としてその現場にいることを想像してみてください。

あなたは今、高層ビルの20階に居ます。目の前にはあと30分で爆発する時限爆弾。下の階にはまだ逃げきれていない100人の人間。あなたの傍に居る仲間は二人。一人は怪我を負っており、動けない状態。もう一人は無傷で、あなたと同じようにいくらでも動けます。


——どうしますか?”


 それは異様な《問》だった。恐らく土宮香苗が以前に忠告していた“判断力コモンセンス”の質問だろう。予期はしていたし、実際に土宮香苗が用意したプリントにもその類の質問は幾つかあった。

 だが、その質問はどれも哲学的なものであり、このような具体的な問いは一つも無かったのだ。予想とは違った問いに金城の頭は真っ白に染まり、パニック状態へと陥りそうになった。制限時間残り30分で、この質問。金城は焦燥感に駆られた。最後に二回は解答を見直さなくてはならないのに、終了間近でこの問題――。


「……まじで、焦った」


 一心不乱に空欄を埋めた金城。「この際、この問題は捨てよう」。そう決めて、碌に思考を回さず、金城は馬鹿正直に答えて、ペーパーの見直しを急いだのた。


「……あれで、良かったのか」


 瞼を閉じて、自身の解答を思い返してみる。こぼれた呟きは、疑問の色で満ちていた。


「大体、“どうしますか”って……何をだよ」


 おそらくテロ現場に遭遇した時の、回答者の行動理念や対処法を見ようとしたのだろう。だが、それにしてもだ。


「意味わかんないっつうか……あんな質問、一回もされたことねぇぞ。なえセンの奴」


 「あの糞教師(実習生)」と毒吐きたくはなったが、一応恩があるので途中でやめた。それに、悪口は全てあの地獄耳に聞かれていそうで、後が怖い。


「まあ、一問ぐらい、いっか……」


 大事なのはそのたった一つの問題ではなく、他の問題だ。

 正解の量によって金城の結果は変わるのだから、多くの点数が取れていることを祈るしかない。

 かたり。端末を嵌めている腕を宙に掲げて金城はメールを開いた。


差出人:伊奈瀬 優香

件名:お疲れさま

本文:お疲れさまです金城くん。これで全部の試験が終わったね。


 伊奈瀬から送られた労りの言葉を見て、金城は心が安らいだような気がした。メールには労りの文があっても、試験のことを聞くような言葉は一切綴られていなかった。それは恐らく彼女なりの気遣いなのだろう。世の中には試験の調子がどうだったかなどと喋りたがらない人間もいる。金城もその部類で、彼女の些細な優しさはとても心に沁みるものであり、有難いものだった。母や身内に話すのは良いが、他人に話すのはどうも憚れる。

 金城は表情を緩めながら綴られた文字を目で追った。


“それで学校が始まる二日前なんだけど、空いているかな? 本当は受験の結果が出てからの方が良いんだろうけど、その日は丁度わたしのバイトがなくて、爽太も学校が休みなんだ。

もし良かったら家に遊びに来ませんか?”


 それは伊奈瀬からの初めての誘いだった。学校の休みが明ける二日前、それはつまり受験の結果が出る前日だ。確かに伊奈瀬の言うとおり、結果発表の前日は気が休まるものではなく、誰かと遊びに行こうとしてもあまり楽しめないだろう。

 だが、相手が伊奈瀬となると話は別だ。


「ふへっ」


 なんとも、えげつない笑いが少年の口から溢れた。


「ふへ。ふぇへへへへへ。ぐふ、ぐひっ」


 それは蛙が潰れた声にも聞こえるが、勘違いはしていけない。これは少年金城の破顔一笑である。

 頬は赤く染まり、沸騰した興奮からか鼻穴は普段よりも大きく広がっている。琥珀色の双眸は三日月へと歪み、口からは唾液がだらりと垂れていた。

 その様は、正に酸鼻の極みであった。


 奴の変態的な脳味噌には大方、薔薇色ならぬ桃色の妄想が広がっているのだろう。先ほどの暗い雰囲気からのその変わり身の早さは呆れを通り越して、感心するものであった。



◆  ◆


 3月15日。午後12時00分。

 伊奈瀬宅(アパート)。


「ごめんね、あとちょっとで出来るから待っててね」

「あ、おう。大丈夫」


 然程広いとは言えない居間の中、金城は足をくつろげていた。部屋には昔懐かしの卓袱台に4枚の座布団。その一枚の上に金城は腰を下ろしてソワソワとした面持ちで、台所へと向かう伊奈瀬の後ろ姿を見送った。華奢な体は淡い黄色のエプロンで包まれており、金城は自身の胸に蝋燭のような火が灯るのが分かった。


(なるほど……これはこれで、)


 ――良い。


 なんて、だらしのない笑みを無意識に浮かべながらぽやぽやと室内を見渡す金城。伊奈瀬の自宅に邪魔するのは、これで2度目だった。初めてはあの事件前日、伊奈瀬の見舞いに参った時だ。ちなみに、伊奈瀬の弟である爽太には、あれっきり一度も会っていない。


(さっき、買い出しに行ったっつってたけど)


 どれぐらいで戻ってくるのだろうかと、金城は首を傾げた。だが、その疑問もすぐに打ち消される。


「——ただいまー、姉ちゃん買ってきたよ」

「おっ、」

「あっ、」


 ガチャリと扉の開く音がし、次に廊下を歩く足音が聞こえてくると、直ぐに爽太の姿が見えた。金城はそれを見て知らず声をあげ、爽太も呼応するかのように声を漏らした。目を普段より大きく開きながらこちらを見るその顔は、思ったより元気そうだった。以前のような悲痛の色は見えず、金城は安堵した。


「あ、おかえり爽太。ありがとね。あとは私がやっとくから、金城くんとゆっくりしてて」


 パタパタと台所から顔を覗かせた伊奈瀬は、爽太から荷物を回収すると、すぐに台所へと戻る。その後ろ姿は忙しなく、金城は手伝った方が良いのかと狼狽えた。


「大丈夫だよ、あの人いつもあんなんだし。それより金城の兄ちゃんはお客さんなんだからゆっくりしてなよ」

「……お前、見ない間に随分と大人びたな」

「そう?」


 姉に差し出されたジュースのコップを傾ける爽太。そこには以前のような子供っぽさは殆ど見えず、金城は間抜けな表情を曝した。

 誰だ、こいつ。


「……そういえば、なんか俺に会いたがってたっつってたけど」

「うん、普通に前のお礼と、あと、聞きたいことがあって」


 お礼をするような態度には見えず、金城は僅かに眉を顰めた。気のせいか、以前より生意気になっていないだろうか?

 そんな懐疑的な気持ちを誤魔化すように金城は麦茶を呷ろうとした。その時、


反逆者リベルって知ってる?」

「——ごっふぁっっ!」

「うわ、汚っ。ちょっと……さっき掃除したばっかなのに汚さないでよ」


 思わぬ襲撃に咽る金城。だが、爽太は大して気にした様子を見せず、むしろ部屋の心配をしながら憎たらしい口を開いた。

 可笑しなところに液体が入ってしまったのか、金城は一生懸命息を取り戻そうと咳き込む。


(この、糞ガキっ……!)


 誰のせいで咽たと思っているのだ、と恨めしい気持ちが募るが、残念ながらここは伊奈瀬の家であり、相手は伊奈瀬の弟だ。そう簡単に手を出せるわけがない。


「それで、《反逆者リベル》のこと知ってるの? 知らないの?」

「……いや知ってるに決まってんだろ。あんだけテレビで騒がれてんだぞ? 知らねーってどこのモグリだよ」


 ダラダラと吹き出しそうな汗を懸命に押しとどめる金城。泳ぎそうな視線を必死に目の前のあどけない顔へと縫い付けようとした。


「いや、そういう意味じゃなくてさ。金城の兄ちゃん、実際にその人と知り合いなんじゃないの?」

(ぎっくうっ!)


 なんて鋭い。惜しくなくもない、そのまさかの検討に、金城はつい擬音語を(脳内で)発してしまった。幸い、強張った身体のおかげで飛び跳ねる、なんてあからさまな反応をせずに済んだが。


「な、なに言ってんだよ……知るわけねーだろ」

「じゃあ、なんであの日、“草地の兄ちゃんは死なない”なんて言ったの?」

(あれかぁ!?)


 爽太の言葉に、金城は瞬時に我に返った。そう、《あの日》——伊奈瀬の見舞いに出かけた日、金城は爽太のあまりの悲痛な表情に、つい口を滑らせてしまったのだ。


「……い、いや。だって前も言ったように、あいつ悪運つよいし」


 ひきつる口角をなんとか吊り上げる金城。その不自然な笑顔を、爽太は疑心暗鬼で満ちた目で見つめた。


「ふぅん……」

「ちょっとォ!? 何その疑わしい顔!? 何、まさか俺を犯人だとか思ってるんじゃないよね!?

 無いよ!? 絶対に無いよ!?」


 焦る金城。あたふたと手を振りながら爽太へと詰め寄り、力説した。その情けない様を見て、爽太は馬鹿にするような視線を投げた。


「うん……まあ、確かに無いよね。……兄ちゃん、そんな度胸なさそうだし、むしろ逃げ出しそう」

「……あれ、なんだろう。なんか安心するところのはずなのに、お兄ちゃんちょっとイラッと来ちゃった。硝子のチキンハートにヒビが入っちゃった」


 鼻で笑う7歳児に、金城はぴきりと己の額に青筋が浮かび上がるのが分かった。その血管は今にも破裂しそうな勢いで、ビクリビクリと跳ねている。


「冗談だよ。度胸はないのは本当だろうけど」

「……ああ、そう」


 冗談だと言いながらさりげなく金城の胸を突き刺す7歳児。金城の背中に秋風が吹いた。


「——ありがとう」

「……は?」


 ポツリ。じゅうじゅうと台所から響いてくるフライパンの鳴き声に掻き消されてしまいそうなほど、小さな声だった。

 突然、落とされた呟きに金城は爽太へと視線を再び向けた。気のせいか、少年の小さな耳は赤くなっている。


(……なんだ、)


 ――ちゃんと可愛いところもあるじゃないか。

 もじもじと半ズボンの裾を弄るその姿はどこか照れくさそうで、以前相談に乗ってやったときの様子を思い出させた。あの時も子供らしく素直で、感情豊かにコロコロと目の前の少年は表情を変えていた。その時の面影がまだ残っていることを感じ取った金城の心が、緩和された。


(全部、大丈夫そうだな……)


 ふっ、と息を漏らす。どうやらこの小さな少年はちゃんと立ち上がれたようだ。

 きっと、悔いはまだある。罪悪感も申し訳なさも、心に未だ漂っている。それでも、少年はちゃんとその足で立っている。何度も振り返りそうになりながらも、ちゃんと前を向いて、一歩一歩、進もうとしている。

 金城の瞳に映るその姿は、眩しいものだった。

 どうやら伊奈瀬の言うとおり、少年は随分と成長をしたようだ。


「伊奈瀬……姉ちゃんに言えないことは沢山、あるだろうけどさ」

「っ、」


 ビクリ。今度は少年が肩を震わす番だった。


「俺が、知っている。お前の後悔も全部、何もかも……だから、何かあったら俺に言え。

 一人で、抱え込むなよ」


 それは心からの言葉だった。確かに臆病ものの馬鹿ではあるが、金城とて冷たいわけではない。例え、どんなに糞生意気な餓鬼であろうと、できる限り手を差し伸べるつもりだ。

 実際、金城に出来ることは何もないかもしれない。けど、不安を吐き出すために、話を聞いてやることはできる。

 爽太は金城のその言葉の意味を理解したのか——恐る恐る、縋るような目を金城へ向けた。視線の先には穏やかに笑う金城が居た。それを視界に収めながら、爽太はぶすくれたような、複雑な表情をして、吐き捨てた。


「別に、いいよっ……俺だって男だし」

「へぇーん?」


 小生意気な少年の弱点を見つけたのが嬉しいのか、金城は唇をアヒルのように歪めて、ニタニタと爽太を見下ろした。眉をひょいと上げて、顎を上へと逸らす。それは完全に少年をからかう、というより小馬鹿にする態度だった。

 ……いくら大人びていてもやはり子供、カチンと頭にきた爽太は声を荒げた。


「そ、それよりおまえ行政高校、受験したんだろ!?」

「へー、受験なんて言葉を知ってるんでちゅか? 偉いでちゅねー」

「知っているに決まってんだろ!? 馬鹿じゃねーのあんた!? 試験大丈夫だったのかよ!?」

「っうるせーよ!」


 触れてほしくなかったことを指摘されて金城もついつい大喝してしまった――。


◆  ◆


「それじゃあね、金城くん。今日は本当にありがとう」

「いや、それこっちの台詞だし」


 鴉の鳴き声が聞こえる。日は沈み始め、空は橙色へと染まりつつあった。

 少しずつ太陽の光が淡くなりはじめる中、金城は伊奈瀬のアパートを出た。カツンカツンと、階段の音を鳴らしながら下へと降りる。伊奈瀬も金城を見送るつもりでいるため、一緒だ。


「ごめんね、あんまりお持てなしできなくて」

「んなことねーよ! めっちゃ美味かったぞ!? 伊奈瀬の料理!」


 申し訳なさそうに眉尻を下げる彼女に、金城は慌てて否定するように手をパタパタと振った。実際、伊奈瀬が作ってくれた数々の料理はどれも最高に美味しかった。特に春巻きは中の肉汁と中華類の出汁がしっかりと効いていて、ソースをつける必要が無いほど——絶品としか言いようのないものだった。それを思い出して、金城は再び唾が口内に溜まりはじめるのが分かった。是非ともまた食べたい。そしてやはり伊奈瀬、嫁に欲しい。


(……今日は本当に楽しかったし、人生で最高の一日だった。ただなぁ……)


 一つだけ、金城には思い残したことがあった。


(結局、『きゃあ! 金城くんのエッチィ!』ッっ的な展開が無かったっ……!)


 それがどうしても悔やまれてならない金城。真の阿呆である。

 そう——金城は期待していたのだ。ドキドキと胸を弾ませながら、あのラブコメ的な瞬間が訪れることを……だが、それは一向に気配を見せるどころか、むしろ阻まれているような気がした。あの、7歳児によって。


(爽太のやつ……まさか、草地側とか言うんじゃねーだろーな)


 どういった理由があるのかは分からないが、伊奈瀬の弟――爽太は常にギラギラと目を光らせていた。金城が1ミリでも伊奈瀬へと近づこうとした瞬間、奴はあらゆる手を使って邪魔してきたのだ。例えば、「姉ちゃん、ジュースきれた」と言って彼女を台所へと送ったり、「姉ちゃん、隣に座っていい?」とどこの甘えた坊主だよ、とツッコミたいくらいに姉にべったりと貼りついたりして、常に金城の邪魔をしていた。

 おかげで金城は伊奈瀬に指、いや、髪の一本さえも触れられていない。

 ——おのれ弟、許すまじ。


「……じゃあ、ここで」

「うん、また明後日」

「ああ」


 アパートの階下に辿り着いた金城は、伊奈瀬へと振り返った。夕日に照らされた顔は相変わらず陽だまりのような微笑みで飾られている。どこまでも優しげで、暖かいものだ。


「爽太のこと、本当にありがとね」

「だから大袈裟だって……俺なにもしてねーし」


 尚も礼の言葉を口にする伊奈瀬に金城は苦笑した。


「それじゃあな」

「うん……」


 名残惜しいが、これ以上ここに長居するのも悪い。金城はアパートにへばり付いてでも伊奈瀬といたい欲を抑えながら、ゆっくりと背を向けた。


「金城くん!」

「……へ?」


 不意に呼ばれて、金城は驚きながらも彼女へと振り返った。

 見えた表情はなにやら難しげで、口は何かを言いたそうにパクパクと開いたり閉じたりしている。どうしたのだろうか、と金城が首を傾げると、伊奈瀬は意を決したように眉を吊り上げた。


「今、こんなことを言うのは可笑しいんだけど……絶対、《機関士》になろうね」


 思いがけない言葉に金城は目を見開いた。だが、直ぐに理解したように一度頷き、強気な笑顔を見せる。


「ああ。俺も、諦めねぇ」



◆  ◆


 3月16日。行政高校、受験結果発表当日。

 金城は玄関口に座りこんでいた。


(……いつ、来るんだ)


 ゴクリ、緊張で唾を飲み込んだ。

 一般的に私立高校は試験日の翌日、公立高校は3月の初めごろに一般入試の結果発表を行う。公立高校は受験校に合格者の受験番号を掲示する形で行われ(新聞などで「15の春」として発表風景が報道される)、私立高校は紙媒体の封書を直接郵送する形が多い。

 一部の高校では多数の生徒が居る中学校へ直接合否通知と請書、入学要項を送ることもある。だが、行政高校の場合は少し変わっていた。


 他高と比べて発表が多少遅れているのもあるが、何よりも違うのはその発表の仕方だった。まず、封書を直接郵送するのだが、その中にはたった一枚の紙しか入っていいない。紙に印刷されるのは――《サクラ咲く》を意味する満開の桜紋か、或いは《サクラ散る》を意味する花弁の散った桜紋。

 桜が散っているか、いないか。花弁の有無によって合否を報された翌日、今度はテレビアナウンスを使って受験発表がもう一度行われる。画面スクリーンに合格者の受験番号が掲示され、その日のうちに請書と入学要項が送られるのだ。

 なんとも面倒で、長い手順ではあるが、仕方がない。どうやら、これは行政高校に伝わる大事な伝統らしい。


「……っとに、心臓に悪い」


 まだかまだかと、手を震わせ、足を揺する。心臓は不安か、緊張か、焦燥感で苛まれていた。鼓動が、落ち着かない。


「理人? 大丈夫?」


 居間からこっそり見守っていた母が、息子のその落ち着きのない様子を見かねて顔を出した、その時だった。


 ――カタン。

 外のポストの中へと何かが落ちた音がした。

 金城は瞬時に顔を上げ、素早く外へと出る。バン、と大きな音がしたことで、配達員の男が驚いたようにこちらを振り返ったが、金城は構わず白いポストの蓋を開けた。中には金色の文字で『国立行政機関付属高校』とエンボス加工された、紺色の封筒が見えた。金城はそれを震える手でゆっくりと取りだして、封を切る。


 ドクリドクリ。


 心臓が大袈裟なほどに跳ねている。今にも胸を突き破りそうな勢いだ。

 熱く煮えたぎって、今にも沸騰しそうな頭を冷やすように、金城はふうと息を吐いて、封筒の中身へと手をかけた。

 するり。思いのほか容易く滑りでた一枚のカード。そこに彫られていたのは、


「っ……」

「理人? どうだった?」


 山吹色の紋。雌蕊を飾る4枚の花弁。それは、


「まじ、か……」


 ――一枚の花弁が散った、桜だった。








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