第1章-2 人をうらやむ過去を何と呼ぼう

 季節は春のど真ん中。少し厚手のジャケットを羽織って、ウォークマンを脇に入れて、僕は玄関で靴を履いた。結構いい値段したお気に入りの革靴は、だいぶん履きなれてきた僕の足をぴったりと包んでくれた。

 静かに足を少しだけ上げて、つま先で大地を二回突く。カツンカツンと鳴る音を空気と一緒に深呼吸して吸いこみながら、僕はドアを空けて外へ出た。

 少し涼しくなっていた夜の風は、ただひたすら気持ち良い。足下には、昼の突風で舞い落ちた桜の花びらが、幾人もの足に踏みつけられて、薄汚れて散らばっていた。


 僕の散歩には、いくつかの決まったコースがある。

 例えば、ただひたすら近くの広い国道を北へ歩いていって、そして途中で引き返す道。

 例えば、私鉄の線路沿いに3駅分歩いて、隣の市の繁華街近くへと至る道。

 例えば線路の脇の国道を歩いて、深夜営業のラーメンの屋台で夜食を食べる道。

 2年も歩けば、いろんな道をすっかり覚えていた。当初は怖くて、そして分かりにくかった夜道も、いつのまにか明るく見えるようになっていた。

 今日はどうしよう。そう考えて、1つの結論に思い至った。「新たなコースを開拓しよう」と。不貞寝のせいで、幸い体力と気力は充分過ぎるほどあったのだから。

 そう決意を固めると、とりあえず手近なコンビニでジュースを買って、僕は今まで歩いたことのなかった方向へ進みはじめた。


 結構広い国道だった。周囲には街灯が等間隔で並んでいて、夜だというのにすっかり明るい。昼間は、何度か買い物で通ったことのある方向だ。たしか近くに、安いスーパーがあって、万年金欠学生だった僕はアルバイト代が入るとすぐにそこに走り、米とパスタとカップラーメンを買い込んだりした。

 さらに進んでいくと踏切が見えてくる。終電も出払ってしまって、もう閉じることのなくなった踏切を越えると、不意に居酒屋が多くたちならぶ一角に出てしまった。

 今まで鈍いオレンジ色の街灯しか見えなかったのに、この一帯はかなりカラフルだった。赤い提灯に青い看板。緑色のボードを立てかけて、灯っているのは白いランプ。そして何より印象に残ったのは、あらゆる店から聞こえてくる歓声や、少し下手くそなカラオケだった。

「三軒目行くぞ」

 そんな声も、僕のすぐ後ろで聞こえたりした。そういえば、とふと思い当たる。春というこの季節は、いろんな場所で、新たに入る人を歓迎する時期だ。

 少し振りかえると、その先では予想通り一人の中年サラリーマンが酔いを回しながら叫んでいて、それを挟むように歩いている二人の若い男性が、少し困惑気味の表情を浮かべていた。それのさらに後を歩いている集団は、おそらくは新入社員であろう若い女性を中心に、話の花を咲かせていた。


 僕も、大学生になったばかりの時、いろんなサークルを見て回って、その結果入ろうと思ったところに歓迎会をしてもらった。今ではそのサークルは辞めてしまっている。サークル名は「メディア研究会」。その名の通り、新聞とか雑誌とかテレビとか、そういう仕事に就きたい学生が集っているもので、昔から小説や映画が好きだった僕も、ふと気になって入部したのだ。

 そして入部してから後悔した。周りの人たちはびっくりするほど強い熱意でマスコミ業界への就職を希望していて、そういった集いや交流会にも頻繁に顔を出していた。そんな中、自分があまりに場違いに思え、飲み会も楽しくなくなった。「みんな、やりたいことがちゃんと決まっていて偉いなあ」なんて思ったりもしたが、その心の底の裏側には、もう少し粘っこい思いがこびりついていた。


 ……また嫌なことを思い出した。意識をあわてて風景に戻す。

 暗さは相変わらずだが、この時間のこの道は思っていたより交通量が多くて、車のランプで照らされることしきりだった。そしてその度に浮かび上がる、閑散とした道の両脇。いつのまにか、広い国道に出ていたらしい。なんというか、「ザ・国道」という風情を保っている。

 むかし読んだある歴史小説家のエッセイでは、「近代化とは、自動車の幅の道を整え、周辺に自動車で行きやすい店を構える、ということだ」なんて書かれていたが、まさにそういった均質化が、僕の住む街の近くにも見てとれた。

 ところどころにある飲食店のシルエットと大きい看板以外は、今までの居酒屋界隈の隣とは思えないくらい静かで広かった。


 僕はそんな中を、目に入る風景や建造物全てを頭に焼き付けるように観察しながら歩んでいく。それはいつもの癖だ。普通の生活の風景がいくら色鮮やかでも、いつかその色を忘れてしまうのならば、最初からモノクロの風景ならば覚えられる。そういうことなのかもしれない。

 ともかくも僕は、いつも全神経を集中させて、夜の道を見ていた。


 モノクロの風景の中で、サークルでの会話がフラッシュバックする。

「シュンは何になりたいの?新聞記者?出版社の編集者?広告代理店の営業?」

入部してすぐ、可愛いなと思っていた一つ年上の女の子から、そう詰め寄られて、僕はタジタジになった。

「……カオリさんは何を目指してるの」

「わたし? わたしはね、雑誌の編集者!」

「そう、偉いね」

「なれるかわかんないんだから、何にも偉くないよ」

「そっか」

 なりたいものがはっきりしていて、でもなれるかわからない人が偉くないなら。そもそもなりたいものがはっきりしていない僕は、どれだけみじめなんだろうか。


 というか、なぜそんなにはやばやと、人生の目標を決められるのだろう。20才やそこらで決めた目標に、それ以降の人生をどうしてそうやすやすと預けられるのだろう。若いということは、判断材料も少ないはずなのに、なぜそこまで、がむしゃらになれるんだろう。

 そんな思いが、歩きながら浮かんでは消えていく。それは、自分の持っていないものを持っている人へのひがみだったかもしれないが、それでも僕はいまだに、自分のなりたいものを決めることができずにいた。

 もう、大学4年生だというのに。

 社会人にならないといけない、そんな覚悟を決める年だというのに。

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そろそろぼくたちは、切なさを友だちにしようか 木月 悠介 @k-yusuke

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