TSUTAYAの最後の娘

はまりー

第1話 SAVIOR


どこかで、誰かがおまえを目ざしてひたすら旅している

信じがたい速さで、昼も夜も休まず

吹雪と砂漠の熱気を衝き、急流を横切り、狭い峠を越えて

だがはたして、おまえの見出される場所を知り、

おまえを見てそれとわかり、

おまえのために持ってきた物を渡してくれるだろうか?

                ――『北農場にて』 ジョン・アッシュベリー




 いまでも彼女のことを夢に見る。

 夢のなかで部屋の扉がひらくと、そこに彼女が立っている。すらりと伸びた細身のりんかくは、逆光を受けて輝いている。彼女の背景には、雨が降っていたり、雪が降っていたりする。どんな夢でも変わらないのはそれが夜だということ。彼女は夜にしか姿を現さない。

 膝までとどくグリーンのレインコート。つやのある黒いレザーの手袋。

 人形みたいに整ったきれいな顔を、二本のゴムが横切っている。彼女は右の眼に白い眼帯をつけていた。切りそろえた前髪のむこうから、すべてを見通す鋭い眼光がわたしを見つめている。わたしが身にまとったどんな嘘も、どんな虚栄も、のこさず剥ぎとってしまう、あのうつくしい、おそろしい隻眼せきがんのかがやき。

 夢のなかで彼女はわたしに語りかける。わたしには果たすべき責務がある、と。それをわたしがやり遂げるまで、地の果てまで逃げても追いかける、と。

 空を切り裂くボルトカッターの鋭い響き。

 TSUTAYAの最後の娘、彼女はそう名乗った。



 彼女と初めて出会ったのは、上野動物園でパンダが死んだ日のこと。

 寒い冬の日で、雪こそ降っていなかったけれど、空には冬の重い雲が低くたれて、息がつまるような気がした。

 わたしが勤めるパスタ屋の制服は、夏でも冬でもうすい半袖一枚だ。

 わたしはかじかんだ指にときおり息を吹きかけながら、イーゼルにたてかけたブラックボードの上にチョークを這わせていた。茄子とトマトのペペロンチーノ。牡蛎のクリームスープパスタ。オリーブと海老のジェノベーゼ。どんなに気分が沈んでいたって、ブラックボードの文字はいつも躍っている。

 五年前。この店のバックヤードでパイプ椅子に腰かけた店長が、気乗りしない様子でわたしの履歴書に目を通していた。学歴の欄で店長の泳いでいた目が止まった。

(――大学、芸術学部、デザイン科卒)

 つぶやく店長の顔に気圧されたような表情が浮かぶ。そのあとにどんなことばがつづくか、インクカートリッジをふたつダメにするくらい履歴書を印刷しまくったわたしにはよくわかっていた。“もったいないよ。この経歴でうちで働くなんて”。“申し訳ないけど四大を出てるような女の人はうちじゃあねぇ”。そして、“あのね、これバイトの面接なんだけど、わかってる? 時給だよ?”。

 わかっています、わかっています。わかった上で、食っていかなきゃいけないから、どうしようもないんです。くちびるを噛みしめながら、せっかちに落胆していたわたしに、思わぬ声がかかった。

(きみ、チョークアートって、できる?)

 やったことはないですが、できると思います。そうわたしが答えると、店長はうれしそうに何度もうなずいた。暖簾わけしてもらってやっとこの街で一城のあるじとなれた店長は、料理の腕に反比例して壊滅的に字が下手なのだった。

 最初はわたしになにが要求されているのかわからなかった。インテリアとして内装に飾るような、カラーマーカーを何本も消費する芸術作品を期待されているのかと思ったらなんのことはない、その日のランチやおすすめメニューの内容をブラックボードに描くだけの単純な作業だった。もちろんホール業務だって、皿洗いだってある。

 ほっとしたあとで、じわじわとにじみでてきた虚無に溺れそうになった。デザイナーになるために必死で頑張って、新卒で入った広告代理店を鬱で退職して、転職した先でも休職をかさねて、やっといきついたのがこの仕事だ。

 五年のあいだにブラックボードの装飾はずいぶんとシンプルになった。凝った書体や、フレームの縁飾りを店長が嫌がったからだ。うちは食べログで星3.49のしがないパスタ屋だ、目立つことをすると叩かれる、と店長は云う。だからその日のわたしはボードの片隅にちいさなサンタクロースを描くだけにとどめておいた。

 店に入ると、テーブルの上にはまだクロスがたたんで置かれたままだ。カトラリーケースの仕分けもすんでいない。テレビの音声が、店にまで漏れてきていた。ムッとして、わたしはバックヤードに足を運ぶ。

 バイトの大学生の男の子が、ぼーっと突っ立ってテレビを見つめていた。ボウタイは首にぶら下がったまま。シャツのボタンを閉じてもいない。

「ねぇ、タクミくん」

 わたしは声のトゲを隠そうともせずに、彼に声をかける。

「きみ、バイト何年目だっけ。二年はもう過ぎたよね」

 バイトの男の子は、のろのろとこちらを向く。わたしはわざと大きなため息をついた。

「もう少し、仕事を真剣にやってもらえない? 二年もいれば、要領とか流れとか、わかるでしょう? 開店時間は決まってるんだからてきぱきやってもらわないとこっちも――」

「パンダが死んだんだぞ!」

 ふいに男の子が大声をあげて、わたしはすくみあがった。なにが苦手って、大声をあげる男ほど苦手なものはない。

 わたしは思わずテレビの画面を見つめた。大きな赤文字で描かれた「パンダ」「死亡」の文字が目につく。あのフォントはヒラギノ角ゴだ、と反射的にそう思う。

「いま日本中が悲しんでるんだ! 仕事とか云ってる場合かよ!」

「パンダとあなたの仕事と……」

「関係ねぇよ。そういうことじゃねぇだろう。だいたい仕事、仕事って、おれたちがやってることはなんなんだよ。バイトだろ。いつかきちんと社会に出るための準備運動みたいなもんだろ、バイトなんて。そこででかい顔されちゃ、あんたは何様なんだって話になるだろ、なぁ、バイトリーダーさん」

 わたしは呆然として男の子の顔を見つめた。

 彼はけわしい顔をして怒鳴りながら、目から大粒の涙をこぼしていた。

「パンダが死んだのに、可哀想だね、の一言もねぇのかよ」

 うつむいて、しゃくりあげながら目元をぬぐい、ふたたび顔を上げると、彼は害虫を見るような目でわたしを見下ろした。

「高梨さんってさぁ、前から女捨ててるなって思ってたけど、人間も捨ててたんだ。知らなかったよ」

 そこから記憶がとんでしまって、その日どんな風に勤務時間をすごしたのか、わたしは覚えていない。気がつくと日は暮れていて、わたしは制服から私服に着替えて、家路につく途中だった。

 片手に重さを感じて、下を見た。弁当と発泡酒が四本入ったコンビニの袋をぶら下げていた。買い物をした記憶すらない。っていうか平日に発泡酒四本って。宴会でもするつもりか、わたしは。なんの宴会だ。

 高梨ハルカ、人間を捨てちゃいました記念日?

 暗い気持ちで通りを歩いていると、横顔を照らす明かりがふいにとぎれた。表通りの一角で、そこだけシャッターが閉まっている店舗がある。シャッターに貼り紙があった。


TSUTAYA △△店 閉店のお知らせ


 ああ、そうか、ここはTSUTAYAだったっけ。レンタル店なんてふだんあまり利用しないものだから、急にシャッターが閉まっても、もとにどんな店が入っていたのかも思いだせなかった。

 この店もずいぶんと毀誉褒貶きよほうへんがあったものだ。立ち上げたときはレンタルDVD一枚80円で、近所のGEOと壮絶なダンピングで殴り合いをしていた。そのころはずいぶんとこの店もにぎわっていて、わたしも頻繁に通っていた気がする。それがいつの間にか店の前にレンタル品返却用ボックスができて、24時間営業が深夜2時までの営業に変わっていた。わたしが覚えているのはそこまでだ。足は遠のいていたけれど、それでも店の前を通りかかったときに、入り口を飾るポスターやポップに、すこしばかり華やいだ気分にさせてもらったものだ。閉店するほど追いつめられているとは知らなかった。これも時代の流れというやつだろうか。

 奇妙なうしろめたさを感じた。わたしがもっと足繁く通っていれば……なんてことを思ったわけでもない。それでも胸が痛む。わたしが感じている、このうしろ暗い気持ちの正体はなんだろう?

 もやもやした気分を抱えながら歩いているうちに、アパートについた。エレベーターもない、ただの木造二階建ての安普請だ。実家から母がたずねてきたとき、アパートの外観を見て絶句していた。かつては自慢の種だった娘の窮状が身に染みたのだろう。終始黙りこくっていて、別れ際にぽつりと、女の子なんだからオートロックつきのマンションに住めるといいね、とつぶやいた。あの夜は布団のなかでひとりでむせび泣いた。エグかった。

 部屋に入ると、なんとか化粧だけ落として、気絶するようにビーズクッションに倒れこんだ。酒に逃げる元気もない。せめてシャワーだけでも浴びなきゃ、疲れがとれない。そう思っていても、失意と絶望にさいなまれて、からだが動かない。

 知らないうちに、そのまま眠りこんでしまった。

 わたしの目を覚ましたのは、激しいノックの音だった。

「……うるさい!」

 ビーズクッションに顔を埋めたまま、うめくようにそう云った。徐々に目が覚めてくると、怒りは恐怖に変わっていった。スマホを手に取ると、もう0時に近い。喧嘩を売るようなノックはまだつづいている。こんな夜中に、ただごとではない。

 一人暮らしの基本は、ノックをされても相手が名乗るまで声をあげないこと。

 でもドアが壊れそうなほどの連打をあびているときは、そんなことも云ってはいられない。わたしはクッションを抱きしめたまま、おそるおそる玄関に近づいた。

「……どちらさまですか?」

 ぴたりと、ノックが止んだ。

「あの……もう休んでいますので、また後日にしてもらえますか? すいません……」

 できるだけ丁寧に、低いテンションでそう云うと、ドアのむこうで咳払いをする音が聞こえた。相手は女性のようだ。意外だった。

「電気」

「は?」

「電気がついていました。眠っていたというのは、ウソです」

 声からすると、ドアのむこうにいるのはわたしより年下の女性らしい。ほっとするのと同時に、怒りがよみがえってきた。

「あの、わたしの事情を説明する気はないんです。ともかく、なかに入ってもらえるような状況じゃないんで。すいません」

「コヨーテが」

 ドアのむこうから、慌てたような気配が伝わってきた。

「コヨーテを、車で跳ねてしまいまして」

「はい?」

「フロントがこう、ぐしゃっとなってしまって。血もついているので、洗うのにバケツを貸してもらえないものかと」

「コヨーテ、ですか?」

「コヨーテ、です」

「それこそウソですよね。警察を呼びますよ?」

「見ますか、車。もうぐしゃっとなってます。もう、こう、フロントが、ぐしゃっと。あとコヨーテを埋めてやらねばならないと思うのです。野良コヨーテとはいえ、気の毒なので。良かったらスコップを貸してもらえるならば、重畳ちょうじょう

「スコップなんてあるわけ――」

(パンダが死んだのに、可哀想だね、の一言もねぇのかよ)

 ことばがつまって、出てこなくなった。

 こんなことで引け目を感じるなんて、自分でも馬鹿じゃないかと思う。でも気がついたら、わたしはドアのロックを外していた。ドアチェーンだけはしっかりかけておいた。とにかく顔をつきあわせて、すこしつきあってやれば相手も納得するだろう。

「あの、近所迷惑なので……」

 ドアを少しだけ開けて、話しかけようとしたその瞬間。

 わたしの目線の高さに、暗闇のむこうから、金属の突起物がぬっと突きだされた。

 わたしは思わず悲鳴をあげて、一歩退しりぞいた。よく見ると、それは通販番組で売っている、高切り鋏に似た道具だった。あとで知ったが、ボルトカッターというらしい。

 わたしがなにをするヒマもなく、ボルトカッターの先はふらふらと移動し、やがてドアチェーンをしっかりと挟みこむと、あっけなくチェーンを切断した。

 勢いよくドアが外側にひらき、つめたい外気が入りこんできた。けっして気温のせいでなく、わたしは震えていた。

 そこに立っていたのは、片眼を白い眼帯でおおった、若い女だった。

 雨なんてしばらく降っていないのに、グリーンに染まったレインコートを着ていた。両手にはレザーの黒手袋をはめている。両手につかんだボルトカッターを何度か鳴らし、女はふふふ、と笑い声を漏らした。

「こうもあっさり侵入(はい)れたのはひさしぶりです。なんでも云ってみるものですね」

 拍子木を打つように、またボルトカッターを鳴らす。

「ウソも、方便」

 長いあいだ、わたしは茫然と立ちつくしていた。頭のなかは、HG創英角ポップ体の疑問文でいっぱいだ。いったいこの子はなんなんだろう。なんでこんなことをするんだろう。わたしになんの用だろう。大家に怒られるのはわたしなんだろうか。というかあのババァ、こんなボロアパートで春から駐輪代を取るとか云いだしたのは本気だろうか。もう柿をくれたって、ぜったい良い顔なんてしてやらな……。

 違う。そうじゃない。

 わたしは踵をかえすと、部屋のなかに駆けこんだ。女がなにか叫んだが、気にしなかった。床に落ちていたバッグから財布をとりだし、玄関に引き返した。

 わたしは震える手で、財布から一万円札を一枚と、千円札を二枚取り、女に突きだした。

「いま、これだけしかないから……」

「いえ」

 女は顔の前で手袋をはめた手を振る。

「わたしは物盗りではありません」

「物じゃなくて、お金を取るんでしょ。あと、定期に入れてる二十万円があるけれど、あれは虎の子だから、病気したときとか困るし、将来に希望なんてないし、そもそもこんな夜中にそんな大金なんて持ってるわけ、お母さーん!」

 気がついたらわたしは叫びだしていた。

こわかし、いっちょん好かん。うちに帰りたか。お母さーん!!」

 女が飛びついてきて、わたしの口を塞いだ。レザーに塗ったクリームの匂いが鼻をついた。もはや絶叫にかわったわたしの声は、手袋に遮られた。

「落ちついてください、いいですか」

 女がぐっと顔を近づけてくる。眼帯で塞いでいない方の瞳でわたしを見つめる。その瞳の不思議な奥行きの深さに、わたしは思わず魅せられた。

「わたしはあなたを傷つけません。なにかを盗る気もありません。むしろあなたに返してもらいたいものがあるのです。いまからこの手を離します。叫ぶのは勘弁してください。警察はイヤ。落ちついて話しましょう。いいですか?」

 わたしは口を塞がれたまま、二、三回うなずいた。女に気を許したわけではない。云うことをきかないとなにをされるかわからないと、怖くてしかたがなかったのだ。

 女は慎重にわたしの口から手を離し、わたしが叫び出さないとわかると、短く息を吐いて、手を下におろした。

「わたしを中に入れてください」

 女が云った。

「もう、入ったようなもんじゃない」

 答えるわたしの声は震えていた。

「そうではなく……わたしを家に迎え入れると、ちゃんと声にだして云ってもらいたいのです。そうでなくては、わたしは入れないのです。きまりなのです。例外はありますが」

 わたしは思わずまじまじと女を見つめた。女はすこし苛立ったような様子でわたしを見つめ返してくる。出会ってこの方、この女の云っていることはなにひとつ理解できない。

「普通に、ムリ」

 わたしは云った。女はなおさら苛立ったように、髪をぐしゃぐしゃとかきまわす。

「あのですね、理解していただけるとありがたいのですが、あなたは時間を無駄にしています。ことは急を要するのです。人命に関わっておりますので」

 またウソだ。そんなわけがない。わたしは震えをこらえながらことばをしぼりだした。

「名前……」

「おっ?」

「名前くらい名乗ってよ。そうじゃないと安心できない」

「ふふふ。聞きたいですか」

「その笑い方やめなさいよ、気持ち悪い」

「わたしは蔦谷ツタ子と申します」

 なんたる。偽名を名乗るにしてももう少し芸はないのだろうか。わたしの呆れ顔など意にも介さず、ツタ子と名乗る女は、ドヤ顔でポーズをきめてわたしを見下ろしてくる。

「人はわたしを“TSUTAYAの最後の娘”と呼びます。カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社より特命を帯びて馳せ参じました。善哉ぜんざい善哉ぜんざい。以後、お見知りおきを」



 ティーポットになみなみと注いだお湯を、流しに捨てる。茶こしにティースプーン二杯分のハーブを入れて、ケトルからふたたびお湯をそそぐ。おだやかな黄色に染まっていくティーポットを、ツタ子と名乗った女は、テーブルに顎をつけて、物珍しげにながめていた。

「変わった匂いのするお茶ですね」

「カモミールティー。のんだことないの? あなた、コーヒー派?」

「いえ。煎茶くらいしか飲みません」

「カモミールティーには気分をやわらげる効果があるのよ」

「わたしは落ちついておりますが」

「こっち! こっちがぜんぜん落ちついてないの!」

 押し問答の末に根負けして、わたしはツタ子をダイニングキッチンまで通してしまった。おまけにお茶なんてふるまってしまった。来客なんてめったにないから、カップはひとつだけだ。仕方なく、友人の結婚式の引出物をおろした。

「ほんとだ。やわらぐー」

 ツタ子はハーブティーを飲んでご満悦だ。わたしはキッチンの壁にもたれかかり、わざとらしくため息をついた。

「それで、“TSUTAYAの最後の娘”さん、用件をわすれてない?」

「忘れてはおりませんよ」

 カモミールティーをすすりながら、ツタ子はそう云った。上目づかいにわたしを見つめる。

「一瞬たりとも、忘れることなどかないません。あなたが義務を果たすそのときまでは」

「義務ってなに? 税金ならちゃんと払ってるし、免許はもってないから罰則キップもない。わたしになんの義務があるっていうの」

「それはですね」

 ツタ子はカップをおいて立ち上がり、すたすたとわたしの部屋のほうへ歩いていく。キッチンとの境界に下げたアコーディオンカーテンに手をのばす。わたしはあわててツタ子を引き留めた。

「ちょっと、なにしてるの! プライバシー!」

 あまりに堂々とした態度だったので、止めるのが遅れた。危ういところだった。ツタ子はレインコートの袖をつかんだわたしの手を見つめ、それからわたしの顔に視線をうつして、にっこりと微笑んだ。

「プライバシー」

 不意にかっと片眼を見開くと、ツタ子はわたしの手を振りはらい、勢いよくカーテンをひらいた。

「そんなものは崇高な使命の前で、無効! 無力、あまりにも無力!」

 ツタ子はそのまますごい勢いで部屋にはしりこみ、入り口あたりで立ち止まり、くーっと呻って腰のあたりをうしろ手でがんがんと叩きはじめた。

「えっ、なに?」

「お気になさらず。たんなる月経困難症です」

 わたしは呆れた。眼帯にレザーの手袋。あまりにも厨二テイスト満載な格好をしているくせに、そんなところだけ妙に生々しい。

「叩いちゃダメ。ちゃんとお医者にいって、薬もらってきなさい」

「そんな場合ではありません」

「こっちのセリフよ!」

 ツタ子はわたしのことばなど意に介さず部屋に入りこみ、壁際に置いた27インチテレビをラックごとうごかし、その裏側にもぐりこむ。

「なにやってるの!」

「ありました」

 ツタ子がそう云って、片手をかかげる。その手の先に、思いもよらぬものが握られていた。

 透明なプラスチックケース。ケースの端には黄色いラインが見える。それだけでそれがなんなのかすぐにわかった。

 TSUTAYAのレンタルDVDのケースだ。

 昂ぶった気持ちが、すうっと覚めていく気がした。ああ、そういうこと……そういう。

 馬鹿みたいだ。この一風変わった小娘が、なにか代わりばえのしない日々を変えてくれそうな、そんな淡い期待を抱いていた。だからこそ家に招き入れたのだ。フタを開けてみれば、なんてことはない。

「昨年の12月24日に、あなたは近くのTSUTAYAでこのDVDを借りた。間違いありませんね?」

 わたしの気持ちも知らぬげに、ツタ子は得意気にそう云った。

「記録によればそのときあなたが借りたDVDはトップガン、インタビュー・ウィズ・バンパイア、ラストサムライ、ナイト&デイ、そしてこのマグノリアです。トム・クルーズがお好きなんですね」

 そうだ。あの日はちょうど仕事が休みで、昼間っから紹興酒を飲みながら、ずっと映画を観ていたような気がする。とても、とても、寒い日だった。

「一週間のレンタル期限内に、あなたはきちんとDVDを返却されています。ただ、うっかりとこのマグノリアのDVDだけ取り残してしまった。故意ではなかったのでしょう。なにかの加減でケースがテレビのうしろにもぐりこんで、それきりになっていたのかもしれません。よくあることです」

「あなた、債権回収屋ね?」

 わたしは云った。

「ええっ?」

 ツタ子が目を丸くする。

「わたしが延滞していることを知って、わざと放置しておいたんでしょう? 一日の延滞料がいくらか知らないけれど、一年も寝かしておけばそれなりにいい稼ぎになるんでしょうね。でも知ってる? 個人債権を第三者が回収できるのは、認定司法書士もしくは弁護士のみに限られてるの。あなたが筋モノか、リスト屋からわたしの情報を買い取ったチンピラなのかしらないけれど、家にまで上がり込んで無理強いの返済なんてやらかしたら、確実に手がうしろに回るわよ」

「いえ、あの、なにか誤解があるようなので……」

 わたしはスマホをとりあげる。一瞬もためらわずに110をコールした。ツタ子が奇声をあげてとびかかってきて、わたしの手からスマホを払いおとす。そのままとっくみあいになった。

「なによ!」

 わたしはしがみついてくるツタ子を押しやって、叫んだ。

「返してほしかったなら、電話かメッセージアプリで連絡をくれれば済む話でしょう。それもしないで、先に閉店しちゃったTSUTAYAが悪いんじゃない!」

 そのまま身構えたが、ツタ子はもう飛びかかってはこなかった。

 意気消沈した様子で、ぺったりとカーペットの上に座りこんでいる。膝を曲げた足の先が八の字にひろがっていた。

「……わが故国は衰退のときにあります」

 蚊の鳴くようなちいさな声で、ツタ子は云った。

金烏臨西舎たいようはすでにかたむいて鼓聲催短命つつみのおとはみじかいいのちをつげる。時計の針を戻そうとするなど詮無せんなきこと。無辜むこの民の華やいだこえがとおくなったところで、そのことを誰が責められるでしょう……あなたからお金を取る気などありません。わたしはただ、あなたに義務を果たしてもらいたいだけです」

「だから、義務ってなに?」

「決まっているではありませんか。TSUTAYAの使命はただひとつです。映画を必要とする善良な人々に、その映画を手渡すことです」

 ツタ子はそう云うと、ぐいっと乱暴に目元をぬぐった。

「申し訳ありません。個人的な感傷に酔ってしまいました……時間がありません。急ぎましょう」

「急ぐって、どこへ?」

「今夜、この映画を必要とする人のところへ」

 ツタ子はそう云うと、手にした「マグノリア」のDVDケースをわたしに突きだしてきた。

「あなたが届けるのです。TSUTAYAの店舗無きいま、それができるのはあなたしかいません。それがあなたの義務。そしてそれを見届けるのが、“TSUTAYAの最後の娘”の使命です」



 妙なことになった。

 コートとマフラーを身につけると、わたしはツタ子に急かされるままに家をでた。街灯と自動販売機のあかりが夜を照らしている。ツタ子によると、この街のどこかに、わたしが返却しそびれた「マグノリア」のDVDを必要とする誰かがいるらしい。

 わたしを訪ねてきたのはまだわかる。TSUTAYAのサーバーにレンタルの記録も、わたしの個人情報も残っていただろうから。しかし“今夜、この映画を必要とする人”なんて漠然とした相手をどうやってさがすつもりだろう。

「ちかごろのビッグデータの解析って、そこまで進んでるの?」

「びっぐで……はぁ?」

 ツタ子は目を丸くしている。

「ほら、Amazonのページで、勝手におすすめを教えてくるレコメンドエンジンがあるじゃない。ああいうやつで、その相手を捜したんじゃないの?」

「そんなものは必要ありません」

 ツタ子はむっとしたような声で云った。プライドを傷つけられたらしい。

「わたしにはわかるのです。TSUTAYAの最後の娘ですので」

「車は? コヨーテは?」

 アパートの前はがらんとしていた。わたしたち以外には人の姿もない。

「あれは、ウソです」

「じゃあどうやってその人のところまで行くわけ?」

「タクシーを拾いましょう」

 悪びれもせずにツタ子はそう云って、ずいずい歩いていく。

 近くの国道まで歩くと、そこでツタ子が手をあげて、タクシーを拾った。「まっすぐ東にむかってください」とアバウトこの上ない注文を運転手に伝える。

 後部座席のシートのつめたさが、わたしの気持ちをいくぶんか冷えさせた。

「だいたいね、“今夜、この映画を必要とする人”ってなによ。緊急医療品じゃあるまいし、そんなに即応性をもとめられる映画って、ある?」

「ありますよ。何人もそういう人たちに出会ってきました」

 隣に座ったツタ子が答える。

「残念ながら、わたしにも力のいたらないところがあります。すべての人に手をさしのべられるわけではありません。眠れぬ夜。つぶれるほどに酒を飲む夜。こころぼそくて、誰にも頼れず、消えてしまいそうな夜。そんな夜をかかえた人がこの世には多すぎるので。大概は、なにも起きません。朝がきて、昨日と変わらぬ暮らしをつづける人がほとんどです。人は強いものですので。どうしても挫けてしまいそうな夜には、映画が支えになります」

 支えてもらいたいのは、どこかの誰かじゃなくてわたしの方だ。そう思いながら、わたしは手にした「マグノリア」のケースを見つめる。

「この映画ね、じつはわたし、観てないの」

 ツタ子が顔をこちらにむける気配がした。

「トム・クルーズが好きなの。笑顔が素敵じゃない。でも、この映画、トムがあんまり出てこないのね。なんだかとりとめのない話でね。長いし。一時間も観ないで、再生をやめちゃったの」

「そうですか」

「こんな映画が人を救う、なんてピンとこないな。おとぎ話じゃないんだし。人生なんて、映画みたいにはいかないじゃない」

「えーーーっ!!」

 ツタ子が叫んだ。目を丸くしている。

「急に叫ばないでよ、びっくりするじゃない」

「人生って、映画みたいにはいかないのですか!?」

「そりゃそうでしょ。映画を観てればわかるじゃない」

「映画を観たことがありませんので。そうなのかー。人生って、映画みたいにはいかないのかー」

「ちょっと待て。いまなにか根本から設定を覆すようなこと、云わなかった?」

「映画を観る機会が、なかったのです」

 ツタ子は照れたように微笑んだ。

「映画のあらすじを書いたり、華やかなポップでDVDケースを飾ったり……そういうことは誰か、べつの人の仕事です。わたしはただ、必要とする人に必要な映画をとどけるだけです。『顧客の言うことを聞くな。顧客のためになることをなせ』。TSUTAYAの行動規範です」

 タクシーは走りつづけている。運賃メーターが廻るごとにツタ子は無口になった。財布のなかみを気にしてのことではないらしい。ツタ子はいまや険しい表情をして、唇をひきむすんでいる。声がかけづらかったから、わたしも黙っていた。ツタ子が指示をだして、国道から脇道に入る。どうやら目的地は近いらしい。小さな角を、いくつか曲がった。

「止めてください」

 ツタ子が云った。タクシーが止まり、ドアがひらく。その刹那、ツタ子はタクシーから飛びだしていった。

「ちょっと!」

 わたしが払うんかい! 叫んでもツタ子は振り返らない。どうしようもなく、わたしは財布を取りだした。

 タクシーを降りたわたしは、ツタ子を追った。見上げるような大きなマンションに近づいていく。自動ドアが閉まっている。どうやらオートロックのマンションらしい。ツタ子の影は、迷うことなくマンションの裏手にまわりこむ。

 息を切らしたわたしが追いついたとき、ツタ子はドアのついたフェンスの前に立っていた。フェンスのむこうはどうやらゴミ投棄のスペースらしい。

 鋭い金属音がひびいた。ツタ子の足元に、チェーンと南京錠が落ちる。ツタ子が振りむいた。

「道はひらけました」

 いつのまにどこから取りだしたのか、ツタ子の両手にはボルトカッターが握られていた。もうツッコむ余裕もなく、わたしはふたたび走り出したツタ子の後を追う。

 ロビーには人影がなかった。時間が時間だ。エレベーターの前に立ち、ツタ子が呼びだしボタンを連打する。その様子は狂気じみていた。カモミールティーに相好を崩していた小娘とは別人だ。

 エレベーターに乗り込むと、ツタ子は五階のボタンを押した。どうして相手の住所がこうも正確にわかるのだろう。

「……ちがう。部屋にはいない」

 低い声でそう云うと、ツタ子は最上階のボタンを押し直した。背筋が寒くなるような思いがした。

 最上階で扉がひらくと、目の前にひろがる廊下の両側に部屋の扉がならんでいた。ツタ子はそちらには目もむけず、さらに上へとつづく階段を駆け上がる。

 屋上へとつづく扉の前で、ツタ子はふたたびボルトカッターを取りだした。

 間があって、ツタ子は結局、ボルトカッターをレインコートのなかに仕舞う。

 わたしは背後から覗きこんだ。屋上へとつづくドアのノブが、壊されていた。

 ツタ子が屹と顔をあげた。勢いよくドアを開けて、そのまま屋上へと踏み込んでいく。わたしも後につづいた。

 ふいに空が開けた。

 雲に覆われて、月も星も見えない。真っ暗な屋上のずっとむこう、突き当たりのパラペットの上に女の子が立っていた。歳のころは二十歳前後だろうか。ドアがひらいた音に、びっくりして振り返ったらしい。近づいてくるツタ子を見て、あわてたように前に向き直った。彼女の前には、身を投げ出すための虚空しかない。

「あなたにはまだ、観なければならない映画がある」

 ツタ子が大声で叫んだ。

「観なければならない映画が残っているうちは、人はそちら側には行けないんです」

 こちらに背をむけた女の子の肩は小刻みに震えていた。背中に気配を感じて振りかえると、ツタ子の手がわたしを前に押しだそうとしていた。え? ええっ?

 ツタ子に背中を押され、わたしは二、三歩、前に踏みだした。

「あ、あの……」

 口のなかがからからに乾いていて、うまく声がでない。

「あのね、この映画ね」

 わたしは手にした「マグノリア」のケースを掲げる。

「トム・クルーズが全裸になるらしいの。上半身だけじゃなくてね、全裸。そんなうわさを聞いて借りたの。でもまだ、観てないんだ……一緒に、観る?」

 女の子がゆっくりと振り返る。

 赤縁のメガネをかけていた。目がやたらと大きく見えるのは、メガネのせいだろうか。二度、三度、まばたきするうちに、その瞳から涙がこぼれ落ちた。

「“お箸おつけしますか”」

 女の子が云った。

「“袋はご入り用ですか”。“小銭はお持ちじゃないですか”。“ご注文はお決まりですか”。“お待たせしました。二十五分でのお届けになります”」

 女の子はしゃくりあげながら、涙を流しつづけた。

「……気がついたら、わたしのまわりにはそんなことばしか残ってなかった。大学に行けなくなって、ぜんぶの電話を無視して、自業自得だよ。でも、思ってた。次にわたしに本心から声をかけてくれる人がいたら。マニュアルじゃないことばを掛ける人がいたら、どんな言葉だろうって。ずっと考えてた。よりによって……」

 女の子は涙で頬を濡らしながら、からだを揺らして笑いはじめた。

「トム・クルーズが全裸になるって!……ねーよ、そんなの」

 ちからが抜けたようになって、女の子は屋上の縁にしゃがみこむ。わたしはあわてて彼女に駆け寄り、そのからだを抱きしめて、そのまま二人で屋上の上に崩れおちた。

 顔を上げたとき、すぐそばにツタ子が立ちつくしていた。わたしは息を呑む。

 月のない暗闇に、ツタ子の隻眼せきがんだけが煌々と輝いていた。何色とも表現できないその奇妙な光。まばたきする間にその色合いが変化する。この世のものとも思えない瞳。錯覚だったのかもしれない。いまでも、わからない。思いだすたびに原初の恐怖でからだの震えが止まらなくなる。

 わたしが助けた女の子は、屋上の上に四つんばいになって、喉をならしていた。いまになって怖くなってきたらしい。彼女のからだは震えていた。

「津田アズサさん」

 女の子を見下ろしたまま、ツタ子がそう云った。

「あなたにDVDを預けます。期限は定めません。料金もいただきません。ただし……いつか、どこかでそのDVDを必要とする人があらわれたなら……その時には、ふたたびお会いすることになるでしょう。あなたにDVDを届けてもらうために」

 ツタ子は膝を折り、しゃがみ込む。

 おそろしい光を湛えた瞳で女の子を見つめながら、ツタ子は真剣この上ない様子で語りかける。

「たったいま、あなたは義務を背負いました。その義務を果たすまで、わたしはあなたを逃がしませんよ。あなたがどこにいても……たとえ地の果てまで逃れたとしても、わたしは必ず現れるでしょう。そのことを決して忘れないでください」

 ツタ子は視線を逸らし、わたしを見つめると、にっこりと微笑んだ。身体がかっと熱くなる気がした。わたしのすべての罪を許すような、わたしのすべてを受け入れるような、それはそんな微笑だった。

 手を伸ばし、わたしの肩をポンと叩くと、ツタ子はそのまま屋上のドアの方に歩いていき。

 そして姿を消した。じつに、あっけなく。

「あの女、イタすぎでしょ。あの格好……なに」

 アズサと呼ばれた女の子が小声でそう云った。意外と毒舌だ。

「あなたの救世主よ」

 わたしはそう云って、笑う。

「あなた、もう、死ねないわよ。あの娘はきっと、墓の土を掘りかえしてだって、あなたを逃がさないから」

 笑いながら、真っ暗な空を見あげる。

 悪くない気分だった。



 もう主人公は去ってしまった。残されたのはエンドロールだけだ。

 わたしとアズサは奇妙な気まずさに満たされたまま、アズサの部屋にあがりこんだ。

「……踵、そろえて靴をおく人なんですね」

 玄関を見下ろしながら、アズサが云った。

「そりゃもう、人として」

「おばちゃんみてぇ」

「あなたのしつけがなってないだけよ……コートは?」

「ハンガー余ってないんで、床にでも置いといてください」

「……ほんとになってないよね、いろいろと」

「なんか、飲みますか。コーラとか」

「コーラは飲めないの」

「マジかよ。草生える」

 冷蔵庫を開けたまま、アズサはしばらく固まっていた。

「どうしたの」

「あ、いえ……いろいろ身辺整理したつもりだったんですけど、冷蔵庫のなか、そのままだったなって思って」

「……」

「……」

「しかしいまどきトム・クルーズとかww。草生える」

「なによ。いいじゃない。セクシーだし」

「セクシーwww」

「まぁ、あれか、若い人はもっと違う俳優の方がいいのかな。おばちゃんにはわかんないなー」

「自分でおばちゃんとか云うの、やめた方がいいですよ。ぜんぜん自分でそんなこと思ってないくせに。そういう自意識が、いちばん醜い」

 ほんとに毒舌だな、こいつは。

「いいからはやく、DVDかけなさいよ」

「トム・クルーズが全裸になるのって何分くらいですか」

「知らないわよ」

「シークしてそこだけ観て、終わりにしましょうよ」

「それで良いわけないでしょう。ツタ子が戻ってくるわよ」

「あの女、意味わかんねぇ。わたしとTSUTAYA関係ねぇし。Tカードも持ってないのに」

「たぶん、そういうんじゃないのよ。ちゃんとぜんぶ観れば、わかるんじゃない?」

「……」

「……」

「この冒頭、タルくないですか」

「うん。わたしもそう思う。だから途中で観るのやめちゃったんだよね」

「トム・クルーズ、出ないじゃないですか」

「出てくるって。この女優さん、綺麗だよね」

「ジュリアン・ムーア」

「ふーん。俳優の名前とか、くわしいんだ」

「一般常識ですよ」

「なにに出てた人?」

「あれ、ほら、なんだっけか。最初に飛行機が出てきて、地震で終わる映画」

「なにそれ」

「あれにもでてましたよ。ラストに刑務所の檻のなかで女の人がくるくる踊るやつ。タイトル忘れた。ムカつく」

「あんた、勝手に映画つくってない?」

「ほんとに観たんですよ! っていうかさっきからこのガキ、ムカつきません? 駅の名前ぜんぶすらすら云えるようなガキってきらいなんすよ、わたし」

「まぁまぁ」

「……」

「……」

「おマンを手懐けろwww」

「うるさい」

「おマンwwww」

「黙って観なさいって。なによ、さっきまで泣きじゃくってたくせに」

 アズサは頬を赤くして、顔をそむけてしまう。かわいいかよ。

 映画が進むごとに、わたしたちは無口になっていった。

 登場人物たちはバラバラなまま、それぞれの状況で追いつめられていく。出口のない迷路に入りこんだように。それでもあがく彼らが痛々しくて、顔をそむけたいのに、それができない。

「この映画……」

 アズサがなにかを云いかけたことばは、とぎれてしまった。

 わたしたちは隣合わせに座ったまま、テレビの画面に見入った。

 わたしとアズサは、仲良く同時に声をあげた。

 反射的にアズサが、ポーズボタンを押す。

「いまの、なに!?」

「……」

「なんかすごいもの映らなかった、いま?」

「あれは……ひょっとして……わたしのキライなものリスト、第十八位のアレでは」

「意外と懐深いわね、あんたのキライなもの」

 アズサが震える手で再生ボタンを押す。

 それから映画が終わるまで、わたしたちは一言も口をきかなかった。

 エンドロールが流れはじめ、わたしはほっとして肩の力を抜いた。

「なんだか……」

 よくわからない映画だったね。

 云いかけたわたしのことばは声にならなかった。

 アズサは声も出さずに涙をながしていた。メガネを外し、セーターの袖で目元をぬぐう。ふたたびメガネをつけると、流れていくエンドロールを真剣に眺めていた。

 そうか。わたしにはよくわからなくても、いいんだ。

 この映画は今夜、この娘のためにあったのだから。この街に住む誰よりも、この映画を必要としていたのは、アズサだったのだから。

 わたしは膝をかかえこんで、涙を流すアズサの隣に座りこんでいた。窓の外は白みはじめていた。あくびがでそうだ。もう少し経ったら、アズサと一緒に、コンビニに朝ごはんを買いにいこう。そんなことを思っていた。



 わたしとアズサは友達になった。

 わたしが休みの日には、二人で都心部に出かける。そこにはまだ営業しているTSUTAYAがあって、わたしたちはそこでDVDを借りあう。アズサはメキシコの麻薬カルテルものが好きで、わたしは恋愛映画が好き。徹底的に趣味があわない。それでもわたしたちは互いの映画にツッコミを入れながら、まぁ楽しくやっている。

 「マグノリア」がアズサにどんな影響を与えたのか、わたしにはわからない。アズサも口に出さない。

 あの「マグノリア」のDVDはずっとアズサの部屋に置かれたままだ。

 でもわたしは確信している。

 ツタ子はきっといまも、夜の街を彷徨ほうこうしているのだ、と。

 そして映画を必要とする誰かに、DVDを届けつづけているのだ。

 ツタ子とふたたび会う日もそう遠くない。そう思うと、わたしはなんだか微笑んでしまうのだ。



(To be continued)

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