第2話 名瀬港前の喫茶店

喫茶ニューヘブンは、関西汽船が発着する奄美大島名瀬港の正面にある。一階がみやげ物屋と民宿で2階が喫茶店だ。喫茶店といっても、港に船が入る時間を見計らって開店するのが常だった。店は、“みやげ物屋ニューヘブン本店”主人夫妻の最近、結婚した娘夫婦が港に開いた。妻23歳、夫は25歳の美男美女の清新なナウいカップルだった。


開店早々では有ったが、本店の支援と船着場の正面という立地条件にも恵まれ、店は繁盛していた。気立ての良い長身の大島離れした顔立ちの女性が、切り盛りするから繁盛するのは当然と言えた。


私は港をうろついていて壁に貼られた【アルバイト募集 宿泊所アリ】というビラに誘われて、応募するべく喫茶ニューヘブンを訪問した。2階の喫茶店の隅で背広姿のマスターの面接を受けた。

「学生証を見せて」

「はーいこれです」

「京阪大学ですか。何を専攻しているの」

「歴史地理学です」

「それは何ですか」

本質をグサと聞かれ、

「いま名瀬には港があります。その前に喫茶ニューヘブンが存在します。これは全くの偶然ではなく、深い入江がある名瀬に港が出来、港に人が集まるから、このニーズに答えるため喫茶店が出来たんです。その因果関係と地理の持つ経済的価値を時系列で考える学問です」

と答えると主人は、

「面白いこと言う人間だ」

東京弁になって答えた。

「ところで、免許は持っている」

「持ってません」

「それでは配達は難しいな」

難色を示したが、

「私には力が有るので、助手としてサポートさせて下さい」

明るい声で笑顔を伴って言った。

「君、ほんと素敵な笑顔やね」

採用が決まった。  


案内された宿舎は、2階屋上に突き出た物置小屋を改造したものだった。1.5畳程の広さの小部屋が私の城となった。次の瞬間、此処に荷物の全て、と言ってもリュック一つを置いて、街に出て自由を満喫していた。

これで名瀬の町に暫くは居れる。これでまた楽しい生活を継続出来ることを素直に喜んで、酔った勢いで街を散策して宿に帰った。

そこでは少し騒動が持ち上がっていた。私が自分の宿と思っていたところは、既に地元の青年と後輩が使っており、私が鍵を掛けたために部屋に入れず困っていた。青年の名前は信二と言い、後輩は大島高校に通う古仁屋町出身の苦学生だった。私のために宿と職を失う危機に遭遇していた。


「兄さん元気で頑張って」

苦学生は一言言って出ていった。私は申し訳ないことをしたという気持ちで一杯だったが、ここは新婚の若女将(ママ)の機転で救われることになる。即ち、これまで船が入る時にだけ開いていた喫茶店を、常時営業することにしたのだ。私と苦学生がペアーとなり9時~6時迄営業し、船の入る時間は信二が支援して切り盛りすることになった。主人夫婦は適宜、店に出てサポートする体制だ。

苦学生の名前は譲二と言った。譲二は手際良く店の仕事を巧みにこなし、デコレーション、ミックスジュース、コーヒ、冷コなどを器用に作る。其れを私が、客まで運び勘定まで行う。この様に二人の役割分担は、自然に出来上がった。

「先輩、これお願いします」

譲二が言い私は、

「はい分かりました。お出しします」

と答える。このコンビで結構店は繁盛し、昼間から人が入るようになった。


私が入店して5日目の夜。主人夫婦が自分達の目論見が成功したことを喜んで、食事に連れて行ってくれることになった。

実はこのころ私は結構お金も持っていて、店の人に両替をお願いした時に財布を見たのかママが、

「山田君、あんた案外沢山お金、持っているんだね。何でこの店で働くの」

「この街が好きなので、ここに長くいたいんです」

ママは微笑んだが、譲二は言葉少なだった。

食後、私たち二人を残して勘定を済ませて夫妻は先に帰った。


ここで突然、譲二が、

「先輩一緒に行きませんか。面白いとこ案内します」

一緒に街を這いかいし、最後に譲二の溜まり場に落ち着いた。

そこは、大きな神社近くの廃れかけた屋敷で、数人の若者が集まっていた。各々が自己紹介した。

「先輩」

一人が言い、他のひとりが

「譲二のことお願いするよ。分ってる」

棘がありそうな言い方が気になって、

「なんで」

「こいつあそこしか行く所が無いんです。だからお願いするんだ」

「追い出さないでよ」

口々に言った。

「僕もここに長くは居ないので、それは大丈夫。店は繁盛しているし大丈夫ですよ」

すこし憮然と言った。

「それに、譲二には技術があるんで大丈夫。また、店の主人も譲二には信頼感を持っているのは事実ですから。そんな心配いりませんよ。これからも二人で店の切り盛りをしましょうよ。ホントに」

ここまで黙って聞いていた譲二は毅然とした態度で、

「俺はこの店に賭けているんだ。旅行者の気まぐれには付き合いきれないんだな」

これ迄の、人当たりの良さからは想像できない、思いがけない強い言葉だった。

この気迫に押されて、

「僕は1ヶ月以上、名瀬に留まる気持ちは無いんで心配しないで。店を立派に切り盛りして名瀬で一番の店にして、多くの人が働けるようにするから。僕もいい加減に出来ない性格なんで。譲二さんもそれは分かるでしょう」

この一言で、此処に集まった人は納得したのか笑顔を見せてくれた。暫く、一緒にビールを飲んで大阪の話をして、譲二を残して根城に帰った。自然に口笛を吹いていた。


翌日の譲二は昨日、何事も無かった様に私とのペアーで仕事をこなしていた。人懐こい笑顔がいつもにも増して印象的だった。


奄美大島は、鹿児島から約300㌔離れた南海の洋上にあり、古代から綿々とつながる豊穣な時間と亜熱帯の光の中にあった。金作原の森には、人が生まれる遙か前から自然が育てたであろう、太古を思わせる木々が繁り、コバルトブルーに輝く海には珊瑚が有り熱帯魚が戯れていた。

沖縄の本土復帰を控え島には背中に大きなバックを背負った所謂、カニ族と言われる若者が街には溢れていた。この若者を運んだのが安価な船だった。島の伝統は島人の暮らしを彩っており、これに若者は癒されていた。陽が傾く頃には、そこかしこから三味線の音色がこぼれ出て、島唄を中心に人の輪が形成されていた。

町を歩けば、紬を織る機の音が聞こえてくる。大島紬は大変な人気で、子供の教育費として有効に機能していた。



この様に1973年当時、奄美大島は島全体が島旅ブームに酔っていた。当時流行の長髪とパーマ、それに洗っていないブルージーンズと派手なTシャツを着た私がそこにいた。

これ迄、相槌を打っていた麗子さんの声がしないので、見ると眠たそうだったので部屋に案内して、私も眠りに就いた。夜中の1時を過ぎていた。


翌日9時に起きると既に朝食は用意されていた。義母と麗子さんが用意してくれたようだ。麗子さんが、

「山田さん、今日、マグロ一緒に見に行かせてもらいますので宜しくお願いします」

どうやら私が、古仁屋の先、花天にある近畿大学の黒マグロ養殖場を見学に行く話を知っており、同行すると言うのだ。

時間がないので急いで食事し、義母に見送られて家を出て、花天に向かった。そして、車中で話を続ける事になった。


現地では奄美大島の市町村合併検討が本格化し龍郷町等が離脱を表明し全島一市は実現せず。ハブ退治に放されたマングースがアマミノクロウサギ等を捕獲し環境を破壊しているとして駆除が本格化、奄美の郷土料理「鶏飯:けいはん」が鹿児島で一番人気の給食に選ばれ、ローソンでも売り出すことが決定した。また、黒糖焼酎が相変わらず人気で、島唄の中耕介が人気を博し、人口減少策として自衛隊の誘致運動、世界自然遺産の登録活動も始まろうとしていた。

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