喫茶「ニューヘブン」

@takagi1950

第1話 序章

【2015年】

2015年4月 私は65歳になっていた。会社に嘱託で残る道も有ったが、丁重に辞退し自由の身になった。会社に不満は無かったが、これまでのレールを離れて少し違う道を歩んで見たかった。私のこの選択で妻との溝は更に深まり家庭内別居いわゆる“家庭内村八分”(食事・洗濯、子・孫との関係以外はお互いに関らない)は決定的になったが、特に深刻には考えていなかった。

 二人の子供は独立し、それぞれ家庭を持ち、私達に4名の孫をプレゼントしてくれた。妻は家族が全てで、それ以外は平々凡々に日々を暮らせれば良いという考えだが、私はまだ世間と勝負したいと思ってもがいていた。今年1年間は、自分の思い通りに暮らし、そこで成果が出ない時は再度、就職する心積もりだった。そんな計画を持っていたが、妻には言っていなかった。コミュニケーションが圧倒的に不足していることは分かっていたが、話せば言い合いになると思って言い出せなかった。それが、更に二人の関係を悪くした。もう諦めていた。


 2015年4月12日(日)。そんなこともあり、現実逃避も兼ねて旅行に出た。宮古島、沖縄本島を回り、沖縄から船で与論島、奄美大島に入る予定である。費用は退職時に職場の仲間から頂いた餞別金を充てた。

 宮古島には親しい友人を頼っての訪問である。空港で逢うと12年振りであるが、全く変わっておらず輝いていて眩しかった。元高校球児で50歳を過ぎた今も現役の選手として地域リーグで頑張っている。ナイスガイだが何故か15年前に離婚し、その後に知り合った女性と十年以上一緒にいるが結婚はしていない。

 仲の良さが羨ましいし微笑ましい。私は友人の迷惑を顧みず訪問の目的である最近、380億円の費用と9年の工事を終えて開通した“伊良部大橋”を自転車で走行することに挑戦していた。思っていたより長く3540m、勾配高さ27mも大きかったが、心地よい汗に満足し『先のことは分からないが来て良かった』と素直に思っていた。

 前回、訪問時に建設計画は聞いていたが、出来るとは思っていなかった。今、私の目の前には立派な橋がある。日本の実力と着実に進めることの大切さを改めて知った。

 

 2015年4月15日(水)、沖縄本島宜野湾市辺野古地区のキャンプシュワブ米軍基地ゲート前に居た。そこは喧騒の中にあった。20m程度のゲート前で警備員と移設反対者の攻防が繰り返されていた。双方にとって悲劇としか言いようがなかった。

 現地の新聞は“粛々と移転を進める日本政府”への批判で埋め尽くされていた。“琉球独立前夜”という雰囲気である。沖縄のアイデンティティーと言われると、これしか思いつかない。

 厳しい現実を見せつけられて、その熱気を冷ますべく翌日、那覇新港から船に乗った。与論島に一泊し、奄美大島に向かう予定だ。

 船は沖縄本島の西海岸を進み、趣きのある頂を持つ伊是名島、伊江島沖を過ぎ本部港に寄港し暫くして与論島に到着した。


 与論島は言わずと知れた“与論島慕情”の島である。初めての訪問だ。たまたま港で民宿のおばさんに、

「今日、空いてます」

「空いてますよ」

「いくらですか」

「一泊二食で6000円です」

「それでお願いします」

「これに乗って」

民宿の送迎バスに乗り込んだ。民宿の名前は“汐見荘”といった。当日は旧暦の3月3日ということもあり、浜に下りて海の幸を採る行事があると案内してくれた。潮が引いた浜辺には、多くの島民が海に出ていた。そして、今年生まれた赤ちゃんを海に入れると元気に育つと言われ、2箇所でその行事が行われていた。

 2時間必死になって海の幸を探し、貝類十数個とシャコ貝5個を採った。思った以上の成果に感激したが、地元の人はサザエや大きな魚を捕っていた。おばあちゃん初め家族総出で、潮干狩りを行っている風景が眩しかった。

 私たちの家族にもこのよう光景が有ったことを思い出した。


 夜、宴会が有った。潮干狩り、当地では“浜下り”の自慢話である。それぞれが童心に返って語った。与論島慕情を歌い、地酒“島有泉”で与論憲法をして日は暮れていった。今日一日で汐見荘に島起こしのあるべき姿を見た。

翌日、百合ガ浜に上陸し、与論島慕情の世界を満喫し、船で奄美に向かった。無性に海から奄美大島の姿形を見てみたかった。途中、徳之島で高校生が多数乗って来て船は賑やかになり、古仁屋経由で夜の6時に奄美大島名瀬港に到着し、友人の出迎えを受け郷土料理店に直行、再開を喜びあった。

なお、市町村合併により名瀬市は奄美市になったが、港の名前は残った。

泊まりは最近出来た旅行者向けの宿舎、いわゆるドミトリーで1泊素泊まり2500円だった。


 2015年4月18日(土)、妻の実家といっても今は無人となっているに向かった。6ヶ月振りの訪問である。今は主に妻の兄弟6名が別荘代わりに利用している。

 電気を入れ、風呂に入ってさっぱりして、自転車に乗って近所で食料品、飲食物を買い込んで、野菜入りの即席ラーメンを作って缶ビールで流し込んだ。幸福のひと時だ。数年前からこの地で小さな果実園を作っていた。

 今回はここに2ヶ月程度留まって耕作に励む予定である。時間はたっぷりと有った。



 2015年5月17日(日)。私が奄美大島で自由な生活を楽しんで、1ヶ月程度経過していた。あやまる岬のバス停では小さな出会いがあった。50歳位と思われる婦人に30歳くらいの女性が、

「ここに国民宿舎ありませんでした」

「そうですね、私も不思議に思っていたんですけど」

この会話が成立した。

 二人は高知と東京から来たと言い、これが2回目の訪問だと言った。それぞれが過去の思い出を語りかけた時にバスが来て、乗り込み雑談が続き、ばしゃ山観光ホテルのある用安海岸で降りた。

 フロントで年配の女性が、

「社長の池千恵子さんお願いします」

と言った時、若い女性はドキとした。そのドキドキが収まりかけた時、また一際、鼓動が高まった。

「玲子さん。お久し振りです。もう40年以上になりますよね」

「そうですね43年かな」

「変わらないね。今も、40台に見えますよ。何かやってる」

今風の会話になって、

「ちょっと待ってネ」

そして若い女性に向かった。

「お名前は」

「高島麗子です」

「ああ山田真さんの紹介でしたよね」

千恵子が言った時に玲子が振り返った。

 千恵子を介してお互いの関係を整理し大方理解した。

まず、高島麗子が口火を切った。

「私、10年前に奄美に来た時に山田真さんと知り合いまして、お二人の話し聞かせていただいたんです」

「1973年夏のこと」

「はい。楽しかったです」

「そう」

「そうなんですか」

お互いが納得して、千恵子の勧めで窓際の席に移動して、トロピカルフルーツを飲みながら麗子から真が語った話を聞いた。

途中、

「それは違うな」

「そんなこと思っていたんだ真は・・・」

「ずいぶん自分を美化しているな」

「私の出番少ない」

茶々を入れながら話は進んだ。


 皆、昔を思い出して懐かしさに浸って今を忘れた。麗子は二人に差し障りのある内容は注意して避けた。

ホテルのスタッフが来て、

「社長、お話中失礼致します。ちょっとお願いします」

千恵子が席を外した。

「そうか10年前にそんなことがあったんだ」

と言った時に玲子の携帯に着信が入り席を外し、帰って来て、

「麗子さん。すみません。ちょっと用事が出来たので失礼します。この続きは夕食の時に」

玲子も席を外し、自分の部屋に向かった。

 ここで麗子が千恵子と玲子の二人に話した内容は次のようなものだった。

 それは、まず2005年の私の置かれた状況から始まる。


【2005年】

2005年3月16日9時10分 私は、職場である大阪郊外の新興工業団地にある会社て会議を主催していた。

「只今より電子材料事業本部の企画会議を開催致します」

と宣言して席に着き事業本部として最も大事な会議が始まり、私が、

「今月の生産額が1002、即ち10億2百万円、受注は1102、売上は970となり、月次予算を僅かに未達という状況です。翌月は今月納期の受注残が1120あることから生産額1105を想定し、損益はプラス105を予定しています」

報告し会議は進む。


途中、部長、室長の報告に対して事業本部長の厳しい質問が続くが、私は適宜サポートする。事業本部長の生産が上がっているのに売上が伸びない原因はという質問に対して、担当の大須賀部長が、

「その点に関しては現在調査中です」

回答に不満があるのか業を煮やした事業本部長は、

「山田君、原因はどのように見ているのか」

私は次の会議の段取りを考え、集中力が薄れていて、少し慌てたが一呼吸入れて落ち着いて、

「生産管理システムの数値を分析すると、1案件の処理時間は増大していますので、生産性が下がっていますので見かけ上、管理会計の生産額は上がっています。また、売上単価が下がっており、売上が伸びないものと思われます。問題は生産性と売上げ単価の低下です」

と回答した。

それからも、大田事業部長の報告に対する叱責、非回収時間に関する指示、事業本部長の想定外の不規則発言があったが、最後に社長の訓話が有って3時間の会議は終わった。


部屋の片付けを終えて出ようとした時、大田事業部長が肩を叩き、

「今後とも頼むよ、どうも私は受け答えが下手で。助かるよ」

昔は、鬼上司で大いに鍛えられた先輩から、この様に言われて悪い気はしなかった。


今でこそ、そこそこ仕事をこなせるようになったが、以前の職場ではこうはいかなかった。今の事業本部長に拾われて、どうにか此処まで持ち直した。

この職場に来るまでの上司の元では、余りにも指示事項が多くて処理できない程のことを要求され、それが原因となって仕事を前に進められなくなった。一度歯車が狂いだすと仕事の処理能力が落ちて、以前にも増して前に進めなくなった。

簡単な連絡メールも発信出来ず大幅に処理能力が落ちた。それがまた次の業務の処理能力を落とすという悪循環で、上司の怒りを買って病気寸前になってしまった。


私は、密かに辞表を書いて何時の日か、この上司に叩き付けたいと思っていたが、その時は幸いにも訪れなかった。事業部内の取りまとめ役の私が、この様な状況になってしまったことは、事業部にとっても致命的だった。

この悪循環から逃れるために、今の職場に逃げてきた。この職場に来たことは、私の様な立場の人間にとっては、一種の職場放棄であり敵前逃亡に近かった。今後の昇進は難しくなり私も傷ついたが、上司も傷ついた。


仕事がひと段落した時、人生を見直したいと思っていたので、企画会議の翌日から祭日を挟んで5連休、すなわち木、金、土、日、月(祝日振休)曜日の休みを取った。


2005年3月17日、奄美大島一の景勝地あやまる岬に立っていた。今日から5日間の予定で奄美大島内をさまよう予定だ。

今回は一人旅で、これまでの人生を総括する。空港からバスに乗って此処に来た乗客は、私の他に若い女性が1名。何処かで逢った事が有るような雰囲気があるので、気になっていたが、其れを切り出すことは出来なかった。


高台を降りて海岸に出て岬を見学し、国民宿舎前のバス停留所に戻るとさっきの女性が一人、暫くしてバスが来てそれに乗る。バスは旧奄美空港跡地に建っている田中一村記念館に停まった。ここで女性も私も降りた。まっすぐに記念館に向かう、中には数名の人がいた。


くだんの女性は、記念館中央部を動こうとしない。気になって近づいていくと一村の“私は自分のために絵を描くという境地になった・・・・”の言葉が掛けられた短冊のところに立ち止まっていた。

私が、

「良い言葉ですね」

思わず、若い女性に声を掛けた。

「そうです。でもこう言う境地って難しいです」

「若い人には難しいでしょうがね。私など歳の功というか何となく分かるんですが」

「そうですか羨ましいですね。私など肩に力が入りすぎて」

「それは若さの特権ですから」

「そうですかね」

会話が続き、それ以降、館内を一緒に歩いて回ることになった。


私が、

「一村って難しいですね。描写が細かすぎて、良く言えば精巧で緻密ですが悪く言えばグロテスクな感じもするし」

女性はちょっと躊躇したが、少し時間を置いて、

「一般受けはしないかもしれませんが、軍鶏の絵や南画時代の絵は素人受けすると思いますけど」

「絵のことは良く分からないんですが、此処に書かれている『自分のために描く』という心境の後、素晴らしい絵を描き始めると言う所に魅力を感じます」

自然と口をついて告げると、女性は軽く頷いた。

私は、何故かこの、自分のために描くという言葉を何処かで聞いた記憶が有るが、それが思い出せなくて少し焦っていた。


見学後、鶏飯を食べたいと言うので、バスに乗って近くの店に案内した。此処でオリオンビールを飲みながら、鶏飯の食べ方を紹介して話は弾んだ。彼女は高知出身で東京在住の画家見習いで高島麗子と名乗った。この高知と麗子(れいこ)という言葉を聞いて忘れかけていた記憶が蘇った。

物思いにふけっているのを不思議に思ったのか、

「おじさんどうしたんですか。さっきから無口になって」

事情を掻い摘んで話した。

「へーそんな事があったんですか」

興味を持ったのか、その話を少し聞かせて欲しいと言った。ビールの酔いに任せて、思い出しながらすこしづづ語り出した。


【1973年】

それは1973年の夏の物語だ。私は、大阪で知り合った薫という女性を訪ねて、この島に来た。特に親しい仲では無かったが、奄美大島という未知の存在に関心が有ったし、少しは彼女に興味を持っていて、ロマンを感じての島行きだった。

其れまでも島好きで、この旅はその延長でもあり、大げさに言えば人生の選択を掛けた旅だった。

当時、大学卒業後の進路に迷っていた。思うところに就職出来ないことで、親の期待に答えることが出来ず悶々としていた。今思うと、漠然とではあるが将来に不安を感じて、モラトリアムになっていたのかも知れない。この旅で何か結論らしいものを出したいと思っていた。


7月15日(日)大阪から関西汽船に乗って、2泊3日を掛けて奄美大島の名瀬に来た。こんなに長い船旅は初めてだったが、風呂に入ったり同じ船室の人と親しくなったりして、下船の時には親戚のような雰囲気になっていた。

予定通り大阪で知り合った女性、薫さんの出迎えを受け、彼女の男友達が運転する車で用安海岸に向かった。私と彼女の事が気にかかるのか、運転に慣れていないのかぎこちない。彼女は私を此処に送りつけると用事があると言って帰って行った。

こんなに遠くまで訪ねて来たのに、こんなものかというのが素直な感覚だった。


ここで3泊することになる。この海岸は海が綺麗で、海に突き出た大きな岩が二つあり、それがこの海岸をより素晴らしいものにしていた。

海岸には大きなスピーカーが二つあり、『○○さん電話が入っています』、『宿泊の皆さんは、食事の時間ですから食堂に集まって下さい』、『そちらは危険ですので近寄らないで下さい』等の放送がある。

放送をおこなっているのは、池大地というオーナー一族の若者だ。歳は私と同じだが日焼けして精悍で、30歳程度に老けて見える。ダイビング指導や客の接待をこなしていたが、観光客には絶大な人気が有った。

これという用事も無いのに、『大地、大地、大地さん・・・』と彼に纏わりついていた。


このリゾートは白亜の鉄筋2階建てで収容人数も30名程度だったが、多くの観光客で賑わっていた。昼間の景観も素晴らしいが、夜が最高で空には満点の星があり多くの流れ星を見る事が出来た。この海岸でリゾートを満喫し夏を楽しんだ。翌日、この海岸で神戸出身の二人ずれの女性観光客と知り合って海で泳いだり、星を見て遊んだり、街に出かけて飲んだ。


話すのは少し照れるが当時の私は、今では考えられないほど女性に持てた。この女性は3日で神戸に帰り、期待していた薫さんにも全く相手にされないので、奄美大島第二の都市である古仁屋に向かった。バスを乗り継ぎ6時間の旅だった。

古仁屋から加計呂麻島に渡り芝集落で2泊し、コバルトブルーの熱帯魚と遊んだ。気が緩んだのか、更に古仁屋に2日間宿泊し、海岸で遊びリゾート気分を満喫して名瀬市内に戻って来た。

ここまでしても、まだこの地を離れる気持ちになれなかった。


こんな気持ちで名瀬の町を歩き港に来た時、私に幸いをもたらす出来事が起こった。


【2005】

此処まで話した時、前に座った画家志望の麗子さんが、

「叔父さん、もう時間が遅いですけど」

申し訳なさそうに言った。時計を見ると8時になっており、既に最終バスの時間は過ぎていた。

「良かったら泊まっていくか。お婆さんといっしょやけどええか」

私を信用してもらうために名刺を渡した。

これで信頼してくれたのか、泊まっても良いと言う。どうも持ちあわせが心もとないようだ。義母に連絡し、若い女性を連れて行くことを告げてタクシーで義母宅に向かった。


ほんの1時間のつもりが、ついつい長話になってしまった。下心は無く、申し訳なく思った。私が若い女性を誘うことは此処10年無かった。彼女が高知県出身の麗子(れいこ)という名前に親しみを感じての行動だった。

若い女性を家に誘うことは初めてで、何時も行っている行動ではない。普段、見ているテレビの旅番組の真似事をしてみたかったのも事実だが、それ以上に何か心を動かすものがあった。


二人で義母に挨拶後、軽く食事をして大島紬の話を聞き、オリオンビールを飲みながら私の昔話がまた始まった。麗子は私の話を頷きながら聞いていた。


2005年本土では、大相撲の若乃花と貴乃花の相続問題で揺れ、環境問題では京都議定書が発効、競馬のディープインパクトが活躍していた。松山ホステス殺人事件の犯人で時効寸前に逮捕された福田和子が病死した。また愛知万博が愛をテーマに開催されることになっていた。ライブドア堀江社長が日本放送株35%を取得し業務提携を申し入れた。時代の寵児の誕生である


【2015年】

2015年5月17日(日)午後、10年ぶりに奄美を訪れた麗子が“ばしゃ山”で風呂に入って、海を見て寛いでいると電話が鳴った。

「千恵子です。今から夕食いかがですか、特別に個室を用意しましたから新館3階の“ちゅら海”に来ていただけません。玲子お姉さんも一緒ですから」

「分かりました。宜しくお願い致します」

電話を切った。

 麗子が部屋に入ると既に二人は着席していた。

「それでは、最初は黒糖焼酎で乾杯しましょうか。玲子お姉さま宜しくお願いします」

玲子が立ち上がり、

「再開を祝して乾杯」

ごく自然に言ったが、千恵子に、

「私がなんで黒糖焼酎にしたのか分かってないの・・・・」

玲子は意味が分からなかった、

「私、何かおかしい」

千恵子に聞き、麗子が、

「お姉さま、あれじゃないですか。奄美の・・・・・」

ようやく思い出して、

「そうか、そうか。天に太陽、地に砂糖キビ、そして人には黒糖焼酎で乾杯」

直ぐに3人とも拍手した。


「玲子姉さん駄目だね。忘れたら。私でも覚えているのに、結構はやったんだよ。それ・・・」

「そうよね結構やっていた」

「思い出されました。山田さんが気にいってましたけど」

昔に返って楽しんだ。

 ひと段落すると、お互いの今を語りだした。

麗子は芸術大学の大学院を卒業し日本画家として一本立ちしており、権威ある展示会で新人奨励賞を受賞したと言った。千恵子はこのホテルの若旦那と結婚し、今は社長で子供は2人。ただし、玲子も知っている旦那は海の事故で亡くしたと言うと一瞬シンミリした。そして、経営のためホテルの名前を変えた。最後に玲子が、銀行家の夫と結婚し子供は3人居て、今は社会福祉関連の仕事をしていると言った。


 3人とも努力の人で、世間から見れば恵まれた生活を送っていた。歳の差がある同窓会は郷土料理を食べながら盛り上がり、12時を過ぎた。それでも話は続き、終わりの様相を見せなかったが、千恵子に携帯が入りそれをきっかけに鶏飯が出された。

 それでもワイワイ、ガヤガヤと雑談し鶏飯を食べながら、麗子が、

「明日、山田さんを訪ねて行く予定ですけど、一緒に行かれます」

一瞬、沈黙の後、玲子は、

「もちろん、私は行く」

千恵子は、

「悪い、私は明日、外せない行事があるのでパスさせて頂きます。彼とはしょっちゅう逢ってるし、明日はお二人で行ってください」

申し訳なさそうに言って、最後に千恵子の挨拶で宴を締めた。


麗子が部屋に帰ってテレビをつけると、盛んに大阪都構想の話をしていた。大阪市民の住民投票は僅差で否定され、指導した橋下市長は政界を引退すると言っていた。これで大阪改革の芽は無くなり、長期低落傾向から脱却出来ないことが確実になった。

 自身に置き換えて改革の難しさを改めて知った。そして、引退出来る橋下市長がうらやましかった。


翌日の2015年5月18日(月)、真は龍郷町の自称“奄美亜熱帯果実園”で畑仕事をしていた。大島に来てから近隣の島々、すなわち喜界島、トカラ列島を放浪し畑に出る事は出来なかった。200坪ほどの畑は雑草に覆われて、葡萄をはじめとする果実との見分けがつかない状況だった。かろうじて、目印に刺してある杭が果実類の存在を明らかにしていた。

 よく見ると雑草は、杭や雑草が育つことを防ぐ目的で被せたビニールシートを抑えるブロックの回りに、勢い良く繁っている。これらは、私が雑草対策に良いと思って行った行為であるが、雑草はそれをたくみに利用しているのである。人間社会との共通点と雑草の逞しさを知った。ブロックの周りは電動草刈鎌を操作し難いため、雑草が取り残される割合が高くなる。


 雑草の強さを考えながら作業していると、どこかから、

「山田さん、山田さん・・・・」

と呼ぶような声が聞こえたように思った。

 振り返って道路を見ると二人の女性が立っていた。近寄って行くと、それが玲子と麗子であることに気づくのに時間はかからなかったが、どう対応したら良いか分からなかった。

「真さん。ご無沙汰しています」

言われてやっと、

「ちょっと待って下さい」

声が出たが、上ずっていた。

 小走りで二人のところに寄って行った。


「山田さん。私、誰だか分かります」

「分からないな、どこのおばさんかな。高知の・・・」

「真さん、惚けないで、もう優しくしてやらないよ」

笑いながら言うと、

「分かってるよ。最初、遠くから見た時から。あたり前だろう。43年はそんなに長くないし。俺は惚けてないから玲子さん」

横にいる麗子に向かって笑顔を返した。

「山田さん。麗子です。お変わり有りませんね」

「そうだよ。まだ、10年だからね。益々、鋭さを増したね」

「それって褒め言葉ですか」

「そう褒め言葉。芸術家さんだから。お婆さん去年亡くなってね。再会楽しみにしてた。貴方が有名になると絵が高く売れると言って」

「すみません。いまだ只の画家です」

「そうか俺は、果樹園の叔父さんだ」

立ち話を少しして、近くの自宅に案内した。


 飲み物でも出そうとしたが、勝手が分からないことを見て取って、玲子が動いた。

「お茶の葉っぱは・・・。湯飲みはここかな。急須はこれか・・」

と言いながらコンロの火をつけて湯を沸かした。麗子はコーヒが良いと言って手間を取らせた。

 皆にお茶が行き渡って一息ついた。

仏壇にお参りして、玲子が、

「叔母さんにはお世話になりました。この絵が、貴方が描いた絵。良く出来ているね。これは楽しみだ」

「ありがとうございます。私が言うのもおかしいですが、本当に良く描けてると思います。絵に真っ直ぐ向き合っているのが分かります」

「麗子さん、今ならこれ以上の絵が描けるでしょう」

聞くと、少し思案してから、

「さーあ、どうかな怪しいな。心が濁って手が動かないから、こんな鋭いタッチは無理かも知れない」

「そんなことないだろう。ちょっとテンポは遅いけど麗子は心の強い子だから。奄美の優しい太陽に照らされると復活出来ると思うよ」

「ナイスフォローありがとう」

「どういたしまして」

ここまでやりとりを聞いていた玲子が口を挟んだ。

「麗子さん。立派な画家さんだと思うよ。この絵に優しい心が出てるから。自信持って描いたら。余り色々考えずに。一村さんみたいにネ」

「そうだよ。絵は誰のためにでもなく自分のために描くんだから」

「それ誰かも言ってたね」

3人で手を取って笑った。


 ここから画家さんが、今の気持ちを語った。それによると、最近マンネリに陥っていて書きたい絵が見つからないと言った。気持ちが揺れていて定ら無いとも言った。更に気持ちが落ち込んだ時に、優しく見える男と付き合ったが、見掛け倒しで近い友人とも付き合っていて、更に他にも彼女が居ることが分かって更に落ち込んだ。

「悪い循環に入ったんだ」

「一休みがいいんじゃないの」

「そうだね。それが良いと思う。画家さんは時々スランプになるみたいだから」

玲子がビールを出し、更にフライパンを持って冷蔵庫を探って料理を始めた。


 画家さんにビールを勧めるとコップに入れた分を一気に飲んだ。

「おいおい画家さんちょっとペース早いんじゃないの」

「今日は飲ませて下さい。酔って頭を柔らかく優しくしたいの」

「分かった」

「山田さん。飲ませてあげて私も昼間だけど飲むから」

「山田さんはちょっと違和感あるな・・・」

「それじゃあ、真お兄さんでいいかな」

「ああ良いよ玲子お姉さん」

画家さんが拍手した。

「二人ともいいな。好きなこと言えて。40何年振りだと言うのに違和感ないな」

「これでも心は揺れているんだぞ・・・昔を思い出して。俺は結局、振られたんだから」

「本当に。奄美だけの仲じゃなかったの。ねえ、お姉さん」

玲子は何も答えなかった。私は、いらんことを言ってしまったと、口から出た言葉を後悔した。

 ビールを飲みながら、画家さんは悩みを赤裸々に語った。それによると同年代の仲の良い女性が、大きな賞を貰って距離を感じた。自分でその差が理解できなかった。違いが分かれば納得できた。違いが自覚できれば対応の仕方もあったが、それが分からなかった。いい絵を見ようとスペインやフランスにも行ったが、分からなかった。そして泥沼に入ってしまった。

 概ねこんな内容だった。

「画家さん。そこまで分かっていたら、また新しい道も見つかりますよ。歌にも有るでしょう“探し物はなんですか、探したけれど探したけれど見つからないの・・・・探すのを止めた時、見つかるものです・・・。”とか言うの。きっと見つかりますよ。奄美に来たんだから。もう見つかっているかもしれないよ、真に逢って、自分の描いた絵を見て」

「巧いこと言うね。さすが玲子姉さんだ」

油そうめんが出て来た。

「さあみんなで一緒に食べようか」

好きなだけ皿に取って食べた。美味しかった。

「お姉さん、これ美味しい。ここで、黒糖焼酎で乾杯して下さい」

「それが良いな」

玲子も言うので、仏壇の横にある“レント”を持って来た。

「これが今流行の新感覚音響醸造の焼酎」

みんなにコップを出して注いだ。各自が思い思いに氷を入れた。


ここで、玲子姉さんが、

「天に太陽、地に砂糖キビ、そして人には黒糖焼酎で乾杯」

昔に返った。

麗子が、

「この黒糖焼酎、違う。まろやかで優しい。こんなことが出来るんだ」

飲み干し、自分でコップに注いだ。

 それを合図に各々が語り、昔の話しに花が咲いた。


焼酎が1本空いて、麗子は眠ってしまった。

「画家さん起きなさい」

「私は今日ここに泊まる。そして明日、黒マグロ見に連れて行って、良いでしょう」

「画家さん酔ったのネ。早く起きて帰りましょう」

「私、帰らない。明日、マグロ行く」

また眠ってしまった。

「仕方ない娘だね。そんなに悩んでいるのかな」

「そうかもしれない。大分、顔が硬かったからな・・・」

「よく見てるね。それで私は・・・・」

「玲子さんは今でも綺麗だ。ファイトが湧くな」

「そうですか、ありがとうございます。マコトさん」

画家さんを寝かせるためにベッドを整えて寝かせた。

「私、明日行くからね。約束だよ、約束」

玲子は指きりまでさせられてしまった。


テーブルに戻って、

「あそこまで言われると行かないと仕方ないか」

「本当に行くの」

「だって約束してたじゃないか・・・玲子が・・貴方が」

「それはそうだけど本当に良いの」

「行こう。でも昔の様に運転は玲子がして下さい」

自然に玲子と呼び捨てた。

「そうと決まれば飲もう」

玲子が言って腰を据えて飲み出した。

「それで貴方はどうなの」

「特に変わったところは無いけど」

「そうか巧くやっているんだ」

「玲子お姉さんは・・・」

「まあまあってとこかな。でもちょっと問題あり」

玲子が言った、この一言から話しは難しくなった。  

 玲子は故郷の高知で銀行員と結婚し3人の子供を儲け、夫は役員にまでなったが出向で入った会社で、苛めにあって出社拒否症気味になった。更に一番下の息子が出来の良い兄と比べられることを嫌って、家庭内暴力を振るうことを告白した。私は妻との不仲をアレンジしてオブラートに包んで語った。

「山田さん、お互い大変だね」

「そうだね」

 夜も更けたので、玲子の提案で眠りについた。


 


- - - - - - - - - - - - - - - - -

この物語では、3つの時代が語られるが、時代を次の様に表記した。

    ○2015年:斜め字、下線、ゴシック11ポイント

    ○2005年:ゴシック11ポイント

○ 1973年:明朝10.5ポイント

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る