第5話 サヨナラ前髪、コンニチハ頭皮

大学生2年の頃の話。

ただでさえ容姿に劣等感を抱いていた僕に、さらなる悲劇が起き始めていた。


前髪が後退し始めた。

それも少しずつではなく、総退却だ。増毛回復をいくら神に祈っても無駄だった。


神はどこまで僕をいたぶるのか…!


ここまでくると、怒りが込み上げてくる。しかし、日を追うごとに消失していく髪を見ていくにつれ、怒りを通り越して大爆笑した直後に泣いたりもした。

20歳そこそこでハゲるなんて、どうしたらいいのかわからなかった。いったい、どこに恨みをぶつけたらいいのか。

それまでもモテる要素がなく、彼女もなく、童貞として20歳を迎え、さらにここからハゲというハンデまで負うのは、人生マラソンのスタート地点がはるか後方というレベルではなく、そもそも出場さえさせてもらえないぐらいの絶望感だった。


この頃は、コンビニでアルバイトをしていたが、ハゲを隠すために朝、懸命に髪をセットしていた。後方、左右から髪の毛をかき集め、死んでいった毛根たちのいる前線へ援軍を送る。全体的なバランスを見ながら不自然ではない状態にする。

ただでさえ癖毛の自分の髪のまとまりは悪く、この作業で毎日1.2時間は浪費していた。朝6時に起き、風呂に入った後にセットの時間。風が吹いても雨が降っても台無しになるからまたセット…。セットをしていても全然上手くいかず、迫る時間。

こういう毎日を送るうちに心身ともに疲れ果ててしまっていた。アルバイトを続ける元気がなくなり辞めてしまった。次第に大学にも行かなくなっていた。



しかし、いくら悲嘆にくれたところで、頭の砂漠化は止まらない。

「寿命をいくら差し出してもいいから、髪の毛をください!」

半年、1年近く神に祈り続けて無駄だということを理解した。最後は悪魔に対しても祈ったが何の効果も得られなかった。魂を差し出すとまで頼んだのに無意味であった。

ハゲは人だけでなく、神や悪魔にも見捨てられる忌むべき存在であるようだ。誰からも必要とされていないのだ。


自分で対策を取らねばならない。

やっとそう思った頃の僕の前髪は、ふわふわとした産毛が残っている程度の惨憺たる有様。


まず思いついたのは育毛剤だ。ネットで調べると、アレが効く、コレで生えたなど、洪水のような情報量。一番よく話題に上がる育毛剤を残っていたお金全てで購入した。毎日、毎日、用法用量をしっかり守り全力で髪にストレスを与えない生活を続けた。


果たして3ヶ月たっても全く効果は現れなかった。

この頃には大学さえも行かなくなっていた。留年が決まり、大学卒業するのに余計に1年かかることが確実となった。

親には散々怒られた。お金がまたかかる、なぜちゃんと大学に行かないのかと、お前が甘えているからだと、説教を延々とされた。


僕は無言でいるしかなかった。

髪さえあれば行きたかった。いくら不細工だと思われても、髪くらい生えてたら生きていけた。

軽いノリで大学生生活を楽しんでいるリア充たち、真面目に勉学に励んでいる人、部活やサークルで汗をながしている人。色んな大学生がいたがハゲはいない。この歳でハゲている人は僕だけだった。


こんな惨めなことはあるか。

ただ講義室の隅に座っているだけで笑われる、廊下ですれ違うだけで嘲笑される、通りすがる人たちの視線が僕の顔でなく頭へ注がれる、こんな地獄のような所に毎日通えというのか。

無理だ。


髪さえあれば。


何度思ったことだろう。これ以上切実に願ったことはない。髪があれば人生は違っていたと断言できる。


それでも、心をすりつぶしながら登校した日があった。人目をはばかるようにニット帽をかぶって。

何の講義だったか覚えていない。

教授が入ってきて始まりざまに一言。

「礼儀を知らない人がいる。室内では帽子を脱ぎなさい。」

帽子を被っているのは僕だけだった。講義室内全員の視線が僕に注がれる。

全身から冷や汗が出て、目の前が真っ暗になっていく。極限の緊張の中で、僕はそっと帽子をとる。

静寂の中で聞こえたのは、誰かの口から漏れ出た破裂音。


僕は大学を辞めた。

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