第12話 聖夜

「あの……。越川さん、さっきのディナー本当にご馳走になっちゃって大丈夫なんですか? まさか、あんなお店に連れて行っていただけるなんて思ってなくて」

「大丈夫ですよ! せっかくのクリスマス・イブなんですから、見栄を張らせてください。恋人として初めてのデートですし、僕にできる最高のイブを演出したいんです」


 老舗の有名フレンチレストランを出て、地下鉄の駅のそばにある高級ホテルのラウンジにエスコートされた瞳子は、先ほど飲みすぎた赤ワインに頬を染めつつ越川の表情を窺った。


 上機嫌な笑みを浮かべる越川の頬も同じように染まっているのは、あの店の名物ソムリエの選んだワインを彼も気に入って飲んでいたからだ。


「飲み物、決まりました?」

 一緒に眺めていたドリンクメニューから目を離した越川に尋ねられ、瞳子は軽く頷いた。

「スプモーニにします」

「えっ……? それって普通にカクテルじゃないですか。瞳子さんちょっとふらついてたし、ノンアルコールにした方がいいんじゃないですか?」

「大丈夫です。素敵な夜だし、まだ飲みたい気分だから」

「そうですか……。そう言ってもらえるのは嬉しいけど、ほどほどにしときましょうね。オーダーしがてら、ちょっとお手洗いに行ってきます」


 苦笑まじりの越川が席を立ち、バーテンダーに言葉をかけた後に店の外へと消えていった。

 瞳子はそれを見届けてからそっとハンドバッグを開け、携帯の画面を確認した。


 礼隆からの連絡はやはり来ていない。


 ***



 先週の月曜日を最後の夜にしたはずだったのに、瞳子の中に落ちた彼の心のひとしずくは今なお心を波立たせている。

 あの夜から携帯の着信をずっと気にしているが、礼隆からは何の連絡も来ない。


 当たり前か……と、瞳子はため息をつく。

 礼隆が自身の内に隠された尖った感情を見せたのは、瞳子との関係が終わりを迎えたからに他ならない。

 もう二度と会うつもりも話すつもりもないから、感情を吐き出したのだ。


 けれども、彼の乾いた心から苦しげに絞り出されたそのひとしずくで、瞳子は感じたことがある。


 心の乾きに苦しみもがいていたのは、礼隆も同じだったのではないだろうかと────


 それに気づいてしまったのだから、瞳子の心に落とされた波紋が消えるはずはない。

 けれども、越川と付き合うことを決め、礼隆に別れを告げた以上、自分から手を差し伸べることは躊躇われた。


 礼隆の体に、心に触れてしまったら、思い描いていた幸せはきっともう手に入らない。

 それが痛いほどわかっているからこそ、彼に向かって手を伸ばすことはできない。


 けれども──


 もし──


 乾いた心を掻き毟った手を、彼が伸ばしてくれたなら────





「お待たせしました。スプモーニとシャーリーテンプルです」


 ウエイターの声に、見つめていた携帯を慌ててバッグにしまい、瞳子は軽く会釈をしてグラスを置いてもらった。

 一礼して去るウエイターと入れ違いで越川が戻ってきたため、改めてグラスを合わせてから口に運んだ。


 スプモーニのほろ苦い甘さが胸に広がっていく。


 先週に続き、今夜もまた酔いに身を任せなければ、瞳子は自分の選択を受け入れることができなさそうだった。


 今日は月曜日のクリスマス・イブ。明日は瞳子の定休日であることを越川は知っている。

 予約したフレンチレストランの帰り道にあるこのホテルに寄ることは、越川の中ではすでに予定していたことなのだろう。

 今しがた席を外したのも、きっと客室のチェックインを済ませに行ったに違いない。


 恋人として過ごすイブなのだから、“そういう流れ” になるのは当然だ。

 お互いの年齢を考えれば、交際という形をとった以上決して早急でもないし、拒む理由もない。


 だからこそ、今夜もまた酔わなければならないのだ。


 越川の心配をよそに、瞳子はスプモーニのグラスを空けると次にモヒートを頼んだ。


 越川ならば、きっと自分を大切に扱ってくれるだろう。

 体の繋がりができれば、心の繋がりももっと深めていけるかもしれない。

 そう思うのに、モヒートのグラスを空けても瞳子の心が麻痺することはなかった。


「……そろそろ行きましょうか」


 グラスを空けるのを待っていた越川が穏やかに声をかけた。

 瞳子の肩がぴくんと跳ねる。


「は、はい……」

「今日の終電は混みそうですし、少し早めに乗れたらその方がいいですもんね。瞳子さんの酔いも少しは覚めたんじゃないですか?」

「……えっ?」


 立ち上がる越川を思わず見上げると、彼はいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「実は、瞳子さんが飲んだカクテル、二杯ともノンアルコールなんですよ。これ以上飲んだらさすがに帰れなくなりそうだから、バーテンダーに頼んでノンアルバージョンで作ってもらったんです」

「あ……」


 初めの一杯を席でオーダーせずにわざわざバーテンダーのところまで行ったのは、そのためだったのか。


 店を出た後の流れを勝手に想定して身構えていた自分が途端に恥ずかしくなり、ワインの酔いが再び回ったかのように顔が火照る。


「どう? 歩けます? 」


 瞳子を気遣う越川の優しさは、礼隆から受けていた上辺だけの優しさとは全く違うものだった。

 目頭が急に熱くなり、目の前で微笑む彼の顔が滲み出す。


「歩けます……けど、腕を借りてもいいですか? まだ少しふらつくかもしれないので」


 声を出すと鼻の奥がつんと痛む。


 涙が出るのはなぜなのだろう。

 越川の誠実さに感動したからだろうか。

 身構えていた事態にはならないことに安心したからだろうか。


 それとも、これほど優しい恋人とイブを過ごしながらも礼隆のことを考えている自分を責めているからだろうか────


「さあどうぞ、お姫様」


 涙ぐむ瞳子に越川は少し戸惑いながらも、おどけたように胸を張り腕を差し出した。


 ***


 地下鉄で瞳子の乗り換えるターミナル駅へと向かいながらも、瞳子は吊り革に掴まらずに越川の腕に手を掛けていた。


 この人の誠実さに、自分はきちんと向き合わなければならない。


 彼との交際を決め、礼隆との別れを決めたのだ。

 瞳子の選択を彼が後悔させることはこの先もないだろう。

 礼隆とのことは、越川と幸せになるために必要なステップに過ぎなかったのだ。

 だから、礼隆のことを考えるのはもうやめよう────


 腕に縋る手につい力を込めてしまったのだろうか。

 周囲の乗客を気にしながら、越川が遠慮がちに瞳子の耳元に顔を近づけた。


「あのう……。瞳子さん……。あんまり体をくっつけられると困っちゃいます。理性が飛んでしまいそうになる」

「え……あっ、ご、ごめんなさい……っ」


 彼の腕から慌てて手を離し、吊り革に握り変える瞳子の顔が熱くなる。

 恥ずかしいと同時に、越川が欲情を理性で抑え込んで自分を気遣っていることに気づき、後ろめたさを覚えた。


 ターミナル駅の乗り換え口で越川と別れ、快速と各停を乗り継いで自宅へと着いた。

 心配しているであろう越川に帰宅の報告と今晩のお礼をメッセージで伝えると、すぐに越川から電話がかかってきた。


「今日はとても素敵なイブをありがとうございます。酔っ払った私を色々気遣ってくださりすみません」


 瞳子が電話口で頭を下げて謝罪すると、快活な笑い声が聞こえてきた。


「いえいえ。僕こそとても楽しかったし、気分良く酔ってもらえたんなら嬉しいですよ。でも、酔った瞳子さんはいつも以上に色っぽいので、僕の自制がきくところまでしかお酒を勧められなくて申し訳なかったですけど」

「そんな……! 私こそそんな気遣いをさせてしまって本当にすみませんでした」


 地下鉄での会話を思い出し、再び後ろめたさを感じた瞳子に、越川は穏やかに言葉を返す。


「僕の方こそ変なこと言ってすみません。僕まだ酔いが残ってるみたいなんで、今から言うことは聞き流してくださいね。実は高坂さん夫妻から瞳子さんを紹介してもらった後、奥様からお聞きしたんです。瞳子さんは男性との関係でトラウマを抱えているから配慮してあげて欲しいって」

「美月さんが、そんなことを……?」

「僕は瞳子さんの内面に魅かれてお付き合いを決めましたし、会う度にあなたを好きになっている。瞳子さんを大切にしたいと心から思ってます。だから、あなたが僕と “そういうこと” をしてもいいと思ってくれる時まで待ちます。けれど、瞳子さんにはそれをプレッシャーに感じないで欲しいんです」

「越川さん……。こんな私をそこまで思ってくださるなんて……。ほんとにすみません……」

「やだなあ。謝らないでくださいよ。僕は本当に大丈夫ですから」

「すみません……」


 どこまでも誠実な越川に、本当は「ありがとう」と伝えたかった。

 けれども、瞳子の口から出てくるのは彼への謝罪の言葉だけだった。

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