第11話 波紋

 体だけの関係を終わらせたい。


 それを礼隆に伝えなければならないと思った。


 月曜日の夜、瞳子はいつものように通勤快速の四つ目の駅で降り、礼隆のアパートへと向かった。


 冬の冷たく乾いた空気に靴音が響く中、瞳子の理性は自身の行動を否定し続けている。


 縛り合わないと約束したのだから、わざわざ終わりを告げる必要などない。

 このまま会わずに帰るべきだと────。


 けれども、彼女の心はその警告に耳を貸さなかった。


 終わりを告げることで、彼の心がひとしずくでも零れ落ちてくる望みに賭けていたのかもしれない。

 自分の心に、微かな染みのひとつでも残しておきたかったのかもしれない。


 うっすらと残る淡い期待がチャイムを押す指にのせられる。


「いらっしゃい」

 いつもと同じ笑顔の礼隆に迎え入れられ、吸い込まれるように部屋へと入った瞳子はコートを脱ぐことなく切り出した。


「あのね……。会社の同僚に紹介してもらった人とお付き合いすることになったの。だから、今日限りでここに来るのを止めることにするね」


 言い切った後、緊張で息が吸えなくなるほど苦しくなる。

 表情の僅かな揺らぎも逃すまいと礼隆の表情を見据えたけれど、彼は世間話でも聞いたかのように淡々と受け答えた。


「そっか。いい人と出会えてよかったね。お幸せに」


 優しい、けれども決して心を開くことのない笑顔。

 先日彼の無防備な寝顔を見た時には、この笑顔の奥にある心が覗けそうな気がした。


 しかしどんなに肌を触れ合わせても、深く体を繋げても、優しさと熱情の向こうに隠された彼の心は見えてこなかった。

 そして今、あの時見えた綻びは気のせいだったのではないかと思うほど隙のない態度を前に、瞳子の淡い期待は呆気なく霧散した。


「わざわざそれだけを言うためにここに来たの? 携帯のメッセージで十分だったのに。……それとも、最後の夜を思いきり楽しみたくなった?」

「ち、ちが……っ」


 不意に肩に手を掛けられ、瞳子の心臓が大きく跳ねた。

 かあっと顔が熱くなり、全身が熱と鼓動に支配される。


 心の乾きが潤いの幻影を求めて藻掻き出した時、礼隆の手が触れる肩から力が抜けた。


 キスがくる────


 伏せた睫毛の隙間から形のよい彼の唇が見える時を待っていたのに、瞳子の肩にかかる重みがふっと消えた。


 驚いた瞳子が顔を上げると、礼隆はすぐに背中を向けてハンガーから自身のコートを外し出した。

 振り向いた笑顔は、もういつもの隙のない優しさに満ちている。


「ごめん、冗談。最後に瞳子さんのことからかいたくなっただけ。……駅まで送るよ」


 キャメルのコートを羽織る礼隆の申し出を瞳子は断ることができなかった。


 靴を履き玄関を出る礼隆に続き、瞳子は黙ってブーツを履いた。


 ***


 礼隆のアパートから最寄り駅までは徒歩五分。

 月曜日の夜の帰りにはいつも二人で歩いていた距離が、今日はさらに短く感じる。


 白く煌々とした駅の照明が近づくにつれ、瞳子の鼓動は早まっていく。

 改札へ続く階段の前で礼隆の歩みが止まりかけた時、とうとう思い切って声を掛けた。


「あの……。そこの居酒屋に寄っていかない? 礼隆君のおかげで次の恋にも踏み出せそうだから、お礼がしたいの」


 断られるかもしれないと身構えつつも、彼の視線を真っ直ぐに捉える。

 一瞬瞳を揺らした礼隆だったが、軽く頷くといつもの笑みを浮かべた。


「そういうことなら、俺に奢らせてよ。今まで楽しませてもらったお礼と、瞳子さんの新しい恋へのお祝いに」


 酔えるならば、話ができるならば、口実は何でも良い。

 今度は瞳子が頷いて、礼隆の後に続き店の暖簾をくぐった。


「瞳子さんのこれからに乾杯」

 礼隆のそんな言葉でビールジョッキをカチンと合わせる。

 当たり障りのない話がそれほど弾むわけではなかったが、瞳子はいつもより早いペースでジョッキを空けると、焼酎のお湯割りに切り替えた。


「随分ハイペースだけど大丈夫?」

「一人でちゃんと帰れる程度にしとくから平気よ」


 瞳子はとにかく酔いたかった。

 酔いの勢いを借りなければ、彼の心に踏み込むようなことは尋ねられないと思ったからだった。

 そして、杯を空けるごとに霞がかる領域の境界線をとうとう踏み越えた。


「礼隆君に連れて行ってもらったおでん屋さん、美味しかったな」

「ああ、おっちゃんのとこね。あの時の瞳子さん、店に行くあてもないのに強がってさ。可愛かったよね」

「礼隆君は年下のくせに随分ふてぶてしかったわよね。思えば初対面の時だって、ホテルのお客だった私に酷いこと言うし、次に会った時にはいきなり変な提案してくるし……」


 目の奥に熱を感じながらも、瞳子は礼隆の瞳をじっと見つめる。


「ねえ。どうして最後のセックスをやめたの? 体で繋がろうって提案してきたのは礼隆君なのに、どうして最後に抱いてくれなかったの?」


 ハイボールのグラスに触れた礼隆の指先がぴくりと動いた。

 瞳子を見つめ返す彼の瞳が揺れる。

 引かれた境界線の向こうに今踏み込んだという確かな感触がある。

 どうせ今日で終わるのだ。拒絶を恐れる必要などないのだと、じんじんと疼く目の奥に力を込めて見つめ続けた。


「……俺とセフレになった女ってさ、すぐに終わるか長続きするかのどっちかなんだよね」


 唇に仄かな笑みを浮かべつつハイボールを口に含むと、礼隆はそう切り出した。


「体が繋がった途端に心が入っちゃって続けられなくなる女と、完全に割り切って続けていける女。後者は主婦とか彼氏持ちとか、自分に守りたいものがあるから割り切れる感じ」

「三ヶ月って言ったら、私は短い方だったのかな」

「どうかな……。ぶっちゃけ、瞳子さんに本気の気持ちが見えたらすぐに切るつもりだったんだ。最初の印象ですごく真面目な人だってのはわかってたから、体と心を切り離すのが難しいタイプかもなって。ただ、スルーするにはもったいないくらい “そそる女” だったから声を掛けた。二、三回楽しませてもらえればまあいいかって」


 境界線の先に見えていたオアシスはやはり幻影だった。

 乾きに喘いでいた瞳子の心に与える雫などあるわけがなかった。

 礼隆の心もまた砂漠のように乾ききっていたのだ。


「私が本気を見せてたら、もっと前に終わっていたってこと……?」

「そう。案外もつもんだなって変に感心してた。……けど、それと同時にちょっとイラつき始めてもいたんだ。恋に溺れて勘違いする女とも、自分の居場所を絶対に壊さない狡い女とも違って、あなたはよくわからないひとだったから。だからこないだ男と会うって聞いた時に、とうとうどっちかに転ぶのかなって思った」


“会ってみて良い人だったら、付き合うことになるかもしれない”

 うたた寝をする耳元で告げたその言葉を礼隆はやはり聞いていた。

 熱く交わりながら “俺に執着を見せないで” と囁いた彼の心の内は、瞳子が狡い女になることを望んでいたということなのだろうか。


 自分が狡い女になってでも、関係を続けていたいと望んだのだろうか────?


 その疑問をぶつけようと、瞳子が唇を開いた時、礼隆がふっと笑い声を漏らした。


「今日、そいつと付き合うことになったから関係を終わりにしたいって言われてさ、やっぱりなって思ったんだ。瞳子さんがそんな狡い女になれるわけがないって。なんか安心したんだけど……なんかすげーイラついた」

「え……っ?」

「だから、瞳子さんをぶち壊してやろうかと思った。一晩中抱いて、俺から離れられなくして、愚かな女か狡い女かのどっちかにしてやろうかって」

「…………」


 嘲るような礼隆の眼差しに、瞳子は彼を初めて怖いと感じた。

 それと同時に、彼がスマートな仮面の下で少年のように尖った感情を持て余していたことを知り、自分の内にこれまで感じたことのない新たな感情が湧き出てくる。


「……けど、幸せを掴もうと一生懸命な瞳子さんを壊しちゃいけないって思いとどまったんだ。最後の優しさに免じて、これまでのこと全部水に流して忘れてよ」


 グラスに残るハイボールを煽ると、礼隆はすっと立ち上がった。


「もうお開きでいいよね? 会計は済ませとくから、気をつけて帰ってね。……どうぞお幸せに」


 瞳子は席に座ったまま、礼隆の背中を見つめることしかできなかった。


 礼隆の乾いた心から絞り出されたひとしずくは、瞳子の心に落ちた瞬間、大きな波紋となって広がった。

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