浜茄子の花の咲く頃 第一章

三坂淳一

浜茄子の花の咲く頃 第一章

『 浜茄子の花の咲く頃 』


 文政七甲(きのえ)申(さる)(西暦 千八百二十四年)

 五月二十八日(新暦 六月二十四日)朝方雨、その後、晴れ

 暮れなずむ道を利兵衛と要助は歩いていた。

 蒸し暑かった一日も終わり、陽はようやく西の山に墜ちようとしている。

 烏が数羽、侘しげな声で鳴きながら、黄金色に輝く夕焼けの空を山に向かって飛んでいく。道は朝方まで降った雨でぬかるんでいた。草鞋(わらじ)は泥に塗れ、重さを増していた。

 利兵衛は早足で歩きながら、時々後ろを歩く要助の方を振り返った。

 要助は唇を固く引き結び、足元を見ながらひたすら歩いていた。

 要助は大分緊張しているようだ。利兵衛は口元に笑みを浮かべながら、そう思った。

 無理も無い、子供だった昔とは違い、初めての忍び勤めに向かうのだから。

 二人は継ぎの入った黒の筒袖を身に纏い、紺色の股引(ももひき)を穿いていた。

 やがて、道は侍屋敷が立ち並ぶ森閑とした小路に入った。

路地の両側には質素な冠木門(かぶきもん)と木の塀に囲まれた侍屋敷が夕暮れの中でひっそりとした佇(たたず)まいを見せていた。

利兵衛は紫陽花(あじさい)を覗かせた冠木門の前に立ち、門の後ろに腰を下ろした年嵩(としかさ)の番人に声をかけた。番人が冠木門の脇にある潜り戸を開けた。

利兵衛と要助はその潜り戸から屋敷の中に入った。

正面に紫陽花が厚ぼったく咲き誇っていた。

屋敷の奥に通じる小道を歩き、奥の庭先に出た。

正面に小さな離れの部屋があり、二人の男が黙然と座っていた。

少し年配の男と若い男が縁先で蹲る利兵衛たちに目を遣った。

「利兵衛か。待っておったぞ」

年若の侍が利兵衛に声をかけた。

「少し、遅参いたしました。申し訳ございませぬ」

年若の侍は利兵衛の脇に控える要助に目を止めた。

「利兵衛、その者は」

「わたくしの弟の要助でございます」

利兵衛の言葉に、要助は身を固くした。

「おお、あの要助か。見違えた。随分と大きくなったものだ」

その年若の侍は、利兵衛たちに座敷に上がるよう、片手で招き促した。

利兵衛たちは座敷に座ることを遠慮して、濡れ縁の板の間に座った。

「ここにいる新妻栄助のことは知っておろうな」

栄助と呼ばれた男は黙ったまま、利兵衛たちに会釈した。

「勿論、承知いたしております」

利兵衛は栄助と呼ばれた男に目を向けた。

その眼には微かな憧れの念が浮かんでいた。

年若の侍は表高八十石、役高二十石で、奥州泉藩二万石の物頭(ものがしら)を勤めている衣笠右馬之(うまの)助(すけ)で、齢は利兵衛と同じ、二十二歳の若侍であった。丸く輝く眼を持った白皙長身の侍であった。新妻栄助は金四両二人扶持を戴く無足人(むそくにん)で、藩きっての『忍び』と評されていた。

無足人とは、知行を持たない無禄の士で、給金と扶持米だけを与えられた下級武士を指している。郷士とか、苗字帯刀を許された準士分の百姓もこのように呼ばれていた。

齢は三十歳であったが、常に沈鬱な表情をしており、齢よりも老成した感じを抱かせた。

中肉中背で、これといった特徴も無く、どこにでもいそうな平凡な外見をしていた。

表情の無い顔がいっそうその平凡な容姿を目立たないものにしているようにも思われた。

「栄助、すまぬがこの利兵衛たちにもう一度、先ほどの話をしてやってはくれまいか」

右馬之助の言葉に軽く頷き、栄助が話した内容は実に驚くべきことであった。

「昨日、親戚の法事があり、常陸(ひたち)の大津に出かけたのでござる」

栄助が静かに語り始めた。

「法事も済み、本日、大津を去り、戻ろうとした矢先のことでござるが・・・」

少し、間をおいて話を続けた。

「異国の大きな船が突然現われ、その船から伝馬(てんま)船(せん)が出され、何人かが大津浜に上陸したという、とてつもない話を耳にいたしたのでござる」

大津浜の沖合に現われた二隻の黒船から、二艘の伝馬船が漕ぎ出され、その伝馬船に六人ずつ乗っていた異国人が大津浜に上陸したという話であった。

十二人が浜に上陸した。しかも、鉄砲を四挺ほど携えていた。

その他、鯨突きと思われる銛も十本ほど持参しているようであった。

「親戚の漁師が飛び込んで来て、そのような話をしたので、それがしもとりあえず、大津浜に急ぎ出向き、様子を見ることとしたのでござる。大津浜では、上陸した十二人の異人たちを取り囲むようにして、大勢の浜の漁師たちがおったのでござる。かと申して、それほどの緊張した感じは受けなかったのでござる。思うに、どうも、漁師たちは異人という存在に慣れているようでありましたなあ。陸地ではともかく、海の上ではかなり異人たちと交流があるやも知れませんな。異人たちと浜の漁師たち、お互いに手振り、身振りで何とか意思を伝えようとしておったのでござるが、どうにも埒があかない様子でござった。その内、大津村の村役人が何人かの侍を連れてくるのが眼に入ったのでござる。そもそも、大津村は水戸藩のご家老、中山備前守様のご領地であり、連れてこられた侍たちもおそらくは中山様のご家来衆と思われた次第でござる。その様子まで見届け、とりあえず、泉に帰り、本多のお殿様にご注進せねばならないと思い、大津を離れ、帰途に着いたということでござる。ご注進後、本多のお殿様から、衣笠様にもお伝えせよ、とのご指示を戴き、ここに罷り越した次第で」

栄助が口にした、本多のお殿様というのは、泉藩家老の本多忠(ただ)順(より)のことで、二百五十石を戴く筆頭家臣であった。頑健で屈強なからだをした武士であったが、このところ、病気で臥せっていることが多くなっていた。

利兵衛は昔、遠目で一度だけ見た本多忠順の顔を思い出していた。

大きく、つぶらな眼をした男で、眠そうに物憂くけだるげな表情をしていた。

「昔、ロシアという国の船が蝦夷地で無法を働いたことがある。この大津浜のことも或いは、ロシアの者たちの仕業かも知れぬ。まあ、いずれにしても、備えあれば、憂いなし、である。今は夜を迎え、いたしかたがないが、明日、藩としてのご処置、ご対応がなされるかも知れない。利兵衛、そして、要助の両名。急ぎで済まぬが、明日の朝一番で、小浜村の唐(から)船見(ふねけん)番所(ばんしょ)に出向き、この異国船のことを見番に知らせてやってはくれぬか。見番のほうでも、何か噂を聞いているかも知れぬが」

些少であるが、当座の路銀である、と右馬之助は一分銀を二枚、懐紙に包んで利兵衛に渡した。利兵衛はありがたく受け取り、懐中にしまった。


利兵衛と共に、濡れ縁から縁先に下りた要助の眼に、若い娘の姿が映った。

娘は華麗に咲いた紫陽花をぼんやりとした様子で見ていた。ほっそりとした姿は何やら物憂げに見えた。おきく様だ、と要助は思った。微かな胸の疼きを覚えた。

要助より三歳ほど年少のおきくは十五歳の初夏を迎えていた。

おきくはこの屋敷の主、二百石を戴く中老、衣笠儀兵衛の娘で、右馬之助の妹である。

おきくに初めて会ったのは、十年ばかり前になる。

死んだ父、理介に連れられて、この衣笠の屋敷を初めて訪れた時のことだった。

小さな女(おんな)童(わらべ)が庭先で蝶を追いかけて遊んでいた。

蝶はひらひらと女童をからかうように飛んでいたが、小さな手を差し出して追いかける女童に捕まえられるほど悠長な存在では無かった。

その女童は少年の要助に気がつき、蝶をつかまえて、とねだった。

要助は目の前をひらひらと飛んできた白い蝶を、指を広げた両手で難なく掴んだ。

組み合わせた指の間でパタパタと羽根を翻す小さな生き物をその女童に見せた。

女童はにっこりと微笑んだ。

そして、大儀であった、と大人びた口調で要助に礼を言った。

そのあとで、ありがとう、と今度はあどけない子供の口調で礼を繰り返した。

傍らで、衣笠家の女中がおしゃまなおきくの言いようを聞いて、笑っていた。

それが、おきくとの初めての出会いだった。豆狸のような女の子、だと要助は思った。

それが、要助が記憶しているおきくに対する初対面の印象であった。

眼がくりっとしていた。黒目がちのつぶらな眼をしていた。

その日、その女の子の兄である右馬之助にも会った。

ひょろりと背が高い前髪の少年であったが、女の子と同じ眼をしていた。

団(どん)栗(ぐり)眼(まなこ)の若様、というのが要助の印象だった。

その後、父の理介が死ぬまで、理介に連れられて衣笠の屋敷を訪れる度、要助はおきくの遊びに付きあわせられた。

おきくの丸い顔は齢と共に、細長くなり、瓜実顔になっていった。

おきくは要助が顔を見せる度、喜び、無邪気に要助を綾とり、姉様ごっこといった女の子の遊びに誘ったが、年を重ねるにつれ、要助は段々尻込みをするようになっていった。

身分が違いすぎる、ご遠慮すべきだ、と少年の要助にも分かってきたからだった。

おきくは自分の眼の形が嫌いで、こんな丸い眼は嫌、もっと切れ長の眼が欲しかった、などと、無邪気な口振りで要助にこぼしていたが、要助の目には、おきくは次第に眩しい存在になっていった。

そのおきくが紫陽花を見ながら、庭に立っていた。数年振りに見るおきくは美しい娘になっていた。髪は、肩で切りそろえた禿(かむろ)から娘島田になり、筒袖は小振袖になっていた。

おきくに比べ、百姓みたいな継ぎはぎだらけの粗末な筒袖を着ている自分が要助には恥ずかしくてならなかった。身分の分け隔て無く、時には要助兄(あに)さまと自分を慕ってくれたおきくに今の貧しい姿の自分を見せたくはなかった。

要助は身を縮めて、利兵衛の広い背中に隠れるようにして、おきくの脇を通り過ぎた。

幸い、おきくは気付かなかったようだ。

要助はそのように思い、何気なく後ろを振り返った。

そこに、おきくの眼があった。おきくはハッとした表情を見せた。

そして、にっこりと微笑んだ。

同じだった。捕まえた蝶を見せた時に要助に微笑みを返した、あの時のおきくの微笑みと同じ微笑みだった。要助はぎごちない会釈をして、その場を去った。


「おきく様は大層美しい娘になられた。この秋には、本多の若様、章(あきら)さまと言ったかのう、その若様に嫁ぐそうだ。目出度い話だ」

潜り戸から外に出た利兵衛が足早に歩きながら、要助に言った。

章と呼ばれた若様は今の家老、本多忠順の四男で齢は要助と同じ十八歳の若者だった。

「章さまは、今は江戸藩邸におられるが、近々、百三十石取りの亀田様に養子として入られる。亀田様には子供が居なく、章さまが先ず養子として入り、その後で、おきく様を亀田家の嫁として迎えるという段取りらしい。つまり、夫婦養子みたいなものだ」

そのように語りながら、利兵衛は要助の顔を見た。

利兵衛には昔から相手の眼を見詰める癖がある。

利兵衛は面長であるが、太い眉、高くがっしりとした鼻、常人より大きな眼を持っている。その利兵衛にじっと見詰められると、要助はいつも恐くなる。

齢は四つほどしか違わないが、父母を五年前の疫病で亡くしてから、要助にとっては親代わりの利兵衛であった。おいらの心の中まで見透かされるようだ。

利兵衛に見詰められる度に、要助はいつもそう思うのだ。

今度も、秘かにおきく様を好いているおいらの心を読んでいるのかも知れない。

利兵衛は要助を見ながら、いつの間にか、背丈が伸び、自分の背丈を追い越した弟の将来のことを考えていた。要助は忍びには向いていないのかも知れない。この背丈はまだまだ伸びる。その内、右馬之助様と同じくらいの背丈になるかも知れない。

忍びは小柄なからだのほうが良い。あっても、中肉中背のおいらくらいまでだ。

目方は減らせるが、背丈は減らそうとしても減るものではない。

背丈の高い忍びなんて、聞いたことが無い。

北条乱波(らっぱ)で世上名高い風魔小太郎殿は六尺豊かな大男だったと云われているが、実際忍びとしての行いをしたわけでは無く、言わせてもらえば、忍びを束ねる頭領でしか無かった。新妻栄助という卓越した忍びでも、おのれの背丈はもう少し、小さかったほうが良く、水を飲んでも太るというおのれの体質を常に気にかけているという噂を聞いたことがある。

親父の死後、衣笠家に仕える忍びとして、要助を鍛えているのは他でもない、おいらだが、おいらの見るところ、要助は格闘の業は向いていないようだ。

気が弱いというか、優しいというか、おのれの手で相手に疵を負わせたり、果ては殺すという行為ができないみたいだ。刀術も棒術もとてもものにはならなかった。

受けてばかりいては、いつかは打ち倒されてしまう。教えても無駄だと思い、要助への稽古を諦めた。そこで、おいらは要助に早歩きと早駆けの術を教え込んだ。

戦国の世ではいざ知らず、この天下泰平の世では、忍びは物見ができれば良い。

そのためには、早歩きと早駆けが大切なこととなる。見たことを正確に記憶することも必要となるが、これに関しては、要助の能力は素晴らしいものがある。

知らないところに連れて行き、戻ったところで、その場所の記憶を訊ねると、松の木の枝振り、本数、牛馬の数、果ては空を飛んでいる烏、鳶の数さえ、すらすらと言ってのけたのだ。これに関しては、おいらも要助に一歩も二歩も譲らざるを得ない。

相手と格闘して倒すということに関しては、要助は全く向いていないが、弓術に関してはなかなかの力量を発揮した。敵と離れていれば、気持ちが楽になるのか。

飛び道具ならば、ひょっとして、とおいらは思った。

そこで、おいらは要助に礫(つぶて)の投擲術を教えてみた。

相手と離れて、相手を倒すということならば、相手に対する遠慮は少なくなるので、ひょっとすると隠れた才能を発揮するかも知れないと思ったからだ。

おいらの予感はずばり当たった。要助は本来左利きだったが、刀術の訓練の際、無理やり、右利きに矯正した。左利きの侍はいない。おいらの家は無足人と雖も、苗字帯刀を許されている郷士で、侍のはしくれだ。

そして、飯を食う際の箸も右手で持たせ、筆も右手で持たせた。

右手で箸を持たせ、一掴みの小豆の粒を別な器に移し替えさせたこともある。

線香一本が燃え尽きる間に、何粒移し替えできるか、試したこともある。

その結果、要助はいつの間にか、両利きになった。礫の投擲も右でも左でもできるようになった。試しに、両手を同時に使って、礫を投げさせてみた。

案の定、両手で同時に投げられた礫は木に彫りつけた的の中心に同時に当たり、小気味よい音を響かせた。要助も面白がり、これを契機に、礫の修業に打ち込むようになった。

或る時、おいらが修行の相手となり、要助の礫を受けたことがある。

自慢では無いが、おいらは体術にはかなりの自信を持っている。

素早い動きで身を躱(かわ)す自信があったのだ。

しかし、結果は無残なものであった。

要助の放った礫は鉄砲玉のように速く、おいらに迫ってきた。

一個は何とか躱したが、二つ目は躱すことができず、おいらの胸に当たり、一瞬息が詰まった。一週間、撃たれたところが痛んだ。

要助はすまなさそうな顔をしていたが、おいらは嬉しかった。

痛さなぞ、すっかり忘れていた。

弟の天賦の才を見つけた嬉しさに比べれば、胸の痛みなぞ糞喰らえだ。

礫は要助にとって、とてつもない武器となると思ったからだ。

忍びには何かひとつ、人に負けない術があれば良い。

その術がずばぬけておればおるほど、必ず、その術は身を救う。


利兵衛はそんなことを思いながら、薄暗くなった道を歩き、渡辺村の田んぼ沿いにある粗末な小屋に帰った。ガタガタ、ギシギシと音を立てる戸を開けて、暗い土間に入る。

土間は狭く、竈と流し、水甕しか無い。柄杓で水甕から水を汲んで、飲み、喉を潤してから板の間に上がった。ごろりと横になって、利兵衛が呟くように言った。

「要助の顔は忍びには向かないな」

「どういう意味じゃ、利兵衛兄じゃ」

「今日、右馬之助様のお屋敷で、新妻栄助殿にお会いしたろう」

利兵衛は笑いながら、要助に言った。

「あの栄助殿の顔が忍びの顔じゃて」

「栄助様の顔」

「何の特徴も無い、あの顔が忍びの顔だ。額は広からず、狭からず、眉は太からず、細からず、目は大きからず、小さからず、鼻は高からず、低からず、口は大きからず、小さからず、唇は厚からず、薄からず、耳は大きからず、小さからず、これといった特徴の無い顔が忍びの顔じゃ。背丈も高からず、低からず、じゃ」

要助は兄の顔を見詰めた。

「栄助殿の顔は人相書きにはまことに書きづらい顔をしている。それにひきかえ、おいらもそうだが、要助の顔は人相書きが喜びそうな顔をしている。細長い顔、太く吊り上った眉毛、高くがっしりとした鼻、ぎょろりとした大きな眼、それに、背丈は五尺七寸ほどで常人よりかなり高い。手配されれば、すぐ、密告されて捕まってしまうわ。昔、日本左衛門こと、浜島庄兵衛という稀代の大盗賊の人相書き手配書はこうだった」

背は五尺八、九寸ほど、月代(さかやき)は濃く、頭に引き疵が一寸五分ほどあり、色は白く、歯並びは普通、鼻筋通り、目は細く、面長なるほう、と利兵衛は講釈師の口調を真似て語った。

兄の言葉に笑いながら、要助は箱膳から飯碗と汁椀を取りだし、夕餉の支度にかかった。

饐えた臭いがしたが、朝炊いた麦飯に味噌汁をかけ、たくあんと胡瓜の漬物で簡素な夕食を済ませた二人はお湯を呑みながら、話の続きを始めた。

「栄助殿はあれだけの忍び達者なのに、まだまだ、それがしは未熟者である、と言っておられるのだ。忍び達者であるという評判をとっていること自体が、未熟者であることの証であると言っておられるのだ。本物の忍び達者ならば、そのような評判にはならない、評判にはならないよう、忍び勤めをするものだということなのだ。つまり、人の噂に立つこと自体が忍びとしては失格であるという思いが栄助殿にはあるらしい。噂になること自体が恥である、という考えなのじゃ。おいらはそのような栄助殿が好きだ」

利兵衛はそう言って、仰向けに寝転んだ。

「でも、利兵衛兄じゃ。江戸はともかく、ここでは、栄助様でもご出世はなさっておられぬぞ。今もって、無足で給銀を戴く郷士のままじゃ」

「要助の言う通りかも知れぬ。父上もかなりの忍び達者であったが、小屋ほどのこの家しか残せなかった。江戸の忍びならば、働きひとつで、奉行にもなれるという話だが」

既に、夜になっていた。月の光が窓から差し込み、青白くあたりを照らしていた。

「利兵衛兄じゃ、明かりを灯そうか」

「いや、もう、寝ることとしよう。明日は朝が早い。明六ツまでにはここを発たねばならぬ」

菜種油が買えず、今は臭い鯨油を使っている、あの生臭い臭いには堪らぬ、いっそ明かりを灯さず、このまま寝たほうが良い、ということか。要助はそう思った。


傍らで、利兵衛が何事か呟いていた。こんな暮らしでは女房を持つこともできぬ。

要助の耳にはそのように聞こえた。

隣に住んでいる、おときの顔がふと、要助の脳裏に浮かんだ。

おときは十七歳で利兵衛より五歳下の娘だった。

おいらより、一つ下になる。要助は暗闇を見詰めながら、おときのことを思った。

利兵衛兄じゃはおときを好いている。これは、間違いない。

そして、おときも利兵衛兄じゃを好いている。これも、間違いない。

好いている者同士、一緒になるのは当たり前のことだ。

利兵衛兄じゃとおとき、申し分のない似合いの夫婦となる。

その時は、一つ下でもおいらは、おときのことを姉(あね)さんと呼ばなければならない。

少し、照れくさいが、おときのことをそう呼ぶこととしよう。姉さんと呼ばれたおときは少し恥ずかしそうにすることだろう。やがて、利兵衛兄じゃとおときの間には子が生まれることじゃろう。そしたら、おいらはその子と遊んでやる。子守もしてやろう。

男の子であったら、おいらは礫の術を教えてやることにしよう。

おいらに自慢できる忍びの術はこの礫の術しかない。あとの術は全て、兄じゃに敵わない。兄じゃとて、自分の子に忍びの術を教えるのは嬉しいことだろう。いや、待てよ。

忍びは自分の子には忍びの術は教えないと昔、聞いたことがある。

身内の忍びか、まるっきり赤の他人である忍びに子を預け、忍びの修業をさせるのだ、という話を昔、誰かに聞いたことがある。

忍びの修業は極めて苛酷で、自分の子なら、どうしても愛情が先になり、厳しく教えられないからだ、とその話をしてくれた者は語っていた。

それならば、礫の術だけはおいらが教え、あとの術は栄助様が良いだろう。


でも、問題がある。これはかなり深刻な問題だ。おときには病気の母親がいる。

おときは城下の商人のところで通いの下女勤めをしながら、母親の世話をしている。

下女勤めの給金はほんの雀の涙といったところらしい。

給金の委細は知らないが、人から聞いたところでは、年で一両あるかないか、という話らしい。父親が死んだ頃はおときの家でも多少の蓄えはあったらしいが、母親の長患いでその蓄えも尽き、売れる着物も売り尽くし、今では薬代も払えぬという有様らしい。

そして今、おときには妾奉公の話が持ち上がっているらしい。

何でも、小名浜の網元が泉のご城下の商家を訪れた際、その商家で甲斐甲斐しく働いていたおときを見て、一目で惚れ込んだということだ。

おときは女にしては背が高く、少し痩せ気味の女だが、下膨れで柔らかそうな唇を持ち、翳りを帯びた表情が色気を感じさせ、この女なら世話をしたいと男心を擽(くすぐ)るのだそうだ。

おときの母親は承知していないということだが、親戚の者がおときの家の窮状を見かねて、おときにこの妾奉公の話を受けるよう言い聞かせているということだ。

こんな暮らしじゃ、女房を持つこともできぬ、と呟いた兄じゃはきっと、おときのことを思っているのだろう。そうに決まっている。でも、おいらたちに何ができる。

時々は、畑で作った野菜をおときのところに運んではやっているものの、薬代として渡してやれる銭なんて一文もありはしないのだ。今日、右馬之助様から戴いた一分銀二枚は本当にありがたかった。これで、米麦、味噌、醤油を買って、一ヶ月は何とか暮らせるのだ。でも、おときに渡してやれる余裕なんか、まるで無い。

豪勢な暮らしを楽しむ網元もいれば、日々の米麦にも事欠く貧者もいる。

世の中、何か狂っている。

おやっ、天井の梁で何かが光っている。光は間を置いて、光ったり、消えたりしている。

田んぼから紛れ込んできた蛍、か。水しか飲まぬ蛍は短い命を終えて、死んでいく。

おいらたちも同じようなものか。

蛍を憐れんでもしょうがない。おいらたちも同じだ。

要助は暗闇を睨みつけながら、そう思った。


五月二十九日 午前晴れ、午後曇り


暁(あかつき)七ツ半(午前五時頃)、利兵衛と要助は渡辺村を発って、小浜村に向かった。

二人は藍で染めた筒袖の野良(のら)着(ぎ)と股引(ももひき)という姿で菅笠(すげがさ)を被っていた。

百姓が二人、急ぎ足で歩いているといった風であった。

藍で染めた布は虫と蛇が嫌うものとされ、野良仕事には向いているとされていた。

利兵衛は草鞋を素肌に履いていたが、要助は長旅には慣れていないということもあり、革足袋を穿いた上に草鞋を履いていた。革足袋は臭かったが、草鞋で素足が擦れるよりはましだった。二人の足は速く、馬を曳いて小走りに歩く野良仕事の百姓たちを何人も追い越した。早歩きと早駆けの修業は七歳を過ぎた頃から利兵衛について行なった。

渡辺村の住まいから半里ほど行ったところに新田(しんでん)宿(じゅく)という小さな宿場があり、その宿場の急な坂を上ったところに峠がある。新田(しんでん)峠(とうげ)と言い、陸前浜街道に入る難所と言われた峠で道は山道で細く、勾配が急で往来する旅人にとっては息がきれる難儀で厄介な峠であった。泉藩では参勤交代で参府する殿様の行列を家臣一同、この峠まで見送り、道中の無事を祈願することが常であった。参勤交代の行列はこの峠から陸前浜街道に入る。

この陸前浜街道は当時、水戸へ向かう場合は『水戸路』、逆に、水戸から磐城に向かう場合は『磐城街道』と呼ばれた。

水戸路は、新田峠、頭巾平を経て、植田宿に入る。植田宿は磐城平藩の領地で磐城平藩の植田陣屋があり、町木戸もある。植田宿から同じ磐城平藩領の関田宿に入り、九面(ここづら)、鵜ノ子岬を経て、平潟(ひらかた)に入る。そして、平潟から大津村を経て、水戸に向かうこととなる。


さて、新田峠には旅人が往来する山道の他に、所々にがさ(・・)や(・)ぶ(・)が生い茂る獣道が何本もある。その獣道を登ったり下りたりして、忍びとしての早歩きと早駆けの修業を毎日のように繰り返したのである。時には、がさやぶとか、細い水の流れの茂みに潜む蝮を驚かしたり、驚かせられたりして、利兵衛と要助はひたすら歩き、走り廻った。このような獣道で修業を積めば、平地の道ならばどれほどの距離でも歩くことができるし、駆けることもできる、というのが利兵衛の言い分であった。

常人は日に十里ほどしか歩けぬが、速歩術を習得した忍びならば、一時間で四里を歩くことができ、一日で四十里は歩けると云われている。(一里は約四キロ)幼い要助は利兵衛に従って、歯を食いしばってこの辛い修業に耐えた。その峠で、要助は礫の術も習得した。

矯正された右腕での投擲、本来の利き手である左腕での投擲、右腕で投げると共に左腕でも投げるといった交互投擲、更には、利兵衛を驚かした両腕での同時投擲、といった修業を飽きもせず、不断に続けた。修練の結果、要助の礫は利兵衛も驚く腕前となった。

この礫の術のことは誰にも言うな、と利兵衛は要助に何回も釘を刺すように言った。

剣術の極意も同じで、一子相伝を原則とし、秘太刀に関しては門外不出が常である。

いざという時に、一度だけ使って相手を斃せば良いのだ。普段には使わず、思わぬ時に、相手が予想もしない秘密の技を繰り出して斃す。これが、術者が普段に心に秘めるべき覚悟とされる。刀を抜いた武士は必ず相手を斃さなければならないし、未熟な場合は斬られて死ななければならない。刀を抜いて、斬り合わせるということは命のやりとりということなのだ。生半可な気持ちでは、刀は抜けぬ。斬られて、死にたくないならば、必殺の技を身に付けなければならない。これは父上から伺ったことで、剣術使いも忍び働きも同じだと、おいらは聞いた。そのように、利兵衛は要助に話した。要助にとっては、礫の術が秘すべき必殺の技であり、肝心な時以外は滅多に見せてはならないが、おめえの礫はいつか必ず、ひとを救うはずだ、と利兵衛は付け加えた。


城下に、小兵衛という刀鍛冶がいる。

五十を越えた年寄であるが、素直な性格を持つ、孫のような要助を気に入り、『向こう鎚』として時折、要助を雇っていた。要助は、駄賃だよ、と小兵衛がくれる幾ばくかの銭を嬉しそうに受け取り、そっくり、利兵衛に渡すのが常であった。

小兵衛は顔中が皺だらけで、笑うと目が無くなるといった小柄な老人であったが、『主鍛冶』で刀を鍛練する時の気迫には鬼気迫るものがあった。小兵衛の刀は、折れず、曲がらず、よく斬れる、そして、刃紋も美しい、という評判を取っていた。

ただ、欠点は己の気がむいた時にしか、刀は打たない、ということだった。注文が来ても、相手が気に入らなければ、そっぽを向く。金ははずむと云われても、相手にしない。

従って、弟子は去り、妻も去って、貧乏暮しが終生続いた。

要助の父、理介とは幼馴染で仲が良く、理介の稼業である忍び勤めのことも十分承知していた。或る時、戯れに、残鉄を使って十字剣(十字手裏剣)を作ったことがある。

刃を整えた上で、要助に渡しながら、言った。

「どうじゃ、この十字剣は。なかなか、良い出来になった。欲しければ、あげるよ。まあ、但し、実戦には向かぬな。第一、十字剣というものは投げても、どこに行くか判らぬ。曲がってしまい、狙ったところには行かぬのじゃて。十間も離れれば、まず、役には立たぬ。二、三間の間合いなら、当たる。が、相手は死なぬ。疵を付けて、怯ませるだけじゃ。その間に、遁走すれば良いのじゃ。どうしても、斃したければ、この刃の先に、鳥兜の毒を塗ることじゃな。疵口からじわりと毒が入り、その内、苦悶して死ぬこととなる。まあ、多少陰険なことだが、命を賭けたやりとりでは、まあ、許されることだろう」

「小兵衛さま。残鉄はまだ残っているかい」

「おう、まだ少しはある」

「それなら、おいらに鉄の礫を作っておくれ」

これくらいの礫が欲しい、と要助は懐から小石を取り出して、小兵衛に示した。

「ああ、お安い御用よ」

こうして、要助は鉄の礫を二十個あまり手に入れた次第であった。


泉より南下して滝尻に向かい、滝尻より西に向かい、下川を経て小浜に入った。

渡辺村からも三里足らずの道であった。

(一里は三十六町、一町は六十間、一間は六尺、一尺は約三十センチメートルで、換算すると、一里は四キロメートル弱となる)

忍びの歩きは速い。

常人から見たら、ほとんど駆けているようにしか見えない。

修業の際は、菅笠を胸に当て、下に落ちないような速さを保って歩く。

その際、風圧を受けて疲労するのを避ける意味で、頭を下げ、目線を下にして歩く。

新田峠で鍛えに鍛えた利兵衛と要助の足は歩きでも半刻で悠に三里は行く。

明六ツ(午前六時頃)を少し過ぎた頃に利兵衛と要助は小浜村に着き、浜辺に近い土手から海を眺めていた。利兵衛も要助も、汗ひとつ掻いてはいなかった。

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浜茄子の花の咲く頃 第一章 三坂淳一 @masashis2003

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