第24話



「雨すごいわ」

 車まで送ったのか、沙織は濡れた髪をはらい、おばちゃんに言う。


「しもうたぁ。今日は降らんおもたけど。自転車で来たときに限ってこれじゃけん」

 カウンターで、初老の客がぼやく。

 客はカウンターに二人、ボックスに三人組と二人組。

 カウンターで良かったのだが、新規の客で気を使われたか、勲もボックスだ。

 皿を移動するのも面倒なので、つまみと酒に専念する。


「凄い雨ですよ。お客さん」

 放って置かれるかと思ったが、沙織は勲の席に戻ってきた。

 勲もまんざらではない。


「あのね。間違ってたらごめんなさい。お客さん、私に見覚えない?」

 最初、客の気を引く戯れ事かと思ったが、よくよく見るとその顔にどこか見覚えがある。

 ……ただ、そんなに親しい間柄ではなく、本当にかすかに。

 化粧した顔と、薄い記憶が、やっと繫がる。


「やっぱり、そうだよね。入って来たとき、あれって思ったもん。結婚式のとき来てました?」

 勲の表情だけ確認して、沙織はそう問い掛けた。


「いや、俺は広島にはいなかったし、用事があったから」

「そっかぁ……あ、あの二人離婚するかもしれないんだって……知ってた?」

「ああ、卒業してからも付き合いがあるからね。君は?」

「そうねぇ、偶に電話があるくらいかな。そんなに親しくなかったけど共通の友達がいてね。彼女、割りときつい性格だから苦手だったし、……あ、ちょっとごめんね」

 小声でまだなにか言いたそうだったが、放って置かれている客の加減を見て、沙織は別の席に移った。


 確か近くの短大生だったか、違うかもしれない。戸髙の所で何度か見かけたことがある。そのとき美人だと思わなければ、覚えていない程度。勲には想いを寄せる人がいたし、それ以上の記憶は残らなかった。それに女性は化粧の仕方で、随分と印象は変わるものだ。


 ………………彼女が、ウーロンの姉?

 年齢は確かに申告通りだが、帰る前に聞かなければならないことができた。


「ごめんなさい遅くなって、凄い雨ねぇ」

「どうなの? 大丈夫なの?」

「胃痙攣だって。大したことないと思うわ。お酒飲み過ぎなのよね」

 ホステスが遅れて出勤したようだ。









 雨がやんだら捨てればいいとおばちゃんが譲らないので、傘を一本貰う。

 タクシーからの道すがら、確かこの先にコインランドリーがあったはずだ。

 飲食店が並ぶ一角から離れると、舗装されている所とされていない所がまちまちで小石が混じる道に足を取られる。まわりに人家もない道路沿いのコインランドリーに辿り着き、缶コーヒーを3分の2ほど飲んで、それをそのまま灰皿にした。


 煙草を吸い終わっても、頭の中は混乱している。

 中華太源のことや、姉妹のことなど、店が落ち着いたらそれとなく聞こうと思っていた。

 客が多いので見送るわけにもいかず、なにか言いたげな顔で沙織も目では追っていたが、勲はそのまま出てきてしまった。まだ、混乱している。



 何故なぜ、ウーロン本人がいる?



 遅れて来て赤い傘をたたむ女性は、マシンガンに見せて貰った写真そのままだった。その場で何か聞こうとして、何も言葉が出ない。およそ毎日の会話の中、その存在が確かなものだと思った前提が、わけもわからず崩壊し理解不能に陥った。



 銀色の雨の斜線が、即席の我が家を包み込む。雨音だけの空間に、少し落ち着いてくる。よくよく考えてみればどうでも良いことなのかもしれない。今の自分にとってそんなこと……本当は……落ち着ける場所だと分かれば、勿体無もったいなかった…………

 さっきの3分の1。



 とりあえずどこか、今夜のねぐらを見つけねば。ここではタクシーも拾えない。


 歩いている途中は、頭は正確に回らない。

 どこかで横になっても、同じだろうが……。


 暗闇の向こうに、ネットカフェの看板が見えた。

 有り難い、今時はどこにでもこんなものがある。


 少しほっとしたら胸がブルっと震えた。電話に出ると、一度だけ聞いた声がする。



「ねえねえ、岩ちゃん。お店どうだった?」


「君は、一体誰だ」…………暗闇の中、自分の声の大きさに少しびっくりした。












 原爆ドームに程近い、油絵があちこち粗大ゴミのように置かれた喫茶店で、二人は会った。この季節でも昼間には日差しが強く、建物の影に隠れてもそれほど寒さを感じない。

 半分すっぽかされると思っていた勲は、本人が先に待っていたことと、その相手に驚く。トレーナーを着ていた、あの店には不釣合いな、無愛想な少女がそこにいた。


|嘘 つ い て ご め ん な さ い|

 反省文を書かせた担任教師のように、その書き出しのメモを勲は手に取る。

 マシンガンが年齢を誤魔化したのと一緒。生徒の方は、意外にあっけらかんとしていた。最初は何気なく嘘をついたけれど、居心地がよくなって常連になったのだと書いてある。


「ウーロン茶、飲まないんだな」

 少女が飲む、オレンジシュースにアイスを浮かべた飲み物を、勲は知らない。


|ア ニ メ の キ ャ ラ だ よ|

 匿名のネットの付き合いなど、そんなものではあるのだろうが、40歳のおっさんから自己申告の25歳、さらに真実19歳とは、バーゲンセールなら何割引になるのだろうか。

 まあ、それ自体は悪気があってしたことでもない。住所も、ニクに話を合わせたそうだ。

 逆に相手は、勲が沙織と顔見知りだったことに驚いている。


「彼女とは挨拶したことがある程度だよ。そんなことより本人が入って来たと思ったときは、心臓が止まりそうになった」

 赤い傘の女性が中華太源の娘と言うのは本当らしく、戸髙との雑談の内、偶然にも話が噛み合ったらしい。写真はかなり以前に、マシンガンに安易に見せたようだ。


|マ シ ン ガ ン の お 喋 り|

 写真を見せただけだから、お喋りはおかしい。それにもし男が悪意を持っていたとしたら、写真など関係なしに嘘はばれていただろう。危うい無防備は、若さなのか、あほなのか。


「いや、彼も悪気はなかったんだよ。君が広島にいるなんて知らなかったんだし」

 ぶっきら棒だったのは声が…………

 勲に妙な偏見へんけんはなかったが、勝手な思い込みが少しあった。小さな補聴器さえ気にしなければ、なんら支障ししょうはないらしい。時々話す明瞭めいりょうな言葉は、錯覚さっかくさえ起こしそう。


「どうし・・たの? ……岩ちゃん?」

 軽快なミニと明るいオレンジ色のニットに包まれた朗らかなウーロンは、チャットの中の印象と、奇妙だが重なる。


 約半年間、ほぼ毎日会話していた……いや、会話と言って良いのだろうか。

 自分にとって今、一番濃密な人間関係であるはずの相手を、勲はしばらく呆然と眺めた。


「君は、一体誰だ」と言ったとき、受話器を落としたのは、

 ……結局、誰だか分からない。














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