第9話



 磯釣いそづり大臣のホームページに、直子は久々に訪れた。

 心の平静は取り戻され、OLウーロンとしての別世界に戻ってきたのだ。

 直子が元気になったと同時に恵も真央も急に忙しくなり暇で暇でしょうがない。

 暫く避けていた、この能天気な親父とでも喋ろう。


 本名こそ伏せてはいるが、アドレスから大まかな住所、職場に出身大学と、呆れるほど、あっけらかんと晒している。

 少し感覚が違うのだろうか、直子にはとてもそんな真似はできない。

 ペット関係やスポーツ関係の主催者にはありがちな、不用意な楽観主義。



|☆マイド ヒサシブリダネ ウーロン

|●オヒサデス ヨルオソインデスネ

|☆ノンデキマシタw オオサカニ テンキンニナッテ ストレスガ ゲンカイデス

|★イソヅリダイジンナノニ ツリシテナイデスモンネ 

|☆ソノコトバ キツー w 

|★オレハ グレサンビキ コノマエノ レンキュウ

|●スゴイネ マルチャン オヨメニシテ

|★イツデモウエルカム ウーロン

|☆チキショウ オレモイキテー

|★ヤサイダイジンニ カイメイシタラ

|●ヤサイダイジン?

|★イソチャン ヤサイウッテルンダッテ イマ

|●デンキヤナノニ ナゼ ヤサイww

|☆モウ ヤサイハシュウリョウシマスタw

|★ソウナンダww


 このおっさんは、岩本 勲、の大学の同級生だ。


|●ネエネ イソチャン

|☆ナンダネ ウーロン







 



 日本海と太平洋では、海の色が違うと言うが、確かにそんな気がする。

 勲は戸髙に誘われて、三重県まで釣りに出かけていた。

 車での長い道程も事乍ことながら 、途中の釣具店で餌やら撒き餌のオキアミやらに、戸髙が大枚をはたいているのに目を丸くする……(これはまあ、相当な趣味だ)

 海の中の岩場までの渡船も、おにぎりとお茶が付いてはいるが、結構な値段。


 だが、確かに潮の風は気持ちいい……それだけの価値があるのかもしれない。

 勲は、連日のストレスがすうっと消えていくように感じた。


 川本からの嫌がらせは執拗で、そして陰湿だった。発端はパートの主婦にセクハラの相談を受けた勲がそれとなく注意をしたから。しかしセクハラとは言っても、やられた方にとっては深刻だったが職場でのペナルティーになるほどの決定打ではない。悪戯に川本のプライドを傷つけた格好になった。当の主婦は数日前に電話一本で辞めている。


「ワンマンなんだろ。社長に言って何とかならんのか」

 岩場に着いて早速、二人分の仕掛けに取り掛かっている。


「俺はパートだぜ」

 仕掛けは戸髙にお任せなので、手持ちぶさたに、引き潮に残った岩間の水の小さな蟹をひっくり返した。


「でもよ、セクハラやったのはそいつだろ。それじゃお前やってられないだろ」

「転勤で消える可能性もないからな、スーパーじゃ。この年になってこんな目に遭うとは思わなかったよ」

「まあ、どことも大変じゃけどな」

「俺の田舎じゃ、残った奴も大変らしい。不景気さまさま」

「農家はなんだかんだ金あるさ。苦しいって言っても、あいつら家持ち土地持ちだ」


 戸髙は鋼鉄のピンを岩場に打ちつけ、そこに一本さおを置いてもう一本を勲に持てと差し出す。


「二本ずつか」

「そ、確立は2倍。どうせなら嫁も二人欲しいね」

「贅沢言うな。俺はその一本も折れてしもたわ」

 自分の悩みをつい漏らしてしまった。これでは戸髙に、あの話を切り出す場合じゃない。

 まあどの道、その気力も勲にはなくなっていたが……


 緊張した糸がピクリとなる度、リールを巻く。釣りなんて小学生以来だ。

 こうなると、小魚でいいから一匹釣り上げたくなる。

 最初は嫌がっていた癖に、勲は太公望よろしく暫しの釣りに夢中になった。






 


「持って帰ってもしょうがないだろ。弁慶に持ち込んで一杯やろう」

 小魚を捨てた後も、クーラーボックスの中は大漁だった。


 釣った魚を自分でさばけない釣り好きには、我がままを言える料理屋が必要。

 だから戸髙は、真っ先にを作るのかと、勲は納得した。

 なに事にも理由はあるものだ。


磯臭いそくさいだろ? 店に迷惑じゃないか」

「クーラーボックスだけ預けて風呂に入ればいいさ。弁慶の裏手に銭湯があるんだ」

 戸髙は万事ばんじ用意周到よういしゅうとうと言うわけである。

 とうの勲も、自分で釣った魚となると食べるのにやぶさかではない。


 その日、弁慶のカウンターは一杯だった。

 車での帰り道、戸髙が何人かの常連じょうれんに電話を入れたのだ。

 そう言う所も、店としては心憎こころにくいのかもしれない。

 勲自身も何度か見かけた顔に、肩を叩かれる。

 普段は喋るのが苦手な勲も、酒も手伝って饒舌じょうぜつになった。


「今はオキアミ食べているから磯臭くないやろ。昔は臭い魚や言われてたんやで」

 大将は、誰とはなしに話しかけ、大皿の刺身をでんと置く。

 刺身はもちろんだが、さっとあぶった焼き物も旨い。


 遠出、運動、熱い風呂、そして酒。ある意味、極楽かもしれない。

 家に帰れば最近不眠症ぎみの勲も、流石にぐっすり眠れるだろう。

 しゃべり声を、鼓膜こまくの外で聞きながら、ちびりと酒を飲む。

 大阪のはずれの静かな商店街に、1つだけぽつんとあかりがともる。


 散々酔っぱらった後、ごく近所に住む常連を残し、二人は店を出た。


「明日、起きられるかな」

「おいおい、大丈夫かよ。まあ、今日はご苦労さん。どうじゃ、はまりそうか」

「そうだなぁ。分からんが、かく、今日は面白かった」

「そうだろ。釣りを馬鹿にする奴は、一回もせんと馬鹿にしよるけのぅ」

 二人の間に吹き抜ける風も、暑さを忘れる頃か。


「じゃあここでな」

「おお、気いつけて帰れや。その気になったらまた付き合えや」

「ああ、んじゃありがとうな」

 別れてから勲は、戸髙をやはりいい奴だと思った。






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