第8話 キューブ

 4月15日。ついに異世界デューワ王国へと旅立つ日が訪れた。

 山形ではようやく桜の花が咲き始め、今週末には桜の名所では花見を楽しむ人で溢れることだろう。

 わたしは、山形出入国管理センタービルの、1階ロビーにいた。

 およそ4年前にキューブが現れたその場所である。日本政府は、そのキューブを建物で囲った。そしてその建物内に出入国を管理する、空港と同じような施設設備を詰め込んだ。完成したのはつい最近のことである。

 キューブを通る前に、このセンター内で、出国手続きやセキュリティーチェックなど、こちらの世界でアメリカやフランスなどの外国に旅立つのと同じ段取りを踏み、異世界へと旅立つことになる。

 わたしと春風はるかぜは、父の車でセンターまで送り届けてもらったのだが、想定外に荷物が多くなってしまった。そこで、荷物を姉の夫、長谷部康聖はせべやすきよのワゴン車で運んでもらった。

 姉の夏月なつづきと、姉の可愛い娘、うららもわたしを見送ってくれることになった。

「おじちゃん、うららにおみやげたーくさん買ってきますからねー!!」

 可愛い姪っ子に、ほおずりしながら甘い声を出すわたしを、周りの者が呆れた目で見ているが、そんな視線は無視する。姪っ子が可愛くて何が悪い。

 キャッキャ笑う姪っ子は鼻血が出るほど可愛い。

「うららー、おじちゃん、気を付けて行ってきてねーって」

 姉がうららに言うと、我が姪うららは、

「きをちゅけてね」

 と、たどたどしい口調で言う。ああ。なんて可愛いんだろう。もう、異世界なんて行くのやめてうららと遊園地にでも行こうか……。

 などと、思い始めていると、

「先輩……、お待たせしました」

 と、ちまりがやって来た。わたしの家族に挨拶をしているちまりも、やたら荷物を多く持っている。

「お前も荷物多いな」

「はい……。自分の荷物だけじゃなくて、知人に色々託されまして」

「やっぱりか」

 ちまりの父方の親戚に山形県河北町かほくちょうでスリッパ作りに携わっている人物がいるという。河北町は、スリッパの国内生産量日本一を誇り、その品質には素晴らしいものがあると、最近評判になっている。

「最高級スリッパを託されました。王族の方々に渡してくれって」

「ぼくも、嫌になるほど託された。信じられるか?酒と米まで渡されたんだぞ。見ろあれを米だ米」

 ちまりがわたしの荷物を見て、ため息をついた。

「みんな、浮かれすぎですよねえ」

 そんなちまりの背後に立つ人物。ちまりのお父上だが……。

「お父さんに何を持たせてんだお前」

「は?」

 ちまりのお父上は、トイレットペーパーを三つ持っていた。18ロール入りのトイレットペーパーを、三つである。

「え?だって、異世界じゃあ、ちゃんとしたトイレが無いところにも行くかも、なんでしょ?紙だって無いかも知れないじゃないですか。わたし、嫌ですもん、そんなの」

 わたしは、がくっと肩を落とし、ちまりの倍以上のため息をついた。

「待て。お前はバカか?あっちにはたくさんの日本人がいて、働いているんだぞ。日本の施設だってあるんだ。トイレットペーパーくらい、あっちでだって手に入るだろうに……」

「はっ!!そ、そうなんですか!?」

「大体、何も、こんなに買わんでも……」

「だって、だって、一つじゃ足りないかなーって思って……」

「もういい。行こう。手荷物検査して、出国だ」

「兄ちゃん、兄ちゃん、出発前に写真撮ろう!!」

 春風がわたしたちを手招きしている。

「ああ、ちょっと待って。で、やっぱりカメラマンの同行は無しか?」

 わたしがちまりに聞いた。ちまりが頷く。

「はい、あまりに急な事で変わりが見つかりませんでした」

 本来、カメラマンも我々に同行してくれることになっていた。何でも、アマゾンの奥地にまで足を運び、希少な動植物や、現地の人々を撮影してきた強者つわものだという話だったが、強者も自動車には勝てなかった。

 強者は、轢かれたのだ。車に。信号無視の暴走車だった。

 足を骨折し、全治三か月。これが三日前の事である。

 慌てて代わりを探したのだが、何せ時間がない。急に、いつ帰れるか分からない異世界の旅に行ってくれる人、この指とーまっれ!と言ったところで、現れるわけがない。

「わたしが、頑張りますから。ただ……」

 ちまりが言うには、デジカメは撮り直しがいくらでもできるので、大丈夫とのことだった。しかし、デジカメは当然電力を必要とする。わたしも、ちまりもキャンプや緊急時の電源を確保するためのポータブル電源を持ってきている。ソーラーパネルにつなげば、太陽光で充電も可能だ。しかし、問題は不測の事態でそれらが使えなくなった場合だ。

「フィルム式のカメラも借りてきましたが、はっきり言って自信無しです」

 そう。昔ながらのフィルム式のカメラなら電力など問題ない。はいチーズ、パチリ!であるが、デジカメに慣れ切った我々には使いこなせるかどうか怪しいもんである。デジカメはその場で写真の出来不出来を確認できるが、フィルム式は現像するまでちゃんと写っているか分からない。しかも、ちまりが借りてきたのはその、車に轢かれた強者のカメラである。バリバリのプロ仕様で、カメラ初心者のちまりに扱えるか、不安はぬぐい切れない。

「……。びっくり体験できても、証拠がないんじゃ、酔っ払いの与太話と同じだからな」

「ですよね。一応、練習はしてきたんですけど……」

 一抹の不安を抱きながら、とりあえずわたし、春風、ちまりと、家族一同で記念写真を撮った。わたしとちまりは、少し笑顔が引きつっていたが、春風だけは満面の笑顔であった。

「じゃ、雪鷹ゆきたか、気を付けて行ってきてね。はるちゃんのこと、お願いね。怪獣に食べられちゃ、ダメよ?」

 我が姉、夏月が旅の安全を祈願したお守りをわたしに手渡しながら言った。さらりと怖いことを言う。

 出国手続き、手荷物検査を受け、出国ゲートへ。

 見送りの家族たちに手を振りながら、ゲートをくぐる。

 すると大きな入り口が見えてきた。その前にバスが止まっている。係員が、荷物をバスに詰め込み、わたしたちはバスの中へ。バスの中には、我々の他に5名が乗り込んだ。見ると皆スーツ姿なので、仕事で異世界へと向かう者たちなのだろう。座席に座ると運転手が「出発しまーす」とマイクごしに言う。

 バスの前の大きな鉄製の扉が左右に開くと、少し先に、青く淡い光を放つ正六面体の巨大な物体があった。

「キューブ……」

 わたしはバスのフロントガラス越しにその姿を見つめる。

 以前、まだセンターができる前、ドンちゃんの店に行ったときに何度かキューブを目にしているが、やはり大きい。

 4階建てのビルくらいの高さはある。そして幅も奥行きも同じくらいあるのだ。

 こんな物を突然出現させた異世界の住人。

 この向こうに、それを作った者が住まう世界がある。柄にもなく、胸がドクンと鳴った。

 ちまりが、パシャパシャと写真を撮っている。当然デジカメで。春風もスマホで写真を撮っていた。わたしは、ただ、キューブの淡い光に目を奪われていた。

 バスがゆっくりとキューブに向かって進む。

 そして、スピードを緩めることなく、直進する。キューブがただの構造物ならば衝突するはずだが、バスは、キューブにすうっと吸い込まれていく。

 窓から青い光が入り込み、バスの中まで真っ青に染まる。

 まるで、不純物のない水の中にいるかのようだ。きれいだ。とてもきれいだった。

 外から見れば、一辺15メートルの物体だが、中に入るとその青い世界は無限に広がっているかのような錯覚を抱かせる。そして、とても静寂だった。

 バスが動いているのだから、エンジン音は聞こえるはずなのに、そのエンジン音がやたら遠くに聞こえる。ちまりと春風が何か言っているが、上手く聞き取れない。

 そして。

 バスの前の方がキューブを出た。

 いきなり、目の前が明るくなる。

 見慣れた、光。

 キューブ内部の幻想的な旅は、ほんの数十秒で終わった。

 キューブの『向こう側』に出たのだ。

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