9.避雷針(坂田直也)

 稲妻を待っているときって、ひかってほしいようなほしくないような、ふしぎな気持ちになります。

 夏になると雷がバーゲンセールみたいに発生するんですけど、よその地域ではこんなに多くないらしいです。きゅうちゃんがこっちに越して驚いたのが雷の多さだったって。これがふつうだと思ってたな。

 ちいさいころから雷を見るのが好きでした。黒い雲の厚くたれこめる空に雷光が音もなく走るのをずっと見てた。なんか、吸い寄せられるというか、音がすると自然と窓辺に寄ってっちゃうんですよね。花火を見るような感覚。でも、花火ほどワクワク百パーセントでは見られなくて、心のすみっこに「もしもここに落ちてきたら」ってぼんやりした怖さがある。

 このあいだの部活終わりにも、三谷が遠くの暗い空を見て「が来んな」ってつぶやいたら、部室に戻るころには空がゴロゴロ鳴りだして。あっというまに大雨になったので、雨雲が通りすぎるまでみんなで雷鑑賞してました。稲妻がカッとひかるのを見て「すげー」「いまのきれい」「おぉー」みたいな。で、雷鳴が何秒後に来るかカウントして「けっこう近ぇな」とか「神社の辺りに落ちたな」とか、たまに轟音が響くとまた「おぉー」。きゅうちゃんは怖がってた。あと中林が家電製品のコンセントを粛々と抜いてまわってた。

 そんなことをしてるうちに、夏休みが始まりました。始まってすぐ剣道の地区大会があって、どうにかこうにか勝ち進めて、でもまたすぐに県大会が来ます。どこまで行けるだろうなぁ。さすがに関東大会へ進めるレベルじゃないのは分かってるけど、一試合でも多く戦って終わりたい。

 部活だけじゃなく、中学生活もあと半年たらずで終わってしまうんですよね。実感ないなぁ。毎日をもっとちゃんと噛みしめなくちゃいけないのに、ふわふわしたまま時間が過ぎていく。卒業式で泣くかな? たぶん泣かないな。三谷は泣くよ、絶対。男泣き。僕はなんか、鈍いのかなぁ。冷めてるつもりはないんだけど、べつに死に別れるわけでもあるまいに、とか思っちゃうの。お互い生きてりゃまたどっかで会えるべ、みたいな。そういうことじゃないんだよね、たぶん。

 かけがえのない大切なことって、直に触れつづけてるはずなのに、どうしてこんなに不確かなんだろう。教室や部室でだらだらしたり、廊下で鉢合わせてふざけたり、馬鹿みたいに笑いながら並んで帰ったり。そういう毎日が卒業を境にぷつんと途絶えて、点を打つようにぽつぽつとしか会わなくなって、その点と点の距離もどんどんひらいていく。ずっと友達なのは確かだけど、いまどっぷり浸かってるこの居心地のよさは、きっとすごい速さで後ろへ遠のいていくんだろうな。頭で分かってても実感は湧かなくて、だから涙も出ないんです。自然と泣ける人って、そういうことを無意識に感じとっててすごいと思う。逆に自分が人としてなにか欠けてるのかな、なんて不安になります。いや、そもそもなにも欠けてない人間なんているんだろうか。ていう、哲学。

 でも、そんなふうに感傷に浸れるのは、中学生活が楽しかったってことなのかな。

 まえの中学に行けなくなったとき、僕が布団のなかでうだうだしてるあいだにお母さんがさくさく転校の手続きしちゃって、僕は転校なんて逃げで負けだと思ってたから、もう荒れに荒れて抵抗しました。余計なことすんな! つって。「三年の先輩なんてどうせあと半年で卒業するんだし、いなくなったら学校行くから!」って言いはってた。行くわけないのにね。そのときは本気で信じてたんです、未来の自分のリベンジを。お母さんは、そんな甘っちょろい絵空事、とっくに見抜いてて、

「あんた、中学生の半年なんて楽しければ一瞬だけど、嫌なことがあれば永遠みたいに長いんだからね」

 おっしゃるとおりでした。あのころは「うるせー」としか思ってなかったけど、いまふりかえればなんも言えねぇわ。

 それでも、もし転校せずに絹川中に通えてたらって想像は、いまでもたまにしてしまいます。未練とかじゃなくて、単純にどんなだったんだろうな、って。菊地とも仲よくなれて、一緒に団体戦出たりしてたのかな。試合で浅沼中とぶつかって、そのときは三谷以外の友達のこと、僕は名前も知らないんですよね。なんかふしぎ。中林を見て「あの背ぇ高い眼鏡とは当たりたくないな」とか思ったりして。あ、図書館でたまに会うあの子ともおなじクラスになってたかも。

 とはいえ、布団のなかで三年間終わってた可能性も充分あっただろうし、やっぱり転校したのは正解だったと思う。というか、そう思うのが正解なんだと思います。

 欠けてるといえば、那智さんと一緒にいるときも、自分はなにか足りない部分があるのかなって気がしてしまう。

「外で手ぇ繋がないでね」

「抱きつくのもダメね」

 那智さんにそういう念押しをよくされるけど、僕、外で手を繋いだり抱きついたりしたいと思ったこと、一度もないんです。たぶんそれ、僕じゃなくて那智さんがしたいことなんだと思う。ショック受けちゃいそうだから言わずにいるけど、わざわざ人前でまでくっついていたいとは思わない……ていうか、正直に言うと、そういうのたぶん苦手なほう。

 けど、那智さんのことは好きです。矛盾なのかな。好きなら手を繋ぎたいとか一秒でも離れたくないとか、そういうふうに思うものなんでしょうか。思わなかったら、好きじゃないってこと? そんなわけないよね? なんて、だれにも読まれないノートに問いかけても、意味ないよね。

 だれに聞いたら答えてくれるだろう。友達は軒並みダメですね。「カノジョできたの?」「好きな人いるの?」って質問攻めにされそう。「どんな人?」って聞かれたら、きっとことばに詰まっちゃうな。男の人だとは言えないし、でも、女の子ってことにしとくのも、それはなんか、嫌だ。

「恋愛に性別なんて関係ないよ! 好きになった相手がたまたま同性だっただけじゃん?」

 って、坂本さんが。

 坂本さんはとなりの席の小野田さんの友達で、声が大きいのでよく会話が聞こえてきます。アイドルや芸能人が好きで、最近は俳優の君嶋翔馬くんの話ばっかりしてる。秋に上映される翔馬くん主演の映画が同性愛の作品なんだって。「予告ですでに泣ける!」って熱弁してた。すこしまえまで「ホモとかキショい」って言ってなかったっけ。ちゃっかりしてますよね。

 テレビでたまに翔馬くんが映ると、那智さんに似てるからドキッとします。スッとした目もとなんか特に。声も似てるな。演技うまいし、歌も歌えるし、いまはたしかコーヒーと柔軟剤と住宅保険のCMに出てる。今度、舞台にも初挑戦するんだって。坂本さん情報。

「恋愛に性別は関係ない」っていうけど、那智さんは男しか好きにならないんだから、めちゃくちゃ関係ある気がするんですよね、性別。むしろそこが最重要事項というか。あと「性別を越えた愛!」みたいなフレーズも、性別越えてるのは異性愛の方だと思うんだけど……分かんない、どういう意味なんだろ。

 深く考えるほどのことじゃないのかも、とは思います。定番のうたい文句というか、「冬はやっぱりお鍋だね」くらいのノリなんだろうなって。僕だって那智さんとつきあうまえは、こういうの全然気にしてなかったし。

 でも、それって裏を返すと、気にしなくても生きていけてたってことですよね。それがこうしてふと引っかかるようになったのは、もう僕のいる地面は気にしなくていい場所じゃなくなったってことなのかな。べつに、だからどうってわけでもないけど。ただ、どうってことない、とはまだ言えないや。

 那智さんは、翔馬くんの映画、観るのかなぁ。実のきょうだいが恋愛モノの作品に出るのってどういう心境なんだろう。そもそも那智さんってお兄さんに自分のこと話してるのかな。カミングアウトっていうの? それをしてるかどうかでも色々変わってきちゃう気がします。雑誌のインタビュー記事とか、怖くて読めないかも。

 那智さんの家族のことは、よく知らないです。お父さんはいないらしい。「死別ではない」って言ってたから、たぶん出てっちゃったんだと思う。お兄さんの翔馬くんとは仲がいいみたいだけど、翔馬くんが上京してからはあんまり会えてないって。お母さんのことは、ちょっと触れにくい。

 このあいだ、初めて那智さんのお母さんに会いました。

 図書館で勉強した帰り、急に夕立が来てさ。一応、折り畳み傘は持ってたんだけど、そんなの使い物にならないほどの土砂降りで、あっというまにずぶ濡れ。なんだか笑えてきて、だってもうパンツまでビショビショなんだもん、ふたりでげらげら笑いながら、なんとか那智さんの家まで避難しました。

「お風呂いれるからとりあえずこれ着てて」

 って、渡されたのが絹川中のジャージでまた笑っちゃった。まさかこんなところでもう一度袖を通すことになるとは思わなかったです。

「それ、翔馬の中一のときのやつ」

「那智さんのは?」

「俺のは中三まで着てたやつしかないから、直也には大きいでしょ」

 中一の翔馬くんのでも若干大きいんだなぁ。

 濡れた服、乾燥機かけてくれるって言うんで素直にぽいぽい脱いだら「もうちょっと恥じらって」って言われてしまった。そっか、恥じらい……大事ですよね。剣道でパンツ脱ぎ慣れてるもんで。いや、剣道のせいにしちゃいけないんだけど。

「替えの下着、俺のでよければ持ってくるけど……」

「ほんと? ありがとー」

「……大丈夫? 気持ち悪くない?」

「え、べつに、洗ってあるなら全然。むしろ那智さんが嫌じゃないなら」

「おまえ、もうちょっと警戒心持った方がいいよ」

「え」

 なんだろう、部屋を出ていく那智さんが、なんとも複雑な表情をしてたような……。

 いや、でも、新品が無いなら借りるしかなくない? やむにやまれぬ事情ってやつでしょ。そもそも那智さんが全部脱げとかパンツ貸そうかとか言ってきたんじゃん。それに一番かわいそうなのは替えの下着が届くまでノーパン状態で履かれなきゃいけない翔馬くんのジャージですよ。ウエストを調整しようにもゴム紐がビヨビヨに伸びてて、どうがんばってもずり落ちちゃうし。まあいっか、べつに那智さん以外の人に見られるわけでもないしな……。

 なんて、内心ぶつくさ言いながらタオルで髪の毛拭いてたら、部屋のドアがカチャッと開いたんです。那智さんが戻ってきたのかな。そう思ってなにげなくふりむいたら、ほんのすこし開いたドアのむこうに那智さんじゃない人が立っていて、おもわず肩が跳ねた。

 部屋に入ってくるまでに数秒ありました。その数秒の間が、引き伸ばしたように長く感じられた。

「……那智のお友達?」

 やつれた顔の女の人がぼうっと立ってた。長い髪はボサボサで、夏なのに厚手のストールを羽織っていて、顔色もなんだか、土みたいで。

 あ、那智さんのお母さんだ。

 そう思ったとき、こころのなかでなにかが軋む音を聞いた気がした。

「あ、あの、初めまして、坂田です。那智さんの、あの、絹川中の後輩で。すいません、なんか、突然お邪魔しちゃって……」

 とっさにバネ仕掛けの人形みたいに立ちあがって挨拶したけど、舌がもつれて、心臓の音がうるさくて、自分がなにをしゃべってるのかよく聞こえなかった。人間の眼って、あんなに真っ黒になるんですね。ぽっかりあいた空洞の眼が僕の頭からつま先までえぐるように見つめてた。口もとはうっすら笑ってるのに、僕のことばなんてなにも聞いてないみたいだった。

「……そう。お友達なの」

「あ、はい、あの……」

「そう。そうなの。ごめんなさいね、なにもおかまいできなくて」

 くふふふ。

 って、急に笑いだすの。僕もつられて愛想笑いしたけど、頭のなかがキーンと凍りついて、ああ、那智さんはいままでこの人から俺を守ってたんだ、って気づいてしまった。俺を守って、同時にお母さんのことも守ってたんだ、って。

 初めて那智さんの家にお邪魔したとき、廊下の向こうからテレビの音が聞こえたから、「おうちの人に挨拶しないと」って言ったんです。でも、「大丈夫だから」ってそのまま二階の那智さんの部屋に通された。そういうやりとりを何度かくりかえして、玄関を開けるといつもテレビの音が聞こえて、それでなんとなく、感じ取るものはあったんだけど。

 なにか会話しなくちゃ、なんでもいいから話さなきゃ。そう思ってるのに、まるで声が出なかった。視線の合わないがらんどうの眼に縛られて、頭蓋骨に氷の杭を打たれてるんじゃないかと思うほど、沈黙が頭のなかでわんわん響いた。だけど、ふとお母さんの目もとがどことなく那智さんに似てると気づいたとき、急に雨のにおいを嗅いだような懐かしさに襲われて、どうしようもなく那智さんを抱きしめたくなりました。包みこめたらいいのにと思った。あったかい水とか、透明な繭とか、木漏れ日とか、そういうものに自分が変化して、那智さんをまるごと包んであげられたらいいのに。

 なんですけど、僕、こんなときにほんとどうしようもねぇなって思うんですけど……ノーパンなんですよ。

 恥じらいが。

 もうね、ずり落ちる翔馬くんのジャージを後ろで必死に押さえながら、この冷や汗はどっちの? みたいな状態になってました。いや、よそさまのお母さんのまえでさらけ出すわけにはいかないでしょう。俺にだってそれくらいの良識はあるんだよ。

 那智さんのお母さんは、僕のことをしばらくじっと見つめたあと、

「ごゆっくり……」

 ってつぶやいて、最後までこちらに顔を向けたまま部屋から出て行きました。階段をゆっくり降りていく足音に耳をそばだてながら、僕は縫いつけられたみたいに立ちつくして、閉じたドアを見つめつづけてた。足音が完全に聞こえなくなっても、まだドアのまえに立ってるような気がして……戻ってきた那智さんの顔を見たら、ちょっと涙が出そうになった。

 さきにお風呂をいただいて、湯船のなかでぼんやりいろいろ考えたけど、結局、那智さんがお風呂から上がったタイミングで打ち明けました。お母さんと会ったこと。

「……うそ、ごめん」

 せっかく血色のよくなった顔がまた白くなっていくのを見て、やっぱり隠しとけばよかったかなって、ほんのすこし後悔した。でも、どうせ時間の問題だったから。それに、お互い隠しごとを重ねるのは、きっとあんまりよくないですよね。

「大丈夫だった? 変なこと言われなかった?」

「ううん、全然。ゆっくりしてってね、って言われた」

「ほんとにそれだけ?」

「うん。あと、お友達? って聞かれたから、そうですって答えといた。あ、髪、乾かすのやらせて」

 那智さんの手からドライヤーを奪って、会話を切るようにドライヤーのスイッチを入れました。那智さんを床に座らせて、僕はベッドに腰かけて、那智さんの濡れた髪に黙って風を当てる。細い髪をさわさわ指で梳きながら、ずっと迷ってた。

 お母さん、こころの病気かなにか?

 そんな直球の問いかけを投げたら、どうしたって傷つけてしまうかもしれない。どこまでなら踏みこんでいいんだろう。いまじゃないとしたら、いつなら触れていいんだろう。けど、言わないんだもんな、この人。聞いたって笑ってぼかしちゃうし。言えない気持ちも分かるんです。僕も言えない人だから。だから、なおさらことばが遠くなる。たぶんそんなことないはずなのに、手のなかにあることばが全部、がらくたみたいに思えてくる。

「お母さん、美人だね。那智さんと似てた」

 ドライヤーをカチッと切って、結局、そんなことしか言えなかった。

「目の形とかよく似てたよ」

 那智さんはふりむかないまま、

「たまに言われる。でも、翔馬の方が母親似だよ」

「そうなの? ていうか、翔馬くんと那智さんもだいぶ似てるよね。翔馬くんが那智さんの髪型にしたら絶対そっくりだよ」

「直也はどっちに似てるの?」

「俺? えー、どっちだろ。顔はお母さん似かなぁ。骨格はお父さんかも。お父さんも細身なんだよね、ひょろっとしてて。身長は似なかったけど」

 とっくに乾いた那智さんの髪を、ゆっくりゆっくり、何度も梳いた。聞けなくてごめん。言えなくてごめん。勇気、出せなくて、ごめんなさい。

 ふと那智さんが僕の手を探るように取って、自分の頬にそっと当てました。

「風呂入ったのに、もう冷たい」

 声がちょっと笑ってた。

「末端冷え性なもんで」

「ひんやりしてんなぁ」

「夏はいいでしょ」

「うん……気持ちいい」

 那智さんの頬を僕の両手が包んで、その手に那智さんのひとまわり大きな手がかさなって、そのまましばらく、黙ってそうしてた。

 ふいに視界のすみになにかが走った気がして、窓の方を見たら灰色の空からくぐもった音がした。あんなに激しかった雨はいつのまにかやんでいて、それを那智さんに言おうとしたら、白い稲妻が一筋、水面から飛びはねた魚のうろこみたいにひらりとひかった。その一瞬の光を僕しか見ていないこと、こんなに近くにいる那智さんの目にはきっと映らなかったことが、なんだか急においてけぼりにされたようで、窓の外からそっと目をそらしました。

 大丈夫だよ、とか、ひとりじゃないよ、とか、そんなことばをいくつ重ねても、きっとこころの底に触れたとたん雪みたいに溶けて消えてしまうんだと思う。かといって、世のなかの愛しあう人たちが当たり前に与えあうことも、俺にはいくらもできないかもしれない。

 けど、もしそばにいることしかできないのなら、せめてそばにいさせてほしい。

「虹が出るかもしれないね」

 つぶやくようにそう言ったら、那智さんは返事をする代わりに、もうたいして冷たくもない僕の手をまぶたにそっと押しつけた。

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