8.渡りの風(三木頼子)

 もしもし、ゆっこ? ……ううん、そんな、謝んなくていいって。ひなちゃん、大丈夫だった? そう、よかったー。慌てるよね、赤ちゃんが急に熱出したら。つきそい、大変だったね。いま電話してて平気? ……そう、ならいいんだけど。

 あ、メール、見てくれた? そうなの、男子団体が県大会進出! しかも去年の地区大会の準優勝校を抑えての三位通過。本人たちも「あれ? 勝っちゃった」みたいな顔してた。個人戦では、三谷くんが準優勝、坂田くんと川真田さんがベスト8で県大会に進めた。なんか、ゆっこが来られなくなっちゃって、かえってみんな団結した感じだったよ。勝ってゆっこ先生とひなちゃん喜ばせるぞー、って。うふふ、さすがにひなちゃんにはまだ分かんないでしょってね。

 しかし、強いねぇ、絹川中は。阻まれた、阻まれた。個人戦の県大会の出場枠、半分は絹川で埋まったくらいだもの。圧倒された。

 ただ、ちょっと荒っぽい感じの子もいてね。相撲部から来たのかってくらい恰幅のいい子で、異名があるのよ、「絹川の戦車」って。一撃がすごく重くてね、ゴゴゴゴ……ドゴーン! って感じ。相手に怪我させそうな戦い方で、ヒヤッとする場面が何度かあった。まあ、試合なんだから、お上品じゃ勝てないのは分かるんだけどね。

 で、よりによって坂田くんがその子と当たっちゃって。試合前、みんなが「轢かれんなよ」ってさんざん念押ししてさ。「体当たりまともに受けようとすんなよ」「あいつが戦車ならおまえは自転車だからな」って。坂田くんも「分かってるよー」なんて笑ってたのに、いざ試合になったら正面から受けて見事に吹っ飛ばされてた。すごいね、人って体当たりだけであんなに飛ぶのね。あ、それ、三谷くんも言ってた。「あいつ、規格外にデカいやつ見るとワクワクしちゃうんですよね」って。さすがゆっこ先生、教え子をよく見てますなぁ。

 でもね、吹っ飛ばされたあと、すぐに坂田くんが一本取ったの。白線で仕切りなおした直後、お手本みたいな胴打ち。たぶん、面返し胴かな? スパーン! って。気持ちよかったなぁ。それで焦ったのか、戦車くん、スイッチ入ったみたいに猛攻撃してきて。見てて怖かったよ。坂田くん、暴風雨でひっくり返った傘みたいになってたもん。鍔迫り合いで何度も場外に押しだされそうになって、けど、そのたびに白線ぎりぎりでふんばって……。最後、あと十秒もないってとき、相手の頭が一瞬下がったのを見逃さず、きれいな引き面。面なんてあの体格差じゃ届かないと思ってたから、びっくりした。上手だね、あの子。改めて感心しちゃった。

 うん、ひとまずホッとしたかな。結果につながって、こどもたちも自信がついたと思う。ずっと手探りだったからね、いまの浅沼中の剣道部は。

 わたしはさ、強豪として名を馳せてたゆっこたちの時代を知ってるから、浅沼中に教師として戻ってきたとき、剣道部のことはちょっと気になってたんだ。……そうそう、大島先生! 怖かったよねー。図書委員やってたとき、体育館から図書室まで怒号が届いてびっくりしちゃった。二年生で大島先生が理科の担当になったときはどんな鬼授業だろうってびくびくしたのに、すっごいおだやかで拍子抜けしたなぁ。知ってる? 大島先生、早期退職なさっていまは北海道でパン屋さんやってるらしいよ。ねぇー、びっくり。いやぁ、そこはなかなか厳しいんじゃない? でも、ちょっと憧れるよね、そういう生き方も。

 なんの話だっけ。あ、そうそう、だからね、あんなに輝かしい成績を収めてた剣道部がほんの十数年で衰退してて、ちょっとショックだったわけ。かといって、わたしが当時の顧問の先生をさしおいてしゃしゃり出るわけにもいかないし、しゃしゃり出られるほど剣道のこともよく知らないし。仕方ないのかな、って思いながら、体育館からあの激しい竹刀の音が聞こえないのは、やっぱり寂しかった。

 三谷くんが入部してきたとき? うん、噂では聞いてた。「剣道部にすごい一年が入ってきた」って。ただ、職員室のなかでは、三谷くんは剣道の強い子じゃなくて「髪の明るい子」って認識で広まってたんだよね。一部の先生のあいだで、地毛か染めてるか、みたいな憶測が飛び交っててさ。くだらないよ、ほんと。

 そっか、ちょうど二年前の今頃だったね。当時の剣道部の顧問が突然休職しちゃって、急遽、わたしにお鉢が回ってきたの。

「三木先生、大学で薙刀やってらしたんですって? じゃあ、剣道もちょっとは分かりますよね」

 なんて、当時の教頭に言われてさ。

「いえ、全然分かりません」

「じゃ、さっそく明日からよろしくお願いしますぅー」

 忘れられないなぁ、あのはじける笑顔。厄介ごとがひとつ片付いた、ってスキップしそうな足取りで廊下を歩く後ろ姿。で、途方にくれたわたしはゆっこに泣きの電話をいれた、と。いやぁ、その節はお世話になりました。

 わたしね、弱小剣道部って言うからには、だらだらした雰囲気が漂ってるのかな、ってちょっと不安だったんだ。ただでさえ難しい年頃だし、剣道ド素人の若い女性教師が顧問になっても馬鹿にされちゃうかな、なんて。けど、初日のミーティングに参加したら、そんな心配吹き飛んじゃった。

 みんな稽古のことを真剣に話しあいながら、わたしに何度も話をふってきたの。

「三木先生、体育館の使用時間、もう少し増やすことできませんか」

「他校と練習試合、取りつけてもらえませんか」

「よその道場の先生を外部指導者にすることってできますか」

 もう堰を切ったように矢継ぎ早に来るわけ。その中心にいるのが三谷くんだった。彼自身はあんまり発言しないのに、すぐに分かった。みんなを突き動かしてるのはこの新入生だ、この部は彼を核にしてもう一度立て直そうとしてるんだ、って。

 ちゃんと応えてあげなくちゃ、って思ったんだよね、あのとき。だって、指導者のいない運動部なんて、先導のいない渡り鳥の群れとおなじでしょう。大島先生がいなくなったあとも、ゆっこの後輩たちは強くありつづけようともがいたんだと思う。でも、試合の勝ち星は少しずつ減って、強豪はいつのまにか弱小とささやかれるようになる。苦しいよね、それは。以前とおなじように羽ばたいてるはずなのに、じわじわと高度が下がっていくのをとめられないんだもの。

 だから、上級生たちにとって、三谷くんは風だったんだと思うの。変わるためのチャンスの風。でも、ただ風が吹いただけじゃダメなんだよね。その風に乗ろうと重い翼をもう一度羽ばたかせなくちゃ、望む景色は見られない。

 だれだって弱い自分には目を背けたいじゃない。その方が楽だし、それが正解な場合だってあると思う。でも、当時の先輩たちは、突出したひとりの一年生に自分たちが追いつこうって、楽じゃない方の道を選んだ。

 おとなになるとさ、自分に期待することが少なくならない? なんだかいつも「こんなもんだろう」って自分を納得させてる気がする。悪いことじゃないと思うのよ。それだけいろんなものにぶつかって、まぁ、丸くなったってことよね。折り合いをつけるって言うの? うん、悪いことじゃないよ。だからこそ、こどもたちを見てると、胸を衝かれるくらいまぶしく感じるときがある。うまく整理がつかなくて、だけど「こんなもんじゃない」って、「きれいな言葉に直ってたまるか」って、ぐちゃぐちゃのままぶつかっていく感じ。脆いのにどこか強いの。うらやましくなるなぁ。ちょっとだけね。大人になった自分は脆いままで、だけどもうあのころの強さは持ちあわせてないから。

 でも、ごめんね、強引に引きこんじゃって。負担になるようならいつでも言ってね。ゆっこが無理して体調崩したりしたら、あの子たちだって悲しむから。……え? やだ、どうしたの? 泣いてるの? ゆっこ?

 ちがうちがう、そんなつもりで言ったんじゃないよ。ごめん、なんか、責めてるみたいに聞こえたね。ゆっこが剣道部のこと大事に思ってるの、みんなちゃんと分かってるよ。けど、ゆっこやひなちゃんの生活より自分たちの部活を優先させてほしいなんてだれも望んでない。体も心もひとつしかないんだからさ、仕方ないよ、それは。

 ……うん、うん。そっか、そうだよね、「仕方ない」のくりかえしだよね。仕方ないよ、って言われるのもつらいし、自分に言い聞かせるのもつらいね。ゆっこ、剣道部の子たちのこと、大好きだもんね。

 無理でしょ、って言われたの? 旦那さんに? そりゃ、ちょっとフォローほしかったよね。あれよ、ほら、ゆっこの旦那さんは、ゆっこが剣道やってるとこ見たことないから。もういっそ今度、稽古場に旦那さんもつれてこよう。ゆっこがどれだけ優れた指導者で、部員たちに慕われてるか見てもらおうよ。わたし、こどもたちにバレないようにうまいこと隠しとくからさ、旦那を、暗幕かなんかで。

 わたし? いやぁ、けっこう考えるよ。いまはかろうじて教師をつづけてるけど、正直、結婚しても家庭と仕事を両立できるかって言われたら自信ないし、こども産んで育てることになったら、たぶん、無理だろうなって思ってる。ていうか、べつにそういうライフイベントがなくても、単純にもう教職なんて辞めちゃおうかな、なんて思ったり。あるある、ふつうに。『教師、転職』って半年に一回はネットで検索してるもん。仕事にやりがいは感じるけど、常にオーバーワークだし、職員室の人間関係も疲れるし。べつに人を教え導くような人格者でもないのに、なにやってんだろ、なーんて。

 ああ、そうかも。ゆっこはもともと結婚出産への憧れが強かったもんね。わたしは、たぶん、ゆっこほどじゃないんだな。

 このままずっとひとりで生きるのかな、って漠然とした不安が湧いてくることはあるのよ。お風呂あがりに惰性で顔パックしてるときとかにね。でも、学校でこどもたちに接してると「これ以上に価値のある時間ってあるのかな」って思える瞬間がたまにあって――まあ、ほんとにたまーになんだけどね――その一瞬がもし結婚によって削られてしまうなら、べつにしなくてよくない? ってなっちゃうの。もし「仕事より俺のこと優先して」なんて言われたら、無理。そういう人とは一緒になれないなぁ。

 なんかさ、ちょっと納得いかない。ゆっこは子育てと家のことに追われて、仕事や剣道部の指導を満足にできないことに悩んでて、わたしはなんだかんだ結婚出産より仕事を優先してて、だけど、そのどっちも「わがまま」って言われちゃう空気が。

 あれもこれも手放したくないって思うのも、これだけをできたら他はいらないって思うのも、人として当たり前のことじゃない? どうして、悩むこと自体が無責任、みたいに言われるんだろ。「無理でしょ」「そんなこと言ったって仕方ないでしょ」ってバッサリ切るんじゃなくて、どうしたら望む方向に近づけるか一緒に考えてくれたら、気持ちもすこしは楽になるのにね。って、それ言うとまた「甘えだ」とか言われるんだよ。もう、うるせー! って感じ。シンプルに。

 あはは、そうかも。折り合いつけるとか言って、わたしたちもまだまだ中学生マインド持ってるのかもね。そうだそうだ、言ってやれ。丸くなってたまるか! こんなもんじゃねーぞ!

 あ、ねえ。ゆっこ、剣道部の部室、覗いたことある? 今度、見せてもらうといいよ。剣道部の子たち、ゆっこの代の日誌や練習メニューをいまでもちゃんと残してくれてるから。ゆっこたちが全国大会に出場したときの写真も飾ってあるんだよ。あなた、自分が思ってる以上に、あの子たちに憧れられてるんだからね。 

 それに、ゆっこが教えてくれた鍔止め。そう、刺繍糸のやつ。あれ、予想以上に三年生に好評だったよ。全然ずり落ちてこないって。地区大会のときもみんなであれ付けてさ。五人で色違いだからやっぱり戦隊シリーズっぽくて、レッドとかブルーとか呼びあってて楽しそうだった。中林くんだけホタルちゃんって呼ばれてたけど。

 あ、もうこんな時間。うん、そうだね。いやいや、こちらこそ長話しちゃって。次の稽古には来られそう? 了解。じゃあ、また連絡するね。おやすみー。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る