芋虫

黄鱗きいろ

芋虫

 どろどろに融けた姉の体をいつまでも抱きしめていたかった。


 旧暦九月。夏も終わりかけて蝉が無様に足元に散らばるようになった季節。これは四方を山に囲まれた町、N県S町にある小さな家の話だ。

 その家は田圃と畑だらけのこの町の片隅、奥田という地名のさらに端っこ、山へと続く細道の一番端にある。いつも誰も通らず――正確には通りたがらないその場所に、僕は毎日小包を届けていた。

 朝の八時、太陽が既に東から照りつけ、纏わりつくような温度が大気に満ち満ちた頃、僕は小包を持って、奥田に続く道を登っていった。夏も終わるというのにまだツクツクボウシは鳴いていて、交尾を終えたアブラゼミたちは無惨にも足元に散らばっている。

 蟻に集られたそれらを傍若無人に踏みつけながら歩いていくと、一匹の三毛猫が目の前に現れた。三毛猫は死にかけた蝉にじゃれて遊んでいるようだった。もう飛ぶこともできない蝉に何度も前足を叩きつけ、跳ね上がるのを楽しんでいる。

 しかし、僕がすぐそこまで近づいてきているのに気がつくと、三毛猫はその蝉をくわえて走り去ってしまった。

 僕はそれを目だけで追うと、件の家の門――門と言っても生け垣と生け垣の間に立てられたただの棒きれだ――を通って、家の敷地へと入っていった。

 そのまま玄関から入ろうとした僕を、低くて優しい女の人の声が呼び止めた。

「君、君」

 僕は玄関から入るのを止め、庭に剥き出しになって開け放たれている縁側へと向かった。

 小包を置き、靴を脱いで、縁石に揃えて置く。僕がそうやって几帳面に部屋に上がろうとするのを、声の主は急かすことなく静かに待っていた。

 縁側へと上がった僕は、庭に面した部屋の中へと目をやる。部屋の中央には薄汚れた布団が敷かれており、その上に声の主は仰向けに横たわっていた。

「ミーコがいなくなってしまったんだが、君、知らないかい?」

 ミーコと言われて僕は一瞬何のことかと考え込んだが、彼女が野良猫に付けている名前だとすぐに思い出して答えた。

「さっきそこで蝉をくわえていたよ、姉さん」

 小包を膝の上に置いて、糸を引いて開く。その中身は粗末ではあったが、二食分の食事が入っていた。姉は寝返りを打って、上体を起こそうとした。

「そうかい、あの子も野良だものねえ」

 僕は背中に手を添えて彼女を手伝った。彼女は衰えてしまった筋肉を必死に使い、上半身を起きあがらせる。――そうやって持ち上げた布団の中に、姉の手足は無かった。



 姉のミチが奇病を患ったのは僕が七つの頃だ。

 その奇病は手足の端から徐々に体が腐っていく病だった。原因は分からず、治療法も分からない。町医者が一人いるだけのこの町では、姉の病名を知ることは誰にもできなかったのだ。

 かといって僕の親兄弟は姉を都会の病院にやることを良しとしなかった。そんなことをすれば莫大な医療費がかかる上に、町の人々から不治の病を出した家として扱われることになるのを知っていたからだ。

 しかし、まさか山にでも置き去りにして殺してしまうわけにもいかない。そこで白羽の矢が立ったのが僕だった。

 S町有数の豪農の五男坊として生まれた僕は、七つ上の姉、当時十四歳だった姉によく懐いていた。

 当時の僕は読み書き計算ができるようになるのが遅く、その上体力もあまり無い、有り体に言ってしまえば出来損ないの子供だった。

 そんな子供でも、隔離された姉に食事を届け、身の回りの世話をするぐらいのことはできる。そうやって任じられて七年、僕は学校にも行かずこのお役目を続けていた。

「今日も変わりはない?」

「ないよ。いつも通りだ」

 握り飯を姉の口元に持って行く。すると姉は口だけを使ってそれを不器用に咀嚼していった。口に入れ損ねた米粒がぼろぼろとこぼれていく。もう七年もこの病と付き合っているのに、姉は未だにこの行為に慣れていないようなのだ。

 姉が握り飯を全て口の中に収め終わると、僕は姉の服に落ちてしまった米粒を一つ一つ拾い集めて小包の上へと置いていった。一つでも見逃すと、洗濯の時に酷い目を見るのだ。

 朝食を食べ終わった後、僕は姉の着物を脱がし、彼女の体をタオルで拭き始める。垢が溜まった姉の裸体を僕はくまなく拭っていく。ついでにおしめを交換するのも僕の仕事だ。

 全てを終えた後、寝転がったままの姉に新しい着物を着せて、僕は洗濯場へと向かう。汚れてしまった布たちをたらいの中に放り込み、蛇口から水を流し込んで、僕は布を洗い始めた。

 見る見る間に水は汚れていく。僕は指先が汚れるのにも構わず、布同士をこすり続け、綺麗になった布はできあがった順に庭の物干し竿にかけていった。

 その頃にはお天道様も真上に昇っているが、僕たちには昼食というものはない。働きもしないタダ飯食らいなのだから当然だ。

 洗濯物が乾くまでの間、僕は姉とお喋りをする。とはいっても、二人とも世間知らずなので話題にできることも少なく、数十分、数時間と沈黙することも常であった。

 夕方頃、洗濯物を取り込んでから姉に食事をさせる。姉はまたぼろぼろとこぼしながら握り飯を食べるので、僕はまたそれを一粒一粒拾い集めて小包の上に置いた。

 そして、太陽が沈みきる直前、僕はその家を後にする。

「また来るよ」

「うん、またおいで」

 これが僕の日常だった。



 旧暦九月半ば。僕はいつも通り、姉の家を訪れ、姉の介助をし、姉の傍らでじっと時間が過ぎるのを待っていた。しかし、いつもと一つだけ違うのは僕の手には兄のお下がりとして与えられた昆虫図鑑があったことだ。

 僕は十四になってもまともに漢字も読めなかったが、その図鑑には全てふりがなが振ってあったので馬鹿な僕でも簡単に読むことができた。僕は蝶のページを食い入るように見つめていた。


 いもむしはちょうのこどもです。

 いもむしははっぱをたべてそだったあと、ちょうになるためにさなぎになります。

 さなぎのなかで、いもむしはいちどどろどろにとけて、ちょうのかたちにかわるのです。


「姉さんは芋虫みたいだね」

 ふと思いついたことを口にしてみると、姉はきょとんとした顔で僕を見た。

「オヤ、それって褒めているの?」

 困ったように笑う姉に、僕は図鑑で顔を隠しながら答えた。

「褒めてるよ。僕、芋虫好きだし」

 手足のない姉を同じく手足のない芋虫にたとえただけの他意はない発言だったが、姉はぼんやりと考え込んでしまったようだった。

「芋虫ね……」

 姉は縁側の外の庭へと目をやりながら少し考え込んで、それから小さく呟いた。

「アタシも芋虫になって蛹になりたいわ」

 何故そんなことを言ったのか分からず、僕は姉へと目をやった。すると姉は僕に視線を向けて答えた。

「そうすればあんなに綺麗な蝶になれるでしょう?」

 そう言って彼女は笑った。その笑顔はどこか泣きそうでもあって、僕は慌てて否定の言葉を探した。

「でも蝶はすぐに死んでしまうよ?」

 姉は天井を見て答えた。

「どんなに簡単に死んだって、綺麗なまま死ねるだけまだマシよ」

 僕はそんな姉に、何も答えることができなかった。



「ただいま」

 その日、一枚のタオルを手に、僕は寝泊まりをしている実家へと戻っていった。姉の汗が染み着いたそのタオルは、僕の不注意で替えてしまわないといけないほど汚れてしまっており、僕は酷く叱られることを承知の上で、それを持ち帰ってきたのであった。

 帰宅した僕を迎える人は誰もいなかった。時間から考えるに、きっと皆で夕飯を食べ始めている頃だろうと僕は思い、足音を忍ばせて僕は食卓のある部屋のすぐそばを通っていった。

「しっかし、あの子もまだ生きているだなんてしぶといわねえ」

 ひときわ大きく響いた声に僕は思わず歩みを止めた。今のは多分、母親の声だ。

「さっさと死んでくれれば楽になるのに」

「あんなのがうちから出ただなんて、我が家の恥よ」

 確かにそれは事実だった。だけどいざ言葉にされてしまうとどうにも悲しい気分になって、僕はその場から足早に立ち去ろうとした。しかしその時、思いもかけない言葉が障子の向こう側から聞こえてきた。

「それに末っ子のあの子」

 僕のことだ。そう気づいた僕はまるで縫いつけられたかのようにその場を動けなくなった。そんな僕に見せつけるように、母親は嘲るような口調で言った。

「馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけれど、七年も文句も言わずあんなことを続けているだなんて、もうあれも『気狂い』よ」


 ――気狂い。


 僕はその言葉に打ち据えられ、気づいた時には自分の部屋でタオルを握りしめて震えていた。しかし別にその言葉に驚いたわけではない。むしろひどく納得してしまっていたのだ。

 そうか、僕は気狂いだったんだ。

 その言葉はすとんと胸の内に落ちた。そして僕は、手の中のタオルへと目をやった。タオルには姉の汗が染み込んでいる。僕はごくりと唾を飲み込んだ。

 僕は気狂いなんだ。

 そう思うと、今まで抑え込んでいたある衝動が僕の内側からわき上がってきた。

 僕はタオルに顔を突っ込むと、彼女の匂いを勢いよく吸い込んだ。それはただの汗のはずなのに、瑞々しい桃のように甘い香りがした。

 何度もタオルの中で深呼吸をする。その度に鼻の中に広がる香りに頭の後ろ辺りを痺れさせながら、僕は目を閉じていた。

 暫くの間そうしていた後、僕は堪えきれなくなってそのタオルに舌を這わせた。僅かに塩辛いような苦いような味が舌の上に広がる。

 僕はその時、多分彼女に劣情を抱いていたのだと思う。自覚をしていなかっただけで、手足を失い抵抗のできない彼女を陵辱したくて仕方がなかったのだ。

 そんな僕を僕は自分で肯定した。

 しょうがない。僕は気狂いなんだからこんな気持ちを持ってもいいんだ、と。



 一度、彼女に尋ねてみたことがある。その日は珍しく涼しくなった日で、朱色のトンボが庭では飛び交っていた。

「蛹って一度、中で全身が融けるんだって」

 図鑑から少しだけ目を上げて言った言葉に、姉はこちらを振り向いた。

「それでも姉さんは蛹になりたいの?」

 その疑問に姉は答えなかった。ただ、遅い羽化をした蝶が舞う庭をじっと見つめているだけだった。



 旧暦十月初旬。姉の腐り落ちるべき手足もとうとうなくなって、黒い染みは胴体へとかかりはじめていた。

 ある時、僕は姉に呼び止められた。姉はもう起きあがることすらできなくなっていて、ただか細く呼吸をするだけの存在となっていた。

 僕は、これがお別れの時なのだと悟った。

「私はきっと蛹になるのさ」

 息を荒くしながら、姉は言う。

「そのためのちょっとした眠りにつくだけだよ」

 僕のために途切れそうな息を振り絞って姉は言う。

「だから君、泣かないでおくれ」



 その日の夕方、姉は息をしなくなった。僕は呆然としてしまって、姉が死んでしまったことを家族に伝えるのも忘れて日々を過ごしていた。

 そうしているうちに一週間が経ち、二週間が経ち、姉の死体は腐り始めた。

 どろどろ、どろどろと。蠅が集り、蛆が湧き、姉は徐々に液体になっていった。

「ああ」

 僕はそれを見て気づいてしまった。

「せっかちな姉さん」

 彼女の崩れかけた頬に手を置いて、僕は微笑んだ。

「まだ蛹の外側が出来ていないじゃないか」



 姉の部屋の隅で膝を立てて座っていると、にゃあんと庭から声がした。そちらに目をやると、そこには姉がミーコと呼んでいたあの三毛猫がいた。ミーコは一度尻尾を振るともう一度にゃあんと鳴いた。僕はミーコが姉の肉を欲しがっているのだと気づいた。

「やらないよ」

 僕はミーコに答えた。

「姉さんは今、蛹になっている最中なんだ。あっちへお行き」

 ミーコはじっと僕を見た後、もう一度にゃあんと鳴いて去っていき、そしてもう二度とやってこなかった。

 自分でも馬鹿馬鹿しいことを言っているとは思っていた。だけど、どうしても姉の最後の言葉を聞き流すということが僕にはできなくて、僕はずっと彼女の死を隠し続けた。

 だけどそんな停滞した時間にも破綻は訪れる。僕から腐臭がすることに気づいた両親が姉の家を訪れ、彼女の死はあっさりとバレてしまったのだった。



 姉の死がバレた時、僕は酷くぶたれた。

 どうして連絡しなかったのかと詰られたが、僕こそどうして姉の様子を見に来なかったのかと詰りたい気分だった。

 身内の奴らもそれは分かっているようで、僕への追及はそこそこに、死体の処理を嫌な顔で始めてしまった。僕はそれに対して必死で抵抗したが、所詮気狂い一人の力だ。あっという間に簀巻きにされて物置に放り込まれてしまった。

 文字通り死にもの狂いでなんとか手元に置いておけたのは、七年間姉が寝続けた布団だけだった。

 それ以来僕の住処は姉の住んでいた屋敷の物置になってしまった。ただでさえ病気がうつるかもしれない姉の面倒を見ている狂人扱いを受けていた上に、今回の騒動だ。さらに乱気を起こしてしまったと思われたらしい。

 日に二度は食事が届けられるが、外に出ることは許されなかった。とは言っても、鎖で繋がれているわけでもなし、僕は自主的にこの場所に留まっているのであった。

 物置の中には僕の布団と、その横に添い寝するように並べられた姉の布団があった。少し恥ずかしい告白をすると、僕は今でも人恋しくなった時、彼女の布団で寝るのだ。

 彼女の布団に寝転がり、剥き出しの天井を見る。埃と蜘蛛の巣が蔓延っている天井だ。姉も、ちゃんと蛹に、そして蝶になれれば、あの蜘蛛に食べてもらえることもできただろうに。それはきっと有意義な死だっただろうに。そんな詮無いことも考えてしまう。

 うつ伏せになって、姉の匂いを吸い込む。ここに姉がいる。ここに姉を感じる。僕は布団に額を擦り付けた。

 布団に染みついてしまった姉の残滓を、僕は舌を伸ばして舐め取る。

 あの塩辛い、汗の味がした。

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