試験などに俺は屈しない!6
「田中君。一つだけ、条件がある」
なんだ。此の期に及んで何を求めるというのだ。だいたい貴様、ミルクレープにほとんど手を付けていないではないか。何か
「なんだい。聞くだけ聞いてみよう」
ありがたく思えよ不健康児。
「……カンニングには手を貸す。けれど、勉強自体はしっかりとやってほしい。放課後に、今日から試験前日まで、僕と一緒に」
何を言いだすかと思えば……どうやらこの色の白いもやし眼鏡は、その見た目に反し泥臭い、無駄な努力がお好きなようだ。
実に愚かな。さような無益が何になる。どうせ試験本番では、貴様が天の声……いや、地獄の雄叫びを発し俺に進むべき道を示すのだから、不要な知識を頭に刻んでいも仕方なかろう。その時間、浪費以外のなにものでもなく、貴様の心に芽生えた罪悪感をほんの少し緩める程度にしかならんぞ。端的な話、自己満足でしかない。必要性など微塵も感じないが……いやしかし、そうだな……
「よかろう! 心得た! 万事佐川君の言う通りにしよう!」
「! ほ、本当かい!?」
「本当だとも! 君の真面目さには負けたよ! それにだ、俺としても、本当のところはカンニングなぞしたくはないんだ。進級さえ天秤に掛けられなければ、日々の努力を惜しまず、実力で試験に挑みたかったんだぜ? 此度の不正は止む終えずの事。故に、君が教えてくれると言うのであれば、後学のために是非ともよろしく願いたい」
「……! 田中君! 僕は失望していたけれど! まだ堕ちきってはいなかった! 今回の悪行がきっかけとなり、君の人徳そのものが崩れてしまっていたらどうしようかと考えていたんだけれど、どうやら杞憂だったようだね! よかった! 実に良かった! さぁ! 試験までの時間はまだある! 共に頑張ろう!」
やはり食いつきおったな。愉快痛快。佐川の間抜けが知ったような口をほざきよる。
馬鹿め。何が人徳か。
俺は悪の中の、更にその奥底に沈む極悪の花の芳香を鼻腔に収めたのだ! 善性などすでに消し飛んでおるわ! 先の言葉すべてリップサービスよ!
もっとも、以前の俺であれば、貴様の言うような男として一文の得にもならぬ勉学に精を出していただろうがな。実らぬ成果を求める徒労。確かに、嫌いではなかった。だが、俺は既に悪魔へと魂を売った身。無駄な感傷は持たぬ。求めるは勝利の二文字のみ! 佐川よ。貴様のその甘っちょろい考え、最大限利用させてもらうぞ!
「あぁ! 佐川君! 共に酢いも甘いも知っていこう! 君と俺とは運命共同体! 例えるならばメロスとセリヌンティウス! 同じ時の中で、同じ苦楽をすごそうじゃないか!」
「田中君!」
声を荒らげよって笑わせてくれる。しかし、俺も役者よな。いかに佐川が阿呆とはいえ、こうも簡単に人を謀る事ができるとは。将来、その道に進むのも良いかもしれぬ。さすれば一躍時の人だな。俺に似つかわしい、輝かしい舞台が待っている。おぉ! 胸が踊る! ゆくゆくはブロードウェイにでも立ってスポットライトに照らされる王の道を……
「では田中君! 早速取り掛かろうか!」
おのれ無粋な奴め! 俺の素晴らしき未来への想像を邪魔するとは! だいたいミルクレープは……あ、食べているな。コーラも飲みきっている。こんな時だけは早いとは、そんなに勉強が好きか。度し難いやつ。致し方なし。一度吐いた言葉を呑むわけにはいかん。どうせ頭には入ってこぬだろうが、この、一人も学友がいない眼鏡に少しばかり付き合ってやるとするか。
「うむ! 頼んだぞ大先生!」
「任せてくれよ田中君! 僕は、きっと君に、清く正しい数学を教えてみせるんだからね!」
こうして俺は、やたらとやる気に満ちている佐川に数学を習う事になった。それは奴の言う通り試験までの間毎日続き、頭の中が数学で満たされ、置かれた箸が=に。靴紐の結び目がxに。自転車のハンドルがyに見え始め、ややノイローゼ気味となっていたので、もう辞めようと話した。しかし、融通の利かぬ佐川が一日も休めぬと言って聞かぬか為、俺の精神は磨耗してしまい、学校に弁当の空箱を忘れてくるという失態を犯してしまったのであった。その時、母は言った。「取ってきなさい」と。
夜はまだ浅い。しかし、果たして学生一人で誰もいない校舎に侵入してしまってもいいのだろうか。いや、かまわん。なぜなら俺は生徒だ。関係者だ。忘れ物を取りに来るにあたって、いったい何の問題があるというのか。よし行くぞ。さぁ突貫!
「待て」
背後からの声! その方向は俺! 心臓に悪い! 誰だいったい! 今の俺は悪行に手を染めんと企む悪魔の使者! 貴様を亡き者にしても……あ、こいつは……
「あ、有村先生ではないですか! こんな時間までお仕事とは教師の鑑! いや、感服という他ない!」
有村か……よりにもよって……
「目上に使うなら感服ではなく敬服と言え」
「さすが有村先生。語学の方も明るいようで……」
重箱の隅を突きよって嫌味な奴! 気分が悪い! しかし、なぜに貴様がここにいるのだ有村。確か、近頃宅をリフォームして早く帰りたいばかりだともっぱらの噂だというのに。
「知れた事。貴様が受ける再試の作成をしていたのよ」
「さいでございますか! いや、結構な事でございます!」
相変わらず小賢しい事をする。いいではないか以前の試験問題を使い回せば。どうせカンニングするのだから知ったことではないが、こんな女の腐ったような性格の奴とは、話しているだけでも気分が悪くなる。精神衛生上よろしくない。早々に退散するとしよう。
「では! 私は忘れ物を取りにきた身ゆえ失礼致します! 失敬!」
「待て」
誰が待つか馬鹿め!
「いえ! 待てませぬ! 可及的速やかに事を済ませ迅速に帰宅せねば母に無用な心配をかけます故、恐れながら待てませぬ!」
「貴様の忘れ物とはこれだろう」
……なぜ有村が俺の弁当箱を持っているのだ。
「教室の机の上に置いてあったぞ」
「あ、さいでございますか……ありがとうございます……」
……巾着に名前が書いてあるのだから、連絡してくれてもいいだろう。わざわざ回収しよって。この性悪め!
「せっかく来たんだ。まぁ茶でも飲んでいけ」
「いや、しかし……」
ふざけるなよ。なぜ俺が貴様と茶をしばかねばならんのだ。寝言は寝て言え平公務員。俺は一刻も早く帰宅し惰眠を貪りたいのだ。無駄にできる時間など一秒たりともない。
「何だ。俺の淹れた茶が飲めんか」
当たり前だ馬鹿! 質の悪い上司の様な事を言いおって! 日々踏ん反り返っている貴様ら教師は知らぬかも知れぬが、近年パワーハラスメントなる越権行為が社会問題となっているのだぞ! 訴えられたいのかこのマイホーム主義者め!
「……」
ぐ、に、睨むか……しかし……俺は決して……
「……」
「……い、一杯頂きます……」
……自分が情けない。有村の眼光に、つい怯んでしまった。
しかしそれも仕方のない事のように思う。あのよう眼をギラつかされたら、誰もが身を震わすに決まっていよう。まるで獣だ。人が獣と対峙すれば、獣が勝つに決まっている。これは敗北ではなく護身だ。恥ずべきようなじたいではない。
「ではついて来い。特別に、夜の学校に入れてやる」
いらぬ世話だ!
「はい! ありがたき幸せ!」
あぁ口が腐る。言いたくもない謝礼、悉く自己嫌悪。俺が卒業したら見ておれよ? 絶対に今日の事を詫びさせてやるからな! っと、もう職員室か。どれ、入室。ふむ。教師が有村の他に二人。こんな時間までご苦労な事だが、残業は無能がやるもの。公務員様は未だに前時代的な労働の価値感に囚われているようだな。結果ではなく時間が給与の総額に影響を与えるなど愚の骨頂だと分からんとは、日本の将来は暗いと言わざるを得ない。
「まぁ座れ」
「はい!」
偉そうにしおって。立って茶など飲むか。貴様に言われずとも着席するわ。だいたいなんだこのお茶は。ぬるい上に苦いではないか。よくもまぁこんなものを飲ますためにわざわざ呼んでくれたものだな。
「どうだ。美味いか」
不味いわ!
「はい! 美味しゅうございます!」
心にもない発言を連発。どうにも、胸がモヤとする。
しかし、蛍光灯が照らす職員室はどこか異世界感があるな。やたらと居心地が悪い。
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