事件前日 (6)

「うえっ……」


 前守の顔がどんどん険しくなっていく。この悲劇を起こした張本人である姫宮はというと、しれっと胡坐をかいて――前守の飲んでいたビール缶に手をつけていた。珍しく缶から直接飲んでいる。しかもさっきの前守に引けを取らない勢いで。鬼気迫る、といった形容がぴったりだ。思わず息を呑む。


「うぇぇ……。飲み込めないぐらい不味い……ぐすっ」


 既に涙目になっているが、そんなに苦しいのなら出せば良いのに。一度口にしたものを吐き出さないと言うのは立派だがそれではケモノと変わらないぞ、とでも皮肉を言いたくなったけど、流石にやめた。そうだ、出さないのなら――


「ビールで流し込めば良いだろ」


 ばん、と乾いた音がした。机を叩いた前守がそれだ、とでも言いたげな表情で指を差し、そのままビール缶に手を伸ばす。ちょっと移動していることにも気付かずに慌てて持ち上げるが、思ったより軽かったのだろう中を覗き込んで叫んだ。


「何でよっ!」


 どうやら空だったらしい。成る程、それを見越して飲み干したのか。でも、コイツもそんなに強くないはずだが……。見れば姫宮は顔に薄っすらと朱を帯びていて、熱でも出ているのかというような表情を作っていた。


 何でそこまでして……。

 直後、持っているだけで余り口をつけていなかったビールをひったくられる。間接キス、とでも言いたかったけど、口にする前に殆ど飲み干されてしまった。呆気に取られて、というよりは普通に気圧されてしまった。


「はー……死ぬかと思った」


 まだ匂う気がする、と溜息。


「なあ、不味いだろう。僕は嫌いじゃないんだけど」


 上気した顔で言う姫宮に、何だろう。そこはかとなくエロスを感じる。


「……ぐすっ」


 本格的に泣き始めてしまった。ぐしゃぐしゃになった顔を乱暴に拭っている。そこまで酔っていたとは思わないが……。殆ど空になったビールを持ち上げ、残り全部を口に含む。そこまで度数は高くないはず。


「楓はあたしのこと嫌いなの?」


「うっ……げほっげほ」


 噴出しそうになって慌てて飲み込んだせいで、咳き込む。

 何だコイツは。

 いつもとキャラが違いすぎるだろう。

 左右に揺れている前守の頭を、姫宮が慈しむような表情で抱きしめる。


「急に抱きつかれるのは、嫌いかな」


 髪をそっと撫でながら言う姫宮に、神々しさすら感じる。

 とてもさっきまで不味い飴を食わせ、ビールを一気に飲み干した人間とは思えない。

 前守はというと、少しずつ横になり、終いには姫宮に膝枕されるような体勢になっていた。

 少し見蕩れていたら何時の間にか、すーすーと心地よく寝息をかいていた。


「どっちが子供かわかんないな」


「そうだね。こうしてると可愛いんだけどね」


 暗に普段はお前が子供に見えるぞ、と言ったつもりだったけど意に介さなかった。


「ケン、悪いけどベッドまで運んでくれないかな。足が痺れてきた」


 膝枕されている人間をどうやってベッドまで運べば良いのか、と思ったがそもそもこの部屋にベッドなんてしゃれたものは無く、つまりは布団が置いてあるところにでも投げておけば良いのだろう、という結論に達して足を引っ張ったまま布団の山に横付けし、布団の山を一部崩落させ埋めておいた。


 これで寒いということはあるまい。季節柄、暑いということはありそうだが。

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