第16話 愛しさと切なさと心強さと

 男は空飛ぶバイクで魔王城に降り立った。


 襲い掛かってくる魔族を片っ端から腐角食化していく。


 最深部に辿り着くと、腐食パン魔王がそこにいた。


 腐角食の顔を持つ大きめのカブトムシ。


 かなりシュールだ。


 腐角食化はしているが、虫嫌いだった男は同化しなかったのだ。そして自我を消すことも無かった。


「キシャーッ!!キシャーッ!!」


 腐食パン魔王は威嚇している。


 ビュル!


 男が腐角食の触手を飛ばす。


「シャーッ!」


 魔王はそれを謎の体液を吐いて弾く。途端、腐角食は網のように拡がり、魔王を捕獲した。


 男の腐角食と魔王の腐角食が触れた途端、魔王は力を無くし、静かになった。


 男は魔王の精神との接触を図る。


 不安、怒り、恐怖。


 先程触れた向こうの世界の魔物と比べ、気が狂うほどの生きた怨念が男を襲う。


 腐角食精神内のフィールドですら黒く侵食する負の精神。


 禍々しい『黒』の中心に魔王はいた。


「…何の用だ」


 魔王はふてぶてしく言い放つ。


「力を貸せ」

「あそこに戻る為のか?」

 魔王も男の深層意識にリンクしている為、ある程度の情報は既に共有している。

「そうだ」

「何故だ?」

「復讐を遂げる為だ」

「…見付けたぞ…」


 魔王はそう言うと、その姿をカブトムシの殻を被った幼女に変えた。


 !!


「お父さん…」


 幼女は男の娘に酷似していた。

 

 この世界に来る前、角食に憎しみを抱きながらも製パン工場に勤めていたのはこの娘の為だった。


 父一人娘一人の慎ましい生活だった。生きていれば高校生だろうが、この世界に来てから男はその記憶を怒りに変えて封印してきた。魔王はそこに揺さぶりを掛けてきたのだ。


「…お父さん…私と一緒にここで暮らそう?ずっと一緒だよ?」

「おぉお…ぉぉ…」


 男が初めて見せる動揺。あと数歩、男が娘を抱き締めれば陥落する。そうした時、魔王は男の精神を乗っ取る。


 あと三歩…

 あと二歩…

 あと一歩…


 ギュ…


 男はカブトムシの殻を被った娘に似た幼女を抱き締めた。


 今だ!


 魔王は『黒』を広げて男を取り込んだ。


 そして精神の深遠にそれを封じ込めた。


 「キシキシキシキシ!」


 この身体は最強だ。

 魔王はこの身体を用いて人間を駆逐しようと考えていた。


 そうすれば自分だけの世界が出来る。

 そうしてずっとここを支配できる。


 …その次は…?


 意識の底から声にならない疑問が浮かんでくる。


 …この世界を支配して何が産まれる?


 …ただ食い尽くした先に何がある?


 …自分が産まれた理由とは?


 …何故向こうの世界から人間を追ってきた?


 …誰かに命令されたのか?


 魔王は思い出した。


 『神』


 向こうの世界にも神はいた。

 神は自分の世界から抜け出そうとする人間を許さなかった。

 そうして魔王は逃げる人間を駆逐する為にこの世界へ追ってきた。


 人間とは駆逐すべき存在だ。


 そう深層心理に刻み込まれていた魔王の心の根底に楔が打ち込まれた。

 それは男の心に触れることにより、複雑な人間の心を初めて知ったからだった。


 魔王は戸惑った。


 息を吸うのと同じように人間を駆逐してきた。

 それが、息を吸うことに疑問を持つようになるのと同じように、自身のアイデンティティが揺らぎ始めたのだ。


 息を吸うのは当たり前の行為だ。

 しかし、息を止めて生命活動を停止すれば次世界へのユートピアが開くと知れば、自死への欲求は高まるだろう。


 それを縛るのは苦しみ、そして恐怖だ。


 人間を殺すこと。


 それこそが魔王が息を吸うことと同義なのだ。


 人間を殺さねば、自分が苦しくなる。


 ふと魔王は精神の深遠で娘を抱き締め続ける男を見た。


「あぁ…そういうことか…」


 自らが苦しくとも、対象を思い続ける心…愛…と言ったか…


 人間はこのような心を持つのだな…


 魔王の心の底に隠されていた『淋しい』という心。


 全ての魔物はこの心根を深層意識に抱えている。


 自分でも気付かなかった、当たり前だと思っていた『淋しい』という心は、娘を抱き締めた男の心とリンクし、様々な感情を呼び起こした。


 不安、恐怖、怒り。

 そして、愛しさと切なさと心強さ。

 悲しみや寂しさ、憂いや喜び。

 

 それらがない交ぜになり、感情と心が高まっていく。


 魔王は気付いた。

 自身が出した黒いヴェールの外側に灰色のヴェールが覆い被さっていることに。


 この灰色のヴェールは男の心なのだ。


 この精神世界を包み込む男の心なのだ。


 その心の果てにはマグマがたゆたう大きな穴があった。


 そこでは一人の少年が、マグマの中に様々なものを投げ入れている。


 粛々と、ただ粛々と。


 少年は様々な何かをただ業火の中へ投げ入れていた。


 魔王は気付いた。


 男は記憶を次々に投げ入れているのだ。

 幼き少年に姿を変え、何も知らない様子で次々と記憶を投げ入れているのだ。


 その黒煙がこの精神世界を覆い込んでいた。


 この時、魔王は産まれて初めて涙を流した。


 自らの心の浅はかさに気付き、様々な心に気付いた魔王の心にも涙はあった。


 魔王は驚き、戸惑いつつも、涙によって『淋しさ』が洗い流されていく感覚を得た。


 それは魔王にとって思いがけない心地よさをもたらしたのだった。


 心が洗い流されていくという情動。

 人はそれを感動という。


 この体験を肉体を通して出来た時、自分はどれだけの思いを感じることが出来るのだろうか?


 魔王はそう思い始めた。


 ふと、魔王と魔王の殻を被った幼女の体がリンクする。


 男に抱き締められた魔王。


 安心、優しさ、安らぎ。


 魔王はそれに身を委ねた。


 とても暖かい。


 人間とは、かくもこう暖かいものなのか…


 魔王はカブトムシの殻を脱いだ。


 すると辺りは白く輝き始めた。


 魔王は生まれ変わった。


 男の見せなかった心根を知り、魔王は自ら気付いたのだ。


 そこに新しい世界があることに。


つづく。



 

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腐食パンマン 優和 @yuuwa

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