崩壊(6)

「びょう……いん?」

 俺は鸚鵡返しに訊ねた。その声は震えていて、実際俺は全身をわななかせている。

 この臭い。この部屋。机の上にはタブレットがあり、画面をちらりと見るとどうもカルテのようだった。その横にはメモ帳があって、霞は定期的に何かサラサラとしたためている。ただ、それは日本語ではなかったため俺には何て書いてあるのか読めなかった。

 霞はふう、と息をつき、じっと俺を見つめる。

「そ。ねえ、よく思い出して。そろそろ薬が効いてきたはず。わかる?」

「な。う……あ、あれ?」

 薬? なんのことだ? いや、そもそも俺は――あれ?

 俺は保住日向。そしてここは病院。有樹がいない。そうだ、有樹はどこだ!?

 俺はがたんと立ち上がり、きょろきょろと周囲を見回す。いない。部屋から出てみる。茶色い床と白い壁。往来する人々。全体的に静かさが漂っていて、そして変な臭いがする。

 受付前のロビーには多くの人がいて、それなりに大きい病院であることがわかる。

 しかし、雨と桜と絶望の街に病院などなかった。

 外に出る。だだっ広い駐車場には沢山の自動車が停められていて、その周囲にはチェーンの電機屋やラーメン屋、スーパーなどがあり、そのさらに先には借り入れが終わって土塊となった田んぼが広がっていた。

 雨は降っておらず、空には羊雲が青いキャンバスに見事な白を描いている。

 なんだ、ここは。

 俺は戻る。その様子を見て、霞と名乗る女性――おそらく女医がくすっと笑い声を漏らす。

「そう。雨と桜と絶望の街なんてのは、どこにもないのよ。そもそも今は十月だし」

「な!? い、いや、そんなはずは」

 ない、とは言えなかった。外に桜はなかったからだ。

「それは君が作った世界。君があるんじゃないかと逃避した世界」

「妄想……だってのか?」

 妄想。それを口にすると何故か、パズルのピースがカチッとはまったような気になった。

 何故なら、理解できるから。納得はできないけれど。

 確かにあの世界は異常だった。常に雨が降り、決して夜にならず、果てがなく、桜がずっと咲き続けて散ることがない。そんなもの地球上で起こりうるはずがない。

 でも妄想なら? なるほどありうる話だった。

 だが納得は出来ない。それは妄想だと断じるにはあまりにも空気感があり、ぬくもりがあり、何より有樹がいたからだ。有樹とキスしたあの感触、暖かさ、心地よさは断じて妄想などでは生み出せる代物ではない。

「そういう言い方は好ましくないわ」

「じ、じゃあ有樹は……ま、まさか……」

 違うはずだ。でも、俺は訊ねてしまう。やめろと心の声が警鐘を鳴らしているのにまるで地雷原に踏み入れるかのような暴挙。

 そしてそれは、地雷だった。

「そう、有樹なんて子は最初からいない。気づいたようね。イマジナリーフレンド。君が作り出した」

「……脳内彼女、てか?」

「……だからそういう言い方はよしましょうよ」

 霞が呆れたようにため息を一つつき、「座ったら?」と促す。

 俺はがくりと力が抜け、霞のとは違う、小さな回転する丸いすにがちゃんと倒れるように腰掛けた。

「つまり、何か? この世界は……現実で、雨と桜と絶望の街は、偽物だってのか」

「そうね」

「じゃあ、音居なや……」

「いない。いえ、反応的には、君のお母さんが一緒の時は、よくそう言ってたわ」

「え……じ、じゃああれは……」

 いつも奇矯な言動を繰り返す電波少女。

 凄惨極まる自殺を遂げた狂気少女。

 けれど、定期的に俺を助けてくれた大切な仲間。 

 その正体は――俺の母親?

「そう。君はお母さんに連れられ、カウンセリングを受けていたのよ。今日はちょっと席を外してもらったけど。ロビーにいなかった?」

「……な!?」

 白日の下にさらされる真実の重さと衝撃に俺は耐えることが出来ず、がっと頭を抱えてうずくまる。

 そして呪詛のように同じ事をひたすら繰り返した。

「そんなはずはない……そんなはずは……」

 でも、世界は変わらなかった。

 雨と桜と絶望の街は俺の妄想で、有樹は脳内彼女で、なやは俺の母親で。

 そして俺は病院でカウンセリングを受けている病人?

「そんな……そんな……」

 信じられない。そんなこと信じてたまるか。

 でも――それを否定するだけの言葉や証拠を、俺はどうしても用意できない。

「これが……現実だと、現実だというのか」

 違うと言いたいのに、どうしても言えない。

 だって理解できるから。女医となった、いや、最初から女医である霞の言い分は本当に正しくて、筋が通っていて、何よりこの世界! ここは雨と桜と絶望の街ではないのだ!

 その事実が、俺の瞳から涙さえ流させてしまう。ぽたぽたと、透明な悲劇が雫となって床にこぼれる。

「ああ、思い出して……いや、いやいや! そんなはずはない! そんな、そんなはずは!」

 首を振る。否定する。でも、有樹がいないのが何よりの――


「日向」


 顔を上げ、椅子を回転させて戸の方へ向き直る。

 そこには有樹がいた。いつもの姿。いつもの顔。いつもの声。

「……有樹。ど、どうして……」

「騙されないで!」

 有樹が両手をぎゅっと強く硬めながら叫ぶ。ビリビリと肌の奥にまで有樹の声が染みこんでいった。

「え……」

「その子……霞の言うことに惑わされないで! こっちが、これが本当の世界なんだから!」

 有樹の声の直後だった。

 世界がうっすらと変化していった。病院は蜃気楼のように消えゆき、代わりに雨音がなり、桜が咲いて、世界はビルに覆い尽くされる。

 気づけば椅子さえも消え、俺は立ち尽くしていた。

 ピー、ガガガガ、ピーガー。

 そろそろ僕の出番かな。ふふ、はははは。

 ピー、ガガガガ、ピーガー。

 ……なんだ、今のは? 確か前にも起こったが、何なんだ?

 いや、そんなことはどうでもいい。俺はきょろきょろと周囲を見回す。

「え? あ、あれ? 世界が……雨と桜と絶望の街に戻っていく……」

「そう、これが現実。霞の言うことは間違いなの。あれは洗脳だよ」

「そんな……いや、しかし……いや、まさか……」

 洗脳。なんて素敵な言葉だろうか。思わず信じてしまいたくなる。

 だって、病院で女医の霞と話していた世界が洗脳による幻覚であり、この雨と桜と絶望の街こそが本当の世界だとしてしまう方が俺にとっては都合がいいからだ。

 でも、あまりにも都合がよすぎるからこそ、俺は懸念を覚える。

 それほどにこの雨と桜と絶望の街は狂っていて、非科学的で、極めて妄想的だったからだ。

 でも、有樹はそんな俺の気持ちを許してはくれず、小走りで俺の元までやってきて、ぐっと両肩を強く掴んできた。

「日向。私と霞、どっちの言うことを信じるの?」

「え……」

 俺は言葉に詰まる。 

 もごもごと口を動かす。

「どっちがって、そんなどっちが、どっちが正しいのかなんて……」

 煮え切らない俺の返答に、有樹がわずかに苛立ちを覚えたように眉間にしわを寄せた。

「言うまでもないわよね?」

「有樹……」

 確かに、霞の言うことと有樹の言うことを天秤にかけるなら、それは後者以外あり得ない。

 あり得ないはずなのだが、どうしてか、何故か――

「俺は、……俺は」

 決断することが、出来なかった。

 世界はどこまでも雨と桜と絶望の街で、灰色の空からは絶えず雨が降りしきっていて、俺の身体をひんやりと包み込むのだった。

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