崩壊(5)

 俺たちは逃亡を続けた。ただひたすらに走ったのだ。

 世界の果てをめざしてマラソンする。それはどこまでもシビアで、どこまでもハードだった。

 景色が変わることがない。桜並木はひたすらに街路樹として満開の花を咲かせているし、雨は決して止むことなく冷たさを全身に虚けてくる。そして空を覆う灰色一色の雲に壁のように立ち並ぶビル群。

 その光景が、絶対に変わらないのだ。

 雨と桜と絶望の街は一本道だ。交差点がない。脇道もない。まるでアニメか昭和の特撮のようにひたすらに同じ背景が延々と続いていくのだ。

 かろうじていくつかのビルとビルの隙間に路地裏はあるのだが、その全ては行き止まりとなっていて、身を隠すことくらいにしか使いようがない。

 とはいえ、大通りをいくら走っても無駄なのはわかる。

 と、横を見ると有樹は体力の限界が迫ってきたようで、顔一面に汗をほとばしらせながら、はぁはぁと荒い吐息を漏らし、身体をふらつかせていた。

 俺は咄嗟に有樹を抱き寄せ、少し慌てながが声をかける。

「有樹。大丈夫か?」

「う、うん――でも、」

「ああ、多分、逃げ切れない」

 わかっている。現実はどこまでも残酷で、過酷で、たとえるならトライアスロンのようなものだった。

 それは雨と桜と絶望の街でも変わらない。いや――本来楽園たりうるはずの雨と桜と絶望の街を霞は破壊しようとしているのだ。

 その破壊こそが現実的であり、リアルであり、どこまでも実在的なのだ。

 やっていることは住民の集団自殺化というあまりにも異質で、とんでもなく異常で、逆立ちしてもそこに現実などという言葉の介在する余地はないものだというのに不思議なものだった。

 と、有樹がちらりと後ろを向くと、恐怖にその顔を真っ青に染めて震える手で、

「あ、あそこ!」

 と叫んだ。

 彼女が指し示した先にはなるほど霞がいて、彼女はぱちんぱちんと指を鳴らしながら優雅に歩いている。だというのにその時速は二十四キロは超えていた。

「う――うええ。霞が、近づいてきた!」

 霞が通った先には多くの住人たちが自殺を敢行する。

 ある者は桜によじ登って飛び降りたり、ある者はビルの窓ガラスに頭突きしてガラス片を取り出し、それを頸動脈に当てたり、ある者は自分の両目に指を突っ込んでそのまま脳まで到達させたりしていた。

 鮮血が舞う。あちこちで舞う。

 血が舞わない箇所でも自殺はオーケストラのように奏でられる。

 たとえば首つり死体はすぐに失禁するわけではないことを生まれて初めてこの目で見た。

「なんて残酷な……」

 何度も何度も吐いたせいで胃袋がかなり傷つき、痙攣をおこしている。胸の下辺りに鈍い痛みが走り、俺はみぞおち辺りを押さえずにはいられなかった。

「猟奇的すぎる……そもそも、一体全体どうしてみんな自殺してるんだ!? 一体霞はなんなんだ!? 畜生!」

 理由なんかわかるはずがないのに、口にせずにはいられない。

 あまりにも奇妙すぎる光景に、俺の脳は処理が追いつかないのだ。

 ただ確実にわかること。それは霞に捕まったら最後、俺たちも住民同様極めて奇天烈な自殺方法によって殺されてしまうということだ。

「行くぞ!」

「え?」

「ここはもうダメだ! ビルに逃げるぞ!」

 俺はビルの中に入った。大通りも路地裏も逃げようがない。

 ならせめてビルの中で迷路のように霞を迷わせよう、そう考えたのだ。

 有樹は一瞬だけわからなそうに眉をひそめていたが、やがて俺の意図に気づいてくれたようで、

「あ、う……うん!」

 と力強く返事をするのだった。


 雨と桜と絶望の街を構成するビル群。中身はどれも同じようなものだ。一階だけはそれぞれ商店が軒を連ねているが、二階以降は全てコンクリートうちっぱなしの空虚なハリボテ。

 それは俺が暮らしていたテナントと酷似しているが、違いとしては電子レンジがないことと白いペンキで塗られて折らず、無骨な灰色と黒によって構成されているということだった。

 これではとても身を隠す場所などありはしない。

「「はぁ……はぁはぁ……」」

 エレベーターは機能していた。俺たちは最上階まで昇降する箱の中でようやく息を整えることが出来た。

 最上階もやはり同じ。まるで廃墟のように何もなく、床と柱と壁と窓しかない。廊下すらなく、パーテーション分けもされていない。本当にだだっ広いコンクリートの荒野が広がっているだけだった。

 これはもしかして失敗だったろうか。逆に逃げ場がないどころか、仮に霞が指を鳴らし、俺たちが窓からダイブすれは真っ赤なトマトケチャップが道路一面に咲き乱れることだろう。

 だがあの無限に続く大通りを走り、自殺者を横目にするのは気が狂いそうでとても我慢できなかった。

 ――こつん。

 足音。

 有樹と俺が同時に振り向く。霞だった。彼女は階段を使った。このビルは十五階建てでとても階段なんかで来れるはずがないのに、霞は息一つ切らすことなく平然と時速二十四キロで歩いていたのである。

「く……あの子はどうして……」

「喋るな! とにかく逃げるんだ!」

「ど、どこへ?」

「知らない! いいから走れ有樹!」

 あと残されたのは通常の階段とは別に存在する非常階段だけだ。いわゆる災害時などで使われるもの。それはコンクリートの荒野と化しているビルの中にも当然あった。

 しかし下に下りようとしたとき――何故か霞が下からやってきた。

 馬鹿な! 俺は思いきり後ろを向くが、霞はいなかった。まさか回り込んだ!? あの一瞬で!?

 やむなく俺と有樹は上へ向かう。それは即ち――屋上だ。

 だがその途中、

「あっ!」

「有樹!」

 有樹が階段につまずき、膝を角にぶつけてしまった。

「いたた……」

 泣きながら膝を押さえ、うずくまる有樹。だがそんな猶予を霞が許すはずもない。彼女はイノシシのような速度で階段を駆け上がってくる。その仕草自体は一段一段ゆっくりと上るものだからまるで早送りした動画のように見え、ひどく不気味だった。

 どうしようもない焦燥が俺の神経を傷つける。

 まずい。これはもうどうにもならないかもしれない。

「立てるか。足……」

「くじいた……痛い……」

「わかった。俺が担ぐ! とにかく一刻も早く逃げるんだ!」

 俺は有樹を背負い、階段を上っていく。これで屋上に鍵がかかっていたら――いや、考えるな。その時はその時だ!

「くそっ、くそくそくそくそ! どうして!? どうしてこんなことに!?」

 俺たちはずっと雨と桜と絶望の街で楽しく暮らしていた。することは電子レンジを組み立てながら有樹とくっちゃべるだけだけど、それがたまらなく幸福だった。

 俺たちは誰も侵略しない。誰も傷つけない。ただぬくぬくとこの閉鎖された箱庭の中で安穏と暮らしていただけなのに! どうしてそれを奪われなければならないんだ!

 理不尽だ。どうしようもなく理不尽だ。とてもじゃないがこんなことは許されない。

 それに、その手段も狂っている。

「なんなんだ!? どうして誰も彼もが自殺するんだ!? ありえない!」

 指を鳴らすだけで人々が自殺する。

 ファンタジーだ。それもトチ狂ったファンタジーだ。

 俺は屋上のドアに手をかける。ぎい、と硬質な音を響かせながら外の光を呼び込んでくれた。鍵がかかっていないことに心から安堵し、外を見て――唖然とした。

 初めて見る雨と桜と絶望の街の眺望。それは奇怪極まるものだった。

 大通りは地平線の向こうまで続いていた。前も後ろも同じように果てしなく。

 そしてその脇をこれまた無限に続くビルがひしめていて、ビルそれ自体が一本の線として地平線を形成している。だから眺望というよりはコンクリートで出来た砂漠に降り立ったような気分になる。

 そしてその隙間からは桜のピンクが咲き乱れている。右も左も、前も後ろも、途切れることなく桜色の空気が隙間から高貴で、そして怪しい輝きを放っていた。

 なんだ、ここは。俺は背筋に寒いものを感じた。

「いや、あり得ないのはこの世界もか……畜生。どうして街が続くんだ!? なんで、街に果てがないんだ!? 駅もない! バスもない! タクシーもない! 無限に続くこの一本道はなんなんだっ!」

「う……く」

 と、背中から有樹の苦悶が悲しげに響いてくる。

「有樹! 大丈夫。大丈夫だから……」

 俺が必死にあやし、ここからどうしようか考えていると――


「何が大丈夫なの?」


「……霞!」

 霞もまた屋上へやってきたのである。当然といえば当然だが、敢えて当然じゃないのは彼女は息一つ乱すことなく、悠然と胸を張ってこちらを見つめていたことだ。

 俺たちがもうぜえぜえと鼻呼吸すら出来ないのとは対照的で、それが狂っていた。

「やっと観念したのね。さ、早くおいで。怖くないから」

 まるで子供をあやすようにそうささやきかけながら一歩、また一歩とゆっくり踏み込んでくる霞。中学生、それも中学一年生くらいにしか見えない子供然とした容姿のくせにやけに大人びた態度を取っていて、それが俺を苛つかせた。

「……霞。お前は何者なんだ? それだけでいいから、教えろ」

「何者って、見ての通りよ。これ以外になにがあるの?」

「ふ、ふざけるなっ! どいつもこいつも自殺させて! いや、そもそもどうやって自殺させてるんだお前! お前はなんなんだ!? 神か!? 悪魔か!?」

 万感を込めて叫ぶが、霞にはまるで通じない。

「そんなご大層なものじゃないのよねえ。ほら」

 霞がすっと手をさしのべてきた。あれを取れというのだろうか。取ったらどうなるというのだろう。霞は有樹を殺すつもりだ。でも俺は?

 わからない。あいつの狙いが何かわからない。霞は謎に満ちている。

 俺に出来ることは――何もないのだろうか。

「あ、人が……人が死んでいく……」

 背中で有樹が呟く。

 しかしここは屋上だ。人なんているわけが――と、後ろを向いて驚愕した。いた。それも沢山。隣のビルだ。

 それも自殺の最中だった。極めて猟奇的な飛び降り自殺。彼らは古代の奴隷のように首に鎖を巻きぞろぞろと巨大なムカデを形成していた。そして一人、また一人と落ちていく。引力に導かれ、最初は歩いていた自殺者たちがズルズルと引きずられ、雪崩となって落ちていく。

 人は絶えない。十人、二十人、三十人と奴隷ムカデの大自殺が形成され――これだ!

 俺は有樹を担いだまま隣のビルに移る。幅一メートルもなかったのでまたぐだけで渡ることが出来た。そして落ち続ける自殺者たちの鎖を掴み――自分らも落ちた!

 ただし落ちたのは広い通りではなく、たった今渡った隙間の方へだ。自殺者たちは引きずられていたが重みからどんどんズレて隙間の方へ移動していたのが幸いした。

 もし有樹が元気だったなら間違いなく悲鳴を上げていただろう。俺だって有樹を担いでいなければ悲鳴を上げていた。

 しかしそんな余裕などあるはずもなく、鎖は猛然と自殺者たちと共に落下していく。落ちていく。

 俺はたった一メートルしかない隙間を利用し、両足を伸ばしてこすり、スピードを減退させた。靴が擦れ、足に火傷を負う。脳天まで痺れるような痛みだ。でも、構わない。

 最後は死体の山がクッションとなり、俺たちの絶命を防いでくれた。見ると人間の死体はピラミッドを形成していた。それは先ほどの首切り人間ピラミッドに酷似していた。吐き気がする。

 だが、構わない。焼けて激痛走る足を引きずりながら、俺は通りを逃げていく。

 もっとも――

「今度は逃がさないって、言ったでしょ?」

 霞はなんちゃないとばかりに飛び降りた。十五階建てのビルから落下したのに綺麗に足から着地し、まるで痛がるそぶりすら見せない。

 バケモノがいた。霞はどう考えても人間ではなかった。

「う……く、くそおおおおっ!」

 通りでは変わらず人が死んでいる。次から次へと自殺していく。それは何というか滑稽ですらあった。

 俺に出来ることはもう、何もない。

 がくりとくずおれ、悲鳴のように助けを求める。

「なや……音居さん! 音居さん! 来てくれ!」

 だが、それを霞が一秒で否定した。

「もう来ないわよ。消えたんでしょう?」

「お前が殺したんじゃないか!」

「殺す? 私はそんなことしていないわ。人聞きの悪い」

 霞はやれやれと肩をすくめ、またゆっくり歩み寄ってきた。

 もう俺たちに逃げる元気さはなかった。

「あ、そ、そんな……」

「ほら、もう逃げられないわよ。大人しくこっちに来なさい」

「こっちの――世界へ」

 何のことだ。そんなものあるはずがない。

 雨と桜と絶望の街が仮に地球でなかったとしても、俺が住んでいたのはここだけだし、ここ意外ありえない。ここだけのはずなのだ。

 なやはもう助けに来ない。無限に続く大通りの歩道で、俺は死を覚悟することしか出来なかった。

 なら、せめて最期にと、俺は有樹を下ろしてぎゅっと、正面から抱きしめる。

「有樹――」

「日向……」

 有樹も俺の背中に手を回し、最期を受け入れてくれた。

「愛してる」

「日向……私もだよ」

 ぬくもりが、たまらないぬくもりが俺に生きていることを実感させてくれる。

 それをもっと味わいたい。堪能したい。

「最期に……」

 俺は有樹の唇を強引に奪う。人生最後にそれくらいのご褒美はあってしかるべきだ。たとえ優しさがないことに罪悪感がこみ上げてこようとも、もう俺の本能は留まることを知らない。

「あ……日向ぁ……ん……んんっ」

 有樹もまた同じ気持ちだったようで、かつてないほどの激しい舌使いで俺を侵略してくれた。嬉しい。たまらない喜び。心地よさ。涙が出て止まらない。

 全身が興奮する。下半身が勃起する。でも、流石にそんなことをする余裕などないから、せめてキスだけでも。

 勿論キスの最中に霞が指を鳴らし、お互いの舌をかみ切らせるくらいのことは脳裏に浮かんだが、知ったことか。殺したければ殺せ。今すぐ殺せ。俺たちは構わずキスをするのだ。

「ん……ちゅ……」

「んっ……んん……」

 暖かい。凄い気持ちいい。どんな美辞麗句を並べ立てて修飾しようともそれはこの死を覚悟した愛の前にはただただ薄っぺらく思えてしまう。

 だからいいんだ。気持ちいいだけで。暖かいだけで。それくらいシンプルでないと俺たちの愛は絶対に伝わらない。

「ぱぁ……ふう、ありがとう」

 俺は有樹から舌を抜き、口を離す。透明な橋がきらきらと輝き、雨に打たれて落ちていった。

 さあ、もういいだろう。さようなら、有樹。そんな思いを胸に秘め、俺はゆっくりと立ち上がる。ビルから落ちたときの痛みがまだ足に走っているがもう構わない。どうせ俺は霞に殺されるのだろうから。

「日向、ダメよ!」

 有樹が俺の背中を思い切り引っ張る。

 だが、俺はもう振り返らない。

「いいんだ、もう」

 有樹の手を切り、俺は霞の方へ歩む。

「日向!」

「霞! 俺はもう逃げない!」

 叫ぶ。霞は嬉しそうにぱんと手を鳴らした。

「あら、やっと覚悟が決まったのね。嬉しいわ」

 ぎゅっと拳を握る。中指を突き出す、いわゆる一本拳という形だ。これを霞の人中にブチ込んでみせる。おそらくは無理だろうが。あくまで気持ちの問題として、だ。

「お前を――殺す」

「はぁ?」

 霞が呆れたように疑問混じりのため息をついた――その刹那。

「霞いいいいいっ!」

 俺はズキズキヒリヒリする足の裏を根性でこらえながら、必死に彼女の顔面めがけて駆け出した。

「無駄なことを……」

 霞がふん、と鼻を鳴らすとそのまま右手をすっと突き出す。

 直後、得体の知れない重力のカタマリが俺の上空から落下したような感覚に襲われ、俺は何の抵抗も出来ず地面に潰されてしまう。

 ばちんと胸と腹、そして太股に強い痛みを覚える。

「大人しくなさい」

 霞はそう言ってしゃがみこみ、俺の首根っこを掴んだ。

「な……っ!」

 生身の人間では霞のような怪物には勝てないというのだろうか。

 そんなのって――あるか。

「く、くそっ!」

 しかしどれだけ暴れようとしても得体の知れない巨大な重力が俺の身体を縛り付け、指一本動かせない。

 漫画なんかではこういう時俺は覚醒するのだ。秘めたる力や火事場の馬鹿力が解放され、霞を圧倒し、有樹を連れて脱出するのだ。

 だが、それは所詮フィクションだった。実際に俺はそんな力は秘めていないし、身体を鍛えているわけでもないから出せる腕力も大したことない。

 その上で霞は怪物なのだ。逆立ちしたって勝てる相手ではなかったのだ。

 物語の根幹を破壊するような事態。仮にこれが物語であったのなら、だが。

 おそらくは違う。これはリアルだ。現実なのだ。だから俺は――為す術もなく霞に殺されるのだ。

 悔しさが、涙となって頬を伝った。

「哀れね、日向くん」

「くそ、馬鹿な……そんな……」

「残念だけど、貴方とじゃまるで相手にならないの。残念だったわね」

 確かに相手になっていない。俺は指一本霞に触れることが出来ない。

 そんなバカなことがと言いたいが、それが現実なのだ。

 じゃあ、やっぱりこれは物語ではなかった。現実だったのだ。

 もうすぐ、それも終わるけれど。

「ほら、これで落ち着きなさい」

 霞がぐっと掴んだ腕に力を込める。息が――出来なくなる。

「ぐ……が……」

 大人と子供どころの話ではない。人類と人外の戦い。それはあまりにもあっさりと、あっけなく、無様なほどに人外が勝利した。

 でも、これで終われない。終わりたくない。俺の涙にせめて一つくらい価値をもたらしたい。

「せめて……せめて有樹くらいは……」

 そう、有樹だ。有樹だけは助けたい。俺を殺すなら好きにしろ。このまま身体を爆散させようが、ドロドロに溶解させようが知ったことか。 

 でも、有樹だけは、有樹だけはそんな思いをさせたくない。

 そのどうしようもない本音を、俺は言の葉に乗せた。

「霞……俺を殺すならすればいい。でも、有樹には手を出すな」

「ああ、その有樹って子なんだけどさ」

「あ?」

 霞は立ち上がり、ぱちんと指を鳴らす。

 ――指を鳴らす!?

「ほら、これを」

「な……やめろ! やめろ! あ、あ……っ!」

 有樹が自殺してしまう! 有樹が死んでしまう!

 ダメだ、そんなの絶対。身体が動かない? ならせめて呪い殺してやる! あ、ダメ、有樹。逃げろ。頼むから逃げて――


「え!?」


 ――世界が一変した。

「目、覚めた?」

「え? あ、ああ!? あれ? こ、ここは……」

 俺は今、何を見ているのだろう?

 目の前に広がる世界は、雨と桜と絶望の街ではなかった。

 ほのかに消毒薬の臭いがして、全体的に白を基調とした部屋。目の前には見たこともない女性が椅子に腰掛け、くるくるとボールペンを回している。

 いや、見たこともないわけではない。霞だ。霞を大人にしたらこうなるだろうなあという、そんな顔立ちと雰囲気を携えている。

 長い黒髪は腰まで届き、すっと通った目鼻立ちは中々の美人だが、大人の妖艶さというよりはスレていない箱入りのお嬢様が大人になったかのような温和さとほのかな不安や疲れのある憂いさを漂わせている。

 まとった白衣は清潔さを感じさせ、すらっと細い体躯からは有樹とは違う大人の女性が発する魅力というものを感じさせた。

 それは――逆立ちしても中学生が出せるものではない。

「私が中学生に見える?」

 女性が言った。その声は――霞だった。霞の声を少しだけ重くしたような響きで、それが俺を酷く混乱させる。

 周囲を見回す。有樹がいない。どこにもいない。そして俺は制服ではなかった。パーカーとTシャツ、ジーパン姿。なんだこの服は。そして椅子に腰掛けていて、足の痛みが全くない。

 桜がない。雨音もない。そして空気が少し冷たい。肌寒さを感じる。

 俺の知る雨と桜と絶望の街では絶対にありえないものばかりだった。

「誰だ……お前は……ここは……どこだ?」

「私は霞。ここは――」

 霞を名乗る女性が一呼吸置いて。

「病院」

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