崩壊(3)

「ハーイ」

 霞の侵略は思いの外早かった。

 俺は傘をくっと上げ、霞の顔を確認する。ひどく嗜虐的な笑みを浮かべていた。

 今日は外出するべきではなかったか。いや、どのみち電子レンジのパーツを買うために避けられなかった。最近霞が洗われることがなかったから油断してしまった。

 俺は忌々しげに彼女に話しかける。

「か、霞……やはり、来たのか」

「来たのかって、ご挨拶ね」

 霞は傘も差さず、全身雨に打たれながらも髪の毛を整えようともせず、平然と肩をすくめた。クリーム色と黒のセーラー服が肌に染みこんでいるだろうに、気持ち悪くないのだろうか。

 それは同情なんかではなく、嫌悪として感じたものだ。

 雨に打たれ続けても眉一つ動かさず平然と俺たちを見つめるという行為が――人間としてあまりにおかしいのだ。

「……何の用だ?」

 俺の声は震えていた。もうすっかり霞に飲み込まれ、恐怖しきっていた。

 それは猛獣に出会った時の恐怖というよりは、幽霊がいるんじゃないかという恐怖に近い。

 霞には現実感を感じない。どこか遠い世界の住人のように思える。

 と、霞がごそっとスカートのポケットに手を突っ込み、何かを取り出そうとする。

「今日はね、いいものを持ってきたの」

 ぞくりと、俺の本能が警鐘を鳴らす。見てはいけない。受け取ってもいけない。アレは絶対にヤバいものだ。理屈じゃない。本能がそう感じた。

 俺はくるりと踵をめぐらし、ぱしゃっと足下で水を跳ねさせながら有樹に声をかける。

「有樹、行こう」

「う、うん。わかった」

「これがあればもうこんな世界にいなくても済むから。大丈夫。怖くないわ」

 背中から霞の声が聞こえてくる。

「「…………」」

 しかし俺たちは振り向くことなく、ただ黙って歩いて行く。こっちは俺の住んでいるテナントとは逆方向だが、霞の方を向くわけにも行かず、ただ歩く。

 ぴちゃぴちゃという足音が聞こえてくる。ざあざあという雨音の隙間を塗って聞こえてくる。

「逃げないで、大丈夫だから。ほんの少し苦しい思いをするだけ」

「「…………」」

 それでも俺たちは振り向かない。歩くスピードを上げる。それは徒競走のように。

 なのに、霞の声はすぐそばにあって、ちっとも離れる様子がなかった。

「私はね、君に戻って欲しいのよ。雨と桜と絶望の街じゃなく、正しい世界に」

「いい加減にしろ! 俺はお前とは話す気はない!」

 絶対に振り向かない。歩くことも止めない。

 なのに、声はすぐ後ろで聞こえてくる。

「一生雨と桜と絶望の街の住人ではいたくないでしょう?」

 あんまりしつこく、しかも俺の心を揺さぶるようなことばかり言うモノだから、次第に好奇心がわき上がってきて、つい――

「……この街から出る方法があるとでもいうのか?」

「日向! 会話しないで!」

 有樹が激昂し、俺の手を掴んで走り出した。俺たちの傘が両方とも落ちてしまったが、もはや傘は邪魔。雨に打たれてもいいからとにかく逃げる。それが正解の一手だった。

 俺は走りながら「ごめん」と謝罪したが、有樹は「喋る暇あったら走る!」と叱りつけた。

 まったく正論である。口答えの余地など微塵もない。

 さて、霞の声であるが、走っているはずなのに、後ろからは走っているような荒い吐息は全く聞こえないのに。どういうわけか、

「本当に頑なねえ。まあいいけど。今日はちょっと私も頑張っちゃうから」

 まるで首の裏あたりに立っているような距離から霞の声が聞こえてきた。

 ぞくりと、雨とは別の氷のように冷たい水滴が俺の背中を伝った。

 振り向いてはいけない。絶対に振り向いてはいけない。

 まるで死がシールのように張り付いているかのようだ。

「取り敢えず、その有樹って子をこの世界もろとも消してのけるわね」

「な……に?」

 喉が、震える。俺は咄嗟に有樹を前に走らせ、盾となるように後ろについた。

 霞の声は変わらず俺のすぐ後ろから聞こえてくる。

「雨と桜と絶望の街だっけ? そんなもの、存在してはいけないのよ。綺麗さっぱり消してしまわないとね」

「まさか……」

 ごくりと、喉が鳴る。得体のしれない恐怖が全身を駆け抜ける。

「いや、そんなこと出来るわけがない」

 首を振りたいが、そんな暇があったら走るべきだ。実際俺は走った。

 ただ、心の中では「確かに霞は不思議なガキだが、一体全体どうやって世界を滅亡させるってんだ」と言いたい気分でいっぱいである。

 そんな心理を読み取ったか、あるいは霞がエスパーなのか、

「どうやって? そんなの――」

 そう『答え』て、ぱちんと、指を鳴らした時の音が耳の奥へと入ってきた。

「こうやって、よ」

「え――」

 実際霞は指を鳴らしたのだろう。そしておそらくは指を鳴らしただけなのだろう。

 だが――だとするなら、絶対におかしかった。

「な……!?」「ひ、日向……っ! そんな、そんなそんな!」

 俺と有樹が同時に悲鳴を上げ、足を止めてしまう

 俺はぶるぶると身体を震わせ、目を見開いて周囲を見回してしまった。いや、せざるを得なかった。

 何故なら、何故なら――

「馬鹿な……」

 世界は確かに霞によって破壊されたからだ。

 その第一弾はすぐ傍のビルから行われた。ぱりんと八階の窓が割られ、ひょこっとスーツ姿の初老の男が顔を出す。

「さあ、ビルの窓は開かれた! 社員諸君! これから我々は一斉に飛び降りるんだ。ナイアガラの滝だよ! さあ、続くんだ! 行くぞ!」

 そう言って彼は何のためらいもなく頭から地面にダイブし、綺麗な鮮血を道路に咲かせた。言うまでもなく即死である。

 だが、異常はこれで終わらなかった。

「はい社長! さあ、社長に続こう!」

 そう言って四十代ほどの中年男性が同じように頭からダイブする。少し身体がズレて頭は直撃しなかったが、代わりに首の骨を変な方向に折り曲げながら朽ちていった。

「これは凄いよ。僕はこれから飛び降り自殺するんだね!」

 次いで若手男性も続く。こちらはトマトケチャップ化に成功した。

「私も、飛び降りなんて生まれて初めて」

 女性社員も続いた。頭を炸裂させ、脳みそを飛び散らせる。八階程度の高さではカチ割るのが精一杯だと思ったが、華奢な女性はこの高さでも中身を飛び散らせるには十分のようだ。

「素敵だあ、飛び降りなんて、なんて素敵なんだ!」

 続く続く。みなが続く。プールの飛び込み台から飛ぶように落ちる。唯一の違いは手を前に出して折らず、頭を真っ先にぶつけるように落ちていく。

「……飛び降り、したい」

 それはまるで、ミサイルのようだった。彼らは滝といった。しかし俺にはミサイルにしか見えなかった。

「滝だ。人間の滝だあ。俺も続かなくっちゃ!」

 人間の死体が次々と山となって構築され、あたり一面を真っ赤に染めていく。刹那的なミサイル。

「私たちの飛び降りで滝が完成するのね! 行くわ!」

 最後の一人が落ちたとき、そこには一面の死体が花畑のように咲き乱れる。いくらか脳みそが飛び散っていて、雑草のようだった。

「なんだ……これは……」

 一言で言うなら『衝撃的な自殺シーン』とでも言おうか。

 白々しくて、陳腐で、けれどそれ以外形容できる言葉がない。

「どう? 世界、壊れてきたんじゃない?」

「霞……まさか、いや、お前が……やったのか?」

 ついに俺は振り向いてしまった。霞はすぐ後ろにいた。距離は一メートルも離れていない。

 慌てて五メートルほど距離を取る。霞は微動だにせず、ただ両腕をばっと広げ、

「勿論よ。さあ。もうおとぎ話はおしまい。冷たい現実の世界へ、ようこそ」

 まるで抱きしめてと言わんばかりの態度でそう答えた。

「現実……だと?」

 と、霞が手のひらの形を変え、指を鳴らす。ぱちんぱちん。左右一度ずつ。どちらも弾けるような音が響き、その直後に――

「時子。どうやって死のうか。いや、決まっているな。ごめん。僕たちの愛は炎と共に」

「さ! 目をえぐって! その松明で!」

「もちろんだ。君の脳をゆで卵にしてやるよ! そして俺もまた、君によって目を抉られるんだ。その松明によって!」

「「キャアアアアア!」」

 自殺が発生した。

 集団だったり、個人だったり、それは様々ではあったが共通するのはその全員が異様なまでに猟奇的な自殺を遂げた、ということだ。

 普通自殺というのは首つり、飛び降り、飛び込みが普通。だとするなら彼らはどうしてあんな気色悪い手段で死んでいくのか。

 霞がそうさせているのか。いや、そうなのだろう。

「そら、そらそら」

 楽しそうに霞は指を鳴らし続ける。

 ぱちんぱちん、ぱちんぱちん、ぱちんぱちん、ぱちんぱちん。

 そしてそれに連動するように通行人たちが次から次へと猟奇的な自殺を敢行する。

「な……ぜ……」

「日向……私、怖い」

 有樹が全身を震わせながら俺の腕にしがみついてきた。

 俺に出来ることはそっと有樹を抱き寄せることだけ。

「わかってる。俺だって、俺だって……怖い」

 理解が出来ない。納得も出来ない。科学的じゃない。合理的じゃない。

 限りなく意味不明な現象だ。超常現象と言ってもいい。

 まるで人類は霞によって自殺させられる運命なんだと言わんばかりの異常事態。

 この世にあるあらゆる災厄の中で最も奇矯な代物。

 その狂いっぷりは雨と桜と絶望の街というデタラメな世界さえも凌駕していた。

「肛門にドラゴン花火を突っ込みました。どんなことになるのか楽しみです。口の中に突っ込みます。あむ。火を……ぱぱぱぱぱん!」

「春雨の、腹を切り裂き、我が身にて、花散里に、血を垂らしむる。いざ! う……ぐ……か、介錯……無用! う、うぐぐぐ!」

「僕は出来るだろうか。死ぬまで息を止めるってことをさ。我慢できなくて呼吸しちゃうのかな。いや、やってみよう! 死ぬまで息を止めよう! んんっ! ……んっ、んっ! んんっ! んんんっ! んー! んー! んんんっ! んんんんんっ! んーんーんー! んっ!」

「あなた、私に垂直落下式ブレンバスターをお願い。あ、そうよ。頭からぐしゃ! とお願いね。その後続いてね」

「ハニー! ああ、俺のハニー! 頭を、俺の垂直落下式ブレンバスターで脳みそが出てしまった! 俺も死ななきゃ! あ、拳銃! 俺はこみかみをうちます。んぎっ!」

 俺はただただ呆然と自殺を見つめることしかできなかった。足が彫像のように固まって動けない。心臓がどくどくと強烈な鼓動を鳴らし、嫌な汗がほとばしる。雨の冷たさなどもう微塵も感じられなかった。

「ありえないだろ……なんだこれは……!?」

「そんな……人々が……うっ!」

 有樹がいきなり口元を押さえ――手の隙間から饐えた臭いのする食べ物の残骸をひじりだした。

「有樹!」

 慌てて俺は有樹の背中をさする。有樹は路上だろうが構わず嘔吐を始めた。凄い量の食べ物が胃液と共にびちゃびちゃと雨に混じって地面に落ちた。

「うえぇ……はぁ……はぁ……」

 実を言うと俺だって吐きたい気分でいっぱいだった。胃液がこみ上げてきて、飲み込むので精一杯だ。

 それほどまでにこの光景は狂っていて、気持ち悪くて、おぞましかったのだ。

「無理もない……こんな、狂気的な……馬鹿な……」

「どういう世界が見ているのかしらね。うふ、なんか面白いわ、日向くん」

「霞……っ!」

 俺はぎっと霞をねめつける。霞はこの惨劇を目の当たりにしていながら平静としていた。ただ薄ら笑いを浮かべながら楽しそうにぱちんぱちんと指を鳴らすだけだ。

 そしてそのスナップ音に連動して、人々は自殺していく。

「あー、諸君。首切りはもっとも有効な自殺方法である! だが! 我々全員が華麗なる自殺モニュメントを完成するにはチームワークとタイミングが重要である!」

「「「「「はい、先生!」」」」」

「そこで合言葉だ。えっちすけっちわんたっちと叫びながら首を切るのだ! いいかね、一度しかやらない。よく見て続きなさい。えっちでナイフに頸動脈に添え、すけっちでカッ切り、わんたっちで人間ピラミッドを作るんだ。うおっ!」

「先生! さあ、みんな、いくぞ!」

「「「「「「「おう!」」」」」」」」

「えっち!」「すけっち!」「わんたっち!」

 死んだ。中学生くらいの体操服姿の死体が組体操のピラミッドを形成し、絶命と同時にバタバタと崩れ落ちる。彼らは引率の先生の命令に忠実に従い、どこから取り出したのかカッターを取り出し、えっち! の声と共に刃を喉にあて、すけっち! で切り裂き、そしてわんたっち! でそれは見事な組体操ピラミッドを形成した。血を大量にまき散らし、白い体操服は真っ赤に染まる。そして死んで、バベルの塔のように崩れていくのだ。

 雨と桜と絶望の街は住民が少ないはずなのに、一体どこからこれだけの住民が現れたのか。そして何故彼らは例外なく凄まじい死に様を見せるのか。まるで理解できなかった。

「なんだ、この光景は……うっ!」

 胃が強烈な痙攣!

「お、おええええええっ!」

 我慢できず、俺もついに吐いてしまった。胸の下あたりに鈍い痛みが走る。鼻呼吸が出来ない。涙が出てきて止まらない。

 だが、そんな俺たちの前に自殺は容赦なく続いていった。

「俺的にこの自殺はつらい! でもやるしかない。俺の腕は今、桜に縛られている。俺の足は今、車に縛られている! ああ、車が動きます。あ、ああ、あああ、ああああ、あああああ、ああああああああっ!」

「桜大好き♪ あ、私、今お尻に枝入れちゃってる……♪ あ、す、すごい……このまま、私、あ、喉まで貫いちゃうんだぁ……あ、あは……はは……あんっ……んっはぁ……あ、死ぬ、私死ぬ。死んじゃう。死ぬ死ぬ、あ、すご……うぐっ、うぷっ……うげええ……おご……ぼこ、ぼこ、ぼこ」

「あぎゃああああ! 鉛筆が、鉛筆があああ! 鉛筆が! あたしの目に! 脳に貫かれる! あ、あが! あぎゃぎゃ! 痛い、痛い痛い痛い痛い痛い! 痛いよぅ! いたぁい! いぎ! い、いぎ、いぎぎぎ、いぎっ!」

「ああ、青酸カリ美味しい……たまらない……くせになっちゃ……うぷっ」

 ある者は首にロープをくくりつけてビルの屋上からバンジージャンプをした。

 ある者は車のタイヤに顔を添え、ミンチになった。

 ある者は雨で大量の水が溢れる排水ポンプを歯を吹き飛ばしながら喉奥に突っ込み、腹を破裂させた。

 あるカップルはお互いを生きたまま食べ続け、血まみれになって二人とも死んだ。

「街が……死んでいく。滅びて……いく」

 俺は何度吐いたろうか。どれだけ泣いたろうか。

 でも、何も変わらない。

 俺の傍らでは有樹も同じく吐き続けていた。

 二人のゲロが重なりあい、ホカホカの湯気を立てて悪臭を放つ。

「はぁ……はぁ……もう、私無理……耐えられない」

「俺も、これは、俺も守れない。だけど、不思議だな。どうしてだろうな?」

「あ、日向も。そう、不思議だよね」

 俺と有樹はお互い顔を見合わせ、泣きながら、同時に――

「「なんで、自殺したいんだろう?」」


「だらしないわね! しゃんとしなさい!」


 ぐいっと俺と有樹は首根っこを掴まれ、無理矢理起き上がらせられた。

 口元をぬぐいながら首だけ振り返ると、そこには音居なやがいて、極めて険しい顔で俺たちをねめつけていた。

「お、音居さん……」

 狂人・音居なやは平然としていた。雨に打たれびしょびしょになりながら、彼女は自殺することなく、泣くことも吐くこともなく、平然としていたのである。

 それが、凄く頼もしく見えた。

「いい? これこそが霞の本当の力。宇宙破砕真理の、空想力学自殺淵源能力!」

「…………」

 言う言葉は電波だった。なのに何故だろう。その言葉にヘンテコな説得力が篭もっていたのは。

「これに抗うことは誰にもできないわ。私にもね」

「え……それって……」

「逃げなさい」

 音居さんが俺たちを離すと、忌々しそうにぎり、と奥歯を軋ませながら言った。

 しかし、それはつまり――

「逃げなさいって……音居さん、は?」

「私は霞を殺す。必ず殺す。今度こそ殺す。殺す」

 霞は有樹と違って音居さんには反応を示すようで、少し苛立たしげに腰に手を添え、冷たい視線を投げかけながら、ため息を一つ。

「あら、また邪魔が……しょうがないわねえ」

 そして、ぱちん。

「人ってどうしたら死ぬの? 早速試してみないと! 私は今から死にます! ここに私が作ったプラスチック爆弾があります。爆散します!」

「お、こんなところにガソリンがあるじゃないか! さっそく浴びよう! ぷはーっ! 死んでいくーっ! さ、ライターでしゅぼっと……ぼんっ!」

「僕を皮を剥いでいく。一枚一枚剥いでいく。筋肉が見える。剥いでいく。血管が見える。剥いでいく。骨が見える。剥いでいく。心臓が見える。剥いでいく。あれ? 何もなくなった」

 当然とばかりに繰り出される恐るべき自殺シーン。

 しかし、音居さんは自殺しなかった。彼女の手にはいつの間にか刃渡り二十センチはあろうかという大型ナイフが握られていて、鈍色の切っ先を霞に向けていた。

「殺す。この恐るべきブラックホール悪魔を殺さなければならない。宇宙をねじまげ、波動をあやつり、音波をいじくり、脳波をこねくり回すこの豚を、抹殺しなければならない!」

 そして――駆けた。まるでヤクザの鉄砲玉のように右手で柄を握り、左手で柄頭を押さえ、脇の下辺りに構え、霞に向けて突撃したのだ。

「あ、音居さん!」

 俺の叫びとほぼ同時に音居さんは霞に激突する。

 しかし、血がこぼれる様子も飛び散る様子も見られなかった。霞はうざったそうに表情を歪ませていたが、そこに痛みとか苦しみとか、そういうダメージ的なものは感じられない。

 ナイフは刺さらなかった? 音居さんの背中で見えないが、構図的には躱しているようには見えないし、位置的にも絶対に心臓を貫いたはずだ。

 ただ、音居さんの、

「逃げなさい! 私に構わないで!」

 そんな悲痛な声が殺すことに失敗したという証拠として俺の耳に悲しく響いた。

 それに、まだ恐怖とさっき吐いたことによるダメージで思うように身体が動かないのだ。

「いや……しかし……」

「日向……」

 有樹も同じだ。お互い先ほどからぴくりとも動くことができないでいる。

 ただ、俺の前にいる音居さんがナイフを抜き、顔に、首に、腕に、腹に、腰に、何度となく突き刺し、けれど血の一滴も流さずただ邪魔そうに顔をしかめるだけのバケモノを見て、俺は決断しなければならないことだけははっきりとわかった。

 霞は人間じゃない。絶対に人間じゃない。人の姿をしたエイリアン。音居さんの言うように破壊者なのだ。

 俺たちに出来ることはただ一つ。

「くっ! わかった! 有樹、行こう!」

「え、でも音居さんは……」

「……信じるんだ」

 俺はそう言い、ぎゅっと唇を噛みしめて有樹の手を取る。

 そして――必死に自分の足に動けと言い聞かせて、一歩、また一歩と霞から離れていった。

「首つりってシンプルで素敵だよね。憧れちゃう。だって、お腹にくくりつけてビルから飛び降りたら胴体ちぎれちゃったんだもの」

「俺は車に頭突きするぞおおおおお! ぶちゅ!」

「今から内臓を裏返します。口から内臓を全部出します。喉に手を突っ込み……う、うぷ、胃袋を……裏返し……うげえ……で、……ぼこぼこ。ぐぶ、ぶびゅびゅびゅ、ぶべ」

 行き交う中で聞こえる自殺のハーモニーが、再び俺の胃袋を怪しく刺激する。

 それは有樹も同じ。口元を必死に押さえながら、涙を流し俺を見る。

「でも逃げるってどこへ!?」

「知らない! とにかく走ろう! 音居さんは……あ」

「え? どうした……うそ……」

 俺たちは、振り向いた。振り向いてしまった。

 足は止めてない。走ってはいないが、それでも着実に霞から距離を取っている。

 でも、遅々とした移動では見えてしまうのだ。

 ――惨劇が。

「霞……貴女、恐るべき悪魔だったのね、いえ、魔王」

 音居さんはナイフを刺し続けていた。何度も何度も刺し続けていた。それはサイコ的ですらある。猟奇的殺人行為だ。

 しかし、それは相手が人間なら、だ。

「そろそろ大人しくなってくれると助かるのよねえ。これでいいかしら?」

 霞が指をぱちんと鳴らす。

音居さんはナイフをからんと落とし、呆然と立ち尽くした。

「日向くん……有樹さん……ごめんなさい、私は、ここまでのようね」

 ちらりとこちらを見て微笑む音居さんに、俺たちは叫び声を上げる。

「「音居さん!」」

「ふ……短い間だけど、楽しかったわ」

 音居さんはそう言って、雨降りしきる天を見上げる。一方で彼女はいつの間にか地面に置かれていた『硫酸』とラベルの貼られた一ガロンはありそうな巨大な瓶に手をかける。

「私の屍を踏み越えて……また、この世界を……守……」

 音居さんは瓶の蓋を開ける。両手で重そうに瓶を持ち、そして――

「さようなら……んぐっ」

 硫酸を、飲み始めた。

 俺は思わず叫び声を上げる。

「な……なにをしているんだ音居さん!?」

 しかし音居さんは振り返ることなく、まるでギャグ漫画のように巨大な瓶からあふれ出る硫酸を飲み続ける。瓶は大きくかなりの量が漏れ、音居さんの肌を、服を、ただれさせる。

「んぐっ! んぐっ! んぐっ! んぐっ! んぐっ!」

 嫌な臭いが漂う。鼻を突くたまらない悪臭。

 煙だろうか。音居さんから上がっている。顔がぐしゃぐしゃに酸火傷を負い、白く、赤く色を変えていく。喉もただれ、指もただれ、服は溶け、胸元が見えてそれもただれる。

 けれど、音居さんは決してそのスピードを緩めることなく、ただひたすらに硫酸を飲み続けていた。

 ――自殺。

 こんなバカげたやり方があるのか? 確かに音居さんは狂人だった。壊れていた。けれど、いくらなんでも硫酸を死ぬまで飲み干すような人間じゃない。

 いや、そんな人間いるはずがない。あるはずがない。なのに、眼前にはその光景が広がっていた。信じられなかった。確かに意味不明な自殺を繰り返し、雨と桜と絶望の街が破壊されている真っ最中ではあるが、それにしても音居さんの自殺はおかしすぎた。

 これが霞の力だというのだろうか。霞にも硫酸はいくらかかかっている。けれど音居さんと違って火傷一つ負っていなかった。ただ呆れたように肩をすくめ、すっと音居さんを横切り、俺たちの方へ歩み出してきた。

「見ないで日向! 行こうよ!」

「あ、ああ……音居さん……君は……」

 胃液!

「うっぷ!」

 吐いた。いや、吐くなという方が無理だ。有樹は平気なのか? ああ、見ていないのか。正解だ。大正解だ。見たら絶対吐く。なんだあの饐えた臭いは。なんだあの大火傷の身体は。なんだあの自殺方法は!

 音居さんは全ての硫酸を飲み終え、がらんと瓶を落とす。そしてそのまま、膝から崩れ落ちて、口と鼻から変な液をまきちらしながら死んでいった。

 あれを見て、俺は――

「日向っ!」

 有樹の怒号。俺ははっとなり、

「あ、ああ! ……音居さん、ごめん!」

 そう言って駆け出した。ついに俺は歩くことから走ることが出来たのである。

 最後に俺は、身を挺して守ってくれた音居なやという少女に対し、心からの感謝を延べ、

「そして……ありがとう……っ!」

 涙を空に散らした。


 音居さんは死んだ。

 霞によって生み出された大伽藍の瓦礫と共に、大地の裂け目に飲み込まれてしまったのだ。

 それは硫酸を死ぬまで飲み干し、浴び続けるという気色悪いことこの上ない自殺方法によって。

 だが、お陰で俺たちは本当にわずかだが、霞に隙を作らせることが出来、こうして逃げることが出来た。

 その道中。ひたすらに雨と桜と絶望の街を走り続けて直面した新たな問題。

「く……どうして、どうして果てがないんだ!? なんでこの街はいつまでもいつまでも同じ景色なんだよっ!」

 そう、雨と桜と絶望の街に道路は一本しかない。交差点がない。迂回路がない。脇道もない。ただただ大通りの道が一つしかないのだ。逃げるとか撒くとかそういうことが構造上不可能で、それは霞にとって圧倒的に優位だった。

 霞の接近は住民たちの自殺でわかる。普段はまばらな住民たちがこの時に限ってはやたらうようよしていて、その全てが自殺していく。その自殺する位置で霞との距離が把握できるというわけだ。

 ただ、それはつまり、絶えず猟奇的自殺を見続けなければならないという拷問でもある。

「ひっ! 日向!」

「見るな有樹! くそ……人々が自殺していく……そんな、そんな馬鹿な!」

 俺は自殺したがために停車した車に乗り込み、運転の仕方なんかさっぱりわからないけれど取り敢えずアクセルをふかし、この狂った道路を突き進んでみた。

 幸い一本道で、住民はうようよいたが車は本当に少なかったので飛ばすのに苦労はしなかった。オートマ万歳である。

 ただ、だからこそ気づく奇異。

「おかしい。何もかもがおかしい」

 景色はどれだけ進んでも変わらない。時速百二十キロで突き進んでいるのに雨と桜と絶望の街は果てしなく同じ景色を写しだしていく。

 それは高速道路よりも不気味な平坦さだった。

 そして、これだけのスピードを出しているにも拘わらず、ちらりと脇を見ると自殺者は洗われているのだ。つまり、霞は近いのだ。

 どうすればいいのかわからない。対策がない。

 すると――がんっ! という衝撃と共に車が揺れ、走行が出来なくなる。雨で滑りやすい道路で運転技術もない俺は車をくるくると回転させ、そのまま数百メートル滑り続けて、やむなく停車せざるを得なくなった。

 一体何かと後ろを見ると――飛び降り自殺者の折れた首が、極めて無機質な、仮面のような顔をたたえてこちらを見つめていた。

 俺と有樹は恐怖からたまらず車を降りてしまう。

 あれを振り落とすのも、今更運転するのも無理だった。

 そんな度胸も幽鬼もありはしない。 

 ピー、ガガガガ、ピーガー。

 雨が、止んだね

 ピー、ガガガガ、ピーガー。

「え? あ、あれ?」

 また、あの音が脳内で響いた。

 次いで異変。ざあざあという音が消え、服が濡れない。空を見る。灰色だけど、雨が――

「あ、あれ? 雨が。止んだ?」

「何言ってるの日向っ! ぼうっとしないで!」

 ぱちんと頬をはたかれる。ざあざあ。雨は降っていた。

 正気に戻った俺は改めて自分の頬を叩き、有樹に頭を下げた。

「あ、ああ。ごめん」

 霞はおそらく近い。時速百二十キロで逃げても、それでも霞はそばにいる。

 だが、その前に俺はたった今感じた異変について深い懸念を覚えてしまった。

「しかし……なんだ……世界が……」

 思考の乱れと、雨が止むということ。

 前者は以前にもあったが、後者については俺が雨と桜と絶望の街で暮らしてから一度もなかった。

「俺はまさか、雨と桜と絶望の街から抜けだそうとしているのか」

 霞の力だろうか? それとも他の? わからない。ただ、あの雨が止んだ時。

「でも、なんでだ?」

 心臓の奥から、脳の中から、臓腑の底から、

「なんで、ひどくイヤな気分にさせられるんだ?」

 俺はじっと手を見る。雨がぴしゃぴしゃ打っていた。変わらない。そしてそのことが不思議なくらい俺に安堵感を与える。

 ――気配。

 後ろを向くと百メートルくらい彼方に霞がいた。彼女は悠然と歩いていた。だというのにその速度は時速二十四キロはありそうだった。

「はっ! ……くっ!」

 思考している暇などない。俺は有樹の背中をぽんと叩く。

「有樹、車はもう無理だ。走ろう」

 おそらくだが、車だろうがジェット機だろうが、霞を引き離すことは出来ない。

 実際出来ていない。霞は明らかに超常的な力で俺たちを追ってきている。

 だからこの逃げるという行為自体に価値はないのかもしれない。確かに車を使って百メートルくらいは引き離せた。このまま百二十、いや、百八十キロで突っ走れば一キロくらい離せるのではないかという期待がないわけではない。だというのに、俺はためらった。

 それはやはりさっきの強制停車がトラウマになっていたからだ。またさっきみたいに飛び降り自殺者が車に落ちたら。それも後ろではなく前に。

 その時俺はハンドル操作を正確にできる気はしない。ビルか桜に当たって死んでしまうんじゃないかという恐怖が、俺の搭乗を拒ませるのだ。

 でもそれを有樹の前で言うのははばかられた。おそらく有樹はわかっているだろうけれど、敢えて口にすることは、みっともなくて出来ないのだ。

 こんな土壇場なのにどうでもいいことを考えてしまう。人間だから。確か認証バイアスと言ったか。そう、危機的状況なのに間抜けな思考をしてしまう。そういうものなのだ。

 と、有樹が不安そうに俺を見て、か細い声で囁いてくる。

「逃げ切れるかな……?」

「わからない。でも、やるしかない!」

 どのみち逃げるしかない。逃げられる気がカケラもしないけれど、それでも。

「う、うん!」

 有樹は力強く頷き、再び雨と桜と絶望の街を駆けるのだった。

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