セックスサックス・シンドローム

鹿毛野ハレ

セックスサックス・シンドローム

「――サックスとセックスって似てねえか?」


 雄大ゆうだいがとりとめもなく呟いた瞬間、美鈴みれいくわえていたマウスピースを噴き出した。


「ばっかじゃないの、こんな時に! だいたいなんであんたはそんなに気だるい顔してんのよ!」

「いや、こんな時だからなおさら? 緊張をほぐしてやろうと思って」

「はあ!? ふざけないで! あんたなんかにほぐされなくたって、十分リラックスして吹けるんだから!」


 すっとんきょうな声で呆れる美鈴に、雄大は苦笑いで辺りを見回す。


でもか?」

だからよ。今までだってそうだったでしょ」


 どこまでも続く漆黒の大理石を見渡して、雄大はため息を吐いた。


 古い城下町を見下ろすように造られた墓地には、昼間でも秋風が肌寒くなびいている。


 碁盤ごばんように整列された通路の一角で、今にも演奏を始めようとする美鈴の口元から雄大はサックスを引き離した。


「疲れたから、吹く前にあっちで少し休憩しないか」


 珍しく言い訳じみた笑顔を向ける雄大の瞳に、美鈴はうなずいて木陰のベンチへ歩き出す。


 いつもは高校の制服を年相応に着こなす美鈴も、法事ほうじの今日は喪服に身を包み、その肩からは、なんとも不釣りあいな金色のサックスが揺れていた。


 そんな幼馴染の姿があまりにもおかしく見えて、雄大が笑うと、それを察したかのように美鈴は振り返る。


「なに笑ってんのよ」

「いや、なんかセンチメンタルだなと思ってよ。このだだっ広いお墓にたった一人で、喪服にサックスぶらさげてるんだぜ。映画みたいじゃないか?」


 冗談めかしてそう言うと、美鈴は眉間みけんにわずかにしわを寄せ、しかし寂しそうにつん、と雄大から視線を逸らした。


 久々にしっかりと向き合った彼女は来年からの大学生活に備えて、最近は化粧を始めたらしい。柔らかい頬には抑え気味のチークがほのかに赤みを帯び、ぱっちりとした二重瞼の中の大きな瞳には、サックスの輝きが写っている。


 肩下まで伸びた漆塗うるしぬりのようなストレートの黒髪は彼女が俯くと前に垂れてきて、美鈴はそれを振り払うように再び雄大と目を合わせると、いつもの調子でにらみをきかせた。


「ったく……。誰のせいだと思ってんのよ」

「うっ、それを言われるとなんも言えねえ」

「ふんっ、ざまあみなさい」


 得意げに微笑ほほえんで腰かける美鈴を待ってから、雄大も隣に座って大きくのびをする。数年前は座る度にきいきいときしんでいたこのベンチも、今は空気を読んだように静かに二人の言葉を待っていた。


「いやー、法事ってあんなに長いものだったんだな。俺はじめてだったから驚いたよ。坊さんの念仏なんか睡眠魔法みたいでさ、美鈴の下手くそな演奏聞いている方がよっぽどマシだった」

「なによにその言い方、失礼ね。これでもかなり上手くなったんだから」

「まあこの一年、ほとんど毎日練習してたしな。確かに上手くなった。親父さんもきっと天国で喜んでるよ」

「そうね、ありがとう。でもまだ父さんにも、それに雄大にも遠く及ばないな……」

「それは仕方ねえさ。これでも全日本ジュニアコンクール最優秀の実力だし、なんたって親父さんの一番弟子だからな」

「なおさらしゃくさわるわね。まったく……」

「そうか? 悪いな、でも事実だから!」


 少し意地悪に微笑むと、美鈴はわかりやすく頬を膨らませる。

 そんな彼女に雄大は手をあげて降参のポーズをとると、にかっとはぐらかすように笑うのだった。

 


 美鈴の父親は、世界的なサックス奏者だった。

 ただ数年前に演奏先での事故で命を落とし、今はこの場所で眠っている。


「――初めて親父さんにサックス見せてもらっときさ、金ぴかでかっこいい! って思ったこと今でも鮮明に覚えてるよ」

「前にも聞いた。それでずっと金管楽器だと思ってたんでしょ?」

「そうそう。中学生の時に木管楽器って改めて知った時には衝撃を受けたな。おまえ金管じゃなかったんかいってさ!」


 目を輝かせながら、芸人のような仕草をする雄大に、美鈴は呆れたように苦笑う。


「そのツッコミも、この話も何回目よ……。このサックス大好きバカ男」

「あれ? そんな何度も話したことあったっけ?」

「何度どころじゃないわよ。何十回ってくらい」


 言っている自分では気づかないのだろう。雄大はおかしいなと頭をく。

 そんな姿をいつくしむように美鈴はくすりと微笑んだ。


「まったく、あんた変わらないわよね。そういえば中学の時もサックスとセックス間違えたとか言って大爆笑してさ。一緒にいたあたしの身にもなってよ、恥ずかしいんだから」

「……そんなことあったか?」

「あったの。あたしの友達、ドン引きだったんだからね」

「そうか、そりゃあ悪かったな……」

「いいわよ、そういう年頃だったんだし。さっきはいつまで中学生みたいなこと言ってんのよって思ったけどね」

「そうか? 俺はこの年になっても言っちゃうけどな。……セックスサックス!」

「ちょっ! ちょっとやめて! 誰か聞いてたらどうすんのよ!」


 唐突に笑って叫ぶ雄大の口をおさえて、美鈴は大きくため息を吐いた。


「ねえ、あんた。もはやそれ病気よ。中学生特有の下ネタ症候群! 大人になりなさい。しかもこんな大事な時によくもヘラヘラとそんな――」

「大丈夫だよ、俺の声なんか誰も聞いてねえから。それとさ、今思いついたんだけど、そうやっていつまでも少年の心を忘れない現象にこんな名前をつけないか――」


 まだ言い足りない美鈴の言葉を遮り、雄大はひとつ咳払いして姿勢を正すと、演奏時の息継いきつぎのように軽く吸ってから、一言で吐き出した。


「――セックスサックス症候群シンドローム!」

「…………最っ低! 本当にばかなの!?」

「あれ? なかなか良いと思ったんだけどな」

「呆れるにも程があんのよ! この後どんな気持ちでサックスくわえればいいわけ!?」

「とりあえず少年の頃の気持ちと、少しのエロスを感じながら――」

「ばかっ! あたしに少年おとこの時期なんてないし、お墓で煩悩ぼんのうにまみれながらサックス吹くほど変態じゃない! もういい、さっさと吹いて終わりにしてやる!」


 そう言って、美鈴は風を巻き上げるがごとく立ち上がり、墓前ぼぜんに向かっていく。


 そんな怒気を顕わにした背中を追いながら、雄大は言い訳よろしく言葉をつむいだ。


「でもさ、こういう気持ちって、ずっと大事なんじゃねえか。こんな年になっても、ばかみたいに二人で笑ってられんだぜ? 大人になりすぎるのもよくねえってことだろ」

「あたしはぜんぜん面白くない! それにみんな大人になるの。あんたとは違うの!」


 振り返らないまま、すたすたと進んでいく美鈴の後ろ姿に雄大はため息を吐く。ああやってへそを曲げてしまうと、美鈴は聞く耳を持ってくれない。


 それに本当はこんな話をしたかったわけではないのだ。しかもこれが最後のチャンスだというのに。


「悪かった! 違うんだ。そんなことが言いたかったわけじゃなくて! ちゃんと伝えたいことがあるんだ!」


 このまま終わりにすることはできない。そう腹をくくって、雄大はいつもより真剣な声で美鈴を呼ぶ。

 その思いが通じたのか、美鈴は振り返ることはしなかったが、その場に止まった。


「親父さんに頼まれたことがあったんだ……」


 そう言うと、美鈴のサックスをかけている小さな肩がわずかに震えた気がした。

 その微妙な反応を頼りに、雄大は話を続けていく。


「親父さん、心配してたんだ。いつも自分が演奏で家を空けるとき、美鈴が文句言わずに大人しく見守っててくれることを。あまりにも聞き分けがいい子だからって……」

「そうね、自分でもそう思うわ。まあ文句言わずに待ってても良いことなんかないって今では思うけど」


 美鈴は振り返らず、そのままぶっきら棒に返事をする。


「そんで俺に頼んできたんだ。これからも一緒に子どものままでいてやってくれって。美鈴がなにか困った時に、素直になれる相手でいてくれって。俺には音をかなでる力があるから。そのサックスの音色が……美鈴を救うからって。でも――」

「それが果たせなかった。あんたはあたしと一緒にいられなくなった。それだけじゃない。あたしとしたいくつもの約束も。だから……自分の代わりだと思って、サックスの吹き方を……その音色を教えてくれたんでしょ?」


 雄大には返す言葉がなかった。美鈴の言う通りだったのだ。

 大事な恩師との約束も、大切な人との未来への約束も、すべて失ってしまった。


 だから自分はまだここにいた。それだけはよくわかっていた。

 そして自分が伝えたかったことを、もうすでに美鈴はわかっていたのだった。


「知ってたよ。雄大そういう人だもんね。あたしのこと放っておけなかったんだよね。だからこの一年間、付きっきりであたしにサックスを教えてくれたんだよね。ここで、こうして……」


 美鈴の肩が小刻みの震えているのが雄大にはわかった。右手は喪服の袖を引っ張り、目頭めがしらに充てられているように見える。


「あたし……。これだからサックス嫌いだったの。あたしの大事なもの全部持ってちゃう気がしたんだもん。でも……今ならわかるんだ。なんでお父さんが、雄大が、そんなにこの楽器を愛していたか。この音色が、どれだけ心を癒してくれるか」


 美鈴のかすれる声が、背中が、みるみるうちに弱く力を失っていくように見えて、雄大はいてもたってもいられずに後ろから抱きしめた。


 しかし、雄大にはその資格も力もない。差し出した腕は虚空こくうあおいで、成す術もいなく脇に降りる。悔しくて強く拳を握ってみるが、痛みを感じることはなかった。


「ねえ……。もう本当にこれで最期なの? 別にあたしは子どものままじゃなくたって、大丈夫なの。雄大が一緒に大人になってくれれば恐いものなんてなにもないのに……」


 振り向いた美鈴の大きな瞳からは無数の涙がこぼれ、頬を伝っては、止めることなく足元に落ちる。


 乾いた砂に染み入る美鈴の涙を止めることさえできない本当の痛みが、雄大の静かな左胸を急速に縛りつけた。


「ごめんな。でも、本当にこれで終わりなんだ。それに伝えたいことも伝えられた。むしろわかっててくれてたんだな。それに――」


 言いながら、一年前を思い出す。輝かしいほどの光の中で、たったひとつだけ望んだことが、それを許可されたことが、こんな悲しみと喜びを結び付けてくれるだなんて、その時は思いもしなかったのだ。


『なあ、神様。ちゃんと死んだら、いくらでも讃美歌さんびかを吹いてやるからさ。頼むよ、大事な人に俺の音を、これからどんな困難にぶつかっても、寄り添って、乗り越えられる力をあげるチャンスをくれないか? 一年後の、俺の、一周忌まででいいから、頼む』


「――俺は……この音色だけはちゃんと美鈴にのこしたかったんだ。親父さんと、俺の音だ。そんでそのサックスに宿ってるのは、ずっと変わらない美鈴を守っていくって俺の気持ちなんだ。だから、今度はその音色で、美鈴の音で送り出してくれ」


 うつむいたまま静かに頷き、美鈴はマウスピースに口をつける。


 息継ぎをして、音に合わせて、身体を軽く揺らす。まだまだ粗削あらけずりな低音に、丘をける風が乗せられて響く。


  ザ・ローズ。一年前にこの場所で再会してから、ずっと二人で練習してきた鎮魂歌だ。

 いつか二人で見た、古くて粗い画質の映画で流れていた。美鈴の父の十八番おはこでもある。


 いつの間にか空は優しさをこぼしたような茜色に変わり、斜陽しゃようを浴びたサックスが黄金色こがねいろに映える。


 美鈴の震える唇が、優しさと悲しみの音色をどこまでも遠くに運び、そこだけが現実から切り離されたような優しい空間の中で、雄大は静かに目を閉じて思い出す。


 初めてサックスを持った日に一緒に喜んでくれたこと。


 厳しい指導の横でいつまでも心配そうに見守ってくれたこと。


 賞を取った時に抱きしめてくれたこと。


 親父さんがなくなって、こうやって木陰のベンチで二人で泣いたこと。


 一年前に形見のサックスをここに持って来てくれた時、『教えるから吹けるようにならないか』と言った時、目を真ん丸にして驚き半分に、でも優しくうなずいてくれたこと。

 すべてが黄金色の音色と共に少しずつ薄れていく。


「ありがとう」


 最期にそう言えたかはわからない。

 再び瞼を上げると暖かい光が全身を包み、涙を流しながら音を奏でる美鈴の精一杯の微笑みが世界を彩って、やがて一閃の光となってすべてを消し去った。



 ――たった数分間の演奏を終えたとき、美鈴はその場にへたり込んだ。

 唇はまだ震えていて、むしろ先ほどよりも強く感情を吐き出そうとしている。


 周りを見渡し、今度こそ誰もいないことを確認してから、美鈴は声を上げて泣いた。


 その音色はずっと消えない。

 その想いはずっと消えない。


 一所懸命で、純粋で、美しくて、まるでせることのない少年の心が、いつまでも黄金色に燃え上がらせては、暖かく美鈴の胸を縛り付ける。


 その人に与えられた熱は、ともいえるこの想いは、永遠に消えることはないのだろう。


「それなのに……、セックスサックス症候群シンドロームなんて……、なんて名前つけてくれんのよ。大バカ者!」


 無理にでも笑って、墓石に手をえる。

 冷たい大理石は何も答えてはくれなかったが、頬をつたったしずくがサックスに落ちて、微笑むように輝いた。

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