カミ殺し

* * * * *


 闇の中にいた。

 水中にいるような息苦しさがある。果てが見えず、黒い根が波のようにうねり、我々の行く手を塞いでいる。全身を這う恐怖が時間の感覚を奪っていく。そびえる大樹たちが僅かに存在しているはずの月明かりを遮り、向かうべき方向をも分からなくさせていた。

 四十ほどの人間と共に進んでいるはずなのだが、鈴を持つ右手の感覚だけが明確で、己一人の存在のみが浮き彫りになり、孤独で闇の奥底へ放り込まれたかのような心地がある。

 降り注ぐ雨で濡れた衣に体温が徐々に奪われ、己の身体が少しずつ死んでいくようだった。


 嫌な汗がこめかみから顎先へと流れていく。鼓動が速まる。警戒のための緊張に体力が足を踏み出す程に削がれていく。手足が重い。四肢すべてに重りをつけられたようだ。

 近くにいる人の気配さえ感じられないのは何故なのか。どこへ、何を頼りに進んでいるのか。

 目に入った汗に瞼を閉じ、閉ざされた視界の中で、ひとつ遠くに存在を感じられるものがあった。それが叔父なのだと思った。先頭にいる自分と、最後尾にいる叔父をこの二つの鈴が繋いでいるようであった。それが一縷の安心を自分に与えてくれた。命綱のような、蜘蛛の糸のような。


 当初は僅かだった森からの抵抗が奥に進むほどに強くなっている。許されぬ所へ入ろうとしているのだと否が応でも知らしめてくる。どれだけ進み、どれだけ時が経ったのかは分からない。

 不意に気配があり、はたと顔をあげた。

 視界は木々の先に闇が続いているだけだ。仰いでも大樹に遮られて月明かりさえこちらに届かない。行く先にも頭上にもどこにも果てがないのだ。その果てが見えない状態で、森に侵入した最初の頃とは何かが変わったことに気付いた。

 嫌なものがこちらに来る。それは以前にも感じたことのあるものだった。

 立ち止まった私に背後から戸惑いの声があがった。吐息と共に出てきたようなかすかな声たちには、まるで数十年ぶりに口をきいたかのような掠れがあった。

 自分や叔父にのみ感じるものかと思ったが、私が足を止めると背後から人の低いざわめきが聞こえてきた。さすがに他の者たちもその異変に気付いたようだった。


「どうしたのだ、与一」


 私の後ろについたまほろばの男が私に問う。この動きにくい根の這う地でひとり馬に跨がる男には何も感じてられていないようだ。連れてこられた馬が怯えていた。


「……何か」


 私が声を発した矢先、風が強くこちらに吹き込んだ。突風と呼ぶに相応しい風が向かうべき方向から我々を吹き飛ばそうとするようにぶつかってくる。

 先頭の私を始めとして皆が咄嗟に身を屈め、まほろばの男も素早く馬を下りて近侍と共に傍の樹を影に屈み込んだが、風に驚いた馬が走り去って暗闇の奥に姿を消してしまった。そうして人間のみがそこに残された。


 皆が地面に身体を伏せるように身を小さくして風が過ぎるのを待つ。唸るような風音はまるで人の声のようだった。低く轟き、地を、世界を揺らす。声そのものが自分たちに向かって吹き荒れている。この先に恐ろしい化け物がいると想像させるには十分だった。

 鈴の高い音だけが暴風に混じって鳴り響く。強風に力の限り閉じていた瞼を開くと、途端に音が止み、己を囲む光景は大きく変化を遂げていた。

 まるで無に投げ出されたような、黒しかない場所に私はいた。あれだけ我らの前に立ち憚っていた木々がない。風は感じるが風音がなかった。ただただ闇が広がり、奥から唸り声のようなものが響いている。息を潜めて目を凝らすが何も見えない。周りにいたまほろばの男や兵たちさえも。

 真の闇だった。何もない。空虚で悲しみや寂しさといったもので己が囲まれている。押さえ込んできた負のものや記憶が更に闇の奥へと私を引きずり込んでいく。

 昔から敬っていた森とカミへ今己の手で矛先を向けているという事実。まほろばの大王の出現とそれに取り込まれていく、生まれ育った我が故郷。美しくのどかであった昔とは掛け離れた光景のムラの人々。父の死に顔。母の泣き顔。手の届かぬ場所へ自ら望み行ってしまった妹。妹にそうさせてしまった自分のこと。そうさせざるを得なかった自分の非力さ。妻や子供たちへ何らかの矛先が向かうのではないかという恐怖。

 何のために向かっているのか。

 沙耶のため。妻のため。子供たちのため。ムラのため。

 果たしてカミに勝てるのか。

 望みはない。自分の肌が冷え切っていく。


 寒い。


 怖い。悔しい。情けない。

 辛い。憎い。煩わしい。

 悲しい。寂しい。苦しい。


 ああ。


 消えてしまいそうだ。



「与一!!」


 声が弾けたその瞬間、気配が素早くすぐ傍を通り抜けたのを感じた。

 一瞬の風のように、何かが。得体の知れぬ嫌な何かが。

 その気配を己の近くに感じただけで身が凍るような心地になった。指一本動かすことさえ拒むほどに。

 何度か瞬きを繰り返してようやく視界に樹や人の姿、そして鉄の形を捉えた。世界が戻ったのだと理解し、安堵するや否や。


「駄目だ!動くな!」


 再度響いた叔父の声は雷鳴のごとく私の頭の奥底に刺さった。

 同時に後方の兵が三人ほど倒れた。見えない何かに胴体を貫かれたかのように事切れて動かなくなり、天からの雨に打たれている。真っ青だった顔が土色に変わっていく。それを把握した者たちは大きく震え上がり、倒れた兵たちからとどよめきながら離れた。

 冷たい何かが近くにいる。我々の様子を窺っている。この薄暗い中で。


「これが死か」


 私の傍でまほろばの男が呟いた。男の顔は闇夜の中でも分かるほどにひどく青ざめている。彼を支える近侍も同様であった。

 彼らにも感じられるのだ。いや、誰もが気配を感じられるほどに死が我々に近づいているのかもしれない。


「これもカミなのだろう。我らが追う化け物と相対して存在するという」


 彼は辛うじて冷静を保っているようだった。そうだと頷くと、男は身を屈めたままあたりをぐるりと見渡した。


「ならば何故、我々が求めるあのカミは姿を現さぬ」

「カミとは本来そういうものです」


 私の返答に男は眉を顰めた。今まで誰もカミの姿など見たことがなかった。だからこそ我々の信仰が薄らいだとも言える。そもそも人の前にカミが姿を現すこと自体が異例なのだ。


「姿がなければカミ殺しは叶わぬ」


 そう呟いた男が、しばらく悩む素振りをした後、すっくと突然立ち上がった。


「……そうだ、樹を」


 周りにいた死に怯える誰もがまほろばの男を見上げた。彼だけがとても異質に見えた。


「森の樹を、切り倒せば良いのだ」

 

 耳を疑った。


「何を言うか!森が怒り狂うぞ!」


 玲瓏たる声に逆らったのは叔父だった。しかし男は怯まない。それどころか見開いた瞳から烈々たる気迫を光のように放射させている。


「だからこそだ!今我々は姿の見えぬものに怯えているだけにすぎぬ。姿が見えればこちらの標的が明らかになろう!斧を持て!カミの姿を暴いてくれる!」


 近侍が素早く差し出した斧を男は左手で掴み取った。見慣れたはずの耕具は、悍ましく鉄の色を煌めかせる。

 何をする気だ。叫んで止めようにも声が出ない。出せなかった。森の樹を傷つけるなど考えたこともなかった。


「カミの首を取るぞ!!その首を大王に差し出すのだ!!」


 こちらが声を上げる前に斧は大きく振り上げられ、傍の樹の幹にめり込んだ。鈍い音が響く。心の臓をえぐられるような心地がした。

 時が、止まった。

 同時にどこからか獣の咆哮が鼓膜を突いた。悲鳴に似た痛々しい声は森そのものを揺らすようだった。


「逃げろ!!!」


 叔父が大きく叫んだ。

 地を揺らす咆哮に兵たちが震え上がり、三分の一が逃げ出したが、そのうちの半分が死に攫われ倒れた。彼らが遺体となってごろごろと転がっていくのを我々は見守っていることしか出来ない。まるで、どこにも逃げ場などないのだと言われているようだった。


 再び突風が吹いた。涼しい風の中で僅かに梅の香りがした。風が止んだ先に顔をあげて、目に見た光景に私は息を飲んだ。

 我々から遠く離れた森の奥に、何か青白く光る存在があったのだ。

 目を凝らして、一人の男がその光りの源であるように立っていることに気付く。かなり遠いというのに、その男の顔立ちは手に取るように分かった。

 私たちを音なく見据えているのは、この世の者とは思えぬ美しい面立ちの男だ。

 しかし一度瞬きをするとその姿は真白の巨大な犬に変化していた。白い毛並みは長い尾まで僅かな月明かりに煌めき、その眼は暗闇の中で青く涼やかに光る。かなり巨大な体躯をした獣だというのに生き物らしい呼吸を感じさせず、重さもないように見える。幻の中から出てきたような獣の姿。森の暗闇に眩しいほどの白い毛並みは余計にその存在を浮き立たせた。

 恐ろしいほどに美しい。泣きたいほどに、美しい。

 一瞬、その傍に妹を見た。


「……沙耶」


 私の呼び声は風に攫われる。沙耶の姿はどこにもなかった。誰もがその獣を目にして、この森にいるカミなのだと確信した。それほどに神々しい姿だった。

 あたりに小さな悲鳴を聞く。


「あれだ……」


 皆が畏怖の念を抱く中、まほろばの男は目玉が落ちるくらいに目を見開いて呟いた。瞳は大きく揺れ動き、珍しいものを目の当たりにしてひどく興奮しているようだったが、やがて憎しみを孕んだ眼差しを湛えてカミを見やった。その表情は、狂気といっても過言ではなかった。


「あれが、私の腕を奪った化け物」


 あれほどに美しい存在を、お前は化け物と呼ぶのか。


「ようやく姿を現したか」


 まほろばの男の言葉に近侍も立ち上がった。次に命ぜられることが分かっているかのようだ。


「何を座り込んでいる!武器を持て!何のためにここまで来たか忘れたか!」


 主に鼓舞され、生き残った兵たちは立ち上がる。叔父はそれを止めようと前に躍り出た。


「あの姿を見てまだ武器を振おうと言うのか!敵うはずがない!命が惜しければ逃げろ!」

「ここから逃げおおせたとて、この先に死がいるのであれば死ぬことには違わぬ。ならばあの化け物を迎え撃って命を落とす方が死に様としては勇ましかろう」


 男は決して引こうとしなかった。その男に精神を引きずられるかのごとく立ち上がり、武器を手にした兵たちが、血走った目のままに前へ出た。彼らにはこれしか道が残されていないかというように。


「構え!!」


 先に立ち上がり一列に並んだ三人の兵が、鉄の鏃を白く光る獣に向けた。


「放て!!」


 男の声を合図に、きりきりと張り詰めた弓から鈍い光りを放つ鉄が飛んだ。しかし獣が放った一声で起きた風に煽られ、鉄の鏃は標的に届く前に空しく散り、更には矢を放った兵たちをもその風が吹き飛ばした。

 我々の目の前を、兵たちの身体が横切って飛んでいった。皆が呆気にとられて、樹に身体を打ち付けて動かなくなった兵を視線で追い、震え上がった。

 力の差は歴然だ。あの獣にとっていくら鉄が毒であってもそれが届かなければ意味がない。あれは弱ってなどいない。弱っていたとしても我々が近づけるような容易い存在ではないのだ。


「次を放て!怯むな!標的は目の前だ!」


 敵わないと誰もが確信する中で、男は雨に打たれながら叫んだ。数人が出て、また薙ぎ倒され、更に数人が出て同じ事が繰り返された。あたりは瞬く間に死体だらけになった。

 この戦いの仕方では敵わぬとようやく理解したのか、苛立ちを露わにしたまほろばの男は近侍が止めるのを聞かずに前に進み出た。


「古の森のカミよ!!そなたの時代は終わったのだ!!」


 突如、男はカミに向かって早口で捲し立てた。


「そなたが私から奪った沙耶はどこにいる!?」


 私は止めようと咄嗟に男の衣を掴んだ。


「沙耶は私の妻ぞ!」


 私は男を凝視した。この男は何を言うつもりなのか。

 男は目を見開き、足取りも確かではない。狂っているように見えた。この非現実的な場所で正気を失ったか。


「あの女は、まほろばの大王へ引き渡すべき者なのだ!」


 遠くにいる獣は息を潜めて耳を傾けているようだった。返答はない。男だけの声ばかりが異音として存在している。


「お前は沙耶を愛したのか!」


 風が吹く。雨が降る。遠くに雷が鳴っている。


「哀れなものだ!沙耶はもう巫女ではない!私がそうしたのだ!あれは穢れた女だ!私が手籠めにした!あれは私が穢したのだ!」

「……何を」


 全身の皮膚を破るように血が熱くなる。怒りで身体が膨張するようだった。

 沙耶を大事にすると言ったのは誰だ。人前で妹を貶めるようなことを、何故お前がここで言えるのか。


「何を仰るのか!」


 傍で反論した私に、弾かれるように男は私を睨んだ。


「沙耶についていた侍女が白状したぞ。沙耶は私を裏切り、別の男の子を身籠ったと。大方父親はあの化け物だろう」


 すべてを知っているのだ、この男は。カヤの他に老婆の侍女がいたとは聞いていた。懐妊のことも最初に気付いたのは彼女だったと言っていた。その老婆から聞き出したか。


「そなたは始めから沙耶を私に返すつもりなどないのだ。妹を取り戻すため、カミを殺すためだけに私を利用したに過ぎない」


 言いようのない憤りで身体が震える。

 男は私の襟元を掴み上げ、その顔を私の顔にぐっと近づけた。いつもの端正で笑顔を貼り付けた顔ではない。暗がりに髪を乱し、冷静さを失った狂気じみた表情だ。


「よくも私を騙してくれたな、与一」


 囁きながらも憎しみが込められた声が自分に吐き捨てられる。


「カミを殺し、森とムラを滅ぼし、生まれた化け物の子をも殺め、取り戻した沙耶と共にそなたの首をまほろばの大王に差し出してやろう」


 妹は森を誰よりも愛していた。そこから引き離され、蔑まれ、孤独に過ごしたあの子の悲しみがお前に分かるものか。


「あの化け物と契り、子を成したあの女もまた化け物に変わらぬ。夫である私への裏切りは決して許されることではない。精々苦しめば良いのだ」


 そう言い捨てて私を地に打ち付けると、男は再度カミに向き直った。


「あれほどに穢れた女を愛したとは、古のカミとは聞いて呆れたものだ!人間の使い捨ての女でも良かったということだな!哀れで堪らぬなあ!」


 私は地に伏した身体を起こし、泥に汚れた顔を乱雑に拭いながら、あたりに響く声を聞いていた。

 未だ妹を嘲る男に身体を向け、私は腰にある太刀を素早く引き抜いた。

 この男を殺してしまいたいという気持ちが止められない。すべての元凶が目の前にいるこの男なのだと思えて仕方が無い。そうとしか考えられなくなる。


「沙耶は私に抱かれた卑しい女なのだ!」

「黙れ!!!」


 男の喚きに被さるように自分の声が響いて、太刀を振りかぶったのと同時だった。何かが落石のように自分とまほろばの男に近づいた。風であったのか、石であったのか、それもとも雷であったのか、その瞬間判別がつかなかった。

 ぐらついた足を踏みしめ、自分が無事であることを知るや否や、私が先程殺そうとした相手の身体が私の足元に倒れた。その身体には首がなかった。


 何故。

 何が起こった。

 何故、この男の頭がない。


 倒れた身体の、頭がなくなった部分から恐ろしいほどに血が流れ、私の足元を深紅に濡らしている。


「ば、化け物……」


 誰かの呟いた声が耳に届いた。

 不意に、自分に大きな影が掛かっているのに気付いた。

 何の影か。樹ではない。

 状況が飲み込めぬまま、のろのろと視線を上げた先、視界を覆い尽くした光景に私は息を止めた。

 何が起きたかを瞬時に理解した。

 私に影を落としていた正体は、ずっと遠くにいたはずのこの森のカミであった。

 目も眩むほどの白い毛並みと青い瞳はそのままに、口元を人の血に濡らし、見知った人間の首を咥えて、私の目の前にいたのだ。

 神々しく、人から掛け離れた存在に見えたが、近くで見たその姿はあまりに憔悴していた。


 獣が口にあった首を血に吐き捨てる。憎いと思った男の首が転げ落ちていく。頭を失った身体も緑の大地の上に落ちていき、我に返った近侍が悲鳴を上げてそれを追いかけていった。

 石のように固まった首を動かして再び獣を仰いだ。

 私が太刀を振りかぶったのと同時に、この獣が疾風のごとく男に飛びかかり、首を食い千切ったようだ。

 よくよく見ればその首には沙耶が言っていた通り、以前鉄で負ったとみられる傷があった。憔悴しているのはこれのためなのか。それともまた別の理由か。


「化け物だ!!」


 忽ち悲鳴で聴覚が満たされる。

 口元を赤に染めた巨大な獣は他の人々にも飛びかからんとした勢いで牙を剥き出し、傍にいた私に視線を向けた。周りにいた者たちが悲鳴をあげて私から離れていくのが分かる。

 己が殺めようとしたカミの瞳は、透き通るように青かった。

 これが妹の愛した瞳なのだ。森に流れる川のような、なんという涼やかな美しさか。


 全身の力が抜けた。手にあった太刀と鈴が落ちていった。瞼を閉じる。

 血にまみれたその牙で、己も殺されるのならば、それは当然のことだ。


 森を荒らした祟りなのだ。見返りなのだ。カミを蔑ろにした、私への。


 そうだ。

 私は、ここで死ぬのだ。


 それならば構わない。それが道理というものだろう。


「与一……!」


 瞼を押し開けて、私を呼んだ叔父に視線を投げた。顔を真っ青にした叔父が目を見開いて震えていた。

 叔父の言う通りだった。私は、間違っていたのだ。たとえ自分の選んだ道が間違っていたとしても、後悔がないのもまた事実だった。最後に子供たちに会いたかったという気持ちはあるが、それでも仕方が無い。

 自分の口元に笑みが浮かんだ。そうして私はカミに向かい合った。


──お前が、私を殺すのだ。


 まほろばの男と同じように、ひと思いに私の首を食い千切れ。



 しかし、目の前にあった獣の表情が戸惑うように緩められたのを見た。

 哀れむような、何かに気付いたような。

 大きく息を飲む。青い目に自分が大きく映っていた。

 不意に牙をもつ相手の口が動き出し、ゆっくりと言葉を象った。


「──サヤ」


 犬が発した言葉に心臓を射貫かれたような心地になった。

 絶え絶えの息で発せられたその名。


 ああ、お前は──。


 沙耶を見たのか。こんな私に。

 そうと知るや否や目頭が痛いほどに熱くなった。


「……森のカミよ」


 震える手を白い毛並みに伸ばした。

 お前は、化け物などではなかった。

 私は、きっとずっと前から、お前を知っていた。


「放て!!!」


 主を殺された近侍の声だった。反射的に目前の獣から右側に視線を移すと、生き残った数人の兵がこちらに矢と槍を向けていた。武器のすべてに、叔父と私が持っていた鈴を分解したらしきものが一つずつけられている。凜とした音であるはずの鈴音は、恐ろしく耳障りな音に聞こえた。


「やめろ!!」


 咄嗟に叫んだが、すでに兵の手を離れ、自分に向かってくるいくつかの槍と矢があった。

 まほろばの男たちは最初から、私のことをも殺すつもりだったのだと悟る。

 避ける余裕もない。鈴の不気味な音だけが鮮明だ。

 視界が鉄の鏃でいっぱいになった瞬間、横からそれを弾いたどす黒い赤と白の物体があった。目の前は突如毛並みに満たされ、それに身体ごと押されて吹き飛び、全身を巨大な樹に打ち付けて地に倒れた。


「やったか……!」


 全身の痛みに呻きながら、近侍のそんな声を聞く。何が起こったのか分からなかった。

 痛む左腕を右手で押さえながら身体を起こす。ひどい頭痛に手で頭を押さえると、髪から顎先へと伝っていく自分の血に気付いた。頭を打ったのだ。身体も節々が痛み、左腕に関しては激痛で動かせなかった。


「何が……」


 朦朧とする思考を振り切り、状況を把握しようと顔をあげて、すぐ傍に横たわっている獣を見つけた。その毛並みには更に槍と矢が刺さり、白かった体幹がどろりとした血にまみれていた。息も絶え絶えに、今にも絶命しそうなその獣は、沙耶の名を悲しげに呟いた、あの神々しい獣に違いなかった。


 私を、庇ったのか。

 何故。


「カミの首を取れ!」


 近侍の声に押されて周りの男たちがじりじりと私と獣に近づこうとしていた。獣が憔悴しきっているのを見て、当初の目的を果たそうとしているのだと悟った。


「やめろ!近づくな!」


 身体を起こした私は、もともと腰にあった剣を近づく兵に向かって投げた。


「来るな!!」


 素早く私の前に駆け寄って兵たちを止めたのは叔父だった。

 私は痛む身体を引きずりながら白い獣の頭に回って覗き込んだ。首元にあるもともとの傷に鉄の槍が深々と突き刺さり、首を左右に刺し抜いている。瞳は閉じられていたが、カミの獣はまだ浅い息をしていた。


「何故……何故、私を、お前は」


 声をかけると徐に青い瞳が覗いた。


「何故、私を庇ったのだ……!」


 私が問いかけに、大きく息を吐いた獣は淡く光り、その姿を見る見るうちに変え、人の形となった。私が覗き込むのは、沙耶を失った時に見たあの姿と変わらない男だった。

 姿は変わろうとも細めの首には槍が突き刺さったままで状態は変わっていない。彼が薄く目を開き、何かを言おうとしているのを見て、即座に膝を折って顔を近づけた。


「私など、庇うような人間ではなかった……私は」


 今にも閉ざされそうな男の青い瞳は、流れる血の合間をかいくぐり私を捉えた。


「……与一」


 私の名を、男は呟いた。

 知っていたのかと息を飲み、一度深く頷く。


「私は、お前を殺そうとした男だ」


 言葉にして泣き出しそうになった。口元が震える。瞼が熱い。頭が痛い。全身の痙攣が止まらない。

 男はしばらく身体を震わせる私を静かな青い瞳に映し、やがてその口を開いた。


「……沙耶は、奥だ」


 声は私の頭の中に響いた。


「子も、生まれた。沙耶と私の子だ」


 そう告げる彼の顔はとても化け物には見えなかった。以前目にした時はあれほどに人ではない雰囲気を醸し出していたというのに。

 カミでもない。ただの、一人の人間のようだった。


「森の最奥。梅の樹に向かえ。お前ならば辿り着ける」

「……沙耶は、生きているのか」


 彼は肯定も否定もしなかった。瞳に私を映しているだけだ。


「与一」


 消え入りそうな声に更に顔を近づけると、彼はそっと手を伸ばし、私の頬を撫でた。白い手は私の太陽のような暖かみを帯び、私の傷を癒した。全身の痛みが失せ、深い傷口から血が止まり、傷が忽ち消えていく。


「森へ迷い込んだ、幼き頃……お前は沙耶と同じように森を愛していた。誰よりも」


 母や父に撫でられた記憶を呼び覚ますような感覚に、私の片目から涙が一縷落ちていった。

 彼はやがて私に柔らかく微笑んだ。その柔らかな表情は、私が我が子に向けるような、一人の男のものだった。私と何も変わらない。


 ああ。

 この男は、沙耶を愛したのだ。


「その瞳……沙耶によく似ている」


 愛おしげに呟かれた声に、幼い頃の記憶が私を飲み込んだ。

 緑の大地。美しい樹木たち。獣の気配。鳥のさえずり。川のせせらぎ。両親の笑顔。ムラの子供たちの無邪気な笑い声。森からの恵み。それを感謝する毎年の宴。酒を酌み交わす、友の笑い声。私が引いた、沙耶の小さな手。沙耶の、朗らかに歌う声──。


 最期の力で私を癒し、私に幸せだったあの頃を見せてくれた手は、だらりと落ちていく。


「……すまなかった」


 謝罪が届いたかは分からない。次に彼を見た時、彼は冷たいむくろと変わり果てていた。

 涙が止まらなかった。額を地面に押しつけて泣いた。


「死んだのか」


 冷たい声が背後から這ってきた。

 叔父を縛り上げた近侍が、蹲るようにして泣いていた私を押しのけて死んだ男を恐る恐る見下ろした。生き残った兵たちも彼の遺体を囲むようにして覗き込み、戸惑いの表情を浮かべた。


「……人、ではないか」


 一人がぼろぼろと声を落とした。


「これは、人だ……我々は森のカミを打ち倒したのではなかったのか」

「カミではなかったのか」


 口々に皆が声を上げる。カミを殺めるために来たというのに、標的がカミではなかったという事実に呆然としていた。

 音もない世界で放心していると、私の傍に縛られた叔父がやってきた。人間に囲まれ、息絶えた男の遺体を見下ろした彼は身体を大きく震わせた。


「カミを、殺したのか」


 低められた声を放ち、近侍や兵たちを睨みつけた叔父の怒りの形相に、皆が怯み、後ずさった。


「これは人ではない。カミだ。カミと人との間に生まれた存在。お前たちが殺めて人としたのだ!これはカミであったのだ!」


 叔父の怒声があたりに響き渡った。

 森が枯れ始める。緑の覆われた木々が茶色に変色し、倒れていく。

 これは森が死ぬ音だ。死に飲み込まれようとしているのだ。その音と共に、叔父の声は唸るように続いた。


「お前たちはカミを殺した!殺したのだ!」


 そうだ。我々はカミを殺したのだ。

 私はよろよろと立ち上がった。天を仰ぐと、頬から顎に伝って流れた涙の跡が風に冷えた。


──沙耶は、奥だ。


 沙耶を愛した一人の存在の声が頭に鳴る。


「忘れるな!お前たちはカミを殺したのだ!」


 こだまのように響き渡る戒めを背に、私は森の奥へ駆け出した。

 最期に彼が伝えてくれた沙耶の居る場所に、向かわなければならなかった。


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