ともに

* * * * *


 柔らかな日射しが降り注ぐ中、彼と我が子が駆ける姿を眺めている。犬の姿の二人が緑の野を駆けていき、優しい風が起こる。私はその風を頬に感じながら静かに瞼を閉じた。

 春の香りがした。そこはどこまでも春だった。


 次に目を開けて、その光景が幻影だったことに気付く。

 夕暮れは過ぎ、空は暗く夜に満ちてあたりの空気が張り詰めている。彼の腕の中で私は息を潜めていた。頭上にある梅は変わらず咲き誇り、夜の闇に満ちたそこではこの世の物ではないような美しさを誇っている。変わらないのはこの樹だけなのだと、私は僅かに首を動かして樹を仰いだ。

 梅の根の上で私を守るように抱く彼は、じっと闇を睨み付けている。近頃は人の姿であり続けることが多かったものの、今は打って変わって獣のように全身の毛を逆立てんばかりに警戒していることが言わずとも伝わってきた。

 彼の睨む視線の先から、許されざる何かが来る。それが人であることは間違いなかった。人が、この森を殺めようとしている。恐れていたことが目の前まで迫ってきているのだ。森のすべてが踏み入る存在に敵意を向けている。


 ふと、風が吹いた。視線を落とすと小さな子犬の姿があり、それを認めた彼は私を抱く手を緩めた。


「……真白」


 帰ってきた我が子を彼の腕の中から迎えた。迷わず駆けてくるその子を抱くと、真白は白い毛並みを淡く青に光らせてするりと幼子に姿を変え、私と彼を不思議そうに窺ってきた。


「なにかがくるの」


 真白は先程まで彼が睨んでいた先を指さした。唐突に悲しさに襲われ、私はその子を抱き締めた。別れの時が近いかも知れない。我が子が五歳ほどに成長したとは言え、この子は何も知らないのだ。こちらへ敵意を向けてくる存在が何であるか。何故敵意を向けているのか。


「森がないているの、おこっているの」


 真白は父親に訴えた。


「なにかが、こっちへこようとしてる」


 そう言いながらも真白はそれがここへ来て何が起こるか分かっていないようだった。


「分かっている」


 静かに答えた彼は真白の頭を撫でた。


「すべて、分かっていた」


 しばらく目を伏せ、考えるように沈黙した。あたりに満ちた静寂が、近づいてくる存在の気配を混沌とした夜の中に浮き立たせるようだった。


「知らないでいられたら良かったのだが、そうもいかないらしい」


 私と真白を深く抱き込み、やがて静かに瞼を開いた。再び現れた瞳は青く光り、瞳が覗いたと同時に風が吹き、髪が空に舞い上がる。真白が戻った時とは異なるこの風は、吹くほどにあたりに金色が舞うように見えた。

 彼の決意を知る。離れることの恐ろしさに彼の衣を強く掴んでその胸に縋り付くのに、再度私の髪を撫でて強く抱き締めた彼は私と真白を梅の根の上に降ろした。


「あなた」


 相手は根の上にすっくと立ち、その髪を靡かせ一点を睨み付けている。


「行ってしまわれるの……?」


 力なく立ち上がった私が隣に立つと、視線がゆっくりとこちらに向けられた。私を映す彼の瞳は変わらず青いままだ。


「行かないで」


 答えを待たずにその衣を掴んだ。このまま行かせてしまったら、きっともう二度と会えなくなる。


「嫌です。駄目です。殺されてしまいます」


 その人の肩に額をつけて懇願した。

 この人にはもう力が無い。獣に姿を変えることさえも少なくなり、今はほぼ人と同じであるといってもいいくらいなのだ。首元の傷に加え、もしここで残っている力を人との戦いに使ってしまったら、彼の命はおそらくその一度で尽きてしまう。


「行かなければならない。それが役目だ」


 彼は優しく諭すように告げた。髪を撫で、救われるように上げた額から頬へ、そして顎へとその白い指が伝っていく。彼の手の感触に、堰を切ったかのようにぼろぼろと涙が目元から零れていった。


「あなたにはもう力がありません。力が弱まっていることを、兄たちはきっと知っています。それを知ってあなたを襲いに来ているのです」


 私の涙を指で拭いながら彼は柔らかく悲しげに笑んだ。


「ここで別れたら、きっと最後になります」


 相手もそれは知っている。だから何も言わないのだ。


「私を連れて行って下さい」


 せめてものの願いだ。共に行けるのなら、共に最期を遂げられるのなら本望だ。しかし彼は決して頷かなかった。私の最期の願いは叶わない。


「私が向かうのは、沙耶や真白のためでもある」


 足元に目を向けると、泣いている私を心配する眼差しを向けた我が子がいた。彼は微笑みながら真白を抱き上げてその子の髪や額や頬を一通り撫で、くすぐったそうにした真白の幼い笑い声が響いた。

 無邪気なその子を眺めて、幸せそうな彼を見て、一層涙が溢れた。私では、この二人を守ることができない。


「かあさま」


 呼ばれて開けた、涙でひどくぼやける視界に我が子がこちらに手を伸ばす姿が映る。愛おしさやら悲しさやらに襲われながら、私は彼から我が子を受け取って抱き締めた。


「あなた……」


 涙の奥から出した呼び声に、彼はもう一度私を腕に抱いた。


「沙耶、どうか歌って欲しい」


 相手の胸から鼓動が聞こえた。愛おしい暖かみがあった。優しい力があった。


「祈って欲しい」


 そうだ、私が彼のために出来るのはそれだけだ。

 その人は私を身体から離し、腰を屈めて口元に笑みを浮かべた。


「沙耶の声は私の力となるのだから」


 もう止められない。この人は行ってしまう。


「沙耶」


 呼ばれた私が躊躇いがちに小さく頷くのを見届けると、彼はあたりを吹く風の強さを増して、見る見るうちに人から獣へ姿を変える。あっという間に月明かりに光る白い毛並みが表れ、人がまたがれるほどの大きな犬の姿になった。月光の下にあるその姿はあまりに神々しく、眩しかった。

 私は我が子を抱いてその姿を仰いでいる。真白は目を輝かせて父親の姿に見入っていた。

 青い瞳が私たちを捉えた。青さに映る自分たちは一瞬のようにも、永久に続くもののようにも思えた。しかしそのまま、人の気配のする方へ向き直ってしまう。


「──あなた」


 小さく零した言葉が彼に届いたかは分からない。彼は、梅の根元をたんと蹴って空へと舞い上がった。姿が見えていたのはほんの束の間で、風が止んで再び目を開けた時には私と真白しかいなかった。

 空は月が煌々と輝き、周りの星明かりを一切消してしまっている。


 ああ。

 行ってしまったのだ。


 私を置いて。



「かあさま」


 小さな手が私の頬に零れた涙を拭った。耐えきれなくなってその子を腕に強く抱いた。私を案じるその子の顔は彼に似ていながら、その奥に兄の面影があった。己の伯父が己の父を殺めようとしているなど、この子は知らない。


「とうさまはどこへいかれたの?」


 どこへ。遠いところへ。

 私たちの手の届かないところへ。


 そこまで考えて、はたと顔をあげた。


 彼は私を守るために私をここに置いた。残された私はいつもここで守られているしかなかった。

 だが今はどうだろう。彼は今、私が知るところにいる。人が侵入したところへ、許されざる者の気配がある先へ、彼は行ったのだ。

 カミの領域では無い。兄や、人が行けるところへ彼は向かったのだ。

 私にも行くことが出来る。彼のもとへ。この守られた美しい場所から飛び出して、彼のところへ行くことができる。


「なかないで、かあさま」


 私の頬を撫でて涙を止めようと懸命な子に、私は「大丈夫よ」と笑いかけた。

 もしかすれば今の私は、別れ際の彼の微笑みに似た表情をしているのかもしれない。


「ここで泣いていても何も始まらないのだわ」


 私は真白を地に降ろし、心配そうな顔をした我が子に向き直った。


「ありがとう、真白」


 私は我が子の手を引いて社へ戻り、社の奥にしまい込んでいた最初の巫女が使っていたと言う鈴を手に取った。

 鈴を両手に握って目を閉じれば人の声がした。雨風などの森の怒りに触れて恐れる人々の声。その方向が分かる。辿ることができる。

 一度目を開けて、私に寄り添う我が子を見つめた。腰を屈めてその髪を撫で、その子の衣に上着を羽織らせた。


「決して外へ出ては駄目よ。ここに隠れていて」

「かあさまはどこへいくの?いっしょじゃないの?」


 私の手を取る真白が尋ねた。


「お父様のところへ」


 彼は死ぬつもりなのだ。たった一人で。

 彼が私の行けるところへいるのならば、私も向かわなければならない。あの人に繋いでもらった命だ。彼のために使い、最期の瞬間まで彼の傍にありたい。

 柔らかな頬を手で包み、それから小さな身体を腕に抱いた。


「あなたと一緒に行けない母を許してちょうだい」


 意味を把握してか、その子の顔は忽ち歪んだ。赤子が母がいないことを知って突然泣き出す時の表情によく似ていた。


「いや!」


 火がついたように真白は大声で叫んだ。これから起こることを知っているかのようにかぶりを降って私に縋り付く。


「いっしょにいく!」

「言うことを聞いて」

「やあだあ!」


 目の前の子は癇癪を起こして地団駄を踏み、更に私から離れなくなる。真白の姿形が驚くほどの速さで成長を遂げてから、悪戯をするように言うことを聞かないことはあれども、こんなにも拒絶して取り乱すこともなかった。むしろ初めてのことだ。


「あなたのためなのよ。お父様がいるところは危ないの。何が起こるか分からないの」


 もし万が一、人がこの子を見つけるようなことがあれば。

 カミとされた彼の子であると人に知られれば、この子は理不尽に命を奪われるかもしれない。人が何であるかも分からず、何故自分が敵と見なされているかも知らないままに。理解しきれぬままに。


「真白、」


 彼が残してくれたこの場所だけが安全なのだ。この子をきっと守ってくれる。


「ひとりはいやあ!」


 悲鳴に似た泣き声だった。響いた声は私の鼓膜をこれでもかと揺すり、胸の奥を大きく疼かせた。


「いやああ!!」


 涙に濡らした幼い顔を見て、私の衣を離すまいとした小さな拳を見て、ああ、と声が漏れた。


 この子は、私なのだ。

 この子はあの人に置いて行かれた私なのだと。


 ここに一人で置いていって、もし万が一私も彼も戻ってこなかったら。この子一人を守り抜いたとして、カミが虐げられるこの世でどうやって生きていくというのか。ここに一人残すことが、この子のためになるのだろうか。


「ひとりはこわい」


 そう言って嗚咽を漏らすその子の頬を撫で、私は堪らず手を伸ばした。


「……母と共に行きましょう」


 我が子の背を撫でながら私は呟いた。


「お父様のところへ一緒に行きましょう」

「……ひとりじゃない?」

「ええ。一緒よ」


 真白はこくんと頷くと、しゃくり上げながらも泣き止んで自らの足で立ち、私の手をきゅっと握った。泣きたいほどに暖かい手は、遠い昔に彼から差し出された白い手を彷彿させた。


 私は小さな手をひきながら囲われるようにしてあった社を出た。大きな根が這う緑の地が続く。夜に見るその光景はどこまでも黒い影が波打っているかのようだ。


「行かなければ」


 小さな声で歌う。鈴を鳴らす。彼に届くように。


 向かう先に人の声がある。嫌な気配がある。森の敵意が向けられる一点がある。

真白の瞳もそちらに向けられていた。

 私の足でどこまで行けるかは分からない。それでも向かわなければならなかった。彼のいる所に、兄もいるはずだ。


「あの人を一人で行かせない」


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