朝霧

* * * * *


 誰かの涙が落ちた。

 雨風が吹き抜ける中、黒い地面に一滴だけ、落ちて弾けた。


 誰かが遠くで泣いている。

 泣いているのは、誰だろう。


 ──沙耶。


 泣く人は、私を呼んだ。

 誰かの、懐かしい声。

  

 しばらく誰の声だろうと聞いていて、ある人の顔が浮かんだ。


 あれは、兄様。

 兄の、声。


 泣いているのは、兄なのだろうか。



「──沙耶」


 呼ばれて、遠くの誰かの声にあった意識が戻ってくる。顔をあげた先で、瞳の奥に青を灯す人が私を覗き込んでいた。


「どうした」


 歌声を止めて、その人の静かな瞳に見入った。

 遠くで誰かが泣いていた。それが兄なのかは分からない。だがそれは聞こえなくなった今もひどく胸を締め付けた。

 近頃はよく人の声を聞く。苦しみに呻いていたり、怒りに叫んでいたり、泣いていたり、死んでいく間際であったり。聞いていて苦しいものばかりだ。そういう世なのだと思いながらも、耳にするとどうにもこうにもやりきれない虚しさに捕らわれる。


「……いいえ、何も」


 この人に命を繋いでもらってから、そういったものが鮮明に聞こえるようになった。彼が生まれてこの方、こういう苦しい声を聞き続けてきたのだと考えたら、もう一人にしてはいけないのだと強く思った。


「大丈夫です」


 何でも無いのだと首を横に降ると、彼は私を軽く引き寄せて胸に抱く。


「悲しい顔をしていた」


 私の頬に顔を寄せ、私を更に抱き込んだ。愛しい人の唇が頬を掠め、そこから暖かなものが肌を辿って胸の内に流れ込んでくる。その人の肩に頭を預けて、私はまた囁くように歌を口ずさんだ。歌声は彼の衣に染み込むように消えていく。


「もう歌わずとも大丈夫だ」


 宥めるように私の髪を撫でた。繰り返し撫でる彼の指が私の地肌を掠める。


「でも、傷が」

「疲れただろう」


 疲れていないと首を横にふるものの、彼は弱く笑む。


「私は沙耶が心配だ」


 歌うことは力を使うものの、身体が重くなるだけで倒れてしまうほどではない。この人を救えるのなら歌い続けることなど何の苦でもない。それでも彼は、私を慮って「もういいのだ」と止めてしまう。


「私はあなたが心配です。歌っていないととても怖い」


 こうしている間にもカミの力を失っているに違いない。少しずつ削られていくように。

 相手を強く感じたくてその首に縋り付く。そうすれば背を優しく擦る暖かな手があった。


「これは仕方が無い。完全には治らぬ」


 彼の首元にある傷が治る様子は一向になかった。

 何故、傷は塞がらないのか。彼の首元を目にしては、漠然とした不安が胸に灯る。以前にも増して傷口がひどくなっているような気がする。血は出ていないにしても、少し力を入れたらすぐに開いてしまいそうな程に。


「そう悲しい顔をしてくれるな」


 そう言って私の頬に触れ、人のように柔らかく笑んで見せた。

 彼は、人へ、人へと近づいている。カミとしての力のことだけでなく、感情も言葉も、表情も。

 姿を持った形で人と一緒にいられる時間が長くなった。以前ならば、陽が隠れた夜にしか形を持てなかったのに対し、今では陽も沈まぬ内に私や真白のもとへ戻ってきてくれる。食事をとり、眠るようになり、彼がカミとしての力を失い、人に近づきつつあるのだと嫌でも思わずにはいられなかった。

 何も知らなかったのなら、この変化を素直に喜べていただろうに。彼が人に近づくことが、別れに近づくことを知らなかったのならば。


「沙耶、」


 不意にかかった彼の声に振り向くと、さっきまで寝具で眠っていた子が、ううんとむずかっているのが見えた。


「……あら」


 立ち上がり、我が子の傍に膝をついて顔を覗くと、私の顔を認めるなり幼い手が私に向かって伸ばされた。今にも泣き出しそうな顔をしている。


「起きてしまったのね」


 最近は一晩ずっと眠っていることが多かったのに。この子もまた、遠くで誰かの悲しい声を聞いたのかも知れない。

 手を伸ばして胸にぎゅっと縋り付く真白を胸に抱いて、息子のぬくもりを噛み締めた。


「……真白」


 彼が力を失う時が、この子との別れになる。三才ほどに成長したとは言え、この子は何も知らないのだ。これほどに愛しい存在との別れが近いかもしれないことをどうしても考えてしまう。

 この子は人の子よりも強いかも知れない、成長も早いかも知れない、それでも生まれてから経った時間はあまりにも短い。

 もしこの子が一人になってしまったら、この子はどうなるのだろう。カミや森が蔑ろにされるこの世で、化け物と呼ばれるであろうことを思うと、胸が張り裂けるようだった。

 今もこうして私に縋り付いて甘えて求めてくれると言うのに、私はこの手を離さなければいけない時がやってくる。


「沙耶」


 私と真白を抱きしめる腕と胸があった。彼は落ち着かせるように、宥めるように、私の髪を撫で、背を撫で、額に口付ける。私が考えていることをすべて知っているかのようだった。

 抱きしめられたまま目を閉じる。

 このまま。このままでいたい。細やかな幸せだけで、それだけでいい。

 祈りにも似た願いを繰り返し、私は息子を抱きしめながら暖かな腕に抱かれ、目を閉じた。




 いつもと変わらない朝がやってくると思っていた。この穏やかな暮らしが変わるのはもっと先なのだと。


 彼の姿がない朝陽が射し込む社で真白が目を覚ます前に起きて水を汲みに行き、火を起こして細やかな食事を作るその間に真白が起きて、ころころとした犬の姿になって駆け回るのを止めながら衣を着せて。我が子と一緒に食事を取って、畑に行き作物の世話をして、湖で衣を洗い、陽が出ている内に干して。成長し続ける我が子の衣を繕い直して。

 小さな子と一緒に梅の樹のもとまで駆けていき、寝転がり、風の囁きに耳を澄ませて。その子を力の限り抱き締めて──。


 しかしその日、夜明け前に目を覚ました時、隣にいるはずの真白の姿がなかった。

 陽のある間は姿を保てない彼の姿が朝にないのはいつものことだが、我が子がいなかったことは一度たりともない。陽がすっかり上がるまで私にくっつくようにして寝ていることが常の子だというのに。


「……真白?どこ?」


 声は洞窟にいるかのように空しく響いた。

 暗がりに満ちた社の中を見渡してもいない。隠れているのかと小物をどかして探してもその子の姿はない。暗がりの社にいるのは私だけだ。

 彼も我が子もおらず、自分一人だけなのだと知ると、ただ一人ここに残されてしまったような漠然とした恐怖があった。夜明けが近いとは言え、まるで暗闇にいるような、冷たい場所に置き去りにされたような果ての無い孤独感だが自ずと膨れ上がる。それは次第に増長し、脈拍を速めた。併せて心が一本の糸のように痩せ細っていく。


「真白……!」


 堪らず我が子の姿を求めて外へ飛び出した。

 早朝の空気はいくら森の最奥でも肌を突き刺すようだった。深い霧に覆われ、おぼろな薄明が苔生した緑の地に吸われている。夜でも朝でもない、夢では無いのは確かだが、現実とも思えない幻想的な空間が広がっていた。


「真白!どこにいるの!」


 小さな畑を越え、まだ夜の中にある泉を越えて、我が子の姿を探しながら走った。

 森の、樹が生い茂るところへ行ってしまっただろうか。あれほどに高い根がうねるところへ人の姿で行ったら、まだ幼いあの子はきっと怪我をしてしまう。獣の姿だったとしても「死」があの子に触れたら、あの子の命は奪われる。奪われたら、力を失いつつある彼にはきっともう命を繋げない。あの子自身がカミの力を継いでいても、どこまであの子が力を使えるかも分からない。

 我が子の姿がないことに冷静さはどこかへ消え失せていた。底の無い穴に落ちていくような暗くて恐ろしい心地に覆われて息が苦しくなる。


「真白!返事をして……!」


 いつものようにきらきらとした笑顔でひょっこり顔を出さないだろか。子犬の姿で私を驚かせようと背後から吠えて戻ってきてくれないだろうか。そんな願いを並べていても真白の姿は混沌とした空間のどこにも現れない。


 必死に探して走っている内に、朝霧の中からあの梅の樹が姿を現した。白に覆われながらも未だに花を誇らせるその樹の根元にあの子がいたことがあった。今回もそこにいるのではないかと望みを持って駆けていると、真白では無い人影が見えて咄嗟に足を止めた。

 こちらに背を向けて梅を仰ぎ見る人影が、確かに濃い霧に淡く浮かんでいた。子供の影では無い。私より背が高く、男性のものだ。

 警戒心がぐっと胸を押し上げるようだった。ここに来てから彼が姿を消した後の早朝にここに佇む人間を見たことがなかった。そもそもここにいるのは彼と私、そして真白の三人だけなのだ。

 早鐘を打つ胸元をぐっと押さえて目を凝らし、朝霧に浮かぶ人影がよく見知ったものであることを知って驚いた。


「あなた……?」


 戸惑いの声が漏れる。

 間違いない、陽の出ている内は姿を消してしまう彼が私に背を向けて佇んでいた。

 何故、この人が早朝に姿を保てているのか。何故そこにいるのか分からなかった。それでも何より今は真白の姿がないことが心配でならなかった。


「あなた……!」


 叫ぶようにその人を呼ぶとほぼ同時に、彼はゆっくりと音無く私を振り返った。霧を越えてこちらへ歩み寄り、私の名を呼んで私を腕に迎え入れた。私を抱き込んだその身は幻でも夢でも無かった。本物だった。触れて感じられる相手の体温に泣きたくなるほど安堵した。しかし、真白の姿は父親の傍にもない。


「あなた、あの子が」


 相手の胸元の衣を掴み、相手を見上げて訴えた。


「あの子が、真白がいないのです。起きてから見当たらないのです」


 腕の中の私を見るなり、彼は深い憂いの色をその顔に表した。


「分かっている」


 私の頬を撫で、髪を、肩を撫で、そう告げた彼の手が空気のように透き通っていることに気付いた。形を保てる時間に終わりが来ているのだ。

 やがて、腕も顔も身体までもが薄くなっていく。感触が消えていく。ぬくもりが無くなり、朝霧の冷たさばかりが鮮明になる。


「どこへ行かれるの」


 このままこの人を行かせてしまったら二度と会えないような気がした。いやだと首を横に振ると、彼の表情は一層悲しげになった。


「真白のところへ」


 この人はあの子のいる場所が分かっているのだ。


「私も一緒に連れて行って。お願いです」

「沙耶のことは連れて行けぬ」


 縋っても、瞳に青を灯すその人は決して頷かなかった。彼の顔の向こうに咲き誇る紅い花が透けて見えた。見る見るうちに花の色が鮮やかになっていく。

 消えてしまう。私を置いて。


「お願いです、離れたくない、怖いの」


 何が怖いのかは分からない。ただ何かに追いかけられるような不安があった。その感情は池に張った薄氷のように私を覆い、剥がれないままだ。


「必ず連れて戻る」


 そう告げると同時に彼は光のように消えていき、支えを失った私は梅の樹のもとに崩れ落ちた。近づいた地面から濡れた苔の柔らかな香りがした。

 彼が私を連れて行けないというのなら、あの子は私の手の届かぬところにいるということだ。カミの領域にいるということなのだ。人である私は共にそこへは行けない。

 遠くで人の声がする。どうしても苦しいものばかりだ。聞こえるほどに耳の奥で繰り返され、私を離さない。彼やあの子がこの声に巻き込まれないか、重く黒ずんだものが胸の奥でじっと淀んでいる。

 目元から落ちる雫を抑えていた手から顔をあげると、灰青から白へ色を変えた朝の光がこちらに射し込み、白い世界を作り上げていた。その中に梅の花が散り零れる紅が白い光に乗る。風に吹かれ、泉の流れに落ちていく。

 枝や花弁のひとつひとつが煌めき渡り、尊いまでに目映い光を投げかける梅を仰いだ。自然は絶えず夜から朝にかけて美しく甦っていく。命が目覚めて囁き出す。光は多くの命を越えて、私に白く降り注ぐ。滲んでいく視界に光の白が差し、白で淡くなった梅の紅が泉の青と地面の緑に流れていく。

 目を閉じたら涙が顎先へ零れていった。


 美しい場所だった。目眩がするほどに。

 切なく、泣きたくなるほどに。


 ここが私に与えられた森の最奥。彼が私を守るために置いた場所。


 私は、こんな美しい場所で守られているしかないのだ。





 ここにいても意味がないと分かっていながら、胸の内に拭いきれない影が雨雲のように広がり、奈落の底へ落ちたような心細さに押しやられ、社へ戻る気力が沸いてこなかった。

 しばらく泣いていると、ふと手元に一点の暖かさがあることを知った。視線を手に移した先に、梅の樹の根が触れていた。それは暖かく、冷え切った私の手を温めようとしているかのようで、私は縋るように梅の幹に身体を寄せ、その豊かに地に伸びる根に身を置いた。

 梅の根は私を包むようにあり、幹に触れているとその温かさにどこか気持ちが凪いだ。零れ続けていた涙もやがては落ちることをやめ、私は目を閉じて木の幹に頬を寄せた。

 あまり時間の感覚がなかった。止まっているようにさえ思えた。

 暗闇に閉ざされた瞼の裏に、すっと一本の青い光が浮かび上がる。私とこの樹は一緒だ。彼に命を繋がれ、生き延びている者なのだ。青い光がしっかりと繋がって伸びているのを感じて彼の身が無事であることを知る。

 根に抱かれている感覚は幼い頃に感じた母の温もりにひどく似ていた。

 身体が幹から離れない。動かない。動きたくない。

 樹の鼓動に耳を傾ける。この感覚に陥るのは、この最奥に連れてきて貰った最初の頃以来だ。

 溶けていきそうだ。どこまでも。


 どこまでも。




 梅の根元で蹲るように待ち続け、次に瞼を開けた時、辺りは日暮れになっていた。西日が燃える炎のように射し込み、その眩しさに目を細めた。夕陽が怖いくらいに赤かった。

 身を小さくして陽が落ちていく様子を眺めていると、暗闇に閉ざされた空間に風を感じた。名を呼ばれた気がして顔をあげた先、人の姿をした彼がいた。

 ああ、と溜息のような声が漏れた。

 夜の闇に梅が散る中に立った彼は、梅の樹に守られるようにしている私を真っ直ぐ見ていた。


「……あ、なた」


 樹の一部になったかのような身体を動かしてよろよろと立ち上がり、梅から離れて人の姿で現れた彼に歩み寄ると、彼が腕に小さな子を抱いているのに気付いた。彼が身を屈めて腕の中にいるその子を私に見せてくれる。そこには小さな愛しい子がすやすやと眠りについていた。


「ああ……真白、真白」


 連れて帰ってきてくれたのだ。無事だったのだ。

 自分でも驚くほど安堵し、渡されたその子を己の胸に抱きしめた。真白は薄く目を開き、私を認めるなり、ふにゃりと笑って見せた。その目は父親と同じように青い。力を使ったのだ。だが疲れているのか、小さな身体はぐったりとして私に弱く縋る。笑顔は私を安心させようとして懸命につくった表情のようにも見えた。

 その子の頬を撫で、額を髪を撫で、もう一度抱き締める。何故、この子が朝に姿を消し、こんなにも憔悴しきった状態で夜に戻ってきたのか。

 その先のことを知りたくない気持ちがありながらも、私は彼を見上げた。その人は眉根を寄せ、真白を迎えに行くと告げた朝と同様、顔に悲痛の色を宿している。


「何故、何故、この子は……」


 辿々しい言葉しか落ちてこない。それでも相手は私が言わんとしていることを悟ったようだった。


「カミはこの子を呼んだ。この子はそれに応えた」


 やはりそうなのだ。この子は彼と同じになろうとしている。


「真白はまだこんなに小さいのに……あなたにはまだ力があるのに」

「齢には左右されない。いずれ、この子が私の代わりとなる。カミはこの子を選んだ」


 それではまるで、カミはすでに私たちを見限ったかのようではないか。


「人が、この森に攻め入ろうとしている。森が騒いでいる」


 そう告げた彼は、遠くに視線を投げた。悲しみや怒りを呈した瞳には私には見えぬ人の姿が見えているのだ。その先に兄がいるのだろか。まほろばの夫や多くの人々が。

 分かっていた事実だ。森を殺めて回っているというまほろばがこの巨大な森を放っておくはずもない。風に乗って耳に届く人々の声はきっとそれなのだ。

 悲しみばかりが募る。抑えきれないほどに。それらと相まって恐ろしい得体の知れぬ何かに我が子が巻き込まれるのではないかと怯えた。

 静かに慎ましく暮らすことは、私たちには叶わないのか。


「沙耶」


 私を呼び、彼は私に顔を近づけた。首元の傷が開き、そこから血が滲んでいるのが見えた。この人には己の治癒の力もなくなっているのだと知り、自分の顔が忽ち歪むのを感じた。

 彼に抱き寄せられ、泣いて赤くなった瞼を撫でられ、我が子を胸に抱いたまま相手の胸に額をつけた。相手の人間らしい体温を感じ、か細く私の口元は歌を奏で始める。歌い続ける。

 そうでしか、彼やこの子の力になることはできなかった。


 それからというもの、数日ごとに真白は父と共に朝方に姿を消し、夜に戻ってくるということを繰り返すようになった。私だけが梅の樹のもとに残された。

 力を失い、人に近づく父親に対し、真白はまるで人の子から離れ、カミとしての力を得ていくかのようだった。

 それでも愛しくて堪らない存在であることには変わりなく、私は帰ってくるその子を胸に抱いて彼の傍で歌い、二人を癒やし続けた。私にはこれだけだった。


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