目を覚ました時、自分が横たわって仰ぐ真上は見慣れた父の部屋のものだった。

 森の社まで行ったはずなのにどういうことだろう。

 一度息を吸うと、森の香りがまた遠のいているのを知った。私は、戻って来てしまったのだろうか。


「沙耶!」


 私を呼び、覗き込む母の顔があった。母は泣いていた。


「あなたと言う子は、なんという無茶をするのですか。身重の身でこんな、こんな」

「……母様」

「どれだけ皆が心配したと思っているのです」


 私の頬を両手に包み、額をつけるようにして母は啜り泣いた。啜り泣く声がもうひとつ重なっているように聞こえて母の隣を見ると、カヤがいた。彼女も肩を震わせて泣いていた。


「母様……お腹の、子は」


 身体の節々が痛むが、手の甲や足などの負った傷は手当されているようだった。ただ身体を強く打ち付けた記憶だけが鮮明で自分の子の安否が心配だった。


「問題ないと、薬師が言っていました」


 ほっと安堵する一方、母は悲しそうな顔をする。長い時間泣いていたのだろうか、目元がひどく赤らんでいた。


「母様、私……社に、」

「沙耶が倒れていると社の侍女とカヤに知らされ、与一があなたをここに連れ帰ったのです」


 突き付けられた事実に、私は痛む身体を寝具から起こして母を見た。


「何故……わ、私を」


 連れ戻したのか。


「沙耶さま、どうかお許しください」


 カヤが私を呼ぶ。


「沙耶さまは落馬され、身体を強く打ち付け、怪我もなさっておりました……とても社で匿うことは出来なかったのです。薬師に診せるためにはムラに、与一さまに知らせなければならなかったのです」


 カヤや社の侍女が、私を慮っての行動だったのだと分かる。分かっているのに、またあの人から離れてしまったのだと思うと、身が引き裂かれてしまいそうなほどの辛さに溺れる。

 唇が震え、自分の目元から雫が伝っていくのを感じた。


「沙耶、許してちょうだい」


 そのまま私を抱き締めた母は涙の雨を降らせる。噛みしめた私の歯間から、やがて嗚咽が滲み出た。


 母のぬくもりを感じながら、抑えの利かない感情のままに身を震わせていると、こちらへ向かってくる足音が聞こえた。簾が躊躇いなく押し上げられ、そこから現れたのは顔色を変えた兄の姿だった。


「沙耶が目を覚ましたと!」


私の姿を確認するなり、兄は安堵したように肩を降ろした。

 その兄と視線がかち合う。こちらが口を開こうすると、兄は視線を逸らし、そのまま踵を返そうとする。

 このままでは駄目だ。森に行く、兄の許しを得たい。分かってもらいたい。私がここにいては、兄や母を悲しませるだけにしかならないのだと。

 脱走を知られ、連れ戻された今、兄の許しがなければ私は外へも出られない。目覚めて間もなくとも、それだけは分かっていた。


「待ってください、兄様」


 呼び止めると、兄は足を止めて私を振り返った。


「沙耶」


 悲し気な目だ。私を視界に入れることさえ、苦しいと言っているような。


「お願いです、私を森へ」

「一切ここから出ることを禁ずる」


 同じ問答を繰り返すだけだと分かっていながら、止められなかった。このままではいけない。私はここにいてはいけないのだから。


「兄様……いやです、私は嫌です!」


 兄は目を伏せ、口を閉ざしたまま踵を返した。


「兄様!」


 呼びかける声も空しく、兄は去って行った。

 兄の気持ちも分かっているからこそ、涙は止まらなかった。母は私の背を擦る。


「沙耶、兄を許してやって。あの子は、沙耶を守りたいだけなのです。あの子は優しい子なのです」


 知っている。

 兄は悲しいほどに優しい人なのだと。







 そこから更に数日が経った。兄は私が部屋から出ないようカヤに固く言いつけ、私に森を見せないよう簾を閉じ切り、その外の蔀を完全に降ろしてしまった。逃げ出そうにも、落馬した際に挫いた足は思うように動かない。

 陽の光も入らない、まるで閉じ込められたような空間に私は一人、悪阻と怪我のために寝具に半身を入れて過ごしていくしかなかった。

 母が時折来てくれては様子を見にきてくれていたものの、その悲しそうな顔を見るほどに辛さは増した。

 どうしたらいいのだろうか。

 森に行けない。こんなに近くにいるはずなのに。

 思考を巡らすもののこれといった策は思い浮かばず、手の甲にある擦り傷を撫でていることしか出来ないでいた。


「だあれ?」


 夕刻になった頃だろうか。初めて聞く幼い声に私は身体を起こして声の主を探した。ここへ来るのは母かカヤだけで、他の声を聞くことはほとんどない。


「こっち。こっちよ」


 声に導かれるまま視線を動かすと、部屋の簾から覗かせる小さな顔があった。簾を押し上げ、床にうつ伏せに寝転ぶ体勢で肩までをこちらの部屋に入れている。


「そこで、なにをしているの?」


 その子は更に簾から顔を出して私に尋ねた。

 女の子だった。

 背中まで伸びた長い髪を結ってはいるものの、寝転がって遊んでいたかのようにぼさぼさと乱れている。初めて目にする私を不思議そうに屈託のない瞳で見つめ、首を傾げた顔はどこか兄に似ていた。

 この屋敷に住んでいるのは兄と母、カヤだけではない。他にも住人がいる。この部屋にしか行動範囲を与えられていないせいで、他の姿は目にしていなかったが、この子がそのうちの一人であるのであれば、もしかすれば。


「……沙世?」


 尋ねると、その子は大きくこくんと頷いた。


 ああ。兄の子なのだ。

 私が森を離れる前に生を受けた、あの子。

 大きくなったのだと、これほどまでに愛らしく育ったのだと泣きたくなった。


「どうしてわたしを知っているの?」


 名を言い当てられて心底驚いたのだろう。幼い子は目を丸くしたまま、簾から半身を出してきた。


「あなたは、だあれ?」


 微笑んで眺めていると、その子はいよいよ御簾を潜り抜けて私の方へやってきた。もう知りたくて仕方がないと言った様子だ。見知らぬ私に物怖じすることなく、ただただ好奇心だけに突き動かされているようでもある。


「私は沙耶」


 背筋を伸ばし、静かに答える。自分の名がこの子に伝わるよう、一音ずつ、ゆっくりと。


「沙耶と言います」


 そう、これが私の名だ。

 巫女として、人として、女として、父と母が付けくれたもの。

 母や兄、そして森のあの人が愛おしげに呼ぶ、この名。


「さや?さやさま」


 私の名を聞き、何度か繰り返す。その様子に頷いて返すと、沙世は目を大きく瞬かせた。


「さやさま?わたし、知ってる!さやさまのこと、知ってるの」


 相手は両手を叩いて喜んだ。二本の足ですっくと立ちあがると、あどけない足取りで私の方へやってきた。


「こんにちは、さやさま。わたし、さよ」

「初めまして、沙世。会いたかった」


 挨拶を交わし、手を伸ばすと、沙世はぴょんと跳ねるようにして私の膝元に座った。繊細な髪を撫でた私の頬に、その子が手を伸ばして触れた。柔らかく暖かい、小さな手だ。その温かさが泣きたいほどに愛おしい。子供の前では泣くまいと唇をかみしめ、沙世を静かに抱き締める。

 森から離れ、夫のものになって得られたものはあったのかと思う日々ではあったが、この愛おしい存在を守ることが出来たのだ。あの耐え続けた三年の月日は決して無駄ではなかった。


「どうしたの?さやさま」


 心配そうな声が耳元にする。これ以上抱き締めていては苦しいだろうと身体を離し、膝に乗るその子に微笑んで見せた。


「大丈夫。とても嬉しかったの」


 首を傾げる姿を眺めながら、私はその子の頬を撫でた。


「沙世は、私を知っていたの?」

「うん。とうさまが言ってたの」


 兄が。


「さよの、、なのよ」


 覚えたての言葉を探すようにたどたどしく答える。「恩人」という言葉の意味も分かっていないのだろう。

 こんないい子に育ったのだ。兄はこの子に、溢れんばかりの愛情を注いで育ててきたのだ。


「さやさま、いいにおいがするね。うめの匂いかなあ」


 私の胸元に頬を寄せてその子は言った。梅の匂いなど、自分では感じない。梅の匂いは森にいるあの人の香りでもある。香りが移って残ったままなのだろうか。最後に会ってから、随分時間が経っているのに。


「沙世、どこにいるの?」


 簾の外から聞こえる呼び声に、その子ははたと顔をあげた。私の膝から降り、簾の方へ駆けていく。


「かあさま!」


 簾をまた押し上げて、無邪気に母を呼んだ。娘の声に気づいた母親が、私の部屋の前で息を飲むのが分かった。


「沙世、いけません。そこは沙耶さまのお部屋です。出ていらっしゃい」

「いや!」

「お父さまから駄目だと言われたでしょう」

「いやー!」


 一向に私の部屋から出ようとしない娘を見かねて、母親は「失礼します」と声をかけて簾を押し上げた。母が現れるなり、沙世は嬉しそうに声をあげて身を寄せた。母にこちらへ来てほしかったようだった。


「沙耶さま」


 現れたのは兄の妻、ユキだった。

 以前白かった肌は陽に焼けている。ムラから人が少なくなり、余程苦労してきたのだろう。


「娘が失礼を致しまして、申し訳ありませんでした」


 私の顔を見まいとするかのように、彼女は深く頭を下げていた。


「夫より、私と子供たちはここへ近づいてはならぬと申し付けられておりまして、ご挨拶出来ないまま今まで過ごして参りましたこと、お許しください」

「ユキ殿」


 堅苦しい相手の挨拶を遮った。実際に会った回数は少なくとも、昔は友人のように話したことのある仲だ。兄と彼女の間に子が生まれることをどれだけ楽しみにしていたか。


「お久しぶりです。お元気そうで良かった」


 兄が妻と子を私に近づけようとしなかった理由は分かる。

 これは私たちの問題であって、彼女たちを巻き込むべきものではない。兄が化け物と呼んだカミと繋がりを持つ私に、我が子を近づけることはしない。


「ユキ殿、顔を上げてください。私はあの頃と何も変わっていないのです」


 顔を上げて私を見るや否や、彼女は見る見るうちに目に涙をためた。


「かあさま、さよ、さやさまをみつけたのよ。おはなししていたの」


 母の衣を掴んで、自分は凄いことをしたのだと胸を張る沙世はぴょんぴょんと嬉しそうに跳ねていた。私と母を引き合わせられたことを喜んでいるようだった。ユキは娘を抱き寄せ、涙ながらに再び頭を下げた。


「どうか、私どもをお許しくださいませ」

「許すも何も、誰も悪くはありません。責められるのなら、きっと私なのです」


 覚悟を決めていながら、私はあの白い手を払うことが出来なかった。


「いいえ、いいえ…!」


 違うのだ、と彼女は首を振る。


「沙耶さまを森から引き離したのは私どもです。私どもにこそ、非がある……沙耶さまの身に起きたこと、夫からお聞きしました。私どものために辛い目にあわれたことも。どうお詫びしたらいいか、未だに分からないのです。私どもは取り返しのつかないことをした。合わせる顏など御座いません。カミの巫女を森から離すなど、あってはならなかったのです」


 悪いのは何だったのか。

 西に立った大王だろうか。カミと関係を持った私だろうか。昔のままでいられなかったのかと思うことはどうしてもある。

 時代が、悪かったのか。すべては不変に流れ続け、古来のカミへの信仰は失われ、新しい時代へ進もうとしている。

 私や森、そしてカミを残して。

 殺めて。


「夫は苦しんでいます。沙耶さまの幸せを考えております、ムラのことも考えなければなりません」


 兄には兄の立場がある。ムラの人々の命もかかっている兄は、自分の想いだけで動くことは出来ない。


「分かっています。皆の気持ちも何もかも」


 分かっているからこそ、動けなくなった。

 ユキは伏すように泣いた。沙世が泣いている母を慰めようとしている姿を見、私は目を伏せた。

 これ以上、私たちに話せることはなかった。兄が許さない限り、私は動けない。彼女も夫の力になるために傍にいる存在だ。謝ることしか出来ないでいる自分を責め続けている。


「申し訳ありません、私たちはこれで失礼致します。夫に見つかってはいけませんから」


 再び頭を下げ、ユキは娘を抱きかかえようと手を伸ばしたものの、沙世がいやいやと首を振り、逃げ回り始めた。


「いやーあ!」

「沙世」

「さやさまといる!おはなしするの!」

「そんな我儘を……いけません、沙世」


 ついには沙世が私の背後にまで駆けてきて身を隠してしまう。途方に暮れたようにユキは肩を落とした。


「ユキ」


 困り果てているユキの背後から別の呼び声があった。

 帰ってきた兄だった。ひどく儚げで、悩ましげで、そして何かとても愛おしいものに向ける視線を私の背後にいる我が子に投げていた。

 ユキは私の部屋に沙世を入れたことを夫に謝ったが、兄は何も言わず慰めるように妻の背を擦った。


「沙世」


 父が呼びかけると、幼い娘はおずおずと私の肩越しから父を覗いた。


「お前は、沙耶が好きか」


 父からの問いかけに、小さな子はこくりと頷く。娘の返答を聞いた兄は肩を竦めて私を見た。


「沙耶」

「はい」


 やつれたようにも見える兄に視線を向けた。私を想い、妻子を想い、ムラを想い、大きな責任の下にいる私の兄。


「娘を一晩だけ見ていてはくれないか。娘はお前を慕っているようだから」


 兄の頼みに私は頷くことをした。


「一晩、大切にお預かりしましょう」


 私の返答を見届けた兄は、そのまま妻を連れて去っていった。






 一晩だけという約束で今夜私の部屋で過ごすことになった沙世は、ひたすらに楽しそうにしていた。幼い日の私のように、滅多に入ることの無い部屋に興味津々ではしゃいでいる。あれは何かを訪ねながら走り回ったり、急に屈んだり、転んだり。甘えて、私に触れて来て、他愛のない話をする。見ていて飽くことがない。


「沙世さまは、幼い頃の沙耶さまに似ていらっしゃいますね」


 寝床を整えながら、カヤは私の膝の上にいる沙世に言った。


「ほんとう?」

「ええ。お転婆で、明るくて、ぴょんぴょんと跳ねる高さもそっくり」


 カヤに言われて沙世は嬉しそうにはにかむ。私には兄に似ているように見えるのに、他人から見るとまた違うのだろうか。

 私になど似ない方がいい。この子には幸せになってほしい。巫女や森、ムラのしがらみなどない、まっさらな場所で、幸せに。きっとこれは兄も同じ想いのはずだ。


「……さやさま、おげんきないの?」


 私の様子に気づいたその子は、私の膝の上に乗り、眉を下げて見上げてくる。


「大丈夫よ、大丈夫」


 微笑みながら髪を撫でていると、沙世は何か思いついたようにはっと顔をあげた。


「あのね、あのね、わたしのたからもの、みせてあげる。ちょっとまっててね」


 カヤを連れ、その子はとてとてと簾を出て行き、それほど時間が経たない内に蔦で編まれた箱を持って沙世は帰ってきた。


「これなの」


 箱は小さな子が両手で抱えられるくらいの大きさだった。


「何が入っているの?」


 目の前に置かれたものについて尋ねると、沙世は得意げに蓋を開けた。


「まあ!」


 カヤが感嘆の声に、沙世はぐんと胸を張る。


「がんばってあつめたの。げんきでるでしょう?」


 綺麗な色の衣の端切れ、形の良い石、私が小さい頃集めていたような美しい貝殻。余った色鮮やかな紐。色とりどりのものが、小さく、数多く、この中にきらきらと溢れている。幼いこの子にとっての何よりの、素敵だと思えたものひたすらに詰め込んでできた特別なものの集まり。

 幼い頃の、巫女になる前の私もよく、こうやって自分が美しく感じたものを片っ端から集めて箱に大事にしまっていたものだ。

 まるで自分の子供の頃の記憶を見ているかのような感覚に、思わず笑みが零れた。


「これがね、いちばんなのよ」


 そう言って沙世が差し出したものは、目を見張るほど懐かしいものだった。思わず私は息を飲んでそれに見入った。


「これは……」


 鈴だ。

 朱色の紐、朱に色塗られた木製の握り手、七三五の数で並べられた黄金色の鈴。

 私が巫女であった頃、儀式の折に使っていた、カミに捧げる音色。巫女たちに受け継がれてきた大切な神具。


「きれいでしょ?ね?だからげんきだして」


 色の掠れたところや、紐の綻び、解れ、揺すった拍子に流れ出る小さな音色、すべてが私が知っているものそのものだ。


「どうしてこれが……」


 社に置いてきたと思っていた。カミや森を化け物だと言う兄が、我が子に森の巫女の神具を持たせる訳もあるまい。隣にいるカヤも驚いた様子だった。


「これは、ないしょね」


 沙世は鈴を掲げて見せてくれた。


「森のちかくでひろったの。きれいだったから、ひみつでもってきちゃった。とうさまに、いっちゃだめよ」


 そう言いながら、沙世は私に鈴を手渡した。

 握り手に、懐かしい感触があった。私の神具。私と共に、森の社にいた、あの。

 目頭が熱くなる。遠い記憶の中の美しい音がまた聞きたくなり、咄嗟に鈴を持った手を振ろうとしたが、鳴らさず膝の上に置いて軽く撫でるだけに抑えた。

 兄もこの鈴の音を知っている。聞こえて、この鈴が娘のもとにあると知れば、取り上げられてしまうかもしれない。こんなにも大事に思っている鈴を取り上げられたら、沙世は悲しむに違いなかった。


「沙世、これは大事にしまっていて。絶対に、お父様に見せては駄目」


 これはとても特別なものだ。沙世の前に現れのなら、それはまた特別な意味になる。だが、沙世は「ううん」と首を横に振った。


「きょうはね、とうさまもかあさまもいないからね、これといっしょに、ねたいの」


 本当に気に入ってくれているのだ。私が持っていたこの神具を大切そうに持つその子に笑みが零れる。


「分かりました。でも鳴らしては駄目。約束できる?」

「うん、やくそくする」


 沙世は嬉しそうに鈴を抱き締めて頷いた。

 寝具で、話しながらうとうとして寝てしまった隣の沙世の髪を撫でながら、夜がすっかり深まったのを知った。少し離れたところの寝具を見ると、そこに横たわるカヤも眠り込んでしまっている。滅多に私より先に寝ない彼女も、休むことを知らない幼い沙世を追いかけまわして疲れたのだろう。私も、私に付いて来てくれているカヤも、幼い子と触れ合うことなど最近は滅多に無かった。


 蔀も閉ざされたこの部屋に月の光は入ってこない。風もない。外の世界から隔離され、灯も消されてしまえば部屋は漆黒の暗闇に包まれる。それでも暗さに目は慣れるもので、同じ寝具に身体を埋め、隣ですやすやと寝息を立てる幼い子の顔はしっかりと見て取れた。

 寝具を深くかけてやると、その子の手から鈴が離れているのに気付いた。光の無い空間で、寝具の上に鈴の金は神々しく目に映る。静かに手を伸ばし、そっと鈴を取るとその拍子に僅かに音が転がった。

 思わず動きを止め、その余韻に浸る。空気にしみこみ、響き、空気を共鳴させるこの音。どうしても、またこの響きを奏でたくなり、手首を僅かにしならせると、更に透き通るような音が鳴った。

 自然と唇から歌が流れていく。

 カミに捧げるための、森に孤独に存在するカミを慰める歌なのだと大婆様から教わったもので、社にいた時はよく口遊んでいた。隣に眠る子を起こさないくらいの掠れた声で喉を震わせる。


 あの頃には戻れないだろうか。

 私は森の社でカヤや社の侍女たちと過ごし、母や兄が笑顔で会いに来てくれるのを今か今かと待ちわびる。

 時々馬で駆け回り、森の空気を胸いっぱいに吸い込む。幼い頃の森の奥から戻ってきた時の話をして、兄を呆れさせ、懐かしむ。

 森のカミを敬い、自分たちの生とそれが恵んでくれるものに感謝し、慎ましい幸の中で生きていく。


 あの頃は当たり前だと思っていたものが、今は一つとして残っていない。私は森を離れ、兄は森やカミを化け物と呼んだ。

 兄は私が生んだカミの子を殺め、私を森から守るためにまほろばの大王のもとへ送ろうとしている。

 もう兄や母の笑顔を見ることはできないのだろう。昔と今の違いがこんなにも辛い。あの頃から、時が経つほどに掛け離れていた。昔に戻ることが出来たならば、どれだけ幸せだろうか。


 一通り歌い終え、鈴を膝の上に置いて俯いた。その拍子に目に入った自分の腕を見て驚く。腕にあった落馬の傷が消えていた。他の小さくあった擦り傷も治っている。跡形もなく、綺麗に。挫いて痛んだ足も、今は自由に動かせた。


──巫女の歌は、森を癒す。


 歌を教わった時に言われた言葉を咄嗟に思い出す。もしかすればこの鈴と、歌のせいだろうか。今自分の身に宿る子は、森のカミに等しい存在になる。だからその子を宿す母体である自分の傷が癒えたのではないか。

 本当の理由は分からない。それでも芽生えた可能性に縋りつきたくなる。

 思いつくと、私は鈴を先程よりも高い位置に掲げ、もう一度鳴らした。

 膝の上で眠る子を起こさぬよう、小さな声で、それでも森に届くよう願いながらさっきよりもはっきりと歌った。


 瞼を閉じる。意識が鈴の音一点に集中していくのが分かった。同時に社での祭事の時のような感覚が私を襲った。

 まるで森の中にいるかのように私の身体を満たし、大きく大地を波打つ大木の根が脳裏を過り、森の木々の枝が揺れ、葉が擦れる音を聞く。澱むことのない川のせせらぎが耳に響く。暗い瞼の裏にありありと森の様子が浮かび上がり、それらはまるで目の前にあるように甦って流れて行く。


 もっと奥。その奥。カミの場所へ。


 風の音。葉を揺らし、枝を震わせ、こちらへ向かってくる。勢いを持ち、とどまることなく私を突きぬけ、髪を大きく後ろに攫う。


 もっとだ。誰もが立ち入ることができない森の核心へ。


 暗い森を越えた先に、開けて光る静かな場所があった。大きく広がる、美しい泉。そこから少し離れたところに聳えた大きな梅の樹。

 青い泉には血の色が混ざっている。その血が紅い帯のように流れ出る源を探ると、白い毛並みがあった。泉に頭から下を浸す神々しい巨大な白い犬。血は首元から出ていた。あの鉄の鏃を受けた場所だ。


──あなた。


 意識の内に呼びかけると、獣は気づいたかのように顔を上げた。青い瞳を光らせ、空を仰ぐ。


 ああ、生きていてくれたのだ。


 私は胸の内に、以前授かったその人の名を呼んだ。




 音なく瞼を開けた。変わらない部屋の中、隣には小さな子が寝返りを打つところだった。

 夢だったのかは分からない。ただ手元には鈴があり、どっと疲労感が押し寄せる。このまま倒れてしまいそうなくらい身体が重い。


「……さやさま」


 頭を押さえていると、寝息を立てていたはずのその子が目を開けて私を見ていた。


「起こしちゃったのね、ごめんね」

「なにか、くるの。こわい」


 身を起こした沙世は不思議そうな顔をして、私の衣を掴んだ。


「なにか……」


 呟いた時、風が背後から吹いた。風と共に何かが来たのだと悟った。

 背後を振り返ると、固く閉ざされていた蔀が外れている。

 大きな音もなかった。強風で外が荒れている訳でもない。そして何かが近付く気配がある。


──ああ、もしや。


 沙世を抱き寄せながら、込み上げるものがあった。


「さやさま、こわい」


 間違いない。来てくれたのだ。


「大丈夫、大丈夫よ」


 私の歌が届いたのだ。


「怖いものではないの。覚えていて、とても優しいものなのよ」


 目頭が熱を持ち始めるのを感じながら、私は幼い子の髪を撫でた。


「これを、あなたに託します。大事に持っていて」


 鈴を幼い子に返し、私は立ち上がった。足はもう痛まなかった。


「沙耶さま?一体何が」


 目覚めたカヤが寝具から身体を起こし、瞳を揺らして私を見ていた。

 私は彼女に微笑む。大丈夫なのだと伝えたかった。


 蔀の離れた場所へ身体を向ける。

 大きな丸い月があった。煌々と輝き、美しい。月光を全身に浴びながら目を閉じ、胸いっぱいに息をする。私はここにいるのだと知らせるように。

 そして、月を背後に影が音なく降り立ったのを感じた。


「──沙耶」


 風の中に声が鳴る。うっすらと梅が香る。季節でも、ないのに。

 目を開けると、目前にその人が立っていた。

 蔀が外れ、簾が横に倒れている中で、一人凛とした人影が月光に照らされている。

 高い背丈、幼い頃初めて会った時と同じこのムラの男たちの衣服に身を包み、青い目で私を捉えている。


「遅くなった」


 その姿の嬉しさに私は自分の身体が震えるのを感じた。


「あなた」


 手を伸ばすと、彼は私の手を取り、引き寄せ、その胸に抱き締めた。相手のぬくもりを感じられることがこれほどまでに満ち足りるものだとは知らなかった。抱き締められながら相手の首元に手を伸ばした。受けた傷が心配だった。


「傷が」


 首に傷があった。未だに血がにじんでいる。


「どうということはない」


 彼は私に顔を寄せ、微笑む。


「沙耶の歌が癒した。だからここへ来ることができた」


 堪えきれないものが胸から溢れ、私は彼の首に縋った。


「……お会いしたかった」


 相手の耳元に噛み締めるように告げる。


「どれだけお会いしたかったか。あなたのお傍に行きたかったか」


 応じるように深く抱き込まれる。相手を見上げ、私は手をその頬に伸ばした。


「あなたの御子がこの身に。このこと、ずっとお伝えしたかった」


 彼は微笑んで頷き、私の髪を撫でた。

 梅の香りでいっぱいになる。触れられていることが狂おしいほどに嬉しかった。


「……沙耶さま」


 カヤが沙世を抱きながら立っていた。大きく目を見開き、私とその人を映している。そしてすべてを悟ったかのように息を飲む仕草をした。


「その方が、沙耶さまの……」


 私は彼の胸に頬を寄せたままカヤに微笑み、頷いた。


「行ってしまわれるのですね、沙耶さま」


 別れなのだと知った。ずっと傍にいてくれた唯一の友との。


「カヤ、ありがとう」


 私から離れて初めて彼女は自分の幸せのために生きられる。


「私の傍にいてくれて、ありがとう」


 カヤの目からどっと涙が零れ落ちた。今まで迷惑をかけて、悲しませてしまった。


「沙耶さま……お幸せになられますよう」

「カヤも、どうか幸せに」


 言い終えて、私はその人を見上げた。相手の背に手を回し、囁くように自分の望みを告げる。


「連れて行って下さい。あなたの行くところへ。あなたのところへ」

「帰ろう、我らの森へ」


 胸に縋って頷くと、彼は私を抱いたまま地面をとんと蹴った。ふわりと身体が浮き、地面が無くなる。


「沙耶!」


 振り返ると異変に気付いた兄と妻のユキが部屋に入ってくるところだった。兄はこちらを目にして唖然とした。恐怖のようなものに覆われ、兄は首を弱く横に振った。

 兄は一瞬で理解したはずだ。今私を抱いているこの人物が、己で化け物と呼んだ相手だと言うことを。


「行くな……」


 不意にかけられた兄の声は弱々しかった。


「行くな、沙耶」


 喉が震えている。


「兄さま、どうかお元気で……ユキ殿と沙世と、母さまと幸せに」

「沙耶、頼む、行かないでくれ」


 兄の見開かれた瞳が遠ざかる。


「沙耶!!」


 兄の声の響きを聴覚の片隅に残し、空に飛び立つ。その向こうに、朝日が線を引いて現れていた。

 朝だと知った。


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