夜の闇が否応なく深まっていくのを感じていた。

 夕刻の兄を思い出すと、寝具に身を横たえていても寝付くことが出来ないまま時間だけが過ぎていく。宙を眺めていれば兄の涙がまた上から降ってくるような感覚に襲われた。


 幼い頃からこのムラの長になるべく育てられた兄。父の死後、一人でムラの命運を背負うことになった私のただ一人の兄。森のカミを「化け物」と呼んだその人。


 兄は言っていた通り、出産を迎えるまで私をここに隔離するつもりだ。出産を終えた私をまほろばの大王のもとに送り、生まれた子を、兄は自らの手によって──。

 そこまで考えて身を起こした。顔を両手で覆い、脳裏に流れた兄の悲しい姿を打ち消そうとする。考えるだけで身体が震えた。

 立てた膝に額を押し付け、呼吸を繰り返す。

 兄は優しい人だ。もし兄が自らの手で私の子を殺めたのであれば、自らの罪を誰にも言わず死ぬまで嘆き、背負っていくつもりだ。その覚悟もできているのだろう。

 兄もまた、ムラのために生きてきた。兄の気持ちは痛いほどに分かっている。その覚悟が、どれだけのものであるかも。


 そんなことが、あって良いはずがない。この子を、兄に殺させる訳にはいかない。まほろばになど行きたくはない。兄や母に辛い思いをさせたくはない。

 膝を抱いたまま、ぐっと身体を丸めて考えを巡らしていく。

 このまま何も行動を起こさなければ、私は森にいるあの人に会えないまま終わってしまう。この子も無事では済まない。兄も母も、苦しみ続ける。

 ならば。私は、ここにいてはいけない。


 ゆっくりと膝から顔を上げた。同時に至った考えが悲しいものだとも思える。

 それでも私の存在は、兄も母をも苦しめる。私が自分で、自分の足で、ここを出なければ。そして森へ行かなければ。

 すんなりと受け入れられる結論だった。私の居場所はもう、あの森にしかないのだろう。兄や母の傍ではなく、森に私は行くべきなのだ。

 自分のため。お腹にいるこの子のため。そして家族のためにも。

 すっと自分の中に入っていく決意に、私は寝具から立ち上がり、目を閉じて耳を澄ませた。


 静かだ。皆が、眠っている。草や木も。何もかも。

 小さな獣が夜を行き来している息遣いや足取りの気配が周りでゆらゆらと揺れているだけだ。

 夫の屋敷のような警戒はどこにもない。

 夜であれば、森にいるあの人の力が増す。それならば私も森へ行き、彼を探し出すことが出来るかもしれない。


──行こう、森へ。


 この屋敷の誰が、私の脱走など考えつくだろう。兄に逆らったことなど一度もなかった。母を困らせたのも、幼い頃森に入った時以来だ。

 大事に匿ってくれた家族を思い、後ろ髪をひかれつつも、寝具の傍らに置いてあった上着を一枚肩に羽織る。やや膨らみを持ちつつある腹部を冷やすまいと帯を締めなおし、手で包むように抑えた。

 足を動かし、簾を手で押し上げる。息を殺しながら辺りを見渡しても、数少ない使用人の姿は見当たらない。私は思い切って簾を越え、誰もいない空間を音なく走り出した。


 気持ち悪さも吐き気もない。このまま森へ。私の居場所へ。

 ようやく、あの人に会える。それだけが今の私の心身を支えていた。


 裸足のまま外へ出て、囲むようにしてある森を仰いだ。ムラの集落を越え、緑を抜けていけばそこに巨大な森がある。私が昔、巫女として過ごした社のある、あの人のいる森だ。

 そこではたと思う。彼がいるところは、私が仕えていた森の社よりずっと奥まったところにある。人が誰も踏み入れたことの無い、森の核心に。

 今の私の足ではいけない。馬を探さなければ。

 馬屋に向かおうとしたところを、後ろから伸びてきた手に腕を掴まれて飛び上がった。


「沙耶様……!」


 カヤだった。夜目でも分かるくらいに真っ青な顔をしていた。


「お部屋に居らず、驚いて探していたのです。そのような大事な御身でどこへ行くおつもりですか」


 心配でたまらないのだと言わんばかりに、彼女は私の両手を握った。

 カヤは、私のことをここの誰よりも知っている。幼い頃からずっと傍にいてくれた存在なのだ。大切な友だ。ここでどんな言い訳をしてもカヤは私のことを見抜くだろう。カヤが兄に私の脱走を伝えれば、私はもう森に向かう機会を得られない。


「……カヤ、私は森へ行きます」


 侍女の手を握り、訴えた。


「兄様は私をまほろばの大王に送るつもりでいる。この子を産んで預け、私にまほろばに行けと言う……兄様は自らの手でこの子を殺めるつもりでいるのよ」

「そんな恐ろしいことを与一様が」

「兄様はそれだけの覚悟をしている。私には分かるの」


 カヤは息を飲んで口を噤んだ。


「兄様にそんなことはさせられない。このままでは私はまた森を離れることになる。この子が殺されてしまう……」


 まるで言葉がぼろぼろと落ちていくようだった。


「森にあの人がいるの。私はどうしてもあの人に会いたい」


 カヤは首を横に振った。


「そのようなお身体で森の奥まで行くなど、危険すぎます。今、お身体がどれだけ不安定かお分かりのはずです。もし森に行く途中で何かがあれば、沙耶様もお腹のややこも無事では済まないかもしれないのですよ」


 森は、人の領域ではない。カミのものだ。

 カミの子を腹に宿しているとはいえ、人が奥まで入ることを森が拒むかもしれない。

 私が今から行こうとしているのは最初の巫女以来誰も到達できなかった森の最奥なのだ。人の侵入を拒むように、巨大な樹の根が波打ち広がる森の奥は、途中からは馬でも進むのが困難になる。果たして私が一人で彼のもとへ行けるか。


「カヤ、駄目よ、駄目なの……このままでは」


 私は頭を左右に振った。お腹の子が殺されるかもしれないと思うと胸が裂けそうになる。過呼吸のように呼吸が乱れ、目頭が熱を持ち始める。


「カヤ、お願い。私を行かせて」

「いけません、いけません、沙耶様」


 私を支えるようにして腕を掴む相手は、かぶりを振りながらこちらを覗き込む。


「与一様に、もう一度お伝えしましょう。お願いしましょう。森へ連れて行って頂けるように。沙耶様お一人ではとても見逃すことは出来ません。私も沙耶様が大切なのです」


 カヤの声は今にも泣き出しそうなものだった。


「いいえ、兄様が私の頼みを聞いてくれることはない。このままではこの子を守れない。ここにいたら、兄様はこの子を殺さなくてはならなくなる。もう時間がないの。あの人はまだ傷が癒えていない。私が森へ行かなければ……」


 あの人が苦しんでいる。私のために負った傷で。森の奥で、たった一人で。


「私がいる場所は、もうここにはない……!」


 その一言に、カヤは手を震わせ、瞼を伏せた。私の手を両手で握り、感触を確かめるように撫でる。

 カヤの涙が落ちていく。はらはらと兄のものとよく似ていた。


「カヤ……ごめんなさい」


 私は、どれだけ人の涙を見るのだろう。

 私はどうして、人にこんな思いばかりをさせるのだろう。

 兄にも、母にも。そしてこの大切な友人にまで。


「……お供致します」


 カヤが目に涙を貯めたまま小さく呟いた。その返答に、私ははっとカヤを見つめた。カヤ自身の手は未だ震えている。顔を上げて覗かせた彼女の瞳も同じように揺れ、様々な考えを一瞬のうちに巡らせて至った結論のようだった。


「カヤも行きます、沙耶様」


 恐ろしいことを言っている、そんな顔だ。


「カヤ」


 呼びかけると、カヤは少しだけ笑ってみせた。いつも冗談を言う時の顔に近かった。


「これ以上の反論は許しません。今から沙耶さまは急いで馬屋へ向かって下さい。私は出来る限り、沙耶様がいないと気づかれないよう辺りを整えます。その間に、出来るだけ遠くへ行かれませ。私もすぐに後を追います」


 カヤは袖で涙をぬぐうと、私の背を押した。


「決して無理はなさらぬよう。約束です。気分が悪くなったらすぐに馬を降りてその場にいてください。私が向かうまで動かないように……さあ、早く」


 彼女の言葉に強く頷いた私は駆けだした。

 時間はなかった。


 暗闇の中、幼い頃の記憶を辿って馬屋を見つけた。三頭の馬が並んでおり、そのうちの一頭が私に気づいて嘶いた。私が幼い頃からいる馬だ。

 随分年老いた様子だったが、私が近づくと鼻先を寄せてきた。もとは兄が跨って森の社まで来ていた子だ。私のことを、覚えてくれているのだろうか。


「お前は、私と来てくれるかしら」


 その鼻先に頬を寄せて撫でて囁くと、返事をするように馬は更に鼻先をこちらに寄せてきた。


「ありがとう」


 馬屋の奥にあった装具を引っ張り出し、簡単に手綱をつけて自分が乗れるよう準備をする。馬の準備など幼い頃に兄がしていたのを見た以来だ。それなのによくもまあ覚えているものだと思わず自分に感心した。

 これで良いだろうかと、一通り馬の全体を確認した。必要最低限の準備だが、これだけの支度で馬に乗っていた時期もある。問題はない。


「彼のところへ連れて行って」


 囁くと、承知したと言わんばかりに再び馬は嘶き、私をその背に乗せ、森に向かって走り出した。

 昔いた社の前を通ってそこから森の奥へと行ける。まずは社に向かわなければならない。馬に揺られながらまた血の匂いを感じた。この匂いを辿った先にあの人がいる。



 しばらく駆けてムラの集落を出た。

 風の強さに身を小さくしたまま、森の麓から入り、樹の根本を走った。

 冷たい暗闇にあたりは包まれていた。様々な形の巨大な木々が眠りから目覚め、沈黙を守ったまま何本もそびえて走り抜ける私を飲み込むように迎え入れる。

 息が止まる程の不安がある。怖さがある。

 命をもつ森が、侵入者に大きくざわめいている。その明確に感じられる森の生命の溺れるほどの気配は、私を逃げ場なく包み込み、時間と方向を見失わせようとしているかのようだった。

 こんなにも森を感じたことが今までなかった。巫女としてここにいた時でさえ。


 一点の光もない。微かな血の匂いが薄れていくかのように揺れている。

 ムラから社までそれほどなかったようにも思うが、それは昔の自分の感覚で、今となっては随分遠いように思えた。

 かなりの時間を走って来たと思うのに、まだ社は見えなかった。先程と変わらぬ光景が延々と続き、終わりがないようにも感じられる。


 カヤがいくら支度をしてくれていても、兄は遅かれ早かれ私の脱走を知るだろう。私の脱走を知ったら、兄はすぐにでも追いかけてくる。それまでに、兄がたどり着けない奥まで行かなければならなかった。

 私がいなくなったことを知った母は、泣くだろうか。泣いている母と、兄のことを想ったら、胸が酷く傷んだ。


 不安に駆られながら馬に揺られている内に、消えていてはずの吐き気が戻って来たのに気付いた。進めば進むほどに悪化して、身体が鉛のように重くなる。背を伸ばしていられず、私の背は屈むような体勢になった。

 久々に馬に揺られた所為なのか、それとも三年間ただ屋敷の中で過ごしてきた所為で身体がついてこないのか、身重な故なのか。どれが原因かも分からない。

 ただ、巫女であった時のように軽々と駆けていける感覚はなかった。

 私は、いつの間にこんなにも弱くなったのだろう。まだ、全然進んでいない。まだ、あの人に近づけていない。


 酷い吐き気に見舞われ、多くの森の声に溺れ、ついに血の匂いがどこから流れてくるのか分からなくなる。方向が分からなくなる。上も下も、分からなくなる。

 カヤとの約束が脳裏を過っても、進む足を止めたくはなかった。ここで止まったら、きっと私の身体は動くのを止めてしまう。


──どこにいるの。


 目尻に涙が浮かんだ。どれだけ胸の内に相手を呼んでも、前のように答えてくれることはない。それほどに弱っているのに、傍にいられない。役に立てない。


──どこにいるの。どこにいるの。


 ほとんど馬の首に縋る状態で、延々と木々が続く風景の中、ひとつ開けた空間があるのを見た。正面に向けた視界に飛び込んできた、懐かしい建物──社が空間の中心にあった。私が巫女として過ごしていた場所。大婆様と共にいた、未だ変わらぬ場所。

 ようやく、ここまで来た。この先が、森の奥に繋がっている。

 社が見えた途端、見慣れた風景の安堵からか、視界がちかちかと白黒に点滅し、震えながら手綱を握っていた手から無意識に力が抜けた。


──いけない。


 自分の手が手綱から離れたことに気付き、そう思ってからは一瞬だった。はっとした時には地面が視界いっぱいに広がり、まるで吸い寄せられるかのように近づいた樹の根の上に身体を打ち付けた。乗り手がいなくなったことに驚いた馬が大きく嘶く。


 しばらく、自分の身に何が起こったのか分からなかった。投げ出された身体を横えたまま掠れた声を漏らしながら、自分が呼吸をしていることを知る。深く呼吸をしたら、出どころが知れない痛みが全身に響いた。

 落馬したのだ。落馬など、一度もしたことがなかったのに。


 身体が触れる樹の根には懐かしいくらいの暖かさがあった。森は深く生い茂り、空の星の光さえ私には届かない。私を乗せていた馬がおずおずと私の傍へやって来て鼻先を寄せる。心配してくれているのだと分かっても手が伸ばせなかった。

 限界を迎えていた身体は、一度止まる機会を得て、これ以上動くことを拒んでいた。這いつくばる様にしてどうにか起き上がろうと思うのに、どうにも腕に力が入らない。手綱を強く握りしめていたせいか、手が小刻みに震えて止まらなかった。腕が痛む。背中や足が痛む。頭も打ったようで鈍痛があった。

 全身の痛みに、お腹の子に影響はなかったかと恐ろしくなった。自分の身を確かめようにも身体が自分のものではないように言うことを聞かない。


 寒さがあった。暗闇に一人、浮いているような寒さ。

 『森には生と死がどこよりも近くにある』──昔、大婆様に聞いた言葉だ。この寒さは「死」なのだと思った。

 闇夜に紛れ、這い寄る様に黒い何かがいる。得体のしれない寒さの源。

 森を守る存在か。カミを失った森を「死」で包み、「無」とする存在だろうか。

 私が森の奥、人が入ることを禁じているカミの領域へ行こうとしているのを悟り、近づいてきているのだろうか。


 まるで血が引くように意識が遠くなるのを感じる。駄目だ、ここで倒れては。

 森の奥へ、もっと奥へ、行かなければならない。身体を起こして、馬に乗り、あの人のところへ。

 このままではあの影に、私は連れていかれる。



「……あちらです、ほら」


 遠くで声がした。


「馬の声が……ほら、あちらに馬が」


 視界が閉じていく中、二つの足音が近づいてくる。


「まさか、そんな……人がいます。倒れているわ」


 誰かが走り寄って来て、私を上から覗き込む影が現れた。


「……沙耶様?もしや、沙耶様なのですか?」

「何故ここにに……大変、傷が!」


 聞き覚えのある声。社で仕えてくれていた、侍女の。

 ここまで来れば、大丈夫だ。

 匿ってもらって、社で休んで。そうしたらまた向かえばいい、あの人のところへ。


「沙耶様、お気を確かに……!」


 悲鳴のようだと、薄れていく意識でぼんやりと思った。

 同時に寒さが消えていく。死が、離れて行く。息を潜め、闇夜に帰っていく。


「沙耶様!」


 最後に、カヤの声がした。



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