第5話 てのひらの縁

 高校一年生の春。俺は彼女と関わることは、一生ないと思っていた。


 明るいし、人脈あるし、何より笑顔が眩しい。

 同じクラスの中でも人種が違う。きっと彼女も俺の事なんて意識の片隅にないだろうと思っていた。


 ……結果は全然違っていたが。


――「屋前やまえくん」

 夕暮れの帰り道。いつものように、一人で通学路を歩いていた。声を掛けられ、立ち止まる。

 ソプラノの綺麗な女の子の声で、呼ばれた名前。

 日常にはないその行為に俺は警戒心を強め、振り向く。

「さっ、澤原さわはらさん……」

 夕陽すら霞む、眩しい笑顔のクラスメイトがそこにいた。


 クラスいちの美少女との邂逅かいこうに唖然としている俺を尻目に、彼女は何のためらいもなく近づいてくる。


 彼女が、こちらへ近寄る。ただのアスファルトが、ランウェイにみえる。それくらい彼女は飛び抜けて綺麗なのだ。

 ヒエラルキーの最上部。大体クラスの誰とも仲が良く、優等生。ましてや顔立ちも整っている。こんな風に易々やすやすと他者の視線を縫い付けられる存在感を持つ彼女だ。

 そんな彼女が一体何故俺に声を?


「屋前くん」

 彼女が近づいて、俺の名前を呼び直す。

「なっ、なに?」

「頼みごとがあるの、君にしか頼めないんだけど、いいかな」

 俺は彼女の勢いに負けて、頷いてしまう。

――


 その頼みごとがこんなに長く続くとはね。

 真新しい文庫本の表紙を眺めて思う。本のタイトルは『猫は放ってはおけません』。その下に『保木稿ほきわら 操葉みさは』という名前が書かれている。

 『さわはら きみほ』=『ほきわら みさは』

 この通り、単純なアナグラムで作られたペンネーム。

 そう、これは澤原の書いた小説なのだ。


 これが未希帆みきほの頼み事であり、俺と彼女を繋ぐ唯一とも言っていい接点そのものだ。


――

 そう言えば、要件を聞いていなかった。

 悪徳商法さながらの手際の良さに、無くなりかけていた警戒心が再燃する。俺が頷いたことで、笑顔がさらに深まった彼女に今更断りを入れるのは忍びない。

 せめて、要件を聞いてからもう一度返事をしよう。


 心の中でそう決めた。

「屋前くん文芸部だよね。教室でも本読んでるし、読書好きだよね」

 まくしたてる澤原さんのテンポに、俺は事実を肯定するだけにとどめる。

「これ読んで、感想教えてほしいの。あっ、もちろん他の人には内緒で、小難しい感想とかじゃなくていいし、別に嫌だったら突き返してくれても構わないから、君が文芸部だって知ってずっと読んでほしかっただけなの」


 それじゃあ。

 俺の意思を聞くことなく、紐綴じされた大量のA4用紙を渡して彼女はさっていった。

――

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