慶長の旅人 時渡りの顛末

@Yu-kame

第1話 闇に紛れて

 一、闇に紛れて


 梅雨に入るにはまだ少し間があろうかという季節。なま暖かい風が吹き渡る新月の漆黒の闇の中を街道から寺に向かってひた走る三つの黒い影があった。

 足音もなく、ましてや息を荒げることもなく三人はすでに一里半ほどを駆け続けている。行く手には大きな銀杏の木が見え隠れして彼らの目的地を示している。

「止まれ」

 先頭を走っていた影が左手を出して続く者達を止めた。

「この辺りからは仕掛けがかけられているはずだ。主人の一景かずかげが留守とはいえ、まだまだ手練れも揃っていよう。気を抜くな」

 影の後ろに控えた者達が小さく頷いた。そして彼らは再び走り出し行く手の暗闇に消えていった。


「む‥、誰か入ったな」

 九竜寺くりゅうじから遥かに離れた主君の城に参じていた滝一景たき かずかげは僅かに眉をひそめ呟いた。となれば、すぐにでも寺に駆け戻りたいところであったが、今は主君の城で大勢の大名たちも交えての軍議の最中である。城の警護の役も務めている滝一族の長が、今この時、城を後にすることはできない。

 一景は控えていた者を廊下の端に呼び寄せ、小声で指示を出した。

「直ぐに誰かを寺に走らせよ。何者かはわからぬが結界を破った者がいる。寺には秀影らも居るが、賊の侵入に気づいているかどうかわからぬゆえ」

「はっ、直ちに」

 彼は一景の指示を受け、身を低くしたまま小走りに庭を出て行った。


 一景の主君は長く続いた戦乱の世に終止符を打つべく知略、策略を巡らせている。

 諸国の大名たちの多くは、自分たちの利益、所領を守るため、あるいは戦に疲れ果てた領民たちのため、喜んでこの主君の元に参じ集まって来ていた。

 中にはその力の差を見せつけられ、しぶしぶ矛を収めてきた者もあったかもしれない。そしてその陰には一景率いる滝一族を始め、主君の影になり働いた者たちがいたことは言うに及ばない。


 だが、今に至ってもなお過日の栄華を追い求め、戦乱の世を懐かしんで小競り合いを繰り返している者もあり、一景らが忍び入って働かなければならない国があるのだ。

 さらには先の戦で一景の主君に敗れ、一族を引き連れて逃れた者たちもいる。そういった者たちは頼った縁者の下、または隠れ里などでお家の再興を願い、隙を窺っている。ゆえに一景らはまだまだ主君のそばを離れるわけにはいかないのである。


 滝一族の本拠地である三方原の九竜寺は、主君の城より十里ほどの山中にある。

 人里からは離れているものの、そこが先の戦に功のあった滝家の屋敷とあって、村人や行商人達が時おり訪ねて来ていろいろな品々や野菜、魚などを売っていく。

 九竜寺という寺になっているのは、もともとその場所に小さな廃寺があり、無縁仏の墓も多くあったため、この地に拠を移すことに決めた一景が寺ごと引き受け、新たに寺を再建し、自らも僧籍を得て寺の主となっているためである。

 一景が城に上がる際は城下の小さな屋敷を使っており、そこには従者や下働きの女達を含めても十数人居るだけで、一景の本屋敷はあくまでも三方原の九竜寺なのである。


 滝一族はもともと伊賀の流れをくみ、古くよりその類まれな能力をもって時の覇者に仕えてきた。戦乱の世も収まりつつある今、その能力を存分に使う機会は減ってはいるものの、受け継がれてきた技や秘伝の術などは今でも忘れることなく次の世代に伝え、鍛練を怠ることがない。また一族の長にのみ伝えられるという術や教えもあり、それは秘伝の書として蔵の奥深くに守られている。


 一景は三方原に寺を再建する際、辺り一帯の地形や水源、鉱脈をくまなく調べさせている。それは戦乱の世にあって一族を率いる者としては当然のことである。

 寺の裏側は険しい山になっており、山側から寺に攻め入ることはまず不可能であろう。またその山肌には小さな裂け目があり、そこから暗い穴が口を開いている。地の底に続くようなその穴は入り口こそ人一人やっと通れるほどであるが、一旦、中に入ってしまうと思いの外広い空間が広がっており、穴のもっと奥のほうでは水の流れる音もしている。鍾乳洞である。寺の裏門を出てその穴の入り口まではわずかな距離で、人や物を隠すことはもとより、若い者達の良い修行、鍛練の場所となっている。


 寺の周り一里四方には常時何人かの見張りがおり、近隣の村々にもその村人として一族の者が入り込んでいる。また街道の茶店を営んでいる者もあり、彼らは諸国からの情報や噂話に耳をそばだてている。

 寺に続く道を通って来るものは当然ながら、草の中を忍んで近寄る者たちも滝一族に察知されずに通るのはまず不可能といえるかもしれない。それでもなお気づかれることなく寺に忍んで近づく者があれば、一景が仕掛けた印を踏んだときに一景の知るところとなるのである。

 今夜、一景が気づいた侵入者たちは、そのような印の一つ、一景が自身の髪を張って仕掛けたものを踏んだのだ。


 はたして、一景の留守を預かっていた一景の弟、秀影ひでかげは城からの報せを聞くまで全くそれに気づいていなかった。報せを受けてすぐさま寺の中をくまなく調べてみたが、忍び入った者たちの姿どころか、何を盗られたか、または何かを仕掛けられたのかさえ全く分からなかったのだ。留守を預かる秀影に力が無かったわけではない。ただ、忍び込んだ者の力量が勝り、またそれに遥か離れた所で気づくことのできた一景の人知を超えるような能力の高さがこの事を明らかにした。


 翌朝、軍議を終えた一景が共を一人だけ連れて急ぎ三方原の寺に戻ってきた。そして真っ直ぐ本堂の裏手にある座敷蔵に向かった。

 座敷蔵へは常に人の目のある本堂を通らねばならず、その分、守りに対する油断もあったのかもしれない。

 蔵に着くと、一景は二重に掛けられた重いかんぬき錠を開けさせた。蝋燭の灯りに照らし出された蔵の中は、物の配置などはいつもと全く変わらなかったが、ただ、この寺のものではない微かな匂いが残っていた。普通の人間には全くわからないであろうこの匂いに秀影が震えた。

「なんと…!

 兄上、申し訳ございませぬ。不覚をとりました。同じ寺の中に在り、これに気づけぬとは、なんと情けない事か…」

「うむ。しかしここまで見事にやられては、かえって誰の仕業か見当がつくというものよ。

 さて、奴のねらいは何だったのか」

 そう言うと一景は蔵の奥に進み、一番奥の壁にあった灯り立てを右に倒した。するとその壁が観音開きにわずかに開き、その扉の境目に油を塗った跡が見て取れた。

 扉の中は何段かの棚になっていて、大小の箱がいくつかと、巻物、書物が並べられている。その中にかなり年代物の古い漆の箱があった。

 その箱には滝一族の頭領にのみ伝えられてきた奥義を記した巻物が入っている。一景に続き蔵に入った秀影もその箱の中身を見たことはなかったが、一景はもちろんその内容を知り、自らを一族の長として律し、鍛練を続けてきた。

 今、箱の中には五本あったはずの巻物のうち二本しか残されていなかった。

「やはりな」

 危惧していた通りだとでも言うように一景は小さなため息をついた。

 巻物に書かれてある事は滝一族の秘伝の術や教えとして代々の長が少しずつこれと見込んだ者たちに伝え、それぞれが修行をしながら自分のものとしていく。

 それでも中には頭領にしか許されていない術や、教えようとしても滝一族の血族にしか上手く伝わらないものもあり、その全てがこの五本の巻物には記されてあったのだ。


 最初の巻はまず薬と毒に関するもの。

 これには植物や虫、獣、魚など、自然界のあらゆるものから作られる薬や毒について記されている。戦さにおいて矢じりなどの先に塗るものから、人を眠らせて夢を見せるもの、各器官を麻痺させるものなど、あらゆる毒の作り方、そしてそれらの解毒薬。または病に対する薬などの調合と処方の仕方などである。

 次は獣に関する巻。これは獣を操り利用する方法。これを会得することによって猿の群れを操り、敵陣を混乱させたり、猪や熊を利用する戦術も取ることがてきる。先の戦いでは侵入の難しい砦に煙玉をくくり付けた鼠の大群を送り込み、門を開かせたこともあった。これは獣の習性と地形などを知りつくさねば会得の出来ない術である。

 三つ目の巻は形に関するもの。主に自分の姿、形を変えて他人になりすましたり、物の形のことわりについて書かれている。身体の関節の外し方などはもとより、顔の形や背の高さまで変えることができる者もいる。

 四つ目の人心を操る巻は、今で言うところの催眠術のように他人を意のままに操る方法についてである。多くの者は薬や道具の助けを借りなければならないが、一景をはじめ、この術に精通した者たちは、相手の目を見据えるだけで手中に落とす事が出来た。

 そして最後の巻物、これは時を操るものである。時間というものについて説明し、操る。つまり時を超える方法について書かれてある。これこそは秘伝中の秘伝とも言えるが、一景がこれぞと見込んだ若者に伝授しようとしても何かがそれを妨げる。この術をわずかでも理解し、使いこなす見込みがあるのは今のところ一景と同じ血を引く者だけのようなのだ。

 昨夜、この蔵から盗まれたものは、これらのうち、薬と毒の巻、人心の巻、そして時の巻の三巻であった。


「おそらくこれは戸隠の根津雲之助の仕業であろうな。ここに使うておる油があやつらの用いるものと同じ臭いがする。とすれば裏におるのは信濃の昌幸かその息、信繁だが」

 そしてこれ以上蔵の中には手がかりになるような痕跡はない、というように蔵を出て一景は言った。

「まずは、巻物の跡を追ってみよう」

 頭領に伝わるこれらの巻物には代々の長の髪が織り込んであり、滝一族にはそれを辿る力があるのだ。自分の身体の一部、たとえそれが髪の毛一本であれ、己の神経を先まで行き届かせる鍛練をした者には、それが身体から離れてしまってもその跡を辿り、感じとる事ができるのであろう。滝一族の者達はとりわけその能力に長けていた。

 寺の本堂に戻ると一景は人払いをして蝋燭の前に座った。半時ほどの間炎を見つめ、巻物の在処を探っているようだった。

 秀影と数人の者だけが隅の暗がりに控えていた。

 やがて一景は振り返り、探すべき方向を告げた。

「山に沿って北の方角に向かったようだ。やはり信濃の国あたりであろう。近くに行けばもっとはっきりするはずだ。馬の用意を。追うぞ」

「はっ、お供いたしまする」

 と、その場に居た者達が勇んで走り出そうとするのを留めて一景が指示を出した。

「いや、お前たちが出てしまったのでは寺が心もとない。三郎と誰か足の速い者を連れて行こう」

「ですが兄上、もし待ち伏せでもされていたら。ではどうか霧人きりとをお連れください」

「うむ、霧人か…。そうじゃな。では直ちに出るぞ。用意を」









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