マルッセル劇場、内部
「相変わらず賑わってんなぁ~」
翌朝、マルッセル劇場前。
相変わらずここは何かの祭りかのように人で溢れ、そして楽園かのように華やいでいた。
朝の日差しがとても眩しい。
俺は無意識に額へと手をやりながらその日差しを軽く遮ると、自分の首元の衣服を整えた。
理由はもちろん、昨晩自分で傷つけてしまった首元を隠す為だ。
「まさか、自分であそこまで傷をつけてしまうなんてな。」
幸い朝には例の傷がかなり薄くなっていたのだが、それでもいまだにその皮膚の表面にはヒリヒリとした痛みと違和感が伴っている。
「…とりあえず上演時間は一時間後だから10分前には席についておくとして…」
…劇が始まる前に、出来るだけ劇場内部を見てまわらなければ…
そう思った俺は、つけている腕時計で時間を確認した。現在は朝9時。開場時間は30分後となっている。
「…それまでに確認しておく事は…」
マルッセル劇場で現在上演されている劇の内容と、劇場内部の構造や劇団員の配置について。
あとは男性劇団員がいるかどうかと他の観客達の反応や様子…
今回はそういったところだろうか。
俺は手にしていたマルッセル劇場の広告を広げながら、現在のマルッセル劇場の外観と当時の広告のマルッセル劇場とを見比べてみた。
するとその瞬間――――…
「…うぐっ!」
突然背後から何者かに口を塞がれ、そしてそのまま薄暗い路地裏へと引きずり込まれてしまった。
「…んー!んー!」
すぐに叫び声をあげようとしたが、口が塞がれてしまっている為に、上手く声が出せない。必死に抵抗する俺を、その者は口を塞いだまま近くの壁へと強く押しつけた。
壁に押し当てられ、体勢が変わる事でその者の姿がすぐに明らかとなった。
俺をこの場所へと引きずり込んできたのは、眼光が鋭い細身の中年の男だった。もちろん、面識などない。
その男は白髪混じりの傷んだ長い髪を有し、目深に被った帽子とそしてところどころに綻びがある、妙に薄汚れたマントのようなものを身に付けていた。
俺はしばらく必死に抵抗を続けていたが、自分の口元に当てられていたその男の手が、少しだけ緩んだ事に気づいた瞬間、一気に両手に力を込めながらそのまま男を押し退けた。
「何なんだよ!お前は!何でこんな事をするんだ!?」
男の手から解放された瞬間、俺は男との間合いをはかりながらそうわめき散らした。必死に抵抗した上、恐怖によって息は完全にあがってしまい、いまや肩で呼吸までしはじめている。
そんな俺の様子になど構う事なく、男は黙って俺の事を見つめていた。
…その格好からして、浮浪者か何かだろうか。
男のそんな風貌とやけに鋭い眼差しに、はじめは威勢よく怒鳴っていたはずの俺も、思わずたじろぎはじめる。
「目的は何だ!?…か…かかかか…金か!?」
そう声を震わせながら、男に尋ねる俺に対して、男はすぅっと人差し指をあげながら俺の方を静かに指で差した。
「…それ…」
その男の声は、ひどくしゃがれている。
「…それ?」
男のそんな行動に、俺は思わず彼の言葉をオウム返しにしながら彼が指差した方向へと目を落とす。
そこには俺の手元に握られていたマルッセル劇場の広告があった。
「そうそれだ、その広告…」
そう言って男は険しい表情のまま、俺が握っているマルッセル劇場の広告を静かに見つめていた。
「…なんだ…?」
広告を指差されている事に気がついた俺は、思わずそう声を漏らした。
「…そういった物は、ここでは絶対に出さない方がいい。あと出来る事なら、もうあの劇場自体にも近づくのを辞めた方がいい。」
「…それはどういう…」
男のその言葉が全く意図が分からず、そう聞き返す俺に対して、男は静かにこう答えた。
「…それが君の為だからだ。」
その男の眼光がさらに鋭く光る。
俺はその言葉になど何一つ納得は出来なかったが、男のその鋭い眼差しに捉えられてしまったその瞬間から、ただ自分の言葉を全て呑み込む事しか出来なかった。
路地裏へと吹き込む風に前髪を揺らしながら、俺と男はしばし対峙する。
その緊張にも似た、深い静寂を打ち破ったのは…
「ジェフ!そろそろ行かないと…ここは意外と人目につく!」
路地裏の奥から出て来た小太りの男だった。
小太りの男にそう声を掛けられ、ジェフと呼ばれた男はマントの裾をひるがえしながらその場を立ち去って行った。
「…なんなんだよ、一体…」
その男の背中を見送りながら、俺はその男の忠告通り広告を自分のカバンの中へとしまったのであった。
開場15分前。俺は他の観客達と共に、入場口へと並んでいた。
入場口前は、今日も長蛇の列だ。
並んでいる観客層は中年から高齢の人達が多く、若者はほとんど見かけない。そればかりか子供など一人もいないといった感じだった。
もっとも、最近では子供の入場を断る劇場も多いし、今日は平日という事もあって若者達は働きに出たりしているのだろう。
「楽しみですよね~!今日の劇は、どんな劇なんですかね~?」
俺は隣にいた中年男性にそう声をかけた。
するとその男性は俺の事を不審そうな表情で眺めながら、こう答えた。
「…どんな劇って…君、ここでやっている劇はいつも同じに決まっているではないかね。」
「…いつも…同じ…?」
「あぁ、そうだよ。ここでの劇はいつも同じさ。私は数十年前から毎週通っているんだけど、途中で劇の内容が変わったなんて事はないよ。」
今度は逆に不審そうな表情となってしまった俺に向かって、中年男性は淡々とそう言って退けた。
「…あの、それじゃあ飽きたりしませんかね?」
恐る恐るそう告げる俺に向かって、その中年男性は、少し興奮したような表情で、
「とんでもない!あんなエキサイティングな劇、何度見ても飽きないよ!!」
と声を荒げた。
「そうよ!あんな優雅で美しい劇は、他では決して観られないわ!」
俺とその中年男性のやり取りを耳にして、いてもたってもいられなくなったのか、前に並んでいたご婦人も、こちらを振り返りながら金切り声でそう叫んだ。
一人は劇の感想を「エキサイティング」と称賛し、もう一人は「美しくて、優雅」という。
一見相反するようなこの二つの感想が、たった一つの劇の中で混在する事など果たしてあり得るのだろうか。
…もしかして、劇自体が異なる何部編成かに分かれていて、あらゆる内容の劇が楽しめるようにでもなっているのかもしれない。
相変わらず劇の素晴らしさを口々に熱く語っている二人を他所に、ふと目を向けると女劇団員がじっとこちらを見ている事に気がついた。
…これじゃああまり目立った行動は出来ないな。
俺はその二人に愛想笑いを浮かべながら軽い会釈をして何とかその場をおさめると、開場までの時間を大人しく待っておく事にした。
しばらくすると、例のワゴンについている物と全く同じ音のブザーが鳴らされ、二人の女劇団員達の手によってマルッセル劇場への扉が開かれた。
そして他の観客達と共に劇場内へと入った俺が入り口でチケットを渡すと、代わりに別の女劇団員から小さな紙コップを手渡された。
多分サービスなのだろう。
紙コップの中にはほんのりと色づいた、薄桃色の澄んだ液体が入っていて、中には小さな花弁が数枚浮かんでいた。
その正体を理解できなかった俺が、そっとその香りを嗅いでみると、その液体からはうっすらと柔らかな花の香りが広がった。
「それは花茶だよ。君はこの劇場に来るのが初めてなんだろ?その花茶はね。劇が始まったら飲むんだ。そのお茶を飲みながら観るこここの劇は、本当に格別だよ。」
そう言って先程の中年男性が声をかけてきた。その表情と声は先程と違ってかなり優しい。
俺は再びその男に会釈をすると、他の観客達と同様に劇場の奥へと進んでいった。
劇場の中は、まるで映画館のような広い造りで、舞台を取り囲むように半月型のような形でいくつもの座席が並べられていた。
座席の指定はないようで、俺は少し後方にある中央の席を選んだ。
他の観客達も次第に席へとつく。
今日は平日だというのに、席はすでに満席だ。
俺の両隣には、初老の男性が席についた。
俺は隣に座ったその初老の男性のしぐさを真似をしながら、花茶にちびりちびりと口をつけはじめる。
花茶はその甘い香りとは異なって、少し酸味のある爽やかな味をしていた。
再びあのブザーの音が鳴らされると、舞台の上には沢山の女劇団員達が出てきて、歌や躍りを披露しはじめた。
とくに司会や劇団員の紹介などない。
ただ淡々と歌や踊りを披露するだけである。
その数ざっと十数名。
どれも同じ衣装とメイクをしており、どれが誰かなど全く区別なんてつかない。
劇の内容は、静かな歌に合わせて布や扇、そして時には剣などを用いて踊りを披露したり、皿や椅子などを使って、簡単な曲芸を見せたりといったものだった。
その内容は確かに言いようによっては「優雅で美しい」。だが俺にとっては、それ以上にとにかく退屈で仕方がなかった。
…これのどこがエキサイティングなんだよ…
俺は劇場前でのあの中年男性の言葉を思い出しながら、花茶へと口をつけた。
再び口に含んだその花茶からは、先程までの酸味などすっかりと失われ、むしろほんのりと甘味のあるとても飲みやすい物へと変わっていた。
俺はその花茶を飲み干しながら、ふと隣の男へと目を移した。するとその男はまるで食い入るかのように劇を眺めて続けている。
…そんなに面白いもんかねぇ…
まるでお気に入りの子でもいるかのように、その劇団員達の動きを目で追い続けるその男の様子に呆れた俺は、先程よりも少し深く座席へともたれかかった。
そして少しウトウトとしてしまったところで、突然女劇団員に肩を叩かれた。
気がつくと、周りの観客は既にいない。
どうやら居眠りをしていたようだ。
「…いや~すみません!途中で何だか寝ちゃったみたいで!あ!いや、別にあんたらの劇がつまんなかったとかじゃなくて!昨日の仕事で疲れていたというか…」
必死に劇の最中であるにも関わらず寝てしまった事に対する弁解を並べてみたが、その劇団員はこちらを振り向く事なく、そのまま俺を劇場の外へと案内した。
劇場入り口に今朝のような活気はもうない。
むしろそればかりか―――――…
「…なんだよ、これ…」
劇場の外へと通された俺の目の前へと広がっていたのは、真っ暗な夜の静寂だった。
小さな街の光と大きな月明かりだけが、俺達を静かに照らす。
「…嘘…だろ…」
腕時計を確認すると、夜8時を示していた。
驚いた俺が、女劇団員の顔を見ようと振り向いたその瞬間…
俺は突然何者かに後ろから激しく抱きつかれた。
そしていまだ状況が理解できず、呆然としている俺の耳へと届いて来たのは…
「ダグラス!良かった!症状が治ったんだな!」
そう泣き叫ぶウェスカーさんの声だった。
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