すぎ

 異様な光景だった。

 八畳一間の1DK、築四十年のアパートの一室の中で繰り広げられるのは、ある意味では男女の営みと言っていい行為。ある意味では、最も健全で、至極当然な行いであると言える。

 男と女が狭い部屋に二人住まい。時は陽も暮れ、丑三つ時。明日は休日で貧乏暇ありとくれば、やることは一つしかない。

 男は女の躯をまるで玩具のように扱い、女は口では嫌がるそぶりを見せつつも、しなを作って男に媚びる。白磁のような女の体躯はほんのり桜色に色づき、得も言えぬ艶かしさを部屋の中に撒き散らす。その様はいかにも浅ましいが、しかしどこか人間くさく、誠実なようにも感じられる。

 その1DKの中、狭いダイニングキッチンのスペースで、女が座り込んでいた。生まれたままの姿で。

「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」

「あ? いつからそんな文学少女になったんだオメェ。んなタマかよ」

「口説きなさいってこと」

「オメェはコマーシャルに影響されすぎなんだよ。大体だな、与謝野晶子のその短歌をクルマ業界で最初に使ったのは、マツダのRX-7が最初なんだよ。二番煎じかっつーの」

「……あたしを放っといて人生なんか語ってんじゃねえよって詩だけど、そっちの意味で道について語られるとは思いもしなかったよ」

「ンだと? FCのあの流麗なボディとロータリーエンジンのロマンをバカにすんのか? あァ?」

「……台無し」

「台無しで結構」

「はあ、もういいわ。そもそも期待してないし」

「期待もしてもらわなくて結構」

 男が女から少し離れた場所で煙草をふかしながら、女の甘言を冷たくあしらう。ピロートークとは言いがたいやり取りの応酬だが、そこには確かに愛があった。

 愛とは、水の様でもあり、土の様でもあり、小説の様でもあり、漫画の様でもあり、色の様でもあり、光の様でもあり、矛の様でもあり、盾の様でもある。愛とは形のない不確定のものであり、男と女か、あるいは男と男か、それとも女と女か、それすらも形がなく、そもそも曖昧である。

 で、あるからして、彼らのような愛があってもいいはずだ。いや、無くてはならないはずである。

「で、今までいいご身分で休憩してらしたけど、あとどれくらい掛かりそうなの」

「もうちょいだ、あとは腰の部分の花弁の描きこみをすれば終わる」

「あっそ」

 男は傍らに立てかけてあった絵筆を取った。絵筆の先端は燃えるような、しかしそれでいて哀しげな、儚い赤。夕日色に染まったその筆を、男は躊躇なく女に向けた。

「んっ……はぁっ……」

「…………」

 女はくすぐったそうな声――ともすれば喘ぎ声にも聞こえるような艶っぽい嬌声を上げながらも、身をよじることはせずにされるがままにしている。男はそれに構おうともせず、一心不乱に筆を動かし続ける。

「っぁ……な、何度やっても慣れないわね、これ、はっ……」

「…………」

「……ま、こうなったらだんまりなのは知ってるけど、ねっ……」

 喉に引っかかったような粘り気のある声音で、さも誘惑しているような――否、彼女は実際のところ誘惑しているのかもしれない。婀娜な音が吐息と共に、女の売れた唇から発せられる。

 女の体に描かれるのは、呪われた花、彼岸花。枝も葉も節もない花茎の先からは、毒々しいまでの赤い花弁が、まるであの世へと誘う手のように、それはそれは妖しく咲き誇る。

 脇腹から背中にかけて男の筆は踊り狂う。熱を持ったほんのり紅い女の体に、燃えるような彼岸花の花弁が幾弁も描き込まれていく。それは脇腹から背中にかけてだけでなく、既に体全体に描き込まれていた。ある花は堂々と咲き誇り、しかしある花は繊細にその花弁を宙に垂らす。

 本来絵画とは紙に描くものだが、女の躯はまさしく絵画を描くためのキャンバスとなった。なだらかなカーブを描く肉体の上に描かれた花たちは匂い立つような色香を放っており、その様はある種の芸術のようでもあった。

「っ……ぁあっ……」

「…………」

 さながら行為のような嬌声は、狭い部屋であることも相まって残響のように耳に残り、お互いの肉体的接触は一切無いにも関わらず、女の色香も手伝い情事の趣きさえある。いや、ともすれば情事よりも性のやり取りとしては余程烈しいのではないかとさえ感じられる。

 ひとしきり男は筆を走らせ、女は躯をくねらせた後、男の筆が唐突に止まった。

「……よし、完成だぞ」

「……はぁ、はぁっ……」

 そこにあったのは、瑞々しい彼岸花の数々と、女の色気だけだった。

 言葉で表現する必要はない。そこにはただ、女と花があるだけだった。

 それ以上に表現しようのない光景であるはずなのに、どこか詩的で、そうかと思うと肉々しく、しかしだからこそ美しい。

 男は筆を降ろすと、少し荒い息を吐きながら、傍らにあった煙草に火をつけ、おもむろに口にくわえた。彼岸花という死化粧を纏った女は、その様子に不満そうな顔を浮かべながら呟く。

「で、どうすんの? このまま突入?」

「もう少し完成の余韻に浸らせてくれ」

「そう言ったときって、たいていそのまま寝ちゃうじゃん」

「……待ってろ。ちょっと疲れた」

「年だね」

「うるせえ」

「煙草はやめるんだね」

「うるせーっつってんだろ」

 煙草をふかしながら悪態を吐く男に向けて中指を立てながら、女は寝室へと入っていった。





 根津香澄は持参したメモを見ながら、裏通りを歩いていた。

 この春から大学二年になったとはいえ、オシャレに気を使うわけでもなく動きやすいという理由からTシャツにGパンというフランクな格好で、何かを探しながら辺りを見回す。大学の友人からの、「そのお母さんに切ってもらったような雑なショートヘアーが男を遠ざけるんだよ」という忠告も何のそので、肩あたりまで雑に伸ばした黒髪のショートカットが首を振るたびに小さく揺れる。ちなみに、未だに髪は母に切ってもらっている。彼女にとって美容院は怖かった。

「っと、この辺だ」

 電柱に書かれたホーロー看板を見て、手元のメモをその看板と照らし合わせるように前に掲げた。ホーロー看板にはこのあたりの場所を示す住所が書かれており、かざしたメモにも同じ住所が書かれており、彼女の目的地がこの場所であることが分かる。

「うっわー、ボロいなー」

 香澄の目前には、築四十年は確実に経っているであろう古い木造アパートがあった。部屋は一階と二階でそれぞれ五部屋のごく平均的なスタイルで、建物の脇に二階へ上がるための錆びた階段がある。外壁のトタンは台風が来れば今にも吹き飛んでしまいそうなほど年季が入っている。

 胸の前で握りこぶしを一つ、意を決して階段を一段一段上がる。共同廊下の一番奥に、目的地である二〇五号室はあった。そこでもまた一息つき、呼び鈴に手を伸ばす。

 ピンポーン、という素っ気無い音と、ドタドタバタバタ、という慌てたような音が部屋の中から聞こえてくる。

「あー、はいはい、NHKの集金ですねー、ちょっと待っててー」

 いかにも起きぬけと思われる男の声に、香澄はNHKの集金と間違えられたことへの突っ込みも忘れて、香澄はぴんと直立したまま固まってしまった。

「っと、お金お金、っと、今開けるよー…………あっ」

「あっ」

 ドアが開いた途端、数秒の沈黙。二人が動き出すまでにドアが開いてからも数刻の間があった。

 先に動き出したのは香澄だった。

「お、お久しぶりです小林先生! び、美術部でお世話になっていた根津香澄です、覚えてらっしゃいますか?!」

「お、おう。根津か。い、いや、根津……? お前、何してんの?」

 小林先生と呼ばれた男は、ボサボサの髪をボリボリ掻き、頬にうっすら浮かんでいる無精髭をなでながら、かけている眼鏡を掛けたり外したり。心底動揺している様子だ。

「え、えっと、び、美術部時代は、本当にお世話になってたのに、大したお礼も出来ないままで、ずっと引っかかってたんですけど、ですけど、お、お礼が、したくてですね……」

 香澄にとって、目の前にいる小林一は恩師だ。全体的にざっくりした容姿が顕すように、根津香澄という少女は元々ソフトボールをやっていたスポーツ少女だった。四番ではなかったが、エースピッチャーとして自分は主力であるという自覚はあったし、周囲もそう認識していた。体を動かすことは好きだったし、巨人ファンの父親の影響で野球が好きだったので、似た競技であるソフトボールをやるのは本当に楽しかった。

 中学時代から始めたソフトボールは、高校に上がってからも何一つ変わらず続けていくものだと、それ以外に疑う余地が無かった。しかし、それを変えたのが二年生の初めに負ったケガだった。肘のケガ、有体に言えば、投げすぎ、というやつだ。それ以降は肩から先の感覚が鈍くなり、腕を使った激しい運動は医者から控えるように宣告された。

 それでも、仲間と一緒に居たいの一心でマネージャーに志願し、チームのために、と最初は思っていた。

 結局のところ、居場所が欲しかっただけなのかもしれない。その居場所も、結果的には居心地の良い場所ではなかった。

 仲間であるはずのチームメイトが何不自由なくプレーしているのを見るのが辛い、妬ましい、怖い、逃げたい。気づいたときには退部届けを顧問に出していて、最初は顧問からも、チームメイトからも慰留されたが、意思は硬いことを告げるとあっさり了承された。

「せ、先生は、部活が出来なくなった私に、居場所を作ってくれました」

 そんなやさぐれていた時に彼女に声を掛けたのが、当時非常勤の美術教師で、美術部の副顧問をしていた小林一だった。香澄がふてくされて、放課後の校庭に座り込みながら木の棒で落書きをしていると、落書きをしていた地面に陰が落ちた。

 ――なかなか上手いじゃねえか。次は紙に書いてみろよ。

 そう言って半ば無理やりに美術部に誘ったのが一だった。それからの学校生活はなかなかに楽しかったし、コンテストなどには無縁だったが、美術部での活動も性にあっていた。そのことに対して、体を壊したことで自暴自棄になりかけていた自分を救ってくれたのは一であると思っていたし、感謝もしていた。しかし一は、香澄が卒業する際にどのような理由かは定かではないが、高校を退職しており、卒業式の日も欠勤していて会うことができなかった。彼は人をあまり自分の懐の中に入れたくないと思っていたような節があり、どこに住んでいるかもわからないままで、香澄はお礼を言えないまま卒業してしまったことがここまでずっと引っかかっていた。

 そんな折、偶然に退職後の一の住むアパートについて知ったため、地元へ帰省するタイミングでの訪問となったわけだ。お礼を言うための訪問であって、そこから一歩何かあるかとか、そういうことを期待して訪問したわけではない。決して。

「あ、そ、その、ありがとうございました」

「お、おう」

 二人共に二の句が告げず、しばし沈黙が場を支配する。

 と、その沈黙を破るかのように、玄関で突っ立っている一の背後にある引き戸の向こう側からガサガサという物音がする。どうやら一の他にもこの部屋には住人が居るようだ。

「誰か来たのー?」

「あっ、ば、バッカ、来んじゃねえ」

 引き戸を少しだけ開かれ、顔だけがひょこっと出てくる。その顔は、香澄も知っている人間の物で、それは意外な人物だった。

「おおー、香澄ジャン。久しぶりだね、どしたのさ」

「け、ケイ?」

 引き戸がキィーという錆び付いたという音を立てて開かれ、高校時代に美術部で一緒だった五島ケイの姿がそこに現れた。

 体つきはそれなりに女っぽいが、身長は大きくなくむしろ小さい部類で、しかし目鼻立ちがくっきりしていたことで、背の小さい子にありがちな「かわいい」という印象ではなく、「きれい」という印象を受ける少女だった。

 香澄にとって五島ケイという人物は、総じて「よく分からない」というのが最も彼女を表現する言葉として的確だ。あまり私生活を明かしたがらず、他愛の無いお喋りをしたりはしたものの、踏み込んだ質問になるとどこか煙に巻いているようなところがあった。しかし、何事にも冷静で、いい意味で老獪な彼女の存在は、そのサッパリとしたクールなところが、根がスポーツ脳で何事にもアツくなりやすい香澄にとっては、密かに憧憬の対象であった。

 美術部員としても優秀で、コンテストに出せば県レベルは必ず超えていく実力で、一も楽しく絵を描いていたい他の部員とは違う指導をしていたように記憶している。

 そんな彼女が、何故だか分からないが一の家に―――って!

「そ、それどうしたの!?」

「それ? それって何のこと?」

「い、いや、それ、その、体のっ!」

「え? あ、あー、なんというか、その、ごめん」

 ケイは香澄が突然現れたことにびっくりしたのか、今の自分の姿を考えないままに外に出てきてしまったらしい。

「ごめん、裸だった」

 頭の前で手を合わせて一礼、神社の前でするように頭を下げた。本人はあまり気にしていないようだが、今のケイの姿はブラとショーツ以外は何も身に着けておらず、背が低いながらも局部のスタイルのよさが際立っている。あらゆる意味で生々しい出で立ちである。

 しかし、香澄の意図しているところはそこではなく、むしろ彼女にとっては半裸で表れたことよりも衝撃的であった。

「そ、それもそうだけど……!」

「え? 今度は何……って、あ、あー、これね」

 普通であれば、ブラとショーツ以外に何も身に着けていないのであれば、それ以外の体には、あれは何というのか、ヒガンバナと言ったか。

 腹部を中心に一部はにじんでしまっているものの、彼女の前進には幾本もの花が咲き誇っていた。体に咲き誇ると言うのもおかしな表現だが、現にケイの体には、リアルすぎて気持ちが悪いほどのヒガンバナの花が多数書き込まれていた。

「い、刺青なのそれ?」

「これ? いや、ただ描いただけだよ」

「な、なにそれ……?」

「うーん、芸術作品?」

「げ、芸術……」

 何を意図してそんなことをしたのかは分からないが、しかしどうして、扇情的な容姿に書き込まれた花の数々は、ケイの体をよりエロティックに魅せていた。よく絵画などで女体が題材にされることがあるが、女体の美しさの所以と言われる体のラインを、書き込まれた花が強調している。

 その美しさに息を呑みそうになる香澄だったが、一の住んでいるアパートであるはずのこの場所にケイが居ることも含め、このまま雰囲気に飲まれてはいけないと、首を数度ぷるぷると振った。

 と、ここまで完全に蚊帳の外だった一が事の成り行きについてようやく把握して来たらしく、彼から見て後ろにいるケイに状況を確認し始める。

「それよりお前、誰かにうちのこと喋ったのか?」

「えー、そんなことあったかなあ? ……あ、あったわ」

「何」

「前に、高田チャンがセンセに荷物送りたいから住所教えてって聞かれたんだよねー。あたしと暮らしてるの高田チャンは知ってたでしょ?」

 高田チャンというのは美術部のお飾り顧問だった高田文江教諭で、担当教科は国語。何故美術部の顧問をしていたかというと、いくら美術大学卒業とはいえ非常勤講師が部活の顧問をやるのは対外的にマズいということで、当時手の空いていた彼女に白羽の矢が立ったのだ。ちなみに絵はからっきしで、趣味は推理小説の読書である。

「まあ、高田先生は知ってるけどよ」

「いいじゃん、どうせもう来ちゃったんだし。香澄も、高田チャン経由でしょ?」

「う、うん」

「あの人クチ軽いからなー、って痛った」

「他人に余計なことを教えんじゃねえ」

「あーら、暑中見舞いのそうめんセットをうまいうまいって食べてたのはどちら様でしたっけ?」

「けっ」

 そうはき捨てはしたが、しかし一は二の句が告げない。この状況はどこからどう見ても浮気現場に踏み込まれたダメ亭主そのものだ。

 女二人に挟まれてたいそう居心地の悪そうな一は、おもむろに腕時計を見やると、わざとらしく切り出した。

「あ、あー、もう時間だから仕事行ってくるわ。んじゃ、タメ同士仲良くな。出かけるときは鍵かけてけよ」

 そう言い残すと、忙しなくその場から立ち去っていった。錆びついた外階段を駆け下りていく音が香澄にもよく聞こえた。

「ふふ、今日はお仕事お休みなのにね」

 いつの間に着たのか、男もののワイシャツを羽織っただけのケイが玄関まで出てきていた。あれから二年経って、身長は自分よりも小さいが、慌てて駆けていく男の背中を見つめながら薄く笑う彼女の横顔は、あの頃よりも随分と色っぽく写った。

「さ、上がって上がって」

 くるっと振り返って、部屋の中に呼び込むようにケイが呼ぶ手招きする。

「お、お邪魔します……」

「そこ、座って。麦茶、入れるね」

「あ、どうも……」

 香澄は小さな玄関から部屋に上がり、ぎこちなくも食卓の椅子に座る。

 麦茶を取るために冷蔵庫を開ける仕草もごくごく自然だ。香澄にとっては、それがこの部屋で暮らしているんだというアピールなのではないかと邪推させるほどに。





 こんな体だから、とケイはシャワーを浴びている。シャワーの音がするたびに、あのボディペイントが思い起こされて、香澄は勝手に顔が熱くなった。

 やがて風呂場から出てきたケイはブラとショーツのを着た上にワイシャツを一枚だけ羽織るという、なんとも扇情的な格好でその場に現れた。シャワーを浴びた後なので当然すっぴんだったが、化粧をせずともこの人は美人だったっけと、取りとめもないことを思い出していた。

「お待たせ」

「あ、いや、お構いなく……」

「そう? でもさ、お昼ご飯も食べていってよ。バイトが休みの日はいつも一人で食べてたから、誰かと食べたい気分なんだ」

「そ、そう? じゃあ、頂こうかな……」

「ありがとうね。好き嫌いはある? あ、何でも食べてたねそういえば」 

「う、うん」

「んー、じゃあ何にしようかなあ。カレーを作ったときの残りがあるから、肉じゃがでいいかな。夜にセンセにも食べてもらお。あ、残り物で悪いね」

「い、いや、それはいいんだけど……」

 香澄は頭の中で自然に思い浮かんだ、彼女の「主婦っぽさ」に驚いていた。学生時代のケイは、協調性が無かったわけではないがどこか一匹狼であるような印象を受け、とてもではないがこのような過程的な印象を受けることは無かった。

 自分と彼女が再会するまでに二年と言う歳月が流れたが、自分はここまで自分自身について変わったとは思えない。口調や性格は変わっていないように思えるのだが、どこか彼女の周りを流れる雰囲気そのものが、二年前の印象とはまるで違っていた。

「だけど?」

「え? あ、いや、主婦みたいだなあ、って」

 考えていたことがつい口に出てしまった。

「えー、何でそうなるのさ。ただ昼ご飯を残り物で作ろう、ってだけなのに」

「いや、まあ、そうなんだけどさ」

 少ししっかりしてたら、いまどき男の子でもやってるよー、とケイはおどけて見せた。本人が言うのだからその通りなのだろうが、違和感を拭い去ることはできない。

 それにしても、と思う。辺りを見渡すと、二人分のマグカップに、二人分の歯ブラシに、二人分のスリッパに。今座っているダイニングテーブルも二人用のもので、椅子も二客しかない。そうなれば、おのずと二人は同じ部屋で暮らしていると言うことになるのだろう。

 一匹狼という印象を持つケイが、というのも勿論だが、あれだけ自分の生活圏に他人を入れたがらなかった一との共同生活、と言う点にも、どこか現実味が感じられなかった。

 下心的な意味でもその辺りの詳細を確認しておきたかった香澄は、さり気ない風を装ってケイに切り出す。

「その、ここで先生と暮らしてるんだよね?」

「うん、そうだよ」

「高校のときはあんなにさっぱりしてたから、てっきり男に興味が無いんだと……」

「それは酷いなあ」

「ご、ごめんなさい」

「いや、責めてるわけじゃないんだ。むしろ、その評価はありがたい、かな」

 どこか憂いを帯びるような表情で、ケイはテーブルに重ねている両手を見つめた。

「あたしだって、男に入れあげるくらいするのさ」

「……」

 ケイは、テーブルに置かれていた腕のうち右手を宙に差し出し、左手で右腕を優しくなぞった。

 その得も言われぬ美しさに、香澄は時が経つのも忘れ、彼女の指先をぼうっと見ていた。

 あ、そういえばさ、と場の沈黙を破るようにケイが香澄に投げかける。

「どこの大学行ったんだっけ? 同窓会みたいなの面倒で行ってないから、みんなの現況とか全然わかんなくてね」

「東京の私立ね。美術部の同期だと、真理となーこは短大行って看護の勉強してる。つっちーも短大。まっちゃんと優衣は勉強できたから私よりもいい大学に行った。沙織も大学行ったけど、辞めたってこないだ聞いたね」

「ふーん、みんななんだかんだ勉強してるんだね。沙織以外は」

「飽きっぽかったからね、あの子」

 そんな昔話でしばし雑談に花を咲かせた。誰と誰が付き合ってたか、どの教師が嫌いだったか、今はみんなどうしているか、などなど、久々に再会した二人にとって盛り上がれるような話題はいくらでもあった。そして、お互いの今の近況――もっとも、一のことについては意識的に触れなかったが――を報告しあった。香澄は大学でのこと、ケイは今やっているバイトのことと、香澄が東京に行っている間にこちらで起こった出来事など。

 話題は尽きなかったが、ふと会話が止まったタイミングで、ケイは少し遠慮するような声音で香澄に問いかけた。 

「ねえ、香澄さ、大学で上手くいってないの?」

「えぇ?! ど、どうして?」

「あたしらはさ、香澄にとってみれば過去の人間じゃない。今は上京して地元には定住してないわけだし」

「う、うん」

「そんな過去の人間に、誘われてもいないのにわざわざ訪ねてくるなんて、向こうで何かあったのかな、って」

「い、いや、そんなことないよ。うん」

 苦笑いで否定する香澄だったが、実のところ図星であった。学部の友達とは表面上の付き合いはあるものの、それはどこか表面的で、自分がこの集団に属しているのか疑問に思うことがある。少なくとも高校時代までは――ソフトボールに明け暮れ、その後美術部でわいわい楽しくやっていた頃はそのようなことは考えもしなかった。

 どこか希薄で、薄情で。ただでさえ人の多い大学の中で、自分がひどくちっぽけな物に感じられる瞬間というのが、最近では多くなってきたのだった。

 浮かない表情の香澄に何かを察したのか、話の流れを切るように、ケイは目の前に置かれた麦茶を一口飲んだ。

「余計なお世話だったね。ごめん」

 口ごもっている香澄を見て、ケイは察したように口をつぐんだ。こういったところも、かつての彼女では考えられないなあと、人事のように香澄は思う。

 再び場に沈黙が流れる。香澄は、もうこれ以上場を取り繕ったら事の核心は聞けないと思い、言葉を見つけながらケイに聞く。

「そ、それでさ、あの、その……」

「なに? あー、これね」

 ケイはワイシャツのボタンをいくつか外し、恥骨の下辺りに僅かに残った彼岸花を指して言う。

 こんなナリで悪いね、と言いながら、答えに窮したように頭を掻きながら言葉を詰まらせた。

「んー、どうやって説明したものかねえ。難しいなあ」

「え、えっちなことなんでしょ?」

「ぷっ」

 ケイが軽く吹き出した。

「な、なによ!」

「いや、えっちなことって、中学生みたいじゃない」

 そう言いながら、ケイは香澄を小馬鹿にするようにくつくつ笑っている。

「まあ少なくとも、センセと肉体関係はあるね」

「にににに、にくたい……」

「こんなボロアパートで、男と女が住んでたら、自然にそうなるよ」

「自然に、って……」

「なるって。ほら、さっき体に描いてあった絵、おなかの部分とかは滲んでたでしょ? あれ、センセが乗っかって滲んじゃったのよ」

「ふ、ふぅん」

「自分で描いといてあの有様なんだから、全く、世話ないったら……」

 半ば笑いながら、なんでもないようにケイは話す。特に不自然な感じは見受けられず、それがかえって事の淫靡さを際立たせている。香澄はその光景に唾を飲み込んだ。

 肉体関係があるのは分かった。しかし、自分にとって一番聞きたいことがまだ聞けていなかった。

「その口ぶりだと、付き合ってるわけじゃないような感じがするんだけど……」

「うーん、その辺もわかんないんだよねえ。告白みたいなことをしたこともされたこともないし、気がついたら一緒に暮らしてたって感じだし」

 首をかしげながら、自分でも分からないというようにケイは話す。

「いわゆるセフレ、ってやつなの?」

「そういうのとは違うかなあ。セフレだったら一緒に暮らしてなんかいないでしょ」

「じゃあ、何なの?」

「言葉では表現できないね、やっぱり。うん」

 彼女の中では納得済みで答えが出ているかのようだが、香澄にとってはその何もかも分かっている感が心のモヤモヤを増大させる。

「気になるんだ、あたしとセンセが付き合ってるかどうか」

「い、今はその話はしてないでしょ!」

「そんなに立場に固執してもいいことなんかないよー」

 いいようにやりくるめられたような気もするが、これ以上追求しても何も出てこなさそうなので、更に気になっている部分に触れて見ることにした。

「で、その、ボディペイントっていうの? それの件は……」

「ああ、これね。うーん、これもなんて説明していいやら……」

 どうやら、とことんまで言葉を濁すつもりのようだったが、それでも何とか答えてくれようとしているのか、うんうんと唸りながら、あまり確信を持っていないような風ではあったが、自分で自分を納得させるように、ケイは静かに結論を出す。

「これはね、会話みたいなものなのかな」

「会話……?」

「うん。それっぽく言うとコミュニケーション、なのかなあ?」

「いや、こっちに聞かれても分からないんだけども……」

 うーん、と、どちらにも納得のいかない表情が浮かび、そのまま数刻の時が過ぎる。

 やがて、業を煮やしたようにケイが香澄に提案する。

「言葉でいくら言っても説明のしようがないから、実際に見てみる?」

「…………へ?」

「だから、センセに聞いてみないと分からないけど、見てみるかって言ってるの。あたしの体にセンセが絵を描いてるとこ」

 ケイのその提案に対して、香澄は思いも寄らない提案にしばし呆然としたままだった。





「ケイがいいなら俺は別に構やしないけどよ」

 仕事を片付けてきたと言って帰宅した一に対し、ケイが開口一番に「どうせ今日も描くんだから見せてもいい?」と、香澄が止める暇もなく聞いていた。

 あまりいい表情はしなかったが、ニコニコ顔で迫るケイに対して断りづらかったのか、あるいは興味も無かったのか、口頭の上では香澄の見学を許可した。

 ちなみに、母親には偶然一人暮らしをしている友人に会って、泊まっていかないかと言われたと、一度実家に帰宅してから告げたところ、あっけなく外泊を許可された。もうすぐ成人するとはいえ、せっかくの帰省で家族と過ごさなくていいのかという懸念はあった。しかしそれでも見ることにしたのは、ケイに無理やり吐き合わされているという風を装っていはいるが、内心では期待しているのかもしれない。

「見ても何も面白いもんじゃねぇぞ」

 一が香澄に背を向けながら、絵筆の手入れをしつつ言う。

 今二人がいるのはキッチンスペースをかねたダイニングルームで、テーブルと椅子を隅に片付け、絵の具で床が汚れないようにブルーシートが敷かれていて、更にその中央には、おそらくケイが座るのであろう、座布団のような四角い布が置かれている。香澄はテーブルと椅子の横に腰を下ろし、さながら荷物ではないか本人としては思っている。

「んじゃ、入ってきてそこに座れ」

「はぁい」

 引き戸を開けて入ってきたのは、今度こそ何も身に着けていないし、何も描かれていないケイだ。

 そのケイの姿に、思わず香澄は息を呑んだ。いや、息を呑んだという表現が果たして正しいのか、香澄はただただ彼女に圧倒されていた。

 昼間とお喋りを楽しんだときとは打って変わって、薄めながらも化粧をし、頬にはチーク、口紅は燃えるような赤と、まとう雰囲気はこれから事に望もうとする情婦そのもので、そこには普段のクールな面影は一つもない。乳房など、助成の象徴である部分が露出されているにもかかわらず、そちらには目が向かず、体そのものとしての淫靡さが際立っており、香澄は女であるにもかかわらず、彼女のその体を見て頬が熱くなった。

「やるぞ」

 座布団のような布に腰を下ろしたケイは、安らかに微笑みながら小さく頷いた。

 木材で出来た年季の入ったパレットを手に、躊躇無く筆がケイの裸体を捕らえていく。ケイは表情こそむず痒そうにしているものの、同時にどこか超然とした笑みも浮かべており、まるで彫刻の聖母像のような神々しささえ感じられた。

 腹部、両腿、背中と次々と花が描き込まれていく。赤や黄、ピンク、オレンジといった色とりどりの色彩を持つ花々だが、しかしそれでいて形は全て同じであるように見える。それぞれ花弁の軸からは花びらが数え切れないほど書き込まれていく。この花ガーベラと言ったか、花びらの密度は濃いが、驚くべきスピードで次々と株が生み出されていく。

 やがて、筆が顔面にまで及んできた。一とケイはしばし見つめあった後、軽く唇同士でキスをした後、お互いに微笑みあい、そしてそのままそれぞれが己の役割へと戻っていく。

 裸でいるケイのために、クーラーは最小限に抑えられているため、絵筆を振るう一の額には玉のような汗が浮かんでいる。描いている絵が滲んでしまうために、肩に掛けられた手ぬぐいでしきりに汗を拭いている。絵筆の先に向ける視線は真剣そのもので、男が女の裸体に向ける意識としては間違っているのかもしれないが、一の様子を微笑みながら見つめているケイの柔らかな雰囲気も相まって、それがごく自然なことのように思えてくる。

 ケイも、絵筆の先が肌をしきりになぞっているからか、顔や肌がほのかに赤く染まり、体をよじることも出来ないためくすぐったくとも呼吸を止めて我慢せねばならず、息も上がりかけている。その様子がなんともエロティックで、見ているだけの香澄も彼女の様子に体がむず痒くなってくる。

「っ……はぁ……」

「根津が見てるせいか? 随分いつもより漏らす声が少ないみたいだが」

「っぁ……そ、そっちだって、いつもよりも筆に力こもってない? よく伝わってくるんだけど」

「ああ? そんなこと言って、お前もいつもより肌に熱が篭ってるぞ」

「そうかもしれないね。でも、終わった後は無いんでしょ?」

「二日連続はさすがに無理だ。年だからな」

「理由は違うような気もするけど、そういうことにしといてあげるね」

 お互いに軽口を叩きながらも、お互いのやることは変わらないし、止まらない。現在進行形で変容していくケイの体を眺めながら、香澄の時間は過ぎていった。

 以降はずっと単調な作業が続いた。一は絵筆を離そうとしないし、ケイはずっと座ったままで疲れるだろうに、キャンバスにされることも厭わずずっと当初座布団が置かれた位置から全く動いていない。それが二人の空気なのだろうと、香澄は顔の熱さにくらくらしながら思う。一とケイはそれぞれ別の存在だが、遠目から俯瞰してみると一緒の存在なのではないかと錯覚する瞬間が度々あった。

 そして、一の絵筆がすっと止まった。

「よし、出来た」

 静かに呟いた。同時に、ケイがすっくと立ち上がる。

 そこには、全身を鮮やかな色に支配されたケイの姿があった。赤や黄、オレンジなどの花弁を持ったガーベラの花が彼女の膚を染め上げる。腹にも、背中にも、腰にも、腿にも、臀部にも、胸部にも、顔面にも。服などは何も纏わずに、花だけが彼女を装飾する。その美しさに、ただただ美しいという感情が浮かぶだけだった。

 そして、二人はしばしお互いに見つめあった後、やがて一つになり、優しいキスをした。





「はー、やっぱりわかんない」

「そっか」

 翌日の朝、昨日と同じく休日にも関わらず「仕事がある」と言い残して出かけていく一を送り出した後、昼ご飯を食べながらしばし雑談に興じる香澄とケイ。今日の献立は手軽にチャーハンだ。

「ごめんね、嫌なもの見せちゃったかも」

「いやいや、いいのいいの。元々根掘り葉掘り聞こうとしてたのはこっちだし、あれじゃ言葉で説明してもなんだか分からないよねえ」

「そうなんだよね。ま、分からないということが分かったということで勘弁ね」

「哲学的だなあ」

 ケイは何も無かったかのように、まるであの時キャンバスにされていたのは自分ではなく赤の他人であるかのように、全くあっけらかんとしていた。恒常的に行うことによる慣れもあるだろうが、何よりさもあの行為が自分達にとって当然のことであると言うような振る舞いがあった。

 あの後、ひとしきり抱き合った後、ケイはシャワーを浴び、一は道具や部屋を片付けたりと、淡々とした後片付けをして、すぐに就寝した。香澄とケイが畳の八畳間に布団を敷き、一はテーブルと椅子を片付けたダイニングに布団を敷いて寝た。自分の隣と、隣の部屋からすぐに寝息が聞こえてきたが、自分は興奮と戸惑いでよく眠れず、今日は寝不足で起き出して来た。

「それにしても、昨日も言ったけど、あのケイが男になびくなんてねえ。しかも年の離れたおっさんに」

「あたしをからかうとはいい度胸ね」

「えー、でも入れあげてるのは事実なんでしょ~?」

「まあ、そうさね。その点に関しては言い訳のしようもない」

 目を閉じて、過去を回想するようにケイが言う。

「えー、現状に変化を求めないの~?」

「あたしたちは、これでいいのさ。自分たちで満足してるんだから」

「こっちが納得しないんですけどォ~」

 昨晩あれだけ驚かされた仕返しの意味もあり、香澄は意地悪かとは思ったがしつこく追求してみることにした。

 しかし、こういう駆け引きには彼女は向いていないらしい。目を閉じていたケイが、片目だけ開けて香澄を見やる。

「例えばだ、香澄がセンセに告ったとするじゃない」

「ばっ、なっ、何を……!?」

 いきなり向けられた矛先に、否定する余裕も無く結果的に肯定してしまった。

「見え見え」

「う……」

 香澄は恥ずかしくなり、顔をうつむかせてしまう。それで勝敗は決まったようなものだ。

「センセは『ケイがいるから』って言うからね、あんたに望みは無いよ」

「わ、分からないじゃないそんなの!」

 やけに強気に出てくるものだから、香澄は大声で反論してしまった。アパートは壁の薄いので、外にも響いてしまっているだろう。

 しかし、ケイは気にしたような素振りは全く見せず、また目を閉じて呟くように言う。

「分かるわよ。だって、センセだもの。ま、情にほだされて公然と二股掛けられるかも」

 センセはあれで優しいから、とケイは続けた。香澄は黙って聞いていたが、心の中では頷いた。

 一という人物は、ぶっきらぼうな言動と他の人間を寄せ付けない一匹狼のようなところもあるにはあるが、基本的には人の痛みをわかることのできる人間だ。事実、香澄自身も一の美術部への勧誘が無ければ、ケガをして部活を辞めてからの学校生活は楽しくないものになっていたかもしれないし、ケイにもそういった何らかのエピソードがあるのかもしれない。

「少なくとも、あたしが出て行く展開は無いね」

「自信、有るんだね」

「当然」

 根拠は己の確信のみのはずだが、彼女にはいっそ清清しいくらいに全く迷いが無かった。目を閉じたままの彼女の姿は、ある種荘厳ですらある。

 その様に、適わないなあという思いが浮かぶ。言って見れば恋敵の自分を全く持って敵とみなしていない。いっそのこと口汚く罵ってくれたほうがまだ心の持ちようがあったのに、と香澄は達観したような気分になった。

 そういえば、と、これ以上続けるのはケイとしても恥ずかしいのか、話の流れを切るようにして話し始めた。

「センセが読んでたえっちぃ漫画の中で、女ってのは泥だと言っているキャラクターが居た」

「泥……」

「泥っていうのは主体性が無い。誰かが形作ってやらないと形を保てない。恩着せがましいし、厚かましいし、存在そのものが恥ずかしい」

 左手の指先で、自分の右腕を肩から指先まで優しく触り、流し目でその指の先を見つめつつ、ぽつりぽつりとこぼすように紡ぐ。まるで、自分がここに存在ることを確認するかのように。

 だけど、とケイは言葉を漏らした後、さらに続けた。

「あたしは、泥なんかじゃない、鉛だと思うね。現にあたしは、鉛だ」

「鉛?」

「そう、鉛。鉛ってのは、非常に加工のしやすい物質でね、その上軽い、しかも腐食しにくい金属と来たものだから、古来からいろんな道具に加工されて使われてきた」

 こんなに博識だったっけ、と香澄が思う間もなくケイが続ける。

「だけど、鉛には毒があってね、鉛は古代ローマでは水の通り道だとか料理器具に使われてたもんだから、ローマ人ってのは鉛中毒による奇形児や脳障害が多かったなんて説もある」

「へぇ」

「鉛は少しずつ体内に蓄積していって、許容量を超えるとなかなか体外に排出されないんだ」

「あ……」

 そこでやっと、彼女の言いたいことが分かった気がした。

「あたしは鉛なんだ」

「鉛……」

「吹けば飛んでしまうような、あたしという存在は非常に軽いように見えて、それでいてセンセの望むような、センセが思い浮かべたような『女』の姿がここにある。ちょうど鉛のように、姿形を望むように変えられた『女』がね」

 いつの間にか目を見開いていたケイの姿に香澄は気づく。まるで自分に言い聞かせるようでもあったが、しかし自分と言う人間がどのような人間であるかと言うこともきちんと把握して、しかもそこに全く疑問を持っていないような口ぶりであった。

「さっぱりとしているようで、どこか家庭的な、そんな女であるように、あたしは努力してきた」

 その表情は狂気さえ感じさせる物だったが、しかし不思議とそこに悪意であるとか、厭らしさのようなものは全く感じられなかった。あるのは純粋な想いだけ。重いようでいて、そこには想いが込められている。

「あたしを捨てるなんて、有り得ないし、あたしが許さないし、許せない」

 見開いた目を、まっすぐ香澄に向かって放つ。

「あたしが死ぬまで、あたしはセンセの物なのよ」

 色々と問題のある発言であった気はしたが、香澄はすべてが彼女の率直な気持ちであって、逆にそんな気持ちを自分などに話してくれたことに対して敬意さえ感じていた。

 しかしそれと同時に、彼女の中でたとえ結論づいていたとしても、そこに一の意思は何も介在していない。自分勝手とも取れる発言だ。

 香澄は違和感を感じ、気がついたら言葉が出ていた。

「それ、口で伝えたらいいじゃん」

「恋敵だってのに、おかしなこと言うのね」

「だ、だって……」

「言わなくても、こっちが分かってるように、向こうも分かってるわ」

「でも……」

「そういうものなの。わかって頂戴」

 こちらが言わずとも向こうも分かっていると言うのは、関係性という意味では理想と言ってもいい。しかし、人間と言うのは言葉でなければコミュニケーションを上手く取れない動物である。気持ちで通じあっていると言うのは、香澄にとってはいささか説得力に欠ける言であった。

 ケイのほうも、図星であったのかカチンときたのか、普段の落ち着いたイメージとは離れた、どこか好戦的な雰囲気を漂わせていた。

「こういうことは言っても伝わらないから、実際に体験してみたら?」

「へ? 体験?」

「そこまで言うんだったら、やって見ればいいんじゃない? 言葉じゃなくてもコミュニケーションが取れるって、分かるはずだから」

 ムキになったケイによって、あれよあれよという間に香澄の参戦が決まってしまったのだった。





「お前な……」

「あそこまで言われたら、言い返さないわけにいかないでしょ」

 別に悪いことをした覚えは無いというように、ビキニ姿のケイは胸の前で腕を組みながら一に向かってまくし立てていた。

 これには同じくビキニ姿の香澄も苦笑いを浮かべるしかない。ちなみに、さすがに全裸はまずいということで、最低限の条件として一は水着を着ることを挙げた。当然、行為が行為だけにスポーツタイプではなくビキニが無ければやらないという要求を一は突きつけたが、去年の夏にデパートの店員に乗せられるまま買ったホルターネックのビキニがあり、実家で箪笥の肥やしになっていたのが幸いした。オレンジをベースに胸の部分にシュシュのような飾りがついているもので、まさかこんな場面で使うとは思いも寄らなかった。

 ちなみにケイは扇情的な黒のマイクロビキニで、背の小ささと胸の大きさがアンバランスな彼女の体の特徴を強調している。おそらくわざと着ているんだろう。

 そんな二人の様子を眺めながら、一は呆れるようにおでこに手を当てて首を振った。こうなるともうだめだ、とでも言わんばかりだ。

「根津も、いいんだな。やるとなったらやるぞ」

「か、かまいません!」

「途中でやめてもナシだからな」

「は、はい!」 

「親御さんにちゃんと報告したか」

「今日も泊まるって言ったらあっさりオーケーでした!」

 香澄も香澄で、あの世界を体験したいという気になっていた。ケイに言葉では分からないと言われたのも理由の一つだが、純粋に、見ただけでは分からない何かがそこにあるような気がしていた。もちろん怖さもあったが、それ以上に好奇心が恐怖を上回っていた。

「んじゃあ、それも含めて今日は趣向を変えるか」

「何するんです?」

「あー、ちょっと待ってろ」

 そう言ってダイニングから畳の間へと入っていき、数分ガサゴソ音がした後、短い紐のようなものを何本か取り出してきた。

「何ですかそれ?」

「使ってみてのお楽しみ、っと。じゃあ、そこ座って」

 今日も敷いてある青いビニールシートに、今日は座布団が二つ分。ここに自分が座らされて、体を好きなように使われるんだということが否が応でも思わせられる。そう思うと、頬が自然と厚くなってくるのが自分でも分かった。自分はこれから、望んでここに座るのだ。

 と、ケイは既に座布団に座っており、心の準備の伴わないまま香澄も座布団に座った。

「今日は正座してくれ」

「ああ、あれね」

 何か合点が言ったように、ケイは正座に直す。

「あれ?」

「座れば分かるよ」

 香澄も言われたとおり正座に直す。すると、自分達の背後に一が回った。正面を向いたほうがいいのかと、後ろを振り返ろうとすると、そのままにしてろ、とぶっきらぼうな声が聞こえた。

 そうなのかと香澄が前に向き直ると、背中に何かがさわさわと障るような感触がした。何がとは言うまでも無く、一の大きな男の手だ。慌てて隣を見ると、ケイも同じように一に触られている。まるで、火にかけられた鍋をぐつぐつ煮込むように、ゆっくりとだが、ただ円を描くだけではなく、回したり、戻したりを繰り返していく。

 頬は既に熱かったが、体も熱を帯びだしているように感じていた。前を向いているので一がどのような表情で、どのような軌道を描いて手を動かしているのか全く分からず、それも背中に意識が集中してしまう理由でもあった。

「じゃあやるぞ」

 そう言って、一は香澄の両腕を掴み、後ろ手にし、親指をあわせるようにして「このままにしていろ」と声が背後で聞こえた。香澄は言われたとおりそのままにしていた。

 すると、両手の親指に紐のような物を巻きつけて縛り上げたのが感じられた。血を止めるほどではなく、あくまで動かなくするだけのものだったが、それだけで腕はろくに動かせなくなった。加えて、正座していた足の親指も同じように紐でくくられた。更に、その手の親指どうしを繋いだ紐と、足の親指どうしを繋いだ紐を新たな紐でしっかりと結んだ。そこで、はっと気がついた

(こ、これ……!)

 香澄はその違和感に身じろぎをしようとしたが、両手両足の親指を紐でくくられただけなのに、全く体を動かせないことに始めて気がついた。正座をし、前傾姿勢をとったまま一切身動きが取れなくなってしまったのだ。もちろん、体を少し横に動かすくらいのことは出来るものの、それ以外の行動は全く取れず、座布団の上から自分の体を動かせなくなってしまった。

 慌てて横を見やれば、いつの間にかケイも同じように縛られたところだった。

「これなら、縛られた跡が残るのは親指だけだからな」

 一はこの縛り方を採用した理由をそう言っているが、香澄はどうもそれだけではないような気がしていた。体のうち二箇所を小さな紐でくくられるだけで、こんなに体が動かせなくなるなと言う無力感が、自分を惨めに感じさせられて体が火照ってくるのだ。事実、隣で同じように縛られて座っているケイを首だけを回して見やると、前に倒している体はほんのり赤く上気し、目を閉じてされるがままにしている様子は、既にいやらしい雰囲気を纏っている。

「次はこれだ」

 これ以上まだ何かをするのかと考えるまもなく、香澄の視界が完全な闇に染まった。目隠しをされたのだと気づくまでに少しの時間がかかり、それを認識すると今度は、体も動かせない上に視界すらふさがれると言う、人間としての機能をとことんまでそぎ落とされたような気がした。

「今日は二人居るからな。折角だから仲良くしよう」

 そう一が言うと、香澄の座っている座布団を動かし、ケイの体とぴったり合わさるようにした。身動きは出来ず、完全に視界を奪われた状態で他人の膚が自分の体に触れていると、人の発する熱さが否が応でも感じられる。ただでさえ二人とも体が上気した状態で、燃えるようなケイの熱さが香澄の肌越しにびんびんに伝わってくる。

 同時に、自分たちはこれで完全なキャンバスになったのだという自覚が芽生えた。一は自分達を完全に物としか見ておらず、二人で一つの絵筆を振るう対象物でしかないのだと、ここで完全に理解した。これまでは人間と言うキャンバスに絵を描いているという認識だったが、これは違う。人間と言う枠組みからさえも脱却した、何か全く別の存在になったという意識で、ガッチリ固まってしまった。

「お前らに教えといてやる。これから描くのはライラックだ。色は藤のような白みがかった紫で、藤と違うのは木に直接花をつけることだ。ツツジのように低木としても育てられるから、今日は横に広く、一本のライラック木の優雅さを前面に出して描くつもりだ」

 二人の顔の間に口を寄せているのか、一のあざ笑うかのような声が耳元から頭の中にジーンと響き渡る。こうしていちいち説明するのも、目隠しをしている影響で視覚が得られない分、背中から伝わる感触だけに集中させようと言うことだろう。その魂胆は分かっているのだが、何も出来ない自分達にとって、それが分かっていてもどうすることもできない。

「行くぞ。動くなよ」

 そう言って、一は香澄の背中に筆を下ろした。そこからはもうダメだった。筆が優しく背中を撫でるたびに、分かってはいるのだがぴくぴくと動いてしまう。はぁ、はぁ、と息が上がってしまう。

 自分は物だ。ただのキャンパスでしかないはずなのに、自分はまだ物になりきれていない。身動きの取れない惨めさと、役割を果たしきれない自分の未熟さを思い知って、しかしそれさえも自分の身を焦がす要素にしかならないことに更に心が痛くなって、それすらも――

「……ぁ、はぁ、はぁ……」

 快感の堂々巡りに、完全に息が上がり始めた。それは隣で同じくキャンバスになっているケイも同じようで、視覚を奪われているために触覚だけでなく聴覚も鋭敏になり、ケイの荒い息遣いが耳によく響いてくる。やがて自分の荒い息と混ざり合い、本当の意味で二人は一つになってしまったのではないかという錯覚さえ起こさせる。

「つひぁ……ッ!」

 背中のある一部分を撫でられ、思わず声を上げてしまった。体を動かせないために大きく動くことは無かったが、それでも筆に乱れ起きるくらいには体を動かしてしまった。

「動くなと言ったはずだな?」

 一が再び二人の耳元でささやくように言う。コト、という筆が置かれたような音がした後、香澄の腰に一の左手が添えられた。

 ――バシンッ!

「おぅっ……っ!?」

 何をされたのか、すぐには理解することが出来なかった。やがて、じんじんと鈍く痛む尻の痛みに、平手で叩かれたのだと言うことを後から理解した。

 たかだか一発、水着越しに尻をたたかれただけなのに、表面だけでなく体の奥に響いている。まるで餌をお預けされた猫のように、もっともっとと甘えたくなるほどに、その痛みは甘美だった。

 ――バシンッ!

「おおおッ!!」

 ――バシンッ!

「おおえうッ!!」

 ――バシンッ!

「ああおッ!!」

 その後も、体をよじるたびに尻をたたかれた。しかし、全く嫌な気持ちにはならなかった。むしろ、一の期待にこたえられない自分に対して自虐的な気分になった。

 しかしその度に臀部から脳髄まで甘い痺れが香澄を襲った。少し気を抜いてしまえばねだってしまいそうなほど、尻を叩かれると言う行為そのものに快感を覚え始めていた。

「ダメじゃあないか。動いたら」

 そう耳元でささやきながら、手のひらで尻たぶを水着越しに優しく撫でる。叩かれた部分がじんじんと痺れている中で、それを更に刺激するようないやらしい手つきでこねくり回している。

「つぁっ……」

 思わず漏れ出てしまった声は体の中心からの叫びであるような気がした。そして、この疼きを早く鎮めたい、早く叩かれたい、いけない感情が理性を支配しようとしていた。

 自分の意思で体をよじり始めようとしたその時、隣に座っていたケイにも動きがあった。

「何だ、お前もか?」

「っ……」

「ったく」

 ――バシンッ!

「うあっ……」

 ケイも尻をたたかれたが、香澄とは全く漏れ出た声の質が違っていた。ケイの声は、完全にこの甘い痺れを把握していた上で、わざと尻を揺らしたのだ。

 体をぴったりとくっつけている香澄にはそれが手に取るように分かった。尻を叩かれ声を上げ、そこから頭の方に向かって徐々に快感が上っていくのが、自分の膚を通して痛いほど感じられる。そして、それを羨ましいと思ってしまっている自分も居た。

 一もそれが分かっているようで、意地悪な笑みを浮かべているのが雰囲気で分かる。隣のだけではなく自分にもくれ、自分の番はまだかと、待ち焦がれるいけない心を見透かした上で、それに乗ってやっていると言わんばかりの、傲慢な意思。それに応えてやれるのは自分だけだと、態度で返事をしているのだ。

 ――バシンッ!

「ああっ……!」

 ただ叩いているのでは決してない。ただ叩かれているのでは決してない。

 まるで、お前は俺の物だと強く示すかのように。そして、この人は私の物だと強く示すかのように。





「本当はな、絵で食っていきたかったんだ」

 昨日、香澄とケイの尻を散々叩いていた一は、二人だけでなく叩いていた本人にもダメージが及ぶらしく、しきりに手のひらを痛がっていた。ああいった関係は物理的にも精神的にも痛みを伴うことを分からせてくれる。

 香澄としても顔を合わせるのは少し恥ずかしかったのだが、一がいつもの感じだったので、すぐに気まずい雰囲気からは脱出し、今も他愛もない雑談に興じている。

「美術の先生やってたじゃないですか」

「美術教諭はあくまで先生だろ。ガキの面倒を見るのなんて本当はしたくなかった」

 煙草をふかしながら、いつものぶっきらぼうな口調で一が言う。結局昨晩は絵が完成し、叩かれた臀部に傷薬を塗られた後、疲れてそのまま布団に入って眠ってしまった。後片付けは一が一人で行ったようで、朝起きて、シャワーを浴びた後でお礼を言ったら、苦虫を潰したような表情をされた。

 買い物に行くと言って出かけていったケイを追いかけるように、外で煙草を吸ってくるとアパートの外に出た。それを香澄が追いかけ、今は近所の公園のベンチで並んで座っている。

「今でもその考えは変わらないんだが、人に全力でぶつかることの楽しさはそこで学んだ気がするな」

 楽しさを学んだと言いながらも、相変わらず表情は暗く、声音は淡々としている。

「先生は、今は何の仕事を?」

「大学時代の恩師が、高校を辞めた時期に助手を探しててな。今はそこにお世話になってんだ」

「へぇ」

「教師をしてたのも俺に声をかけた理由だって後で聞かされた。嫌で仕事やめたのにな。不思議なもんだよ」

「そうなんですか」

「お前らより断然上手いしセンスもあるから教えがいがある」

「ヘタで悪かったですねーだ」

 香澄はあかんべーをして、それに一瞥をくれた一は、ふーっと煙草の煙を吐き出し香澄を鼻で笑った。

 なんだかその様子がおかしくて、香澄は少しくすり笑った。それが気に食わないのか、一はふんぞり返っていた姿勢を更に低くさせた。

「悪かったな、昨日は」

「い、いえ。自分で望んだことですし」

 傷薬を縫ってくれたこともそうであるし、一自身も傷ついていたと言うことからも考えて、香澄という異物を自分を悪者にして排除しようとしていたのではないかと、香澄は密かに思っていた。絵で食べていきかったという言葉が真実であるならば、わざわざ筆を置いてまであんな尻をたたくような真似はしなかったろう。絵を描いている最中に筆を置くと言うのは、ある意味絵への冒涜ではないかと、素人ながらにかすみは思う。

 煙草を手で持たずにくわえたまま、一の視線は空ろだ。

「それにしてもよ、ヤツは何で俺なんかと一緒に居るんだろうな」

「そ、それは言っちゃダメです!」

「分かってるさ、そんなことは」

 煙草を手に持ったまま、空に向かって煙を吐き出す。

「結局のところ、どちらが縛られているのだろう、と考えることはある」

 一はそう言って、煙草の煙をもう一度宙に向けてふーっ、と吐いた。

「分かっているさ。あいつは男っぽいクールな女だと端から見ていれば思うが、自分の気に入った物は病的なまでに執着する。あいつは、そういう女だ」

「な、なら……!」

「結婚しろ、とでも言うのか? お前が」

「そ、それはどういう意味ですか」

 拗ねたような香澄の言葉に、一は意地悪そうにふっと笑った。

「ま、そもそも結婚したらそれであいつは満足なのかと言われればちょっと疑問なんだが、それはこの際置いておくとしてだ」

 一はまた、宙に向かって煙草の煙を吐いた。先ほどよりも幾分か、憂いの感じられる表情で。

「怖いんだろうな、お互いに」

「怖い……?」

「俺達のやっていることはアウトローだ。世間での理解が得られるかどうかなんてハナから考えてねえ」

「それは、そうですね……」

「自分が汚れていく感覚とでも言ったらいいか、俺達が世間から乖離していけばしていくほど、俺達は『俺達』という共同体になって世間から離れていく。一種のゲームと言ってもいい。堕ちるところまで堕ちていく、その快感を、『俺達』は知ってしまった」

 さながら罪でも告白するように、一は前かがみに座りなおし、腿に肘をついて顎に手をやっている。

「そのアウトローに甘んじている状態で、堕ちた道のりを辿って世間に戻る必要があるのか? 戻ったところでもう世間とは迎合できないのではないか? そういう恐怖が、少なくとも俺の中にはある」

 それは「俺達」という言葉で二人についての言葉のように感じられた。

「あいつを歪めたのは確かに俺だが、その罪悪感ですら俺にとっては快感になっているし、あいつも同じだろう」

「同じ……」

「居場所を見つけたんだよ、『俺達』は」

 居場所を見つけたと言いながらも、一の顔は浮かばない。

「居場所と言うのは一人では作れないんだと言うことを最近確信するようになった。ま、俺の勝手な確信だが」

 勝手な確信と言う割に、「俺達」という言葉を使う辺り、自分だけでなく彼女、ケイの心情さえも分かっているような口ぶりだった。

 どういう経緯があって二人が共同生活を営んでいるのか興味があったが、似た者同士なのではないかというのがようやく分かりだしていた。

「あいつの家庭環境を知ってるか? まあ、詳細はあいつに聞けばいいが、あいつもあいつで居場所が無かった」

 噂話に過ぎなかったが、家庭環境でトラブルがあって家にめったに帰っていないのだと聞いたことがある。援交をやってるだとか、そう言う類の噂があったことは確かだが、そういうような暗いイメージを気にしないとでも言うように、ケイはあっけらかんとしていたので、いつしかそんな噂も自然消滅してしまっていた。

 それ以上話すつもりはないのか――香澄も聞く必要は無いと思っていたが――、彼はまた煙草をくわえた。

「そんなところに俺が付け込んでしまったのかもしれない、というのは、思わないようにしてるんだけどな」

 確信があるとは言っていたものの、その表情は浮かない。このあたりも「優しさ」なのかな、と香澄は思った。そして彼女の、ケイの言を一に告げてしまうのは「優しさ」ではないと思った。

 それ以上何も会話はなく、肘をつきながら煙草をふかす一と、隣に座って正面を向きながら色々と考える香澄の姿が、買い物から帰ってきたケイが「何してんの?」と声をかけるまで公園にあった。





「あなたはまだ過去にいる」

 実家へと帰る香澄に向かって、ケイは諭すように、まっすぐ香澄を見ながら宣言する。

「今は遠いってことが嫌でも分かったはず」

「うん」

「だけどそれは絶えず変わっていくもの。これは私もあなたも同じ」

「そうだね」

 言わんとしていることは理解した。要するに、これは喧嘩を売られているのだ。

 であるならば、ここは喧嘩に乗ってやるのがスジというものだろう。

「でも、やっぱり言葉にしなきゃ、と思うよ。私は」

 ケイに対して、一番効くであろう忠告を香澄も放ってやった。

「うん、それはそうかも」

 ケイも、香澄の宣戦布告に対して不敵な笑みを浮かべた。どうぞやってみなさい、ということだろう。

「それじゃ先生、今度は本気で縛ってくださいね」

「けっ」

 一はいつもと同じく、面白くなさそうに吐き捨てた。




「うーん、こりゃあ手強いぞ」

 香澄は歩きながら、うーん、と腕を伸ばす。

「私だって、女だもの」

 その表情には、かつてのスポーツ少女の面影は一篇たりとも見受けられなかった。

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