第17話 予兆(2)


 メンデルへ出発する列車に乗車する予定日の3月22日まであと4日。

 俺は今まで世話になった人々にメンデルへ行くことを伝えるために方々を歩き回っている。と言っても、そこまで大袈裟なものではなく、セマ達の冒険者クランに顔を出したり、ギルドの窓口で移転することの届け出を行うくらいのものだ。



「そうか。 エノモト殿はメンデルに向かうことにしたのか。

 一緒に仕事をしてみたかったのだが、残念だな……」


「むう、ここで冒険者としてやっていくものとばかり思っていたぞ?

 ま、向こうに行っても達者でな」


「ええっ!? エノっち、メンデルに行っちゃうの?

 ここに居れば良いじゃん!」


「タカシさん、メンデルはシグマ国内でも様々な種族がひしめき合う大都市ですので、スリや置き引きには充分注意して下さいね?

 何かあったら、直ぐにギルドを頼った方が得策ですよ」



 4人とも、お互いの性格が如実に現れた別れの言葉を聞いて俺は彼らのクランが泊まる宿を出てそのままの足でギルドへと向かい、冒険者を所管する『普通科』の窓口において帝都から第2都市ベルサへ向かう旨の報告を行った。



「分かりました。 個人で身分証と旅券証を所持しているエノモトさんの場合、ここシグマ大帝国内は勿論のこと国外への渡航も法的にもギルドの規約に照らし合わせても何ら問題はありません。

 なのでそのままメンデルに向かわれても大丈夫です。

 ですが、メンデルに到着しましたら、向こうのギルド支部に一度出頭して下さい」



 そう言われてから「こちらの控えをメンデルの支部に提出して下さい」と渡されたのは『支部間移動届(控)』なる用紙だった。何でも冒険者を含めたギルドの組合員の身分証を目当てに襲われるという事件が時折発生するそうで、それを防止するために転移魔法や鉄道、逓信局の早馬などで予め支部間でこれら移動関連の書類をやり取りしているらしく、俺が渡されたのはその書類の控えらしい。


 この控えには割り印と移動する本人のサインが半分だけになった状態で記載されていて、移動先の街に設置されているギルド支部において予め移動前の支部から送付されていた書類と控えの書類を照合する仕組みらしい。さらにギルド側が持つ書類には組合員本人の拇印が捺印されているため、仮に控えを奪い盗っても専用の検査機能を持つ魔道具による指紋の照合確認作業もあるので異世界の割には安全性が高い仕組みが取り入れられている。



「なるほどね。 拇印を要求したのはその為か……」



 青色のインキで右手の指五本全部の拇印の捺印を求められたときは意味が分からなかったが、このような仕組みになっているのならば納得だ。聞いたところによると、写真及び現像関係の技術は一部の地域では既に実用化されているらしいのだが、まだまだコストの面で身分証へ使用するには普及していないのだとか。


 写真に比べれは拇印はインキのコストだけで済むのと、識字率が低い地域であっても問題なく使えるので、今では印鑑やサインの代わりとして公的な書類や証明書に広く使用されている。もちろん、偽造がないわけでもないのだろうが、拇印を完璧に模倣できるくらいに高い偽造技術を持つのは国家の情報機関や軍の諜報組織位のものなので犯罪組織による精巧な偽装や模倣はそこまで多くはないらしい。



「この控えを失くすと不味いからストレージに入れておくか……」



 道端の隅の物陰に潜み、手に持っていた移動届けの控えをストレージに収納してから何食わぬ顔でまた通りを歩き出した俺は泊っている宿へと歩き出す。周囲は多くの人々や馬車が行き交っているため、注意して歩かないと通行人とぶつかったり、傍を通る馬車の車輪に足を踏まれかねない。



(雪も降らなくなって春が近づいて来ている所為なのか、一か月前と比べて人通りが多くなってきたな……)



 実はこのとき、早く帰ってアゼレアと昼食を食べるために早歩きで宿へと向かっていた俺をとある者達から密かに追跡されていたのを知らず、ご丁寧にも泊まっている宿へと案内しているとは夢にも思わなかった。






 ◆






――――シグマ大帝国 帝都ベルサ 官庁街 内務省 警保軍本部庁舎





 警保軍独立上級正保安官であるルーク・ガーランドはその日、ここ最近自分の執務室状態になっている第三会議室において持ち込んだ木製の椅子にドカリと座り、同じく木製の事務机の上に両足を投げ出すような不安定な姿勢で報告書を眺めていた。


 眺めていた報告書の表紙には帝国情報省の徽章が印字されており、赤いインクで『部外秘』の文字が押印されている。この報告書は先日、情報省から態々自分を名指しで訪ねて来た『国内総局調査第一課』という部署に所属し、情報官を名乗る『デイビット・テイザー』なる男から渡されたものだった。内容は未知の魔法属性を持つ強力な魔力を纏う金属製薬莢を用いた正体不明の銃弾についての分析内容が記載されていた。



(“あらゆる魔法防御を無効化する弾丸”ねぇ……)



 治安警察軍から内務省警保軍へと伝えられた情報では遺留品として回収した弾頭及び金属薬莢が霧のように消えてしまったということのみで、情報省から知らされた魔法防御無効化については予め教えられていなかった。



(ワザと……なんだろうな?)



 この国の法の番人たる警察官や保安官、いや魔導師とってみれば魔法防御を物ともしない銃弾など悪夢に等しいことだろう。しかも、その銃弾が従来の銃弾以上の貫通力を持っているとなれば尚更だ。情報省が詳しく分析してはいるが、実物が綺麗さっぱりと消えてしまっている以上は無闇矢鱈に確証情報として公表することは出来ない。



(こりゃあ、防弾対策を考える必要があるな……)



 一応、相手が持っているかもしれない投擲魔導弾対策として魔導砲の準備を装備課に指示を出して進めてはいる。が、それはあくまで威嚇用という意味であった。一応、暴徒鎮圧用の砲弾以外に万が一に備えて殺傷破壊用の実弾も用意させていたが、暴徒鎮圧用砲弾はこの報告書に記されていた内容から判断するに必要無くなってしまった。



(証拠隠滅用の術式を銃弾に施すほどの用心深さ、そしてかなり高度な魔法技術を持つ危険な奴が相手か。

 捕縛するには奇襲、それも有無を言わせないような攻撃で相手の動きを封じて一気呵成に捕らえる必要があるな……)



 最初は魔導砲の存在を相手に見せつけて戦意を喪失させる作戦であったが、情報省から渡されたこの分析結果が正しい場合、威嚇程度では相手を刺激してこちらが被害を被る可能性が高く、下手すれば保安官達の中から殉職者を出し兼ねない。



(いや、下手をすれば一般市民が巻き込まれる可能性を考慮すれば、捕縛ではなく叩く方向で作戦を進める必要があるか?

 それとも、奴が宿から出てきたときに取り囲んで有無を言わさずに拘束した方が無難か?)



 黙考していたガーランドは思い直すかのようにかぶりを振る。

 相手は連続通り魔の殺人犯であり、しかも現職の憲兵まで殺しているのだ。普通に考えても確実に極刑は免れないほどの罪を犯している。



(多勢に無勢で数十人の保安官で取り囲んだとしても、死に物狂いで抵抗してくる可能性もあるか……)



 ならばこそ、下手をすれば「このまま捕まって死刑になるくらいならば、いっそのこと……」と考えて取り囲んだ保安官達を道連れとして自決する恐れもある。具体的に言えば、投擲魔導弾なり岩盤破壊用の発破火薬ダイナマイトや魔法術式で自爆する可能性だ。


 もし奴が道の往来で自爆した場合、保安官達だけではなく通行人や周囲の建物にも被害が及ぶ可能性もある。特に被疑者が銃以外にどのような武器や魔法を使えるのかが全くの未知数である以上、保安官達で取り囲むのは得策ではないだろう。



(とすれば、奴が泊まっているであろう宿を突き止めてから部屋に居るときに一気に強襲したほうが仮に自爆されても被害は少ないか……)



 仮に宿の一室にいるときに突入したとして、咄嗟に自爆されても被害は突入した少数の保安官と宿だけに留まるし、事前に宿に泊まっている宿泊客や従業員を退避させた上で、建物の周囲を封鎖すれば被害はさらに最小限にすることが可能だとルークは考える。

 


(いや、そもそもよしんば無事に捕まえれたとしてもだ、後々の裁判で死刑が確定するのが確実な連続殺人鬼に対して保安官達の命を賭ける必要も順当な逮捕手続きを執行する必要性自体がどこにも無いじゃねえか?)


「そうとなれば、俺達警保軍が判事に代わって死刑執行を代行しても何ら問題はないわな?」



 連続殺人犯……いや連続殺人鬼の命と保安官や善良な一般市民の命を比べれば、どちらが掛け替えのない存在なのかは考えるまでもないだろう。多少周囲の建物に被害が出たとしても人命が失われるのに比べれば安いもの。



「ま、奴がこのまま大人しくしてるわけでもないし……逃亡や自爆を許すくらいなら、こっちから積極的に討って出るっていうのも悪くはないか?」



 現職の憲兵が殺されたことで憲兵隊は親の仇の如く血眼になって奴を探している。お陰で奴は今のところ鳴りを潜めているが、いつまた殺人衝動に駆られるかも分からない。ならば奴の所在が判り次第、迅速に包囲撃滅する方が被害を最小限に留めることができるだろう――――と、次第に被疑者を殺す方向に思考が傾いていたルークの元に報告が届く。



「こちらにガーランド独立上級正保安官はいらっしゃいますか!?」


「おう、居るぜ」



 ルークが思考の海に潜っていたところ、彼の居る会議室に誰かが文字通り転がり込むように室内に駆け込んで来る。入室してきたのは最近彼の雑用を引き受けている卒配されて間もない若い保安官補であった。何があったのか、彼はゼイゼイと息を切らして苦しそうだ。



「……お取り込み中、失礼します!

 ガーランド独立上級正保安官殿、先程モリス正保安官より伝送器で連絡が入りました!

 帝都連続通り魔殺人の被疑者を捕捉し、潜伏している宿泊施設を特定したとのことです!

 また同時に行き先不明なれど、同被疑者が数日以内に帝都から移動する予定だという情報も掴んだとのこと!」


「なんだとぉ!? おい、移動ってどういうことだ!?」



 若い保安官補からもたらされた待ちに待った報告。

 しかし、その報告の内容には聞き捨てならない内容が含まれており、それを聞いたルークは興奮のあまり報告に来た若い保安官補の彼に対して怒鳴るようにして聞き返していた。



「そ、それが、被疑者を発見して追尾していたモリス保安官によると、発見した際の被疑者はギルドから出て来ていたとのことで……それで念のためにギルドに問い合わせたところ、捜査令状がない状態では行き先までは明かされなかったものの、最終的に被疑者が国外に出る可能性を示唆し、ギルド支部間の移動届を申請して受理されたとのことであります」



 ギルドの支部間移動届という言葉を聞いてルークは嫌な予感を覚えた。元冒険者であるルークにとって支部間の移動は冒険者活動において日常茶飯事のことであり、ある程度の等級まで行くと自分の出身国から発行される旅券証が無くてもギルド発行の旅券証で他国に渡航できるようになる仕組みがある。


 しかしながら、帝都連続通り魔殺人の被疑者である奴はつい最近冒険者になったばかりのヒヨっ子である。そのヒヨっ子冒険者が支部間移動届を申請して受理されるということは、奴は独自に自国発行の真正旅券証なり偽造旅券証を所持しているということだ。



(糞! 確かに考えてみれば、外国人ならばこの国に堂々と歩き回るには旅券証が必要だ。

 ということは、奴は最初から殺るだけ殺って国外に逃げる腹積りだったのか?)


 

 最終的に国外に出る可能性があるということは、直ぐに国外に出るということではないのだろう。その点に関してルークはホッとしてひとまず胸を撫で下ろしたものの、とりあえず被疑者がこの帝都から出て行くということは分かった。


 仮に出入国審査を受けなくても国境を越える方法はいくらでもあるし、裏の世界の住人なら査証を偽造する術や伝手くらいは確保しているだろう。既に手配書は国境警備軍にも回っているのだが、このシグマ大帝国は広大な国土に比例して国境線の長さも長大であり、国境を接している国は十数ヶ国に上る。そのため、この国から密かに出国する方法など幾らでもあるのだ。


 何も馬鹿正直に国境検問所を通る必要はない。国境に接している荒野や森を走破して抜けるなり、山を越えたり川を泳いで渡るなり、その気になれば誰にも目撃されることなく国境を越えられる。


 しかも、時代の流れで領主制度が崩壊して久しく、城壁や堀で囲まれた作りの街であっても人の往来を厳しく制限しているところは年々減少傾向にあるので、身分証や荷物の検査を厳重に実施している街は少ない。



(抜かったぜ! まさか奴が国外逃亡を画策していたとは!

 いや、そうでなくとも帝都を出てこの広い国土を縦横に移動されたら、補足することが難しくなっちまうじゃねえか!!)



 シグマ大帝国の国土はバレット大陸一広い。そんな国土の中には魔物や魔獣がウロウロしている物騒な場所もあれば、メンデルのような多種族が住んでいる大都市もあったりするのだが、逆に住んでいる人間が疎らな小さい村落も無数に点在していたりする。


 そういった村落の中には現在の大帝国に対して歴史的な経緯から反抗的な態度を取る場所もあり、そういった村落は大帝国に併合される前から独自の自治を敷いて軍や治安部隊、行政の介入を拒絶していたりする場合が多く、そのような場所に逃げ込まれたりすると内務省警保軍と言えど手が出せなくなってしまう。



「よし、出動だ!

 待機中の保安官と保安官補を動員!

 全員、防弾装具着用の上、庁舎裏庭に集合させろ!

 あと装備課に通達して準備させていた銃と魔導砲を含む武器と輸送用の装甲馬車を持って来るように伝えとけ!!

 それとモリスに『あとでよく冷えた麦酒を奢ってやる』と伝えろ!」」


「はっ! 了解しました!」



 報告を聞いたルークは怒鳴りつけるようにして矢継ぎ早に指示を下す。立ち上がった彼は机に立て掛けていた己の愛剣を手に取り、そのまま腰の剣吊帯に魔剣の佩轘を引っ掛け、次にホルスターから拳銃を抜いて回転式弾倉に装填している弾丸に異常がないかを確認しながら部屋を出る。



「野郎、この国から出て行くだと? 調子に乗りやがって!!

 今、俺が行くからそこから逃げるんじゃねえぞ!?」



 部屋を出て庁舎裏庭へ向かうために怒気を込めながら廊下を歩いて行くルークの背を見守るように敬礼していた若い保安官補は次の瞬間、脱兎の如く走り出す。若い彼が目指すのは警保軍本部庁舎三階にある放送室だ。


 数分後、庁舎内は俄かに騒めきだす。

 館内放送を聞いて何事かと驚いた一人の事務官が裏庭を見下ろすことができる廊下の窓から見たのは小銃や拳銃、槍や剣などの殺傷用武器で完全武装した保安官と保安官補達から構成された五十人からなる屈強な男たちの姿であった。






 ◆






 同日、帝国情報省国内総局調査第一課所属の情報官であるデイビット・テイザーは、情報省庁舎内に設けられている職員食堂の一画で少し早めの昼食を摂っている最中であった。


 朝早くから始まった国内総局局長を交えた局内全体会議はつい先程漸く終了したところで、お茶以外は口にしていなかったデイビットは会議終了と同時に昼時にはいつも空腹の職員達で混んでいる食堂へと向い、お気に入りの『豚の生姜焼き定食』を堪能していた。



(うーん。

 牛肉も美味しいですが、やはり私は豚肉のほうが好きですね。

 特にこの生姜焼きは素晴らしい!

 生姜と出汁を効かせたとの特製の醤油との相性は抜群ですよ。

 そして……)



 幸せそうな笑みを浮かべながら生姜焼きの豚肉を一切れ口に運び、定食と一緒に出されていた白米が入っている茶碗を手に取り、箸で一口分頬張る。するとデイビットはさらに笑顔を深めてモグモグと口を動かす。



(おお、これぞ至福のひととき。

 生姜焼きを白米で食べてこそ真の定食と言うもの。

 パンで生姜焼きを食べるなど……邪道以外の何者でもないですなぁ)



 最近、ここベルサでも漸く食べられるようになってきた『米』。

 シグマ大帝国では主に南部地方で食べられていた米だが、鉄道技術が発達してきたお陰で米も少しずつではあるが、北部地方や東部にも入って来るようになった。


 南部の地方都市『パントテン』の中心市街地に位置する情報省が入る合同庁舎近くの地元食堂で始めて頼んだ定食で白米が盛られて出てきたときは面食らったが、一口食べて米の虜になった。味の濃い料理と共に食べるとその濃さを中和しつつ、白米独特の甘みが料理に花を添える。


 今までのパン食から米を食べ始めたお陰で瘦せぎすだった体は標準的かつ最適な体型になったし、何より食後の腹持ちが違う。米のおかげで午後の仕事中でも腹が減ってしまうということはなくなったし、パン食だったときよりも集中力が持続するようになって今まで以上に業務の効率が上がった。



「相変わらず美味そうに食うなあ、デイビットは」



 唐突に掛けられた声に箸と茶碗を持ったまま振り返るとそこには自分とは違う課に所属する同僚が呆れたような表情を浮かべて立っていた。彼の名はトーマス・ジラウロ。元帝国軍出身の生粋の軍人であり、その後情報省軍に移ったあと、情報省国外総局調査第三課に引き抜かれた生え抜きの職員だ。



「美味いものを美味い顔で食べて何が悪いんだい? トーマス」


「いや、別に悪いって言っている訳じゃねえよ。

 お前さんのその美味そうに食べてる様子を見ているとこっちまで腹が満腹になっちまうって話」


「なら君も豚の生姜焼きを食べないかい? もちろん、米で」



 そう言ってデイビットは自分が食しているのと同じ定食をトーマスに勧めるが、彼は苦笑しつつ彼の勧めをやんわりと断る。



「幾ら何でも昼飯時間の一時間前に食ったら直ぐに腹が減って午後が持たねえよ。

 …………すまん、珈琲を頼む」



 注文を伺いに来た給仕に温かい珈琲を頼んだトーマスはそのままデイビットの座る席の向かいに座るや否や彼に話を始めた。



「デイビット、お前さん確か例の帝都で起きた連続通り魔殺人の件を追っていたよな?」


「ああ、そうだよ。

 正確には通り魔を射殺した人物と使われた銃についてだがね」


「そうだったっけ? まあ、いいや。

 実は小耳に挟んだんだが、警保軍がその人物の素性と潜伏先を特定したらしいぜ?

 確かお前、警保軍の保安官に情報を持って行ったんだよな?」


「そうだね。 それにしてもさすがは『猟犬ガーランド』だな。

 情報を与えて数日後には居場所を突き止めるとは……」


「何だ? お前が情報を持って行った相手って猟犬ガーランドなのか?

 大丈夫なのかよ? いくら荒事が得意な猟犬でも今回ばかりは相手が悪過ぎるだろう?」


「大丈夫。 だからこそ猟犬に今回の件を持って行ったのさ。

 幸いにも彼は最近帝都に戻って来たばかりで、今回の通り魔殺人の真犯人のことや事件の真相についてはまだ知らないようだしね。

 彼ならきっとこの事件のことを嗅ぎ回ったあとで件の銃の持ち主を捕まえてくれると期待しているよ」



 そうなれば警保軍が本格的に銃のことを調べる前にから手を回して貰って銃諸共、所有者を確保する予定だし、仮に所有者が銃について口を割らないなら、吐かせる手立ては幾らでもある。そう言おうとしたデイビットは次にトーマスが言った内容について呆然となってしまうことになった。



「違う違う。

 俺が言ってるのはガーランドが追ってる奴と一緒に居るっていう魔族の存在についてだよ」



 己の顔の前で右手を左右に振ってデイビットの意見を否定するトーマスは彼が知らなかった事実を伝える。



「ん? どういうことだい?

 何のことを言っているんだ? トーマス」



 今初めて聞いた事実に対してデイビットは訳がわからないとでも言いたげにトーマスに質問するが、彼は今までの職務上の経験から何か嫌な予感を感じて思わず顔の表情筋が強張るのを知覚する。



「お前、朝の報告書を読んでないのか?

 俺が見た報告書の内容では、昨日の時点で魔族の軍人らしき人物が例の銃を持ってるっていう男と同じ宿の部屋に一緒に宿泊してるらしいんだよ」


「いや、朝から先程まで局長を交えた会議だったからその報告には目を通していないな……」



 呆れたような表情を浮かべながら話す同僚を他所に、彼は今日の朝早くから行われていた局内の会議の様子を思い出す。会議は下は中堅の職員から上は国内総局の局長までもが参加する局内全体会議で、余程の緊急性を要する内容でもない限り中座することは許されないものなのだ。


 「そんな大事な会議の最中にある意味で重要な内容を記載した報告書が自分の所に届けられていた?」と彼はいつもの飄々とした表情を崩し、顔面を文字通り蒼白にして国外総局で働く同僚の話す内容を聞いていた。



「そうか……まあいいか。

 その件でうちの課員達が今朝方早くに確認に行ったんだが、調べたらその人物が借りてる部屋に居るのが女の魔族らしくてよ?

 んで、念のためにと同行していたうちの局の魔導士が透視の魔法を使って宿の向かいの建物から窓越しに室内を確認して見たら、壁に軍服が引っ掛けられていたらしくてな?

 その軍服に付いていた勲章やら徽章などの様式から見て、その魔族軍人はどうやら魔王領国防軍の所属で、しかも階級が佐官か将官とかの高級軍人じゃねえかってことになったんだ。

 そんな報告が上がって来たもんだから、うちの局じゃあ局長含めて朝から大騒ぎになってるんだよ。

 さっきもうちの課長が『何でメンデルではなく、ベルサに魔王領の軍人が居るんだ?』ってぼやいてたぜ」


「何だって!?」



 トーマスから伝えられた内容を聞いたデイビットは思わず声を荒げて席を立ち上がる。彼の顔からは血の気が引いて誰が見ても分かるほどに真っ青になり、過度な緊張の所為で上下の唇と右目の下の瞼が小刻みに痙攣していた。



「しかも猟犬は猟犬で何かを掴んだのか、完全武装した何十人もの保安官達を動員して例の人物を捕まえるために警保軍の庁舎を出て行ったらしい……って、おい! デイビット!?」


「すまない、あとで金を渡すからここの払いは頼む!

 私はこれから治安警察軍の所へ向かう!」



 踵を返したデイビットはそのまま食堂の出口を目指して走り出す。同僚の突然の行動にトーマスは彼を止めようとするが、そんな制止を構わずに自分が食べたものの支払いをお願いするとデイビットは廊下を走りながら次の行動を考える。


 目指すは治安警察軍将軍であり本部長であるアルフレッド・グスタフの所だ。帝都での情報省軍兵士の活動は他国の外交官や駐在武官らの目を引く上に一介の情報官であるデイビットに情報省軍の部隊に出動を要請する権限も指揮権も無い。


 ならば、自分に出来るのはこの件を治安警察軍に伝えることのみ。

 猟犬ガーランドが武装した保安官達を率いて警保軍庁舎を出て行ったということは、間違いなく戦闘なり小競り合いなりが発生することだろう。


 軍人出身のトーマスならば兎も角、ただの役人である自分では荒事には対処出来ないし、対処したいとは思わない。ならば、同じ荒事に長けた者達に対処をお願いするのが最も最良な選択である。



(もしトーマスの言う通り、あの銃弾の所有者の傍に魔王領の軍人が一緒に居るとなれば非常に不味い事になりますよ!!)



 シグマ大帝国と魔王領は友好国ではあるが、軍事的同盟を結んでいる訳ではない。その証拠に魔王領の大使館は他の種族国家と同じく第二都市『メンデル』に設置されている。とはいえ、魔族の軍人が帝都に全くいない訳ではない。


 何らかの外交や儀礼などで軍服を着用した魔族軍人が帝都の街中を歩いていることは稀にあるし、公務から外れた私的な用件……例えば休暇を利用した観光目的で訪れることも無いとは言えないだろう。もちろん、その際には私服であろうが、今回の件に関しては初耳だったことを除いても訳が分からないことだらけだった。


 まずもって魔王領の軍人がどのような目的で、ここ帝都ベルサに来たのか?という疑問がある。魔王領の軍人がベルサに来る理由があるとすれば外交官の護衛や我等が大帝国軍との軍事的な話し合いくらいしか思い浮かばない。



(しかし、もしそうならば情報省にその手の話が入って来ない筈がないのですが……?)



 デイビットが所属する情報省国内総局はシグマ大帝国内の政治・軍事・経済に関するあらゆる情報を収集し、分析してその成果を大帝国帝室と帝室官房に報告するのが国内総局に課せられた任務だ。その情報収集の一環として他国から入国して来た外交官や駐在武官のあらゆる情報も集めている。


 そのため国内総局の部署毎で集められる情報に違いがあるとはいえ、係長の地位にある中堅職員のデイビットの耳に魔王領の軍人が帝都ベルサに居るという情報が入って来ない筈が無いのだ。それが何の手違いか、よりにもよって国内総局が重大な関心を持っている対象の傍に魔王領国防軍所属の軍人が居るのだという。


 しかも、女魔族は佐官又は将官級といった高級軍人の可能性があるとのこと。透視を行った魔導士が何かを見間違えたという可能性は最初から捨て去っている。彼らの能力は情報省が評価して職員に迎え入れるような優秀な人材ばかりであるので、そんな素人の民間魔導師のような見間違いなどしようがないし、そもそもそんな失敗をやらかすような魔導士は情報省には最初からいない。


 それに透視した魔導士本人も一度だけではなく、二度、三度と確認を行ってから報告しているのだろうし、傍にいた同僚にも念の為に確認させている筈である。だからこそデイビットも彼より先に報告を受けた国外総局の局長達もあわてているのだが、あるとすれば元軍人だったり、軍人を装っている可能性だが、治安警察軍や警保軍、憲兵隊などの治安部隊がひしめき合っている帝都で軍人を装うなど自殺行為にも等しい行いだ。



(不味い! 不味い不味い不味い!!

 これは非常に不味い状況ではないですか!!

 警保軍のガーランド独立上級正保安官に付けられている『猟犬』とは別のもうひとつの二つ名は確か『暴風ガーランド』でしたか?)



 有能な軍人や捜査官、政府機関やギルドの職員、魔導師や冒険者に起業家や商売人といった者達の中には時折『二つ名』という通名が授けられる事例がこのバレット大陸には昔から存在する慣習として残っているのだ。


 元々はまだ個人の名前に姓がつく前の古い慣習であり、同性同名の個人を判別する目的で特に優れた能力や仕事、任務などで活躍した実績から勘案して付けられていたのだが、名前とは別に姓を名乗れるのが一般的になりつつある昨今でも、二つ名の慣習は廃れることなく様々な職業で用いられている。


 大抵の場合、本人以外の者や所属する機関の長から二つ名が下賜される場合が殆どなのだが、稀に一個ではなく二個、三個と複数の二つ名が与えられることがあるのだ。本人の意思や希望に関係なく……


 そして自分が情報を持って行ったルーク・ガーランドという警保軍保安官に付けられた『猟犬』とは別に付けられた二つ名は『暴風』。犯罪者を逮捕する際に手段を問わずに行うため、被疑者によっては激しく抵抗したがために手っ取り早く立て籠もっていた廃屋ごと投擲魔導弾で吹き飛ばしたこともあるのだという。そういった数々の物騒な逸話から彼に付けられた第二の二つ名が『暴風ガーランド』なのだ。



(暴風がもし魔王領の高級軍人に不可抗力といえど危害を加えたとあれば、国際問題は必至!

 魔王領から派遣されている農業指導や、あの国からの魔法技術供与事業に支障をきたす恐れがある!!)

 


 魔王領はダルクフール法国に並ぶ『魔法先進国家』であると同時に農業技術先進国でもある。人間種の国家を超える数千年の歴史を持ち、それと同時に彼ら長命な魔族達が数千年に渡って蓄えてきた各種魔法技術は人間種や他の種族にとって垂涎の的である。


 しかも彼ら魔族の魔法技術は長耳族が得意とする精霊魔法などに代表される精霊魔法技術とは違って劣悪な環境下で使用されることを前提として術式が作り上げられているため、年々人口が増えて周辺環境が悪化しがちな人間種の国土でも使える魔法技術が多いのが特徴だ。


 汚染された空気や水を濾過して綺麗にする術式や魔道具、生きた人間や死体を瞬時に灰にすることができる地獄の業火を発生させる術式を応用した糞尿処理魔導技術、吸血族が得意とする死体から死霊ゾンビを作成する反魂魔法を応用した欠損部位再生医療魔導技術など人間種や一部の獣人国家では不可能な魔法技術や魔道具の作成技術などが多数、シグマ大帝国に対して供与又は輸出されている側面がある。


 そのためシグマ大帝国は魔王領とは友好的な国際関係を維持している。シグマ大帝国と魔王領の間には『バルト永世中立王国』などといった国々を挟んでいる関係で直接的な軍事的脅威が無いのも理由のひとつだ。


 魔王領の魔族達は種族の特性故に一般国民であっても魔法を使える者が多いため、その異常性をそこまで意識していない。が、人間種の国家から見たら大多数の国民が何らかの魔法を使えるという事実は脅威であり、潜在的な危険性を孕んでいる国のひとつに数え上げられている。


 人間種以上に長寿命で劣悪な環境にも強い頑丈な体と高い身体能力。

 しかも魔力も魔法技術も長耳族並みとくれば人間種として警戒しないほうがおかしいのだ。もし仮に魔王領国防軍が隣国のバルト永世中立王国に侵攻した場合、バルトはほぼ一日で占領されることだろう。


 ここでいう『占領』とは一般国民への被害を最小限に抑えつつ、バルトの軍組織や政府機関を速やかに制圧することを指すのだが、これがもし占領ではなく『殲滅』であった場合は恐らく半日も掛からずにバルトの国土は蹂躙され、国民は全て死に絶えるという予測結果が我々情報省の国外総局対外軍事研究部会から論文として提出されている。


 デイビットはこの論文を拝読した当初は馬鹿げていると鼻で笑っていたが、興味本位で魔王領国防軍の戦力を調べたところ割と洒落にならない事実に愕然とした経験がある。シグマ大帝国軍を含めた人間種の軍隊では数十人又は数百人の魔導士で運用する戦略級・戦術級攻撃魔法をたった一人で扱える高位上級魔族が何体も存在いたことに驚愕し、人間として本能的な恐怖を覚えた。


 他大陸は別としてバレット大陸に住む人間種や長耳族、獣人族から見た『魔族』と言えば大抵の者が魔王領に住んでいる魔族のことを指している場合が多い。本当は魔王領以外にも『ツァスタバ王国』や『ルガー王国』、『シュタージ自治共和国領』など魔族が治めている国は幾つかあるのだが、取り敢えず魔族と言えば魔王領の魔族達ことを指していると思って良いだろう。


 そのため最強の魔族、魔族の頂点と言えば魔王領の統治者である『魔王』を思い浮かべる者も多い。何せ国名に『魔王』の文字が入っているのだ。普通であれば魔王こそ魔族最強の存在だと考えるのが妥当であり、その考えはあながち間違ってはいないのだが、こと『魔力』と『武力』という点では大いに間違っていたことを当時のデイビットは魔族に関する資料を読み漁って思い知らされた。





――――魔王を超える魔力と武力を持つ魔族が別に存在しているという事実を……





(『殲滅魔将』に『赤目の煉獄』、『災厄の魔族』……さすがに洒落にならない二つ名ばかりですね)



 他にも幾つもの禍々しい二つ名を授けられた高位上級魔族。本人の名前よりそれらの強烈な二つ名と戦場での天災の如き戦いの様が先行してしまったがために全ての人間種国家から恐れられている魔王領国防軍の魔導将軍。


 現在のように念写魔法や写真技術が普及し始める前に忽然とその存在を消したため、かの将軍のことを知る者は情報省や軍の中にもいないが、そんな強烈な二つ名が付く魔族だ。余程凶悪な姿だったに違いないと新米情報官だった若りし頃のデイビットは恐怖した。



(仮にそんな恐ろしい存在でないにしても、魔王領国防軍に所属する高級軍人の殆どが中・上級魔族で占められている状況では、トーマスからもたらされた情報を聞く限り絶望しかありませんね……)

 


 魔族には龍族や悪魔族と呼ばれる種族とは別に『魔族階位』と呼ばれる等級があり、それぞれ『上級』『中級』『下級』という三つの階位に分けられている。これはもともと大昔に魔族と対立していた人間種や獣人族、長耳族らが魔族と戦う上で便宜上設けた等級であったのだが、今ではその識別のし易さから魔族全体で用いられている等級だ。


 この三つの階位の中で中で大多数を占めるのは『下級魔族』である。一番数が多いために他の種族と触れ合う機会が多く、また他種族の異性と婚姻し混血の子供を成すことも多いために異種族間での婚姻の機会が長く続いた魔族の家系では魔族とは名ばかりのほぼ人間種や亜人種と変わらない外見や魔法を使えない者も存在していたりする。


 因みに下級魔族の殆どは平民であり、例え貴族であっても騎士や子爵などの下級貴族である場合が多いが、本人の能力次第では出世できるため、魔法とは関係の無い世界でそれなりの地位にある者もいる。『中級魔族』は下級魔族より数が少ないと言えど魔族の中核を成す階位であり、その魔力や身体能力は往々にして人間種を凌駕し、国によっては王族であったり政府機関や軍組織の要職に就いていることも確認されている。


 また、中級魔族の中には階位が『中級』であるにもかかわらず、上級魔族並みの魔力や身体能力を持つ者が極少数ではあるが存在しており、そういった者達は遠い祖先の中に上級魔族の血が混じっている場合がある。こういった突然変異的な魔族は他種族の一般的な軍属魔導士ではまず太刀打ちできないために上級魔族程ではないにしてもかなり危険視されている。



(できれば一緒に居るのが叩き上げの下級魔族であれば良いのですが、希望は薄いでしょうね。

 もし中級ではなく上級魔族であった場合、帝都の一部が壊滅しかねませんよ?)



 魔族の中で最も恐れられている『上級魔族』とは人間から見た場合、歩く災害である。中級魔族を遥かに凌駕する魔力と身体能力に加えて長耳族並みの長寿命と頑健な体は時代が時代なら、人類の脅威と言っても差し支えない存在なのだ。


 彼ら上級魔族はその能力故に同種族と近縁の中・下級魔族を従える存在であるために一部の変人を除いてその殆どが当たり前のように国家機関の要職に就いている。中には魔王のように何代にも渡ってその血を脈々と引き継いで行っているような歴史もあるがこれは例外と言えるだろう。



(もし、上級魔族であった場合、治安警察軍や警保軍の部隊では歯が立たないでしょうね。

 かといって情報省軍うちの魔導部隊でも対抗できるか……)



 そんな強大な魔力を持つ上級魔族以下、それぞれの魔族達がバレット大陸を力で制圧しなかったのはその数が極端に少なかったことが一因としてある。上級魔族など力のある魔族達は子を成す能力が低く、一生のうちに一人しか子供が産まれない場合もあるため、上級魔族の家庭は殆どが一人っ子であり、子供が産まれてくれば御の字といった歴史がある。


 中級魔族も殆どの場合、一人又は二人くらいしか子供を残せないので上級魔族程ではないにしても下級魔族と比べて数が少ない。対して下級魔族は人間種並みに子供を成すことができるため数が多いのだが、前述の通り魔力や身体能力は他種族との血が混じっていたりするため魔族とは思えない者も存在している。


 そういう事情もあり、バレット大陸を力で制圧したとしても重要な戦力である中・上級魔族の絶対数が少ないので占領後の統治に支障を来す可能性がある。そのため彼等は他国を攻めることはしないというのが有力な説だ。もっとも魔族達も豊かな暮らしを望んでいるので、戦争に明け暮れる荒んだ状態よりは平穏な生活を好んでいるという事実もあるが……



「国内総局調査第一課係長のテイザーです。

 至急、治安警察軍本庁舎へ転移したいので手続きをしていただきたい」



 長いこと魔族について今まで調べて自分なりに考えていたことを思い出していたが、ある場所に着いた途端、デイビットは位住まいを正して扉の前に立っていた者達に自分の身分と目的を告げる。



「失礼。 身分証を拝見します」



 身分確認の為に近付いて来たのはこの部屋の警備をしている情報省軍所属の兵士だ。情報省庁舎内であるため、小銃や剣は持っていないが、代わりに狭い建物の中でも邪魔にならないように彼の腰には取り回しの良い短剣と拳銃の入ったホルスターが吊られていた。


 

「…………失礼しました。 どうぞ、情報官。

 ではそちらの硝子板に手をおいて暫くお待ち下さい」


「分かりました」



 身分証と顔を確認した兵士は扉の傍らに設置されていた硝子板に手を置くように指示し、デイビットは素直に従って右手を硝子板の上に置く。硝子板には手の形を象った線が彫り込まれており、そこに手を置くと硝子板が青く光り、次第に緑色に変化していく。


 その様子をジッと見守っていたデイビットは内心ホッと息をつく。今まで情報省の転移魔法陣を何度も利用してきたが、この作業は毎度のことながら緊張する。自分が今、手を置いたのは本人確認をするための魔道具の一種で、予め登録されている職員本人の指紋と魔力特性の情報を照合し、一致すると青色だった硝子板が緑色に変化して一致しない場合は赤色に変化する。


 本人情報の照合が完了するまでの数十秒間、「もし何らかの手違いや不具合で硝子板が赤くなったらどうなるのだろう?」とデイビットは毎回不安になる。設置に携わった魔力分析官の魔導士に言わせると「不具合など絶対に出ない」と言っていたが、魔導士ではないデイビットはこの硝子板がどの様にして照合を行なっているのか知らないので毎回不安を覚えるのだ。



「指紋、魔力特性共に一致を確認出来ました。

 お通り下さい。 情報官殿」


「ありがとう」



 扉を開けた兵士に促されて中に入ると、目に飛び込んで来たのは見慣れた光景だった。百人の兵士が整列してもまだ余裕のある広い石造りの無骨な部屋の中は淡い光で満たされており、床や壁には幾つもの魔法回路が組み込まれている。


 固い床には幾何学模様の魔法陣が幾つも描かれていて、自分が立っている出入り口からそれぞれの魔法陣に向かって床に矢印が書き込まれており、部屋の右手側に目をやると壁際には分厚い窓硝子が嵌め込まれた部屋の中に数人の魔導士が待機していた。



『それではこれより一番魔法陣の転移魔法を発動します。

 行き先は『ヤークト』の合同庁舎』



 室内にに魔道具による拡声音が響くと同時に部屋の一角にあった魔法陣が光る。陣の中心に置かれていた木箱が光が消失すると同時にその存在が消えた。



『転移魔法の発動終了を確認。

 魔法回路点検のため、一番魔法陣は使用できません。

 次の使用時間は三十分後です』



 木箱が消えたのを確認した魔導士の声が響き、次の魔法陣の使用時間を告げる声が聞こえる中、出入り口に立って邪魔にならないようにその様子を見ていたデイビットは手持ち無沙汰にしていたが、やがて彼を見つけた魔導士が声を掛ける。



「こんにちは、情報官殿。

 本日はどちらに向かわれますか?」



 声を掛けて来たのは顔見知りの魔導士だった。この部屋の責任者である室長であり、情報省所属の魔導士達の中で一番転移魔法に詳しい者なのだが、昼食時に職員食堂でよく席が一緒になるので自然とお互いに言葉を交わすようになり、最近デイビットが職務で転移魔法を利用するようになったため彼には色々と世話になっていた。



「やあ室長、こんにちは。

 早速で悪いが、今日は治安警察軍の本庁舎に転移したい」


「おや?

 治安警察軍の本部なら、馬車で向かわれたほうがよろしいのでは?」


「いや、緊急なんだ。 至急転移したい」



 情報省と同じ官庁街にある治安警察軍の本部への移動は通常、馬車が利用されている。しかし、官庁街の端に位置する治安警察軍の本部へは馬車で十分以上の時間が掛かる。これに馬車の貸出手続きを含めれば更に五分以上の時間が消費される。


 これが普段であればそれでも良いのだが、今は事態が切迫していのだ。既にガーランド保安官率いる警保軍の部隊は既に進発している。ノロノロと馬車で向かっていては手遅れになる可能性が高く、事態は一刻を争う。



「…………了解しました。 では、早速準備させます」


「ええ。 突然で申し訳ないですが、宜しく頼みます」



 デイビットの目をジッと見ていた責任者である魔導士は彼が本気であることを感じ取ったのか、真剣な面持ちで部下の魔導士達に指示を出し始めた。



(これでなんとか間に合えば良いのですが……神よ、どうかこれが単なる取り越し苦労で終わりますよう私に力をお貸しください!)



 目の前で転移魔法の準備を進めている魔導士達の姿を見ながらも、一抹の不安を拭えないデイビットは何事も起きないでほしいと心の中で神に祈るのであった。






 ◆






「四番魔法陣の起動開始。 魔力供給を開始せよ。

 跳躍転移先は治安警察軍本部」


「了解。 転移魔法陣の起動を確認しました。 魔力供給完了」



 上官の指示で次々に進められていく転移魔法陣の起動作業。部下の魔導士達はいつものことながら、慎重に術式を操作して魔法石から魔法陣に魔力を供給して転移に必要な作業をひとつひとつこなして行く。



「これより四番魔法陣の転移魔法術式を発動します。

 被転移対象者は魔法陣に入って下さい」



 魔導士の指示によって被転移対象である情報省の職員が指定された魔法陣の中央に立つ。魔法陣の中にいるのはここ最近、転移魔法を利用している情報官だった。彼は最初の頃こそ不安げな表情で魔法陣の中に佇んでいたが、最近はそのような表情を浮かべることなくむしろ転移魔法を利用するのが当たり前のようにして立っている。



「被転移対象者、魔法陣への入陣を確認。

 魔法陣の最終確認異常なし。 これより転移魔法を実施します」



 魔法陣の中に立つ情報官の様子を見て異常がないことを確認した魔導士は次に転移に必要な手順と術式を確認して作業指示書に記載されている必要項目を確認して全てに異常や間違いがないことを記入し、上官である室長に指示書を手渡す。


 全ての項目を確認した室長は静かに頷いて転移魔法使用の許可を下し、それを見た部下の魔導士は拡声魔道具を用いて室内に転移魔法発動の事前通告を行う。



「それではこれより四番魔法陣の転移魔法を発動します。

 行き先は『治安警察軍本部』」


「転移魔法を発動」


「転移魔法発動!」



 室長の指示で術式を操作するとそれまで淡い光を漏らしていた魔法陣が強く発光し、次の瞬間光が収まったときには陣の中に立っていた情報官の姿はなかった。



「転移魔法の発動終了を確認。

 魔法回路点検のため、四番魔法陣は使用できません。

 次の使用時間は三十分後です」



 もはや何時もの台詞となって久しい通告が行われると魔導士達は魔法回路の点検に入る。が、室長は点検作業を行う部下達を他所に先程転移を行った四番魔法陣をジッと見つめたままだった。


 職員食堂で最近よく相席になる先程転移して行った情報官はいつも飄々とした表情を浮かべ、どこか余裕ある態度をしていたが、今日来た彼は酷く焦った様子だった。しかも、転移したいと言って伝えてきた目的地は治安警察軍の本部庁舎である。


 通常、馬車を使っても直ぐに辿り着ける治安警察軍の本部に馬車での移動時間を惜しんで転移魔法を使って行かなければならないほどの理由とは何か?


 それも情報省の係長という中堅職員が焦った様子で治安警察軍に転移して行ったのだ。

 余程の緊急事態に違いない。



(何か大変なことが起きていないと良いのだが……)



 例えようのない不安に駆られた室長は暫くの間、部下達の作業が終わるまで情報官が転移した魔法陣を不安げな表情で見つめていた。

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