あの日、君が石像になってから

久里

あの日、君が石像になってから


 村の外れにある小高い丘を登ったところに、彼女は建っている。


 今日も今日とて僕はその丘を登り、この世で一番愛おしい彼女の前に跪いて、祈りを捧げる。


「おはよう、フィオナ。今日は、とても冷え込むね」


 朝の透明な陽ざしを受けて艶めきを増した僕の恋人は、三年前と全く同じ姿のまま、聖女のように清らかな笑みを浮かべている。よく手入れのされていた長い髪も、風に靡いて揺れるスカートの襞の一つ一つまでもがぴたりと時を止めていた。


 人間ではなくなり色を失った今でも、フィオナの魅力は全く色褪せることがない。それどころか、以前にもまして美しくなったようにさえ思うのは、彼女が物理的には触れられるほど近くにいるにも関わらず、精神的にはこの世で最も遠いと感じられるところにいってしまったからなのだろうか。


 一年前のあの日、フィオナは僕の目の前で、今の姿となった。

 彼女はあの日、石像へと変わり果てたのだ。

 そのことは、今でも、あまりにも鮮明に僕の脳内に焼き付いている。


 あの夜、空には煌々と星々が瞬いていた。


 フィオナは腰まで届く濡れ羽色の髪をはためかせながら、軽やかに丘の頂上まで駆けていった。


『フィオナ! 待ってよ!』

『ううん、待たない。もう、私にはあまり時間がないの』


 先に丘の頂上まで駆け登っていった彼女がなんでもない風に放ったその言葉は、僕を酷く不安にさせた。

 月を背負って僕を見下ろしていたフィオナは、透明な水のように濁りのない瞳で、僕をまっすぐに見つめていた。


『ユキト、今まで有難う。貴方は、私の全てだった』


 彼女が柔らかく微笑んでそう告げた時、僕は最初、彼女の言葉を受け入れられなかった。


 次第に、喉に熱い塊が押し寄せてきて、視界が揺らいだ。唐突に、闇に蹴落とされたような気分になって、目の前がじわじわと暗くなっていった。


 ――だってそれはまるで、別れの言葉みたいに聞こえた。


 僕らは、フィオナが旅人としてこの村にやって来た三年前に出逢った。


 僕は一瞬で彼女に惹かれて、あっというまに恋に落ちた。

 儚げでいて凛としたフィオナの姿を初めて見た時から、脳裏に焼きついて、全然離れてくれなかった。


 それはきっと、ほとんど運命みたいなものだった。


 前からそうなることが決まっていたかのようにすんなりと僕の恋人になったフィオナは旅をやめて、この村にとどまり、僕の恋人となった。


 どこへ行くにも彼女が傍にいる日々は、僕にとって幸福そのものだった。

 ずっとずっと、この幸せが続いていくはずだった。

 何の前触れもなく、こんなにも唐突にあっさりと終焉を告げられるなんてことが、あって良いはずがなかった。


『な、にを、言っているの? 僕らは、これからもずっと一緒で……』

『私にとっての貴方は、たしかに私の全てだった。でも、ユキトにとっての私は所詮、貴方にとってのほんの一部でしかないの』

『そんなこと……』

『ううん。私はユキトのために他の全てを捨てて、この村に留まった。でも、貴方は、私の為に何かを投げ打ったことは一度もなかったわ。温かい村の人たちと、世話焼きの幼馴染にいつも囲まれていて、誰からも愛されている貴方。ユキトはきっと、私がいなくても幸せなの』


 彼女が清らかに微笑んだ瞬間、心臓をバラバラに千切られていくようで、呼吸がうまくできなかった。


 フィオナは僕の隣で幸せそうに頬を緩めていた時も、心の内側では、ずっとこんな風に僕を憎らしく思っていたのだろうか。


 あの時彼女が、泣いて、怒って、激しくその細い体に閉じ込めていた感情の全てを僕に叩きつけてくれたら、どれだけよかっただろうか。

 代わりに彼女は、全てを諦め、悟りを開いてしまったような聖女の微笑を浮かべていた。それは、僕が理解しようとすることさえも赦されないような、あまりにも絶対的な拒絶だった。


 あの瞬間、誰よりも僕の傍にいてくれたフィオナが、一瞬にして空に輝く星よりも遠いところにいってしまったようで、突然心臓をもぎ取られたような激痛に襲われた。

 

『フィオナっ……どうしたら、どうしたら……僕にとっても君が全てなんだって、信じてくれるの……?』

 

 僕にとっての君は、もう心臓の半分になりかけているくらいなんだよ。

 どうしたら、どうしたら、信じてくれる? 

 君は、どうしたら僕のことを赦してくれる?


 彼女を失うという凄絶な恐怖に震え、みっともなく嗚咽を漏らしながら、必死でフィオナに縋ることしかできなかった。


『もう、遅いわ。もうじき、この身体には呪いが回り始める。私は、石になって死ぬのよ』

『どう、いう、こと……?』

『ゴメンね。この残酷な世界で生きていくことが、あまりにも虚しくて、苦しくて、嫌になってしまったの』


 ――早く、この果てのない暗闇から、私を救い出してほしかった。そうしたら、願いが叶ったのよ。昨日の夜、悪魔様が私の下に訪れてきたの。彼は、私に石になる呪いをかけたわ。


 彼女の語る内容はあまりにも荒唐無稽で、同じことを他人が口にしていたら到底信じられるような内容のものではなかった。


 でも、それは、他でもないフィオナの言葉だった。


『そん、な……っ』


 そんなこと、あるわけがない。

 あれが彼女以外の誰かの言葉だったら、確実に鼻で笑い飛ばしていたと思う。


『でもね……ユキトが石像になった私の元に、毎朝毎晩欠かすことなく通い続けて……ユキトにとっても私が全てなのだと、私が確信することができたその時には……この世界を、再び愛せると思うの。その時には、私の身体を元の人間の姿に戻してもらうように、悪魔様にお願いをしたわ』


 それが、僕の最愛の恋人の残した最後の言葉だった。


 言い終えた瞬間、彼女は、この世の誰よりも安らかな微笑を浮かべ、人間としての温もりと丸みと色を失いはじめた。足元から冷たい石像に変わり果てていくフィオナのことを、僕はただただ呆然と見つめていることしかできなかった。


 あの時のことを思い出すたびに、僕の心臓は抉られるような痛みを感じ、真っ赤な血を吹き上げる。呼吸困難に陥って、喉は焼けるように熱くなる。眦には涙が浮かんできて、酷い時には吐き気まで催して、座り込んでしまう。


 それでも……フィオナは僕に、一筋の希望を遺した。独り、この世界に取り残された僕が、フィオナの遺していったその尊い贈り物を受け取らないはずがなかった。


 僕は、彼女に言われた通り、毎朝毎晩、石像になった彼女の下に通い続けた。


 フィオナの前に膝をついて祈りを捧げては、石になってしまった彼女を柔らかい布で丁寧に拭くのが僕の日課となっていた。

 あの日から一年たった今でも、僕は一日たりとも祈りを欠かしたことはない。


 それでも、僕の想いはまだ、まだフィオナに届いていない。

 

 きっと、まだまだ、全然足りないんだ。

 多分これは、彼女があのか細い身体で受け止め続けていた絶望そのものだった。

 同時に、あんなにも愛していた彼女を失望させることしかできなかった僕に課された罰で、受けて当然の報いでもあった。


「ユキト……」


 振り向けば、僕のすぐ後ろに、幼馴染のカレンが立っていた。

 柔らかそうな茶色の髪が、ゆるゆると波打って肩上あたりで揺れている。


「カレン。来てたんだ」


 足音にすら気づかなかった。

 相当深く、物思いに沈んでいたらしい。


 いつも元気いっぱいな幼馴染のカレンは、ここのところ浮かない顔をし続けている。今日も、淋しそうな瞳で僕のことを見つめていた。その大きな瞳はいつになく弱々しく揺れていて、なにか葛藤しているようだった。


 彼女は一度うつむくと、思いを決めたように僕のことをまっすぐに見据えた。

 

「ユキト……。もう、ここに来るのは、やめて」


 カレンの唇は震えていて、蒼褪めていた。

 感情を昂らせていく彼女と反比例するように、僕の心は冷えていった。

 その先に続く言葉を、僕はあまりにも容易く予想することができたから。

 

「フィオナは…………自ら、石になる毒を飲んで、自殺したのよっ。ユキトが毎日祈りを捧げているのは……フィオナじゃなくて……ただの石ころなのっ。彼女の魂は、そこには宿っていない。フィオナは、一年前のあの時、死んでしまったの! でも……でも……ユキトの心を縛り続ける為に、あんな酷い嘘を吐いたのよっ」


 カレンの言っていることは、もう既に何度も聞いたことがあった。うんざりして嫌になってしまうほどに、村のみんなは口を揃えて僕に言い聞かせようとする。


 僕のすぐ後ろに建っている恋人はフィオナではなく、ただの石像なのだと。


 みんな、フィオナは嘘を吐いて、僕を騙したのだと言う。だから、毎日祈りを捧げるなんていうバカげた無意味なことはやめなさいって。


 でも、僕にとっては――


「カレンも……村の皆と同じことを言うんだね。君なら、分かってくれると思っていたのに」

「っ! 私は、フィオナが、自分であの石になってしまう恐ろしい毒を飲んだところを見たのよっ。それに、あの娘は、私に言ったわ。『ユキトは、私と貴方のどちらを信じるかしらね』って……」

「ごめん、カレン。それ以上は、聞きたくない」

 

 その時の僕は、自分でも驚くくらいに冷たい声をしていた。きっと、絶対零度の無表情になっていたと思う。


 カレンは哀しそうな眼で僕を見ると、口をつぐんで去っていった。 


 ――僕にとっては、それでもフィオナこそが、残酷なまでに唯一の真実だった。


 それからも僕は、フィオナの下に通い続けた。


 そうして、一か月。二か月。三か月と時は過ぎていった。


 こうして通い続けていれば、いつかはフィオナに、僕にとっても彼女だけが全てなのだと証明することができると信じていた。

 そして、フィオナが僕を赦して帰ってきたその暁には、もう一生、彼女を失わないで済むように生きていこうと堅く決心していた。


 そう、決めていたのに。


 フィオナが石像となったあの日から、もうすぐ二年が経とうとしていた。


 その朝も、僕は、当たり前のようにフィオナに逢いに丘の頂上へ向かっていた。

 石像となった彼女の下へ向かうことは、もはや僕の一部となっていた。

 今日も早く彼女に逢いたくて、逸る気持ちで朝の陽ざしにあらわれた丘の中を夢中で駆け上っていた。


 でも。


 僕の世界で一番愛おしい恋人は、その日、そこには建っていなかった。


 代わりに、泣きながら金槌を握りしめて立っているカレンの足元に、フィオナはあまりにも変わり果てた無残な姿でバラバラに散らばっていた。


 その光景の意味することは、あまりにもむごかった。

 理解するまでに、相当の時間を要した。


 だって、これじゃあまるで―― 


 ――カレンが、フィオナを壊したみたいじゃないか。


 そうと認識したその瞬間、身体中を叩き割られたような激痛が駆け抜けた。これはきっと、カレンに叩き割られたフィオナの痛みそのものだった。


 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。


 どうして、こんなに酷いことを…………!


 火がついたように駆け出した僕は、肩を震わせて泣いているカレンの細い首を、迷うことなく締め上げた。


 手加減することすらせず、ただありったけの力をこの腕に込めて。

 

「ユキ……ト……やっと……フィオナ以外、に……目を、向けてくれたね。ゴ、メン、ね…………私、まちがってた、かなぁ……」


 目の前で、僕に首を絞められたカレンが弱々しく微笑んだ時、ハッと息をのんだ。

 でも、我に返った時には、もう遅かった。

 カレンは、あまりにもあっけなく、息を引き取った。

 

『ユキトは、私と貴方のどちらを信じるかしらね』


 耳元で、フィオナが涼しげに笑った気がした。

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あの日、君が石像になってから 久里 @mikanmomo1123

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