-Chapter 5-

 二学期が始まる9月1日の朝。

 目が覚めたマキは、自分でも不思議なくらい落ち着いた気分だった。あるいは、これが「開き直る」というコトなのかもしれない。

 すっかり着慣れた女の子用の下着を身に着けると、シミーズ姿のままタンスの前に立ち、今日の服装を選ぶ。

 最後になるかもしれないこの4日間くらいは、せめて「年頃の女の子らしく」自分でファッションを選んでみたかったのだ。無論、母親はOKしてくれた。

 今朝は、先週の日曜にしずる達と出かけた時に買った半袖の切り替えボーダーワンピースを選んだ。一見したところ白いTシャツとピンクのミニスカートを着ているように見えるタイプで、胸に英文字でブランド名が大きくプリントされているのがオシャレだ。

 スカート部はかなりのミニで、少し激しく動くとショーツが見えかねないが、このふた月あまりでマキも随分スカートの裾さばきに慣れたので大丈夫だろう……たぶん。

 9月に入ったとは言えまだまだ日差しが強いので、足元は白のショートソックスを選び、健康的にうっすら日焼けした太腿からふくらはぎにかけての肌をさらす。

 「おはよう、ママ」

 ダイニングに降りて挨拶すると、母親はいつもにもましてニッコリと微笑んでくれた。

 「おはよう、マキちゃん。その服、よく似合ってるわよ」

 「エヘ、そう、かな?」

 褒められると素直に嬉しくなる。

 思い起こせば、かつての「真樹」が母に褒められたことがどれだけあっただろうか。いや、それどころかここ1、2年は母との会話をどこか疎ましいものに思っていたのではないか。

 改めてかつての自分を振り返り、愕然とするマキ。「マキ」になって本当に良かった。

 (でも……)

 と暗くなりかける思考を無理矢理振り払い、朝食を口にする。

 食後の歯磨きは念入りに。口をすすいだあと、鏡を見ながら先日母に買ってもらった色付きリップクリームを付ける。

 口紅ほど劇的に色が変わるわけではないが、それでも唇が艶やかになりほんのりピンク色に染まると、なんだか少しオトナになった気がした。

 ダイニングに戻ると、いつも通り母の前に腰かける。

 ニコニコしながら母がマキの髪を優しく梳(くしけず)り、何かアクセサリーを付けようとするのはいつも通りだが、今朝のマキはそれを拒絶しなかった。それどころか、今日の服と髪型には何が似合うか、積極的に母と意見を交わしたくらいだ。

 しばしの検討の結果、マキの前髪には淡いクリーム色のカチューシャが留められていた。シンプルなデザインだが、今のマキのナチュラルボブっぽくまとめられたヘアスタイルにはマッチしていた。


 「それじゃあ、ママ、行ってきます」

 これまたすっかり身体に馴染んだ赤いランドセルを背負うと、マキは学校へ向かって歩き出した。

 いつもより少し早めに家を出たせいか、通学路にはまだあまり人がいない。

 ふと、マキは、少し先を歩いているのが、クラスメイト──それどころか「真樹」にとっては一番親しい友達と言ってもいい少年、森谷繁久(もりや・しげひさ)であることに気付いた。

 (どうしよう……挨拶した方がいいかな)

 マキになって以来、繁久からは明確に避けられていることは理解していた。

 それもある程度は仕方ないのだろう。担任の三葉が、今回の一件が始まるに際して、男子に「河原さんを、変にからかったり、悪戯したりしないようにね。さもないと……(ニッコリ)」と釘を刺していたからだ。

 一罰百戒……という言葉までは、マキは知らなかったが、今のマキを見て「自分も女子にさせられたら」と言う恐れが、男子の無軌道な行動を戒めていることはおぼろげに理解していた。

 (どうしてかなぁ……女の子でいるのって楽しいのに)

 ふた月程前の自分なら決して頷かないだろうことを自然に考えているマキ。


 しかし、そんなマキの目から見ても、繁久はどことなく元気がないように思えた。

 考え事でもしているのか、どう見ても前方不注意だろう。

 躊躇いを振り切って、声をかけようとした時、マキはハッと目を見張った。

 通りの向こうからクルマが来ているのにも気づかず、ボーッと惰性で歩いている繁久が横断歩道を渡りかけているのだ。

 「あぶないっ!!」

 反射的に駆け出すマキ。ほんの数歩の距離がもどかしい。

 それでも、何とか繁久のランドセルに手をかけ、思い切り引っ張ることができた。


 * * * 


 さて、ここでほんの少しだけ時間を巻き戻そう。

 桜庭小学校5年A組に所属する少年、森谷繁久はここ最近悩んでいた。

 悩み事の対象は、言うまでもなく、いちばん親しい友人であったはずの河原真樹のことだ。

 直情的でやや子供っぽい真樹に比べ、逆に繁久は年齢不相応に落ち着いており、頭もいい。精神年齢的には、実年齢よりおそらく2、3歳上に相当すると言ってよいだろう。

 しかし、そんな繁久をもってしても、今回真樹に強要された“罰”は予想外かつ戸惑わざるを得なかった。

 そして、最初の数日間こそ、ふてくされつつも不安げで、いかにも「男の子が嫌々スカートを履いている」風で周囲から浮いていた真樹が、週末になるころには少しずつ女子の輪に受け入れられていくのを驚きの目で見つめていたのだ。


 さらに、日が進むにつれ、真樹はどんどんクラスの女子の輪の中に馴染んでいく。夏休みに入る頃には、知らない人間が真樹のことを見れば「ちょっとボーイッシュで元気な女の子」だと思ったに違いない。それくらい自然に女の子たちの中に溶け込んでいた。

 また、呉羽しずると武藤千種という親しい女友達も出来たようだ。

 一番の友達を自認する身としては、どうにもおもしろくない事態だった。


 そして、夏休みに入ってからも、繁久は何度か真樹の姿を目にしていた。別にストーカーしていたわけではなく、彼は男子バスケ部員なので、同じく月曜の午前に練習のある女子バレー部を見かけることが多かっただけだ。

 女子バレー部で活動している真樹は心底楽しそうだった。何より輝いて見えた。

 しかも、部活の行き帰りの真樹──いや、マキの私服姿を目にするたびに、繁久は少なからず動揺してしまった。夏休みが始まる前以上に、マキが「女の子」していたからだ。

 実は、一度だけ市民プールで遠巻きにマキ、しずる千種の3人が水遊びしているのを見かけたことがある。まだ幼いとは言え、いずれ劣らぬ美少女が集まってはしゃいでいる様は、少なからぬ目立つ光景だった。

 美少女──そう、水着姿になってさえ、マキは他のふたりと同じく、外見も仕草も話し方も「小学校高学年の可愛い女の子」にしか見えなくなっていたのだ。

 この頃から、繁久は、胸の奥で何かもやもやするような感覚をおぼえていた。

 今日から二学期が始まる。そろそろ自分もマキを避けてばかりはいられないと思うのだが、正直どんな態度で接していいか、決めかねているというのが現状だった。


 ──と、歩きながらココまで考えたところで、いきなり背後から強く引っ張られる。

 「……へ? うわぁ!」

 バランスを崩した繁久は、引っ張った誰かを撒き込んで、歩道に倒れ込む。

 だが、すぐ目の前をクルマがけたたましくクラクションを鳴らしながら通り過ぎて行くのを見て、自分が間一髪助かったのだということが、繁久にも理解できた。

 「あ、ありがとう。助りまし……」

 恥ずかしいのを誤魔化すように素早く立ち上がり、尻もちをついている命の恩人(というのは大げさか?)を助け起こそうとした繁久だったが、自分を助けたのが誰かを知って言葉が途切れる。

 言うまでもなくそれは、先程まで想いを馳せていた河原マキにほかならなかったからだ。

 「いたたた……もぅ、ダメだよ、森谷くん。幼稚園児じゃないんだからさ。横断歩道では、クルマに気をつけないと」

 「あ、ああ。そうだよな。すまん」

 「メッ!」と指をつきつけるマキの迫力に負けて何となく謝ってしまう繁久。きまり悪げに、頭をかいたところで、繁久の目にトンデモナイモノが飛び込んできた。

 「あ~、そのぉ……河原」

 「ん? なに、森谷くん?」

 「そろそろお前も立ったほうがいいと思うんだが」

 微妙に逸らそうとしつつも逸らしきれていない繁久の視線の先を辿ると、そこには尻もちを着いたマキの、めくれ上がったスカートが……。

 本人も気づいたのか、ピョコンと立ち上がり、スカートの裾を押さえて顔を真っ赤にしている。

 「──み、見た?」

 「あー、その……ごめん」

 ここで誤魔化さずにバカ正直に答えてしまうのが、森谷少年の長所であり欠点でもあった。

 運がいいのか悪いのか、今朝のマキは、勝負下着というわけでもないが、下ろしたての新品のショーツを履いていた。薄桃色のやや履き込みの浅いデザインで、フロントにレースのフリルが三段重ねになった可愛らしい代物だ。

 「…………森谷くんのえっち」

 「なッ!? ち、ちがう!」

 不可抗力だ、と繁久が抗議するまえに、マキは恥ずかしそうに学校へと駆け出していってしまった。

 「──いっちまったか。でも……」

 網膜に強烈に焼きついた「ピンクのパンティー」と「日焼けしたスベスベの太腿」のコントラストに、思わず鼻の下が伸びる繁久。どうやら精神的にマセているぶん、早くもムッツリスケベな傾向が彼にはあるようだ。

 ニヤニヤしている自分に気づいて、慌ててキョロキョロする繁久。間違いなく挙動不審者だ。

 先程までの悩みもどこへやら。どうやら、森谷少年もマキのことを完全に「女の子」(それもちょっと──いや、かなり気になる娘)として認識するようになってしまったようだ。


 * * * 


 二学期が始まってからの河原マキは、“期限”のことなど忘れたかのように眩しい笑顔を周囲に振り撒いている。

 それだけではなく、積極的に色々な人に話しかけてクラスの雰囲気を変えようとしていた。

 自分のように女の子と仲の悪かった、バカにしてさえいた人間でも、キチンと親身になって接していたら、その良さがわかる。それはたぶん逆も同じはず。

 なのに、男子と女子で対立、あるいは互いのことをわかろうとしないのはあまりに悲しい。

 はっきり意識していたわけではないが、言葉にすればそんなところだろうか。

 皆さんも記憶にあるだろうが、小中学校のクラスの雰囲気や傾向というヤツは、同じ学校であってもかなり差がある。

 たとえばこの桜庭小学校を例にとれば、一学年上で、蒼井の同僚の天迫が担任をしている6-Bなどは、男女問わず仲が良く、また教師の言うことを素直によく聞く、“いい子”が多いクラスだ(もっとも、お人好し過ぎて、逆に社会の汚い部分に触れた時の反応が怖いが)。

 それに比べると、5-Aは“問題児”とは言わないまでも、その予備軍が何人かいて、全体にカリカリした雰囲気だった。男子と女子の仲も少々険悪だ。

 しかしながら、マキも含めた様々な要因のおかげで、5-Aは大きく変わろうとしていた。


 「ねぇ、しずちゃん、マキちゃんのコト、どうするつもりなの?」

 「そうね。先生に話す前に、あたし、まず女子のクラスメイトから署名を募ろうと思ってるわ」

 「しょめい?」

 「ええ。駅前とかでも「何々のことでご署名お願いします」って言って時々やってるでしょ。そうやって多くの人の意見をまとめて持っていけば、先生も無視できないと思うし」

 「そっかー」

 そんな会話を、呉羽しずると武藤千種が交わしたのが、9月1日の朝のこと。

 その言葉通り、しずるは5-Aの女子は元より、女子バレー部や隣りのクラスの顔見知りなどからも、「今後も河原マキを女子として通学させてほしい」という署名を集めていた。

 以前は委員長気質で杓子定規なところがあり、ややけむたがられていたしずるだが、マキや千種とのつきあい、バレー部での活動などを通じ、良い意味で融通が利くようになっていた。そのため、彼女の訴えに少なからぬ女生徒が耳を傾けてくれた。

 そして、しずる以上の成長とがんばりを見せたのが、千種だった。

 内気で目立つことが嫌いだった、異性はもとより同性ともあまり話をしなかった千種が、大切な友達のために自分ができることをやろうと決意したのだ。

 (女の子には、しずちゃんがよびかけてくれてる。だったら千種は……)

 勇気を振り絞って、男子に署名を呼び掛ける千種。

 彼女にとって幸いだったのは、男子の頭脳労働面のリーダー的存在である森谷繁久が、なぜか率先して署名してくれたことだろう。それが呼び水となって、5-Aの男子全員とは言わないまでも、少なくない人数が「河原マキ」の存在を肯定してくれたのだから。


 9月4日──いよいよ運命の放課後。

 一学期の終わりと異なり、マキの両隣りには、友達ふたりも同行していた。

 緊張しつつ、職員室で担任の蒼井三葉を探すと、彼女は「ココじゃなんだから」と、小会議室へと3人を導いた。

 「あの「先生、マキの、河原さんのことで、お願いしたいことがあります!」……」

 マキが話しかけたところで、しずるが口を挟む。

 女子から集めた署名のことを告げ、精一杯の熱意をもって、マキを女子生徒としてこのまま通学させてほしいと、しずるは直訴した。

 チラとしずるの目配せを受けて、千種も拙い言葉で男子の何人かからも同様の署名を集めたことを述べ、「大事なおともだちを取り上げないでほしい」と訴えかける。

 そして、当事者であるマキ。ここに来るまでは素直に担任の裁定に従うつもりだったが、親友ふたりの熱意に触発され、何とかこのままでいる許可を得ようと、自らの想いをストレートにブツける。

 「──なるほど。三人の気持ちと努力はよくわかったわ。でも……」

 逆接の単語で言葉を切った蒼井を見て、「ダメか」と落胆しかける三人娘たち。

 「ねぇ、河原さん、先生はあの時、「これから最低1ヵ月間、キミに女子生徒として生活してもらいます」って言ったわよね? で、一学期の終業式の日も、「少なくともあと4日はそのままでいてもらわないと」って言ったわ。覚えているかしら?」

 「……はい」

 「うん、ちゃんと覚えてたのね。感心感心。でも、逆に言うと、先生、特に上限は決めてないはずなんだけど」

 マキの目が大きく見開かれる。

 「え? え? そ、それじゃあ……」

 「うん、いいわよ。少なくとも先生が担任であるうちは、河原さんが望むなら女子として扱います。学校にもキチンと話を通しておくから」

 担任の言葉を理解すると同時に、抱き合って喜びの声を上げるマキたち。

 そこが進路や悩み事相談用に防音の効いた小会議室でなければ、三人娘の歓声は周囲から「うるさい」と怒られたことだろう。

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