台風の向こう側

ふじの

第1話

 嵐の中に真っ赤な風が飛びこんでいった。


「あ、」というゆっこの小さな声が聞こえた時にはもう遅くて、彼女の手からするりと抜けだしたそれは、これまでの遅れを取り戻すかのように勢いよく空に飛び込んで、そのまま僕らにはどうしようもないところまで行ってしまった。


 残された僕たちはぽかんと顔を見合わせたあと、ほとんど同時に笑い出した。


 台風を見に行こうと言い出したのはリョウだった。台風のおかげで午後の授業がなくなって、集団下校のために体育館に集められているときだった。


「窓から見えるじゃん」


 と、僕が言ったらリョウはニヤリと笑ってこう言った。


「上から見るんだよ」


「上から?」


「決まってんじゃん」


 リョウはそう言って、「キュースイトー」と暗号の様に声をひそめた。キュースイトー。給水塔!僕が大きくうなづいたちょうどそのとき、残念ながら同じ班のゆっこが1年生のショータの手を引いて到着してしまった。「にいちゃーん」とショータが遊園地にでも来たようにはしゃいでこちらに突進してくる。「あとでな」と囁くようにリョウが僕に言ったのを聞きつけて「ゆっこちゃーん、リョウくんとコウちゃんが台風なのにどっか行くって言ってるー」


 と、前歯2本がない顔でショータがにんまりと笑う。先生に人数の報告をしていたゆっこはショータが言ったことがよく聞こえなかったようで「え、なぁに?」と不思議そうに顔を上げた。僕らは慌ててショータを押さえつける。ゆっこにばれたら絶対とめられる。


「んなわけないだろ。台風来たら俺らなんて簡単に飛ばされちゃうんだから。怖いぞぉ」


「そうだよ、こういう時は家の中から高みの見物するのが賢いやり方だよ」


 一生懸命に見えないようにショータの興味をそらそうとしてみたけど、


「えー、ウソだー。俺聞いたもーん」


 と、にんまりと笑いながら僕らにしがみついてきた。こうなったらもう家に帰るまでふりほどけない。ゆっこが戻ってきて僕らの班に下校の許可がおりると、そのままショータを引きずるようにして歩き出した。さっさと団地まで連れて帰って、リョウとさっきの話の続きをしたい。ついつい足が速くなる。僕らのうしろから他の班員を引き連れて歩くゆっこが、もう少しゆっくり歩いて、と珍しくきつい口調で言ってくるから足を緩めようと試してみるけど、どうしても気持ちがせいて足も速くなってしまう。




 だって、給水塔に登るのは僕の昔からの夢だったから。




 僕たちはみんな同じ団地に住んでいて、小さな頃から一緒に育ってきた。僕らの団地にはなんだってある。コンビニだって、フィットネスクラブだって、幼稚園だって、そして給水塔も。僕らは小さな頃から給水塔に憧れていた。夕日を浴びて堂々と太陽を見送る姿は古代の遺跡のように立派だったし、夜になると赤みを帯びたオレンジ色の明かりを灯して空に浮かびあがるその姿は僕らの家を守っている孤独なヒーローのようにも見えた。どこか遠くへ出かけてかえってきたときに、給水塔のてっぺんが見えてくると、あぁ、うちに戻ってきたなぁといつも思う。


 低学年組を無事に送り届けおわった時にポツポツと雨が降り出した。でも、まだ「台風」ってほどじゃない。ちらりと団地の時計を見ると、まだお母さんは家にいない時間だった。家に着くと僕はためらわずに自分の鍵を取り出してドアを開ける。誰もいないリビングの灯りをつけるのは好きじゃない。暗いときよりもなんだかさらに僕しかいないことが強調される気がするから。でも、この前、暗いままにしておいたらお母さんに怒られた。「嫌がらせのつもりなの?」と言って、お母さんはしばらく口をきいてくれなかった。そんなつもりじゃなかったと説明したんだけど、お母さんだって暗い家に帰ってくるのは嫌に決まっているんだから、僕が身勝手だったんだろうなと反省した。


 でも、しらしらとした光に照らされた静まり返った空間はやっぱり僕は好きになれない。次に電球を替える時は給水塔のようなオレンジ色のものにしてもらおう。


 お母さんが帰ってきた時に家にいないと怒られるかなと少し悩んだけど、「基地」に行くことにした。リョウとの待ち合わせはここと決まっている。家を出ると、雨も風もまだたいしたことがないのに空はどんよりと重たくなっていた。


 僕らの基地は団地の2号塔の最上階に続く右階段の踊り場だ。踊り場の前後の階段には傘のバリケードを築き上げていて、バリケードを超えると小さな2人用のテントが張ってある。ここが僕らの秘密基地。


 「おせーよ」


 僕がついたらすでにリョウがいて、DSをやっていた。結構いい場面みたいで顔も上げずにゲームを続けている。


「給水塔、どうやって登るの?」と、僕が待ちきれずに聞いたらリョウはニヤリと笑ってスマフォを取り出して、「ほら」と写真を見せてきた。給水塔だ。


「なに?」


 訳がわからずたずねると、リョウがなんでわかんないんだよ、と顔をしかめて画面を指した。


「あ、破れてる!」


「だろー。この前偶然見つけたんだ。さっき見たらまだあった」


 給水塔の周囲には数メートルの高さにおよぶ金網がはられており、上にはギザギザとしたトゲのようなものまで置かれている。正直、乗り越えるのは少し厳しい。やれなくもないけど、もたもたしているうちに大人たちに見つかってしまう。でも、これなら。


「これなら、中に忍び込むのは簡単だろ。忍び込んだら、外階段の扉ぐらいは俺らだってそんな苦労せずに乗り越えられるだろうし」


「そうだね。中階段を使ってみたい気はするけど」


 夜になると給水塔の中階段からはぼんやりとした明かりがいつももれている。夕暮れのように少し懐かしい感じがするそのオレンジ色を見るのが僕は結構好きだった。


「ふーん。やっぱり給水塔かぁ」


 外から声がして僕とリョウはほとんど同時にテントの窓から勢い良く顔を出した。誰もいないはずだったのに。バリケードの一つの赤い傘がゆらりと動き、笑いをかみ殺したゆっこが現れた。


「お前、いつからいたんだよー」リョウがしまったなぁと髪の毛をかきむしりながら問い詰める。


「リョウくんがくるずーっと前から」


「じゃあ、僕らの話全部聞いちゃったんだ」


「うん。だって、2人が絶対何か企んでると思ったからわざとここに隠れてたんだもん」


 ゆっこがずるいじゃない、と怒ったような顔をして見せた。帰り道になんだか少し口調にトゲがあったのも僕らの企みに気づいていたからか。女子ってすごいな。


「私も一緒に連れてってよ」


「女はダメだ」


 リョウがあっさりと断ると、ふーん、と唇を尖らしてから、


「中階段の鍵、欲しくない?」


 そう言って、顔の前で小さな銀色の鍵を振ってみせた。黄色いタグが僕らの眼の前で揺れる。そこには確かに「3号棟前給水塔中階段」とかすれたインクで記されていた。中階段。本当に入り込めるなんて奇跡に近い。なんでゆっこがそんな凄いものをさりげなく持っているんだ。リョウと僕は深々と頭を下げて非礼をお詫びした。


「当番の箱があるじゃない?この前お母さんに頼まれてお隣の家から預かってきたんだ。ずーっと、何が入ってるのか知りたかったから調べてみたの」


 そういえばお母さんが時々面倒くさそうに大きな缶の箱を台所の何処かにしまっている。僕なんて隠し場所すら教えてもらえないのに。そう言ったら、リョウも同じく「俺も」とつぶやいた。


「私って家での信頼が絶大なの」


 そう言って微笑んだゆっこはなんだか少し年上の女の子みたいに見えた。




「夜のお出かけってなんだかすごくワクワクするよね」


 リョウとは一旦わかれて3号棟に帰る途中、ゆっこは風に目を細めながらもなんだか少し楽しそうだった。来た時よりも風が強まっていて、誰かが置き忘れたプラスチックの小さなバケツがコロコロと僕らの足元を転がっていった。 


「絶対、とめると思った」


 ゆっこはいつもだったら僕やリョウがバカなことをしようとすると「やめなよ」と心配そうな顔をしてとめてくる。今回も絶対そうだと思っていた。


「うーん」とゆっこは返事なのか返事じゃないのかよく分からない感じで小首をかしげながらつぶやいた後、「だって給水塔だもん」とにっこりと微笑んだ。ゆっこにとってもやっぱり給水塔が特別だっていうのはすごく嬉しくて、なんだか心の中がむずむずした。


 こうして2人で歩くのは久しぶりだった。僕が小さい頃はゆっこの家にお母さんと一緒によく行った。いつの間にか僕が1人で訪れるようになって、最近はその頻度も減っていた。ゆっこの家からは給水塔がよく見えて、小さい頃は2人で夕日が給水塔のうしろに沈んでいくのをベランダからよく眺めていた。 


 歩きながら給水塔のてっぺんが見えてきたとき、ゆっこが会話の続きのように尋ねてきた。


「コウ君、今日はお母さんだいじょうぶ?」


 ゆっこはずっと給水塔のてっぺんに顔を向けていたからどんな表情をしているのかはわからなかった。だから僕の表情もゆっこにわからなかったはずだ。


「うん!」


 僕は必要以上に明るい声を出してしまった。ゆっこは、「そっか」と笑ってふりむいて、あとは学校の先生のくだらない噂話をして歩いた。それぞれの階段の前でわかれるとき、ゆっこはすごく自然なふりをして


「そうそう、お母さんがコウ君に会いたがってるの。いつでもいいから今度夕ご飯食べに来なさいって」


「わかった、ありがとう」


 僕がそういうとゆっこは顔の横で小さく手をふって笑いながら階段を登っていった。ゆっくりと僕も歩き出しながら、なんだか体の奥のよくわからない場所が苦しいような気がした。きっと、今誰かに声をかけられたら僕は泣いてしまうだろう。


 家の玄関の前で僕はほんの少しだけためらってからドアを押した。鍵がかかっていた。自分の鍵を取り出して何かを祈るような気持ちでそっとドアをひらく。お母さんの靴があった。リビングは白っぽい冷たい明かりがついたままでしんと静まり返っていて、お母さんの部屋はきっちりと扉が閉まっていた。冷蔵庫を開けてみたけれど、ご飯になりそうなものは何もなかった。外は風が強まってぼんやりとした薄暗さがさらに増していた。テレビをつけた。台風情報をどこの番組でもやっていて、明かりの灯ったマンションを背景にしたアナウンサーが「今日は、皆さん早く帰路についているようです」と言っていた。どの家の窓からもあったかそうなオレンジ色の明かりがあふれていた。


 白い蛍光灯の明かりが嫌で目を閉じてソファーに寝っ転がっていたらいつの間にか本当に寝てしまった。


 そして夢を見た。お母さんが僕のずっと遠くを歩いていて、どれだけ声をかけてもふりむいてくれなかった。お父さんが出て行った朝、一緒に頑張ろうって言って笑っていたのに。


 目が覚めたら外は真っ暗でくぐもった風の音がごうごうと窓の向こうから聞こえてきた。「お母さん」と小声でよんでみたけど、返事はなくてリビングは冷めた白いあかりのままだった。眠たい頭の向こうで、2ヶ月前にお父さんが「なぁ、コウ」って、団地の前で僕が車から降りるときに話しかけてきた時のことがよみがえった。そう呼びかけてきたお父さんの声はすごく暖かくて優しくて、だからこそ僕はそれ以上お父さんと話をしていちゃいけないと思った。


「なぁ、コウ。お父さんと一緒に」


 再生されかけた頭の中の映像をあわててシャットダウンする。どこだかよくわからない体の奥がまたぎゅっと苦しくなる。体の中に勝手に住みついた何かが僕を押しつぶすようにだんだんとふくらんでいるみたいだ。


 夜の11時になる少し前に家を出た。悩んだけど、やっぱりリビングの明かりは点けておくことにした。台風の夜に家が真っ暗だったらお母さんが寂しくなるかもしれない。


 ドアを開けたらもわっとした空気と爆音が一気に押し寄せてきて慌ててドアを一度閉めてしまった。大きく深呼吸をして、一気に外に飛び出した。一瞬呼吸ができないくらいの雨が僕の顔に吹きつけてきて海の中にいるような気分だった。着ていた服はあっという間にぐちょぐちょになり、傘は何の意味もないものになった。真っ暗で誰もいないのは怖くもあったけど、どこへでも僕自身が広がっていける気がして、自由ってこんな感じなのかなって思った。踊るように泳ぐように僕が給水塔にたどり着くと、たたんだ赤い傘を手にしてカッパを着たゆっこが1人で待っていた。ゆっこはどれくらい前からここに立っていたんだろう。白い顔に濡れた髪がはりついて、唇も少し青ざめている。


「あれ?リョウは?」


 ゆっこがわからないと言って小さく首をふる。すでに約束の時間は過ぎているはずだ。


「えーと。つまり来れないってことかな」


「そうだよねえ」


 しばらく黙って僕の方を見てから、ゆっこはポケットから給水塔の鍵を取り出してにこりと笑った。僕も笑ってうなずいた。


「出発だね」


 不思議とリョウを置いていくことの罪悪感はなかった。


 金網を抜けて中階段の前に来ると、僕は鍵をゆっこから受け取って扉を開けた。扉がゆっくりと開いてオレンジの明かりで照らされた螺旋階段が目の前に現れた。ずっと夢みた世界へ続く道だ。真っ暗な夜の中にあふれ出たその明かりは特別な場所へ続く秘密の入り口のようで、僕とゆっこはもう一度黙ってお互いうなずきあってから階段を登りはじめた。塔の中で僕とゆっこの足音が響きあい、どこまでも一緒になって僕らの周りを踊りながら塔のてっぺんの先へ先へと登っていく。団地の4階と同じくらいの高さだからそんなに長い道のりではないはずなのにぐるぐると続く階段は永遠みたいに感じて、ふと、時間もらせん状になって流れているんだ、とどこかで聞いた話を思い出した。だとしたら、この螺旋階段はワープロードなんじゃないかな。きっと、過去か未来に繋がっているんだ。僕がたどり着きたいのは一体どこなんだろう。未来はすごく広すぎてどこを目指してたどり着いたらいいのか分からないし、過去は過去でたくさんの時間が積み重なっていてどこを選べばいいのか分からない。ただ、どの場面にも夕日を浴びて輝く給水塔の姿が必ず頭の中に浮かんできた。ものすごく小さい頃から僕の記憶の中心には給水塔が立っていて、それは中学生になっても、高校生になっても、大人になっても一生変わらないのかもしれない。


 最上階にまっすぐとのびた階段の先に扉は現れた。開けようとしたけど向こう側から押さえつけるような風圧に僕1人では負けてしまった。ゆっこが、僕を支えるように手を伸ばし、せーので、息を合わせて2人で一緒に押しあけた。


 目の前に、台風の向こう側の世界があらわれた。


 朝が来たのかと思うくらいきらびやかな明るい空が僕らを迎えてくれた。あんなに降っていた雨がやんで雲が晴れて、大きな月に照らされた群青色の空とたくさんの星が広がっていた。


「きれい」


 ゆっこが呟いた。その声を聞いて、僕が本当に欲しいものがわかった。 


 小さい頃、ゆっこの家のベランダから給水塔を眺めたときはいつだって僕のうしろにはお母さんがいた。オレンジ色の光の中にすくっと立つ給水塔を眺めている僕らの後ろで、きれいねぇ、と笑っていた。夕暮れの中に佇む給水塔を見ている時は僕はいつだって幸せだったんだ。高いベランダなんて少しも怖くなかった。うしろを振り向くといつだってお母さんが優しく僕を見てくれていたから。


 僕は思ったんだ。ここに僕が立つことができたらお母さんはもう一度僕のことを見てくれるんじゃないかって。それに僕がここでお母さんを見てるよって教えてあげたかったんだ。


 いつの間にか嵐が去って嘘みたいに銀色に光る月が僕らの住む団地を照らしていて、ずっしりと雨に濡れたせいで月明かりと給水塔のオレンジ色の明かりをはねかえしてどの家も柔らかに輝いていた。髪から滴る水が僕の顔を濡らしていくせいか目がかすむ。僕の頬を流れていく水は妙にあたたかかった。ゆっこは黙って隣にいてくれて、しばらくして「雨だね」と言って赤い傘を僕にさしかけてくれた。雨なんて降っていないよ、と言おうとしたとき、台風のさいごの風がビュンと戻ってきた。


 そしてゆっこの傘はふわっと浮き上がったと思ったらそのまま風のように僕らにはどうしようもないところまで飛んで行って姿を消した。


 あっという間に消えていったゆっこの赤い傘をみおくったあと僕らは本当に思いっきり笑った。こんな広い空の下だったら傘だって自由に踊りたくなるに決まってる。笑っているうちに僕の中のどんよりとした塊がどんどん小さくなっていくのがわかった。


 ゆっこと別れて家に帰ると僕は大きな声でお母さんに、おやすみなさい、といってから自分の部屋にはいった。お母さんに届いているかはわからない。けど、あの赤い傘みたいに僕も踏み出してみたいと思ったから。自分で自分をこっそり消してしまったらあとには何にも残らない。


 翌朝、僕が家を出るときにお母さんの部屋から音がした。生まれたての風みたいな小さな声だったけど、「おはよう」って僕にはしっかりと届いた。僕も大きな声で返事をして家を出た。眩しくて大きな世界が広がっていた。いつもの待ち合わせ場所でリョウは待っていて、昨日家を出る直前にお父さんに見つかってしまったと言って悔しそうだった。僕はどこから話してあげようかと少し悩んで、団地の脇の公園を通りかかったところでリョウに教えてあげた。


「台風の向こう側を見たんだよ」


 雨で濡れてつややかに輝く芝生の上に、赤い傘がころんと転がっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

台風の向こう側 ふじの @saikei17253

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ