第二話

 浩一こうさん――こと現『大太郎亭火男だいたろうていかなん』の浦戸浩一は、先々代『大太郎亭天目』に拾われた孤児だった。


 カゲナシはいとも簡単に人の営みを破壊する。

 高木くんの友人たちのように、子供がカゲナシに襲われて入れ替わることもあれば、その逆のこともまま起こりうる。


 浩一さんのご両親は、カゲナシによりその命を奪われ、その社会的な身分と地位を奪われた。そして、幼い浩一さんを、窮した時の食糧、あるいは、撒き餌として、何食わぬ顔をして養育されていたのだという。


 その時のことを、浩一こうさんはあまりよく覚えていないと、今になっては言っている。


 ただ、先々代『大太郎亭天目』に引き連れられて、天崎家の本家にはじめてやって来た彼を、私は、当時怖いと感じたのを覚えている。

 その怖さは、私や姉さんたちと暮らしているうちに徐々に薄らいでいき、今やもうすっかりと、その愛嬌の中に消えてしまったけれど。


 とにかく、何が言いたいかと言えば。

 浩一こうさんは、私にとって、実の兄のような立場にあたる人間だということだ。


 そんな彼が今、人生の岐路――その一生を底辺で終えるか、それとも、人並みくらいにはまっとうに生きられるか――という、危うい立場に立たされている。

 気が気でないというのは、真実掛け値のない言葉であった。


 なのに……。


浩一こうさんの姿が見えないんだけれど」


「また門限破りっすかね。これで四日連続っすよ。浦戸さん、本当に再テストをパスする気あるんすかね?」


「けど再テストも駄目だったら、最悪留年よくて浪人にリーチしちゃうんでしょ? 流石に火男かなん師匠も、それで危機感覚えない訳ないと思うなぁ。というか、そこまで馬鹿だと思いたくない、うちの師匠が」


「いや、アイツは正真正銘の馬鹿だぞ」


「……すまない。俺が一緒に居ながら、つい、目を離した隙に逃げられた」


 寮のエントランスに集まって、浩一こうさんの不在を嘆く私たち。


 六月一日。

 本州が梅雨入りして、じめじめとした空気が少し鬱陶しい頃。

 再テスト――六月八日を目前に控えながら、どうして、浩一こうさんは、まるでテストから逃げるようにして、再三にわたる無断外出を繰り返していた。


 思わず、瀬奈姉ではないけれど、眉間に筋が入りそうな気分になる。

 実際に表情に現れていたのだろうか、文学部の面々が、少し、私のその表情に驚いたような感じでざわついた。


 いけない。

 怒ったところで何も始まらない。

 それは間違いないことなのだ。


 けれども、せっかく皆が、自分のために色々と世話を焼いてくれているというのに、当の本人が逃げ回るなんていうのはどうなのだろう。


浩一こうさんってば!!」


 思わず、スカートの中をまさぐって、スマートフォンを取り出す。すぐに、浩一こうさんの電話番号を、着信履歴の中から探し出してコールをかける。

 しかし――返って来るのは、電波が届かない旨のアナウンスのみ。


 畿内モードにして電波を受け取れなくしているのか。

 それとも、電池を切っているのかは知らない。


 けれども彼が、確信犯的にそれをやっているということは、ここ数日、同じことを繰り返されている身としては、よく分かった。


 ふつふつと、湧き上がってくる怒り。

 本当にもう、どうして浩一こうさんは、いつもいつも。

 周りにかける迷惑というのを考えて欲しい。


 せっかく、『天眼の衛士』としては類まれなる才能を持っているというのに。これでは、由緒正しき、『大太郎亭火男だいたろうていかなん』の名が泣くというもの。


「……あの、お姉さま?」


「なんですか、香奈ちゃん」


「もう、火男かなん師匠のことは諦めませんか? 私たちがいくら頑張って見たところで、本人に、その気がないんじゃ、焼け石に水って言うか……」


「そうっすよ。せっかくこっちが、面倒見ようって頑張ってるのに、逃げ回るとか。正直、人としてどうかと思います。放っておきましょうよ」


「同感だ」


 後輩たちが全員、浩一こうさんを見捨てろ、と、非難をする。それはもう、ある意味で仕方のないことだったかもしれない。

 普通、こんなことをされて、頭に来ない人間などいないだろう。


 実際、私だって相当に頭に来ているのだ。

 なんなのだ、まったく。そんなに再テストが嫌なのだろうか。

 ほとんどの教科で赤点を取って、丸一日休日がつぶれると嘆いていたが、それは勉強しなった自業自得ではないのか。


 後輩メンバーの怒りも、私自身の怒りも、決しておかしなことではないように思えた。


 だが――。


「……いや、浩一も、アイツなりに危機感は覚えているんだ。授業も、以前に比べれば真面目に受けるようになった」


 ただ一人、浩一こうさんの友人であり、クラスメイトでもある馬崎さんだけは、寮生全体に広がる諦めムードに対して、反論してみせた。


 唯一無二の親友であり、カゲナシとの戦闘の際には、肩を並べて前線を担うことの多い、背中を預けることのできる戦友でもある馬崎さん。

 フォローに多分の私情が混ざっているのは間違いなさそうだ。


 更に、馬崎さんは続ける。


「……休み時間も勉強はしている。ただ、放課後の数時間だけ、何故か、行方をくらますんだ。すまない、一緒に居る俺が、もっとしっかり見ていればよかった」


「いや、馬崎先輩のせいじゃないっすよ」


「そうそう、英二ちゃん先輩ってば、責任感強すぎ。これ、どう考えても、火男かなん師匠が十割悪いだけの話ですからね」


 すまない、と、浩一こうさんに代わって謝る馬崎さんに、一年生二人がフォローする。

 この寮に越してきてから、毎晩、彼の手料理に舌鼓を打っていることもあってか、二人は馬崎さんに対して、すこぶる好意的だ。

 もちろん、私も馬崎さんが謝ることではないと思った。


 ただ、、ということについては、確かに私の知らない話だった。

 そういえば、と、まるでその話に触発されたかのように、氷室くんが口を開く。


「自室でも、一時間くらいは勉強しているな。それ以上は持たなくて、机の上で寝こけてはいるけれど」


「そうなの? 氷室くん?」


「同室だからな、嫌でも目に付く。申し訳程度の行動だと思っていたんだが……」


 何か、放課後、外に出なくてはいけない事情を抱えているのだろうか。

 カゲナシ絡みとか。


 いや、それならばまず真っ先に、私たちに相談してくるはずだろう。

 私たちは、協力してカゲナシを退治する、若き『天眼の衛士』の一団なのだから。

 その情報を共有しないという発想は出てこない。


 となると、極めてプライベートな事情だろうか。


 なんだろう、と、つい、頭を傾げてしまう。


 プライベートも何も、浩一こうさんには、『天眼の衛士』として――『大太郎亭火男だいたろうていかなん』としての役割りしかないはずだ。天涯孤独の身の上で、私の家、天崎家に居候していたのである、それは間違いのない話である。


 友人関係も――あの性格だから、充実しているとは決していい難い。

 私たち、一緒に生活していた天崎の家の人間はさておき、友人と言っていいほどの関わりがある相手は、馬崎さんくらいだろう。


 その時だ。

 はっ、と、何かに気が付いたような顔を、香奈ちゃんがした。

 口元を開いた掌で隠した彼女は、ぐるり、と、周囲を見渡して、ちょいなちょいなと自分の方に集まるようなそぶりを見せた。


 それにつられて、私たちが顔を寄せ合う。


「私、分かっちゃったかもです」


「なんなの香奈ちゃん」


「……ずばり、彼女ができた、ってことはないですかね!!」


 彼女。


 あの埒外アウトロー、外見の時点で女子が泣いて裸足で逃げ出すあり得ないっぷりの浩一こうさんに、彼女ができた。

 なるほど、もし本当にそんな事態になっているのなら、帰寮時刻をぶっちして、彼女といちゃついているという、面白い仮説が成り立つことになる。


 けれど……。


「ないな」


「ないない」


「……それはないだろう」


「あり得ないよ、香奈ちゃん」


「デスヨネー!!」


 すかさず、その可能性を、私たち他の寮生は全力で否定したのだった。


 あの浩一こうさんに彼女だなんて。

 そんな物好きが居たら、地球がひっくり返って、南半球と北半球が入れ替わってる。

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