誕生日


 あるところに、ゆきんこという少女がいた。肩口まで伸びた黒髪を内側に巻き、ブラウスとプリーツスカート、カーディガンを好む、それはそれはませた少女が。彼女の口調も拙いながらに大人の真似をしていて、胸のふくらみもない華奢なだけの少女はしかし女性的で、老若男女問わず、誰もが彼女に魅了された。

 彼女は誰からも愛されていたのだ。明るく前向きで一生懸命。そして、優しい。仲の悪い人もなく、クラスで嫌われているあの子も、クラスを嫌っているあの子も、ゆきんことだけは仲良しだった。

 どうしてただの女子高生の(しかも取り上げて書くほどのとりえもない)私が、こんなにもゆきんこのことを知っているのか。答えは簡単だ。私は彼女と、いつの頃からか夢の中で会っていたから。

 その夢は真っ暗な世界から始まる。ぬるま湯に浸かったような温度が肌に触れ、私は心地よく目覚める。しかし視界に映るものはなく、腕や足、顔についているはずの重い髪すら見えない。人間が得る情報のほとんどは視覚からなわけで、私という存在が見えないここでは、私が私であるかも怪しい。腕は何メートルも伸びているような気がするし、足は股関節から離れて好き勝手遊んでいるような気もする。私が私でない感覚。悪くない。

そこでは地面という感覚がなかった。前に温度をぬるま湯と表現したが、この世界は水中なのかもしれない。息ができる水。たしか本で読んだ水死未遂した主人公が「水はひどく落ち着く」なんて言っていた。子宮にいるとき、私たちは羊水の中で眠っていたのだから、水に安心感を覚えるのは、さしておかしなことでもないだろう。

 私はこの夢が好きだった。現実にある何もかもが存在しない世界。対人関係も。明日やらなくちゃいけない課題も。今度のテスト勉強。バイト。笑顔。そのすべてがここには存在しない。それはきっと、とてつもなく幸福なことだ。ゆらゆら夢に揺れていると、後ろから声がする。ボーイソプラノの、狙いを定めたかのようにまっすぐな声。その声は私を呼んだ。声とはすごいもので、水中でバラバラになっていた私は名前を呼ばれただけで私に戻った。

「雪奈ぁ」

 せつなぁ。舌足らずに呼ばれる。ゆきんこは弾むように私のもとへ駆け寄ってくる。不思議なことに、この暗闇の中で唯一見えるものがゆきんこだった。私はゆきんこを見、声。それがきちんと音として機能していたかと問われれば曖昧だったが、ゆきんことの会話は毎回成立していたから、ゆきんこには聞こえていたのだろう。

そうでなくとも、ゆきんこは私の言葉がわかる。

 理解できる。

「ゆきんこ」

「今日もきれいな夜だね」

 ゆきんこはこの闇をたびたび「夜」だと表現した。屈託のない笑顔を浮かべて、無重力空間でしっかりと立って歩く。私は彼女と出逢うと、見えない糸でリードをつながれた犬のように、彼女の背中をついて歩いた。

「そうだね」

 私が答えると、ゆきんこは唐突に足を止めて「ああ!」と硬直する。ピン、と両腕両足を伸ばし、大口を開ける姿は年相応で、そしてマンガ的で滑稽な姿だった。いきなりの大音量に心臓が暴れ出しそうになるのを抑えながら、どうしたの、と問えば、彼女は私を振り返り、大きな口を地にのたうち回る魚にした。

「ゆきんこたち、もうすぐ誕生日!」

 思わず、返事に困った。誕生日。忘れたはずの記憶が、どんどん蓋を開いて目を覚ます。

 ――なにかほしいものある?

 真っ黒な母の顔。当時の私は首を振った。

『気にしなくていいよ』

「あら」母は儀礼的に片手で唇を隠すと、口の部分だけの黒を消してニンマリ笑う。


「おかあさん、とてもいい娘をもったわ」


「雪奈は、お誕生日をどうやって過ごすの?」

 はっと我に返ると、ゆきんこが私の眼下で瞳を輝かせている。答えに詰まり、得意のいいわけも作り話もうまく思いつかず、私はゆきんこから目を逸らした。

「友達と、遊ぶんじゃないかな、……多分」

 でまかせに、ゆきんこはそれでも「へえー!」と頷く。

「たのしみ?」

「それは、まあ」

「いいなぁ。でもね、ゆきんこもお誕生日がたのしみなのよ」

 人差し指を立てる。

「まずゆきんこはね、家族とお誕生日を過ごすの。おうちでケーキ食べて、それでハッピバースデーの歌を歌うの」

 私は今年で十六回目。思い出せる限りの誕生日を思い出してみた。彼女はまだ両手にも満たない年齢だったから、そのころはまだ豪華な誕生日パーティーを家族で行っていた。ケーキにさされたろうそく。いつもよりすこしだけ派手なごはん。そしていつ買ったのか知らない、いつの間にか私のために準備されたプレゼント――。

 いつから家族は、私におめでとうすら、言ってくれなくなったのだろう。

「今年も?」

 野暮だと思いながら問えば、ゆきんこは「もちろん!」

 私は愛されているゆきんこが羨ましかった。そしてどこかで、満面の笑みを浮かべる彼女を哀れに思っていた。私はゆきんこが大好きだ。こんな、人を潰してのし上がることしか考えられない世界でも、ゆきんこがいれば、それだけでもうよかった。救いだった。こんなに笑顔が可愛くて、口からこぼれる言葉は優しく柔らかで、この世界の人間すべてが彼女になれば、世界はきっと絵に描いたような優しい世界になるはずだ。そんなことは無理だとわかっていながら、それでも夢想する私がいた。

「ねえ、雪奈」

 ゆきんこが首を傾げた。

「――泣かないで」


 母を恨んでいた。

 親との仲が良好な子どもというのも今や珍しいものだが、私と母は水面下で憎しみ合うような、そんな親子関係だった。何かにつけて互いを疑い、何かにつけて互いを鼻で笑い合った。彼女の顔の黒さは昔とは一転、それを認めてしまえばいつの間にか、年齢のわりには綺麗で若々しい顔があった。

 あのボールペンでいたずらされたような黒いモザイクは、中学に入学してからは一切に目にかかることはなくなった。人の名前も呼べて聞こえるようになっていた。しかしひとつ問題があって、それは私が呼ぶべき名前がないということだった。

 ぐしゃぐしゃ顔の子との例の一件以来、私には友達という存在がなくなっていた。そのころから母のよそよそしい態度も始まった。どこへいっても、どこかで浮いてしまう。そうやっていろいろな人のところを行き交って、ふと気づいた。私には私の居場所がないこと。そのグループのなか、私は不毛な雑草でしかないのだと。

 それを理解してしまった時点で、私はもはや、どこにもいられなかった。

 ゆきんこは可哀想。最近、耳元で誰かが囁く。いつも妄想癖だ。考えても考えても、しかしそれはどこまでも私だった。声はリアルで生々しく、私が両手で必死に隠している事実を明るみに出そうと責め立ててくる。

「ゆきんこが可哀想。お前みたいなヤツが未来なんて」

 そう、ゆきんこは、可哀想な少女だった。

 だから、そんなゆきんこが哀れで仕方がなくて、そしてそんなゆきんこを救えてやれるのは私だけだった。ずっとゆきんこと一緒にいよう。私は思った。ゆきんこが、ゆきんこの未来である私が、ゆきんことずっと一緒にいることができたなら、ゆきんこが私みたいな孤独を抱えて哀しくなることは絶対にないのだ。私、私は、私がどうしてこんな人間になってしまったのか知っている。それは、誰も私のことを理解してくれなかったからだ。誰も私の苦しみに気付いてくれなかったからだ。

 私は世界で唯一、ゆきんこの理解者だった。

 この世界で、私は私だけが居場所だった。




 はてしなく大きな間違いに気付いたとき。

 無垢な少女は、人の汚さを知ってしまった。

 それを教えたのは、私自身。

 私はわたしを裏切った。




 その日、夢の中で私はゆきんこを待った。私を呼ぶ声がして、嬉々として振り返った。そしてどうして、私は声で察することができなかったのだろう。後悔。ゆきんこは目からぼろぼろ水を滴らせ、私に抱きついた。ゆきんこが触れた部分から自分が浮かび上がる。ゆきんこが私に縋り付いてくれたことが不謹慎にも嬉しくて、いつもの倍は優しく、穏やかさを心掛けて問う。

「どうしたの?」

 慈愛に満ちる母はこういう声を出すのだろうか。思いながら、そして私はゆきんこが泣く理由を思い出すことはできなかった。彼女はぐずぐず鼻を鳴らしながら、呂律の回らない口を必死に動かしていた。

 簡潔にすると、いつも仲良くしていた友達に「ゆきんこが恥ずかしい」と言われてしまったようだった。自分のことを「ゆきんこ」と呼ぶ彼女が、ぶりっ子みたいで一緒にいて恥ずかしいのだと。ゆきんこは男の子に好きになってほしくてぶりっ子してる。うち、しってるんだから。

「そういうことを言う子は、友達じゃなくていいんだよ」

 私が言うと、ゆきんこは両手で顔を覆ったまま頭を振る。どうして。頑なに顔を上げようとしない彼女は、答えた。舌足らずで、呂律が回らないまま、それでも射抜くようなまっすぐさを持って、答えた。

「だってゆ、わたしは、Aちゃんと友達がいいもん」

「でも傷つけられたのはゆきんこだよ」

「いいの」

「よくないよ」

 ゆきんこは、そして手を下ろした。肩で歪な呼吸をくりかえしながら、流れる涙を忘れようと堪えていた。

「だって、」

 続く。言葉。

「だって、いやだって思ったって、傷ついたって、笑ってれば、しあわせだもの」

 背筋にムカデの姿した冷や汗が伝う。私は笑えなかった。

「笑ってればたのしいもん。だからゆきんこ、もうゆきんこなんて、自分で言わない」

 口内が乾く。喉の壁が壁とくっつく。指先から温度がなくなっていく。唇のささくれ。私は、ゆきんことは関係なしに、私がその場でしっかりと立っていることを自覚した。私が、そこにはいた。私の存在は、そこにあった。

「それでも、つらいじゃん。そんなん」

「雪奈」

 ゆきんこが私から離れ、私の後ろを指差した。まっすぐ、潤んだ瞳のまま笑顔で。ゆきんこは可哀想。呪いのような言葉が、私から離れない。

「お月さまとお星さまが、きれいだね」

「……ゆきんこ?」

 一度、振り返る。

「何も、ないよ」

 そこには暗闇が広がるばかり。

「雪奈には、見えないの?」

「だって、何も」

「だいじょうぶ」

 ゆきんこは、笑っていたのだ。哀しくても、傷ついても。

 笑って、

「雪奈にも見えるよ」


 ここは夜の世界だとゆきんこは言うが、私にはそうでなかった。

 ゆきんこは目に見えて変わってしまった。絵本に住む、おとぎ話に仮装したあの子は、現実的で普通の子どもになった。そしてなにより、彼女が私を必要としてくれなくなった。理由は知らない。私たちの誕生日が迫る中、私はゆきんこに対する不信感を募らせていた。これは本当にゆきんこだろうか。しかしそれはたしかにゆきんこ以外の何物でもなかった。

 私は、ゆきんこのことを嫌いになってしまったのだろうか。


 そんなある日の夢。

 

 ゆきんこは変わらず私の前を歩いた。最初からゴール地点なんてないこの夢の中で、私たちはもうたくさん歩いたというのに、終わることなく歩み続けた。私は足の裏がきちんと地面を踏みしめる感覚を噛みしめるように、地面に群がる蟻を丁寧に潰し殺していくかのように、歩いた。

 夢に疲れ始めていた。ここは夜の世界で、月が光っていてきれいだねと、わざとらしく笑うゆきんこと、真っ暗闇でゆきんこの姿しか見ることしかできない私。私はゆきんこが見ているものを見たかった。でも見えなかった。ゆきんこも、それをわかってたはずなんだ。

 なのにゆきんこは、夜の光の話ばかりする。

 私にこう言う。

 雪奈には、見えないの?

「もうやめよう」

 言葉は暗闇に溶け込む。感じて、どうしてだろう。どうして人は、人に期待してしまうのだろう。どうして勝手に失望して、どうして勝手に好きになったり、嫌いになったり。それはエゴだ。好きとか嫌いとか、人に対して望むなにもかもはすべて、エゴでしかないのだ。あの日私が人の名前を呼べなくなったのは、人の顔が見えなくなったのは、なんてことはない、人に期待しすぎていたからなんだ。だから期待するのをやめた。やめたら楽になった。楽になったかわり、私に残されたのはひとりぼっちだった。そうだ。私は人に期待しなくなったんだ。なのに、自分自身にだけ期待するなんて!

「でも雪奈、」

 暗闇に死んでいた私の身体。動く手足。重い髪の毛。自分の姿がしっかりと映る。

「でも雪奈、本当に、ほんとうに、月はあるんだよ。星はあるんだよ。きらきらしてて、すごいきれいなんだよ」

 無言の私に、ゆきんこは笑顔のまま焦りを露わにした。可憐な声を犠牲に、悲鳴を上げながら私に縋る。それが私の気に障るとも理解できずに。それが私という人間の醜悪さを引き出すきっかけになるとも、理解できずに。

「あともうすこしで、月につくの。ねえ、雪奈。どうして止まっちゃうの。ほんとうだよ。ほんとうなの、せつなぁ」

 でも、ゆきんこは、やめてくれなかった。


 信じてくれないの、雪奈。


 プツリと何かが切れる音がした。堪忍袋の緒が切れる。そんな慣用句が浮かんだが、そんな堪忍袋だなんて。笑ってしまうくらいにそれは激情だった。理性が真っ赤に染まり、私の中身は空虚だけが広がっていた。今。今。いま。私は何をしているのだろう。無のまま、しかし私は許されることだけは、わかっていた。

 きたないから。

 ゆきんこの細い首に爪を立てる。力任せにその非力でちいさな身体を押し倒す。全体重をかけてゆきんこの肉を絞めた。黒い、くろい、海。広がる。広がって、私たちを溺れさせる。息をしない魚。ゆきんこ、それでも笑ってたね。乾いた唇から心臓のゲロを吐くように、私、喚いた。

「わたしには みえない」

 そう、私には見えない。月の光も星の光も。友達も家族も誕生日パーティーも。何一つだって見えちゃいない。だから、やめろよ。私が欲しいもの全部持ってて、それを振りかざすのやめろよ。だって、私には、なにもない。ないものを押し付けるなよ。きっと見えるなんて言うのをやめろよ。私にはそんなもの、もうずっと前からない!

 ……ゆきんこが苦しみに顔を歪めることはなかった。ただ呆然と私の爪を、手のひらを、冷たい温度を受け入れる。薄ら笑いを浮かべながら、まるで、わたしはだいじょうぶと、言うように。妄想になおイラついた。この子どもを、綺麗なものを信じてやまない子どもを、もっとも残酷な方法を壊してやりたいと、思った。

「期待なんかするなよ」

 目の前の女が誰かもわからずに。

「どうせ誰も、私のことなんか見ちゃいないんだ。ねえ、教えてあげるよ。この世界は、あんたが思うほど、綺麗になんかできてないって。あんたの誕生日なんて、誰も祝ってくれないよ。なんでかわかるでしょう?」

 夢の温度が下がっていく。さむいさむい、孤独の海へ沈んでいく。身体が氷に埋もれていく。ぎりぎりぎり。ゆきんこの首が震え、そして一瞬、バツん! 騒いで、首が折れた。真横に垂れたそれから手を離し、立ち上がる。膝が笑っている。私を笑っている。

「誰もあんたのことを、好きにならないから」

 ゆきんこだったものは、まばたき一度で姿を変えた。見慣れた制服。死んだ目でどこか遠くを見つめる姿は、寸分狂わず、私だった。

 私は、裏切った。

 こみ上げてくる笑いで、たしかにこれは、たのしいと思った。

 でも次には、笑っていなかった。






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