拝啓、


 突然だが、私はこの世で最も非現実に愛された人間だと思う。非現実は非現実に興味関心が一切ない人間を愛するものだから、私のように冷めた心を持った人間はお口に合ったのだ。私とて非現実を拒む理由などなかったから、ただ淡々と日常の一部として送られる非現実のVTRに映り込む。だからだろうか。人生においての興味関心・意欲の態度を見せない私はとことん現実に嫌われた。まるで「早く死ね」と毎日耳元で嘲笑と共に囁かれている気がする私の心労はといえば、一日ぐっすり眠った程度では拭うこともできない。

 なんて思ったのはつい最近のこと。非現実が私のとなりでくだらないことに一々ケラケラと笑うようになってからだ。

 その非現実の名前は幽霊という。彼曰く、地縛霊。数年前に駅のホームから飛び降りた青年が、いまだ学校生活という未練を抱えていたら、気づいた時には学校から動けなくなってしまったらしい。

 楽しい学校生活を夢見ていた。実際は楽しくもなんとも、むしろ思い入れさえ残らない学校生活だったという。クソ校。もっと言おうか? 生徒も教師もクソ。彼はケラケラと人差し指を立てながら歌った。

 いつの頃からか、私は彼に親近感を抱くようになっていた。人間は誰だって自分と似た境遇にある者に関心を寄せるものだ。何故って、話が簡単に伝わるし、暗黙の了解も共通するから。シンプルにいうなれば、楽なのだ。まるで虫のように意思がわからない人を相手にするよりかは、断然。

 彼はよく、私を冷たい人間だと揶揄した(そのときもケラケラ笑っていた)。常に客観的な視点。誰も否定しない代わり、誰も認めようとしていない。冬の川のようだね、凍えるほど冷たくて、そして流れを塞き止めることは人間の力じゃ到底無理な、と。言われてみればその通りかもしれない。言えば、そういうところがね、とまたケラケラ笑った。

 とにかく、私は現実に失望していたのだ。冷たい人間になってしまうくらいには。だから私は妄想を愛した。そう、私が非現実に愛されていたのではない。

 私が妄想を愛していたに過ぎないのだ。


 屋上が天国への入口だと思っていた。本の中にある学校ではまさに自殺スポットだったから。しかし現実はそんなことなく、南京錠が掛けられて出入りすることはおろか、屋上より一階下の窓をすべて見下ろしても人目に付くところばかりで簡単に投身できる場所などなかった。学校は自殺スポットではない。そんな簡単で実は難しいことを理解した私は、それでも屋上へ侵入する憧れを諦めることはできなかった。

 動画サイトでピッキング動画を漁り、屋上に繋がる南京錠と扉の鍵穴をピッキングする方法がわかると部活動の声が響く放課後に試した。

 蛇足だが、結果は惨敗。そもそも小心者の私がゆっくりと屋上の鍵穴二つに向き合うことなどできるはずもなく、五分足らずで諦めた。せっかく作ったチャチな道具たちが無駄になってしまった。屋上侵入計画で得たものといえば、ピッキングに必要なこまかい知識だけ。それも今後使う予定は一切ないもの。さすがは不毛な学生のやる気。これを勉強に注ぐことができたのなら、人生はもうすこしまともだったかもしれない。

 屋上の扉に背を預け、重いため息を吐く。明日までに終らせなくてはいけない課題を思い出し、二回目のため息はどんよりとさらに重くなった。

 冬が近づく時間は過ぎるのが早い。夕暮れが沈む前に帰ってしまおう。クラスメイトと比べて軽すぎるリュックをだらしなく背負うと、ピッキング道具をブレザーのポケットに突っ込んで目の前にある階段をタカタカ降りていった。次に見える窓はオレンジに染まり、遠くでランニングの掛け声が叫んでいた。一度立ち止まってその絵を見ると、何でもないように足のリズムを続けた。昇降口へ向かった。

 すれ違う知り合いに目尻を下げ、口角を上げて手を振る。表情筋が強ばったまま階段を降りきると下駄箱へ。上履きの代わりに踵が潰れあとのあるローファーを履く。硬い足包みは二年経ってようやく足に馴染み、いまやおろしたてのスニーカーより履きやすい。地面を鳴らす音も心地よく思い始めた最近。

 自転車置き場で自転車に乗り、片耳だけイヤホンを装着して身を自転車に預ける。車道を走れば車にクラクション鳴らされ、歩道を走れば歩行者が道の中心を歩く理不尽な扱いの自転車は自分によく似ている。冷たい風を切りながらペダルを漕いで、マフラーはやはり持ってくるべきだったと後悔すれば、ネットで買った安物のMP3プレイヤーから歌う声は右耳から左耳へと抜けていった。空は青が侵食する。夜が昼を食い散らかす姿がそこにあった。

 そうして考えるのは明日のこと。いつも屋上侵入計画しか考えてなかったから、明日からは何を考えて生きていこう。何も考えないでいいか。でもそうしたら、私はきっと明日死ぬ。絶対死ぬ。

 未来のことを考えなさい。先生の辟易した言葉を思い出した。目先のことばかりに囚われず、あなたたちには進路があるんだから、もっとよく考えて行動しなさい。訳、勉強しなさい。でも、だからなんだと言う。他の子は知らないが、私は今を生きるのに精一杯だ。暗闇に包まれ不確定な未来を想像し妄想し、それを実現しようと努力するよりは、明日のことの方が私にとっては重大問題だ。生きるか死ぬかわからない未来より、明日をどう生き抜くかが問題なんだ。

 それを誰かに言ってごらん。鼻で笑われることは目に見えている。

 家に着く頃には昼は夜に殺されているだろう。こんなにも死が蔓延する世界で、明日も当然のように息をしているなんてどこにそんな保証がある。人の心は簡単に死ぬんだぞ、殺せるんだぞ。しかし私はそれを口に出して言うことは一生ない。誰が自分の罪を声高々に宣言するだろう。傷を見せつけるのだろう。だって私は、自分で殺した。

 夜。明日提出の課題には一切手をつけなかった。学校の休み時間にやればいいや。考えたことは基本的思うようにいかないが、それでもいいやと諦めて眠りにつく。結局のところ、提出物は提出される役目を失って私の記憶から死ぬ運命にあるのだ。それに罪悪感を思うかどうかで底辺か救いがあるか決まる。私は前者だ。いまさら後悔もない。

 布団の匂いが落ち着くのは自分の匂いが色濃く残るからだろうか。人間だって生き物だ。ナワバリ意識が強いことは言うまでもない。堅苦しい理性のうちに野生を隠しているように見せかけた人々は、それでも野生をこまかいところで落としている気がする。教室を見ればよくわかる。いかにして自分の価値を能ある者に見せつけ、他人を蹴落としていくか。この世に綺麗な場所なんて存在しない。ゴミ山の人はいい人が多いだろうがゴミはゴミだ。綺麗な場所では人間がゴミだ。

 今度こそは両耳にイヤホンを装着し、快適な睡眠を妨げることを知りながら音量をガンガン上げていく。夜の静かな空間にはさぞかし音漏れが酷いことだろう。しかしそれを気にする人はいない。私だって気にしないのだから。

 明日が来なければいいなぁ。

 思いながら目を閉じる。視界には暗闇が広がるだけで、最後に聞いた音楽も覚えられずに朝がやってくる。夢は見ていない。MP3プレイヤーのバッテリーは底を付いていたので充電しつつ、登校する準備を進めた。朝食は食パンと目玉焼きだった。目玉焼きには醤油をかけて食べた。半分回復したMP3プレイヤーを片耳装着し、軽いリュックを背負って家を出る。古びたアパートの二階。自転車置き場から自転車を引きずり出して身を預ける。漕ぐのは自分の両足。学校へ向かう。

 それが私の日常。ただの日常だ。

 しかし非現実とはなんだろう。現実に非ず。そんなことは誰だってわかってる。だけどもし、非現実が現実にあったとしたら? それはただの現実じゃないか。

 ああ、でもやっぱり非現実だ。誰も自分が見えている色を他人に証明してみせたりはしないだろう。つまるところ、人は自分が見えているものを証明して他人を納得させることが不可能な生き物だ。人には人の住み、見つめる世界があるのだから。他人と他人はどうあったって互いの世界に干渉することはできない。共通するものがあるのだとしたら、それが現実というものだ。

 だからこの存在は、私の世界でしかきっとない。現実に非ず。私の非現実。私の日常が、ほんのすこしだけ狂う瞬間。

「初めまして。えっと、セツナさん?」

 そこには一人の青年がいた。制服はこの学校のものではなく、こんな寒い日なのに着ているワイシャツは半袖だった。伸びる腕は青白く、地面に落ちて色をなくした枯れ木のように細い。屋上へ続く重い扉の前、まるで番人のように三角座りして扉をふさぐ。両膝をまとめた腕の中にスッポリ収まる両足もまた、スラックスの布が余ってしまうくらいには細かった。

「……はじめまして」

「ああ、挨拶返してくれるんだ」

 彼はケラケラ笑う。

 人間とは想定外の事案が発生すると、とりあえずはその場に適応しようとするのだろう、たぶん。つまるところ、私の今の状況とはそれだ。この学校に平然と不法侵入をかまし、「はじめまして」なのに私の名前を知っていた謎の青年が快く挨拶をしてくれば、状況整理よりも先に挨拶への返答が口からこぼれるはずだ。だから私は、彼が笑う意味がわからなかった。彼はそのケラケラした声と口角を上げて目尻を下げたまま自分の胸に手を当てる。

「俺は幽霊です。『自殺防止協会』に所属する自殺幽霊です」

 まぶたを重ね彼の眼球が私の視界から姿を消すと、そこには春風のようにさわやかで優しい、とてもよくできた笑顔を浮かぶ彼がいた。幽霊。自殺幽霊。つまり、彼は自殺して幽霊になったのだ。よくある話。本の中で自殺した誰かと出会う話なんてたかが知れている。

「なるほど」と、とりあえず頷いておく。すると彼は拍子抜けしたようにキョトンと瞳を大きくさせて、え、と声をこぼした。思わずといったような感じだ。その声を取り消すように流れた言葉の最初の文字は壊れたレコードのように連打して聞き取りづらい。

「び、びっくりしたりとか、は?」

「え?」

「え? 俺、幽霊だぞ?」

「はあ、そうですね」

「呪われるかもしれないよ? なんでそんな平然としてるわけ?」

「だって、そうなんですよね?」

 唐突な質問返しをすれば、彼はまたキョトンとする。その間抜けな顔をまじまじと観察して、彼の瞳が女の子のように大きいことに気が付いた。長い前髪に邪魔をされたそれは、ずいぶんと愛嬌があった。

「あなたが自分を幽霊だと言うのなら、そうなんじゃないですか?」

「疑ったりしないの?」

「疑って、どうにかなるんですか?」

「いや、何もならないけどね」

 この話題は気まずいと思ったのだろう、彼はごほんとわざとらしく咳してみせると三角座りを解いて正座に変わり、(いつの間に置いたのだろう)傍らにあった黒いノートをももの上に置いて姿勢を正す。私も彼にならって、ようやく足を休めた。床は冷たく、正座したからすぐに血流が悪くなりそうだった。

「ところで、俺はさっきも言った通り、普通の幽霊じゃないんですね」

 生真面目な顔をして言う。私はまた「なるほど」と頷いておいた。しかし頭にあるのは彼の背中にある屋上の扉だけだ。自分の力だけでは開けられない夢の扉。

「まあ自殺した幽霊には、賽の河原ごとく、罰みたいなのがあるわけでね。自分が原因で自殺したヤツらは『自殺者特別ルール』で自分探しするんだけど、俺みたいな環境や他人のせいで自殺したヤツっていうのは『自殺防止協会』に入るか、その辺で一生幽霊として生きるしかないんわけよ」

 死んでいるのに、一生生きる。なんだか嘘っぽい、とは口には出さなかった。

「で、俺は早く消えてなくなりたいわけだから『自殺防止協会』に入ったんです」

「なるほど」

「アンタ、さっきからそれしか言ってないな」

「いいから続けてください」

 彼は頭を垂れて「あ、はい」と頷き、顔を上げて続きを始める。「それで、ここからはセツナさんも関わってくるんだけど」と前置きしてから、

「俺たち『自殺防止協会』の幽霊が見えるって、ご自身が自殺志願者である証拠なんですよ」

 彼の言葉を話半分に頷く私の顔を、彼はまっすぐに見つめてくる。なんだか恥ずかしい気もしたが、目を逸らすのが面倒だったから何もしなかった。彼のおおきめな瞳に映る私はどんな人物だろう。もしかすると、私が映ってすらいないのかもしれない。

 ねえ、セツナさん。その呼び方は、大嫌いなあの声を連想させた。

「セツナさんは、死にたいの?」

 冬の寒さに震えるような、不安げな問いかけ。縋り付かれた手を私は振り払うことも、優しく握ってやることもできない。だが彼は縋り付いてこなかった。私にとっても、それは救いだった。

「――死にたいのかなぁ」


   ***


「ゆきんこ、もうすぐ誕生日でしょ?」

 顔にぐしゃぐしゃぁと黒インキのボールペンで殴ったようにモザイク掛かった顔で彼女は笑う。わたしはそれが誰かわからなかったが、しらんぷりは感じが悪いなと思い、自然な笑みを浮かべて頷いてみせた。

 うん、そうだよ。言えばぐしゃぐしゃ顔の彼女は「やっぱり!」と人差し指を立てた。

「みんなでゆきんこの誕生日パーティやろうよ。XX日空いてる?」

 ぐしゃぐしゃ顔の彼女が指定した日付は日曜日。黒目を宙に浮かせ家族との予定を考えながら、たぶん、と頷いた。(モザイクのせいで見えなかったが)彼女は満面の笑みに咲き、身を乗り出して机を挟んだ先にいるわたしの顔に顔を近づけた。

「じゃあさ、パーティしよう! プレゼント持っていくね」

 ゆきんこ、大好き!

 彼女の腕がわたしの頭を包む。甲高くはしゃいだ声はしばらく脳内でリピート再生とともに反響した。ゆきんこも好きだよ。伝えれば彼女は「りょうおもい!」とケラケラ笑った。腕は放してもらえず、見上げた顔にもモザイクはあった。

 いつからこうなったのか、わたしにはわからない。ふと気づいたときわたしの周りにいるほとんどの人が顔をボールペンに遊ばれていた。彼女のようにぐしゃぐしゃな顔、太いばってんの顔、目もとだけを直線で埋めた顔。そのモザイクは彼らから、わたしの脳みそから名前を奪った。もちろん、道行く人々の顔がすべてそう見えるわけではない。お出かけですれ違う人やお店の店員さん。わたしとオトモダチではない人々の顔は普通に見えた。名前も把握できた。

 これは私の身の回りの人にしか起こらない。しかしわたしはこれを邪魔だとは思わなかった。人の顔が見えなくなると安心する。そのかわり、声の色で相手の顔を想像しなくてはいけないのだけど。

 名前を呼ばなくても「ねえねえ」だけで済む。誰だかわからなくとも、口角を上げて目尻を下げれば見事な笑顔の完成だ。人は笑顔に弱い。笑っていれば大概のことはどうにかなる。

 そう、笑っていれば。

 笑えなくなった日のことはなにも考えていない。そもそも人は笑い失くして生きていけないのだ。昔、今から三年前、わたしはそれを学んだ。

 授業開始のチャイムが教室のざわめきをかきけす。キンコン音に惜しむように手を伸ばして彼女はわたしに手を振った。

「じゃあ、またあとで予定決めようね」

 席に戻っていく。その背中を眺めると、彼女の席は一番前の一番廊下側ということがわかった。席順を知ったところで、名前を確認しようにも文字そのものにモザイクが掛かってしまっているのだが。カラララとドアが開くと、プリントと教科書を持った先生がにこやかに教卓の前に立った。次は道徳の授業だった。

 ――みなさんには、大切な人がいますか?

 道徳の授業を好きな人は多いが、嫌いな人も多かった。道徳は楽だから好き。道徳はめんどくさいから嫌い。そしてわたしは好きでも嫌いでもなかった。いまこうして机に向かって習うタイセツなコトというのは、大人になったときには忘れているんだ。大人になったときには大切なんかじゃなくなっているんだ。

 先生は白チョークを黒板で削る。タイトルと作者名が縦に刻まれていた。

「たとえば家族とか、友達とか。きっとみんなには自分より大切な人というものがあると思います」

 言いながら先生は一番前の列にプリントを配っていく。カーキ色のぺらぺらで、破くとわたげが出てくるような安っぽい紙。それには四つの四角い枠と【問い】が並んでいた。

「まずは大切な人の名前を――あだ名でもかまいません――思いつく限り、上げてみましょう」

 鉛筆が机の上を踊る。うちのいくつかは真面目に名前をなぞり、ほかのいくつかは近くの席にある友達と視線を交えて不揃いな歯をむき出しにしていた。わたしは鉛筆のキャップを筆箱の前に落として形ばかり紙に向かう。どんなに頭を回しても、出てくるのはナナシのモザイク顔だけだった。脳みその中をオーディション会場に、顔達が次から次へと流れ込んでくる。これもわからない、あれもわからない。落選のハンコを顔の数だけ押しまくると、ふと、手が止まった。ひとりだけ、顔と名前がわかる人がいた。

 その人は黒い髪を肩甲骨あたりまで伸ばした高校生だった。猫背で顔を上げるときはせいぜい階段を上るときくらいには、毎日地面とにらめっこしているような女の人。わたしはあの人が忘れられずに苦手だ。記憶にあるその人はほぼ笑うことなんてなかった。もしかすると笑っていたのかもしれないが、すくなくとも今のわたしの記憶にはなかった。

 その顔に落選のハンコを力ずくに押す。紙から放すと、赤いインクが彼女の顔を汚していた。まるで残酷な殺人現場に残された死体のような彼女の選考用紙をぐしゃぐしゃに丸めて捨てる。そうして顔の行列が一通り終わると、わたしはようやく鉛筆を動かした。

「自分」

 顔を上げると(みんなそうだが)ぐしゃぐしゃ顔のさっきの彼女がわたしを振り向いていた。先生は腕時計を眺めており、注意されないタイミングをうまいこと狙っているように思えた。彼女と目が合った気がして、わたしは笑みを浮かべる。そうしたら彼女は肩をすくめた。笑い返してくれたのだろう。満足したのか、彼女は紙に視線を落として鉛筆を走らせた。

「はい、それでは時間です。今回の話は、そんな大切な人のことを思い浮かべて聞いてください」

 ひとつ咳払いをした先生は教科書を顔の高さまで持ち上げ、普段授業をするときとは打って変わった優しい声で物語を歌いだした。

 下駄箱で靴に履きかえると後ろから声を掛けられた。ランドセルと背負い直してから振り向くと、ぐしゃぐしゃ顔の彼女が小走りで近づいてくる。

「一緒に帰らない?」

 笑って頷くと、彼女も笑ったようだ。ありがとう。言いながら下駄箱から靴を取出し、わたしが吐いていた場所で彼女も足を靴に収めた。

 校門で生徒たちを見送る先生に挨拶をして学校からでていく。首を前に倒すだけでもしないと、見送る先生は「挨拶がないぞ!」と後ろから怒られるのだ。クラスの女の子たちはそんな先生を「きもちわるい」「挨拶妖怪」とクスクスしながら陰で馬鹿にしている。

 無事に通り過ぎたわたしと彼女の背中に大きな声が響いた。挨拶がないぞ!

「アイツ、挨拶が主食だよね」

 彼女がクスクス笑いながらちいさくなった先生の姿を振り返る。

「そうだね」

「ああいう暑苦しいの、あたし嫌い。なんかメンドクサイんだよね」

「わからなくもない」

「ネツレツに関わってくるやつとか、本当に好きじゃない」

 彼女はいつもよりトーンを落とした声音でわたしが並ぶ反対側を向いて吐き捨てた。どうやら彼女はこんな話をすることに、ほんのすこし後ろめたさを感じているのかもしれない。わたしは普段から、あまり人の話をしないから(できるわけがないのだけど)自分の愚痴や文句と言ったものを吐きだして嫌われることを恐れているのかもしれない。

「わかるよ、なんとなく」

「ゆきんこって、悪口とか言わないよね」

 言えないもん。とはさすがに言えなかった。

「そうかな?」

 曖昧に笑って見せると、ぐしゃぐしゃ顔がわたしを向いた。表情は見えない。せめて口だけでも見えたら、彼女がどんな反応するわたしを求めているか分かったかもしれないのに。

「そうだよ。でもわかる。ゆきんこって、優しいもんね」

「そんなことないよ。普通にグチったりするし」

「そうなの?」

「そうだよ」

 途端に静かになる。わたしと彼女の横を低学年の男の子が女の子にちょっかいを出しながら通り過ぎて行った。後ろから強く押された女の子はほんのすこし泣きそうな顔になりながら、キッと走り去っていく男の子を睨んだ。その子のとなりにいたお友達は、女の子の代わりに男の子に向けて「さいてーい!」と大声を張り上げていた。男の子は振り返って親指を立てた右手をさかさまにした。

 彼女からため息が落ちる。首の角度が45度に傾いていた。

「どうしたの、何かあった?」

 彼女は姿勢をそのままに、ゆるゆるとかぶりを振る。そして消え入りそうな霞んだ声で(彼女はいつもハリのある透きとおった声をしている)地面に言葉を落としていく。

「なんだか、不安になる」

「不安?」

 頷く。

「こんなに大事とか、好きに思っているのって、あたしだけなのかなって」

 それこそ道徳の教科書に選ばれそうな文章だった。

 今日の道徳に思うことでもあったのだろうか、彼女は悩ましげにまたため息を吐く。だが先生が読んだ題材の物語は戦争とか、誰かが死んでしまったり、バッドエンドなものではなく、どこにでもある日常を切り取ったようなものだった。チラリとクラスを見渡せば、真面目な子以外はつまらなそうに足を揺らしているような物語。そんな物語に、本を読もうともしない彼女の心に訴えかける何かはあったのだろうか。

「好きな人でもいるの?」

 精一杯の返事だった。

「ははっ。そう見える?」

「なかなか深刻そうだね」

「好きな人はいるけど、恋愛的な意味じゃないよ」

「わかった、友達か」

「ゆきんこって、変なところで鈍いよね」

「なんかあったの?」

 彼女の口が止まる。選んだ言葉は間違っていただろうか。内心で焦るも、彼女の顔が見えない限りはわたしも彼女が言葉を発するまで待つしかなかった。背中を撫でる冷たい風がなんだか不穏な空気を運んでいるように思えて、胸から喉にかけてかき回されるような気持ち悪さを覚えた。

「いや、なにかあったわけじゃないの。ただ、なんか、ね。不安になることってあるよね」

「だいじょうぶ?」

「うん、大丈夫。それよりさ、日曜日どうする?」

 いつもの声音を取り戻した彼女は一転して顔を上げた。さっきのため息なんかまるでなかったような吹っ切れぶりで、一瞬、彼女になにか乗り移ったのか疑うが現実的に考えてそれはないなと思い直す。そうだね、と頷き、人差し指を立てて提案する。

「わたしの家にくる?」

 すると彼女は固まり(足は動いていたが)海底に身をひそめるように静かに「いいの?」と問う。わたしは頷いた。どうせ母も許してくれるだろし、日曜日は両親でお出かけする事の方が多い。主に日用必需品の買い出しだが。

「いいなら行きたい! あ、他にも――とか、――ちゃん、誘ってもいい?」

 名前の部分だけ無音になった彼女に頷く。

「いいよ、人数多い方が楽しいし」

「ありがとう、ゆきんこ大好き!」

 彼女の腕がわたしの腕に絡まる。わたしはそれを振り払わなかった。この冷たくなった季節、顔は見えないけれど友達の体温を感じ取れるのは幸福なことだと思った。そしてわたしは、彼女に大好きと言われることが好きだった。

「わたしも好きだよ」

 日曜日が楽しみだね。そこからの帰り道はずっと日曜日のことばかりだった。わたしはただ純粋に、日曜日が楽しみだった。みんなと遊ぶことを、自分の誕生日を祝ってくれることを、楽しみにしていたのだ。

 ――あんたが思うほど、この世界は綺麗じゃないんだよ。

 彼女と別れたあと、振り返る。夕日が暮れた限りなく夜に近い道、そこにはあの惨めな女がいた。しかしその姿はひとつまばたきをすれば跡形残らず、いなくなっていた。


 わたしが人の顔を見れなくなったのは、いまに始まったことではない。三年前、いやな夢を見てからこうなった。その夢はもう覚えていないが、ひどく綺麗な夢だったことは覚えている。ひどく綺麗な夢のなか、わたしは殺された。覚えているのはそこまでで、起きて朝食の匂いにつられるまま向かったリビングで、わたしはわたしの異変に気が付いた。

「まま、そのお顔、どうしたの?」

 母は首を傾げる。母の顔は墨汁をそのまま垂らして凹凸すらわからなくなっていた。母の顔が、なくなっていた。

「どうしたのって、何が?」

 母は目玉焼きを乗せた皿をテーブルに置く。わたしは皿が置かれた場所の前に座り、目に映る母の顔について説明した。そのころのわたしといえばまだ頭が悪かったから、説明は救いようのないくらいにヘタクソで、話の半分も母に伝わっていなかったと思う。だからといって、すこし話すことがうまくなったいま、また母に説明しようとは思わないが。

 支離滅裂な説明をくりかえすわたしに、母は背を向ける。

「変なこといわないで。ほら、早く食べなさい」

「まま、本当なんだよ。ままのお顔」

「そういうこと」

 そのときの母の顔を、わたしは今でも簡単に思い出すことができる。わたしはただ、母を心配していた。母の顔がなくなってしまったらどうしよう。もしかすると、母はいま苦しいのかもしれない、つらいのかもしれない。だからとにかく、母の顔のことをつたえた。

 だけど、母は。

「そういうこと、絶対に外でいわないでよ」

 きっと母は、ちいさい子供によくある架空のオトモダチみたいなものだと思ったのだろう。しかしそれをあまりに熱くなって話すものだから煩わしかっただけかもしれない。それは、自分の子供が外で「おかあさんの顔がなくなってた」なんて歌ったら、わたしと親が白い目で見られるのは明らかだった。

 母の目が鋭くわたしを睨みつける。手を止め、ただ責めるわけでなく無言で圧力をかける。わたしは肩をすぼめて目玉焼きと食パンに視線を落とし、ぼそりと「ごめんなさい」と言った。

 そのときは気が付かなかったが、そう、わたしは母がわたしを睨んだとき、母の顔が見えた。真っ黒いモザイクは消えて、母のモザイクよりもひどい顔を覚えてしまった。

 わたしは母に顔のモザイクのことを言うのはやめようと、心に誓った。きっとまた睨まれる、地を這う巨大蛇のような目の光で睨まれてしまう。それがとても怖かったから。

 ふと、そんなことを思いだした。

「日曜日、友達家に上げてもいい?」

夕食の支度をしている母に問えば、

「珍しいじゃない。いいわよ。でも部屋は汚さないでね」

「汚すようなことはしないよ。子供じゃなんだから」

 お母さんが言う「架空のオトモダチ現象」はいまだ起こっているけれど、とは言えない。「どうだか」と母は笑った。

「そういえば、あんた、もうすぐ誕生日じゃない」

 ぐしゃぐしゃ顔にも言われたことを思い出しながら頷く。母は爽やかな笑顔で振り返り、わたしを見た。

「なにか欲しいものある?」

 母の顔は真っ黒だった。


   ***


 いつも通り屋上へ向かうと先客がいた。知らない制服の青年、もとい幽霊。昨夜家で彼の制服を調べてみると、彼は名門の私立生だったことが明らかになった。その学校のホームページを興味本位で覗いてみたが、誰かの自殺について言及されていることは一切なかった。私は彼の名前すら知ることができないのだ(彼が教えてくれない限り)。

「そんなに屋上は魅力的?」

 将来有望であった自殺者幽霊はケラケラ笑って手を振ってくる。屋上の扉の前、あぐらをかいて黒い表紙のノートをパサリと閉じる。雨に濡れて乾いたような紙で満たされたノートは、彼がその細い指先で丁寧にめくる旅「パリ、パリ……」と音がする。とくに静かであるこの空間ではなおさら音が響くのだが、私はその音が嫌いではなかった。まるで古書店にいるような、古いものに囲まれる安心感がその音にはあった。

「魅力的だね」

 頷くと、やはり彼はケラケラする。何が面白いのか、彼の笑いのツボが私には理解できない。「なんで笑うの?」と聞いてみれば「だって面白いじゃん」と当然のように返ってくる。きっと彼は凡人とは違う思考回路を持っているのだ。それとも私が変わっているのだろうか。

「実はさァ」と彼。どこか楽しみが垣間見える表情で、階段に腰掛けた私を目で追っていた。私は最上段より三段したの位置に腰を下ろした。彼と同じ高さにいるのは、どこか気が引けたから。

「幽霊って、無生物には干渉できるのね」

「へえ、つまり?」

「そんな面倒そうに結論を急がないでよ。ここ、もっと目を輝かせる場面だぜ?」

「私にそれを期待する?」

「ああ、ごめん」

 謝るなよ、と睨みつける(彼がまたケラケラ笑ったのは言うまでもない)。ジョークだって、と降参するように両手を上げた彼に「はやく」と言葉の先を急かした。彼はわざとらしくごほんと咳払いすると、またもとの雰囲気を取り戻す。

「幽霊って基本的には人目に触れられない。俺みたいなちょっと変わったヤツは違うんだけど。それでも人に気づいてもらうための手段として、幽霊は無生物を操ることができる」

「操る?」

「もちろん、糸人形を躍らせるとか、そういうことはできないよ。せいぜい物を棚から落としたり、ドアを開けたりするのが精一杯。――それで、どうして俺が今、そんな話をしたかと言うと」

 右手を軽く握り、頭上をコンコンとノックする。それは屋上へ続く扉だ。私では開けられない、扉だ。彼は得意気な顔で二マリと笑む。大人へのイタズラに成功した少女のような笑みだ。

「俺ならこの扉、造作もなく開けられてしまうのですね」

 そんな得意気に語られるものだから、私はなんとなく喜びたくなくて「なるほど」とだけ言った。予想通りというか、わかりやすいというか。彼はその表情から一転、酔っ払いから我に返ったようにつまらない顔をした。

「俺、ここ開けられるんだぜ?」

「今聞いたよ」

「開けられるんだよ?」

「うん」

「開けられるんだよ、セツナさん?」

 自分へ人差し指の先を向けて何度も「俺」「開けられる」「セツナさん」をくりかえす。それでも素っ気ない反応ばかりする私に、彼の心はどんどん退行して、ついには駄々をこねる子どものように床に大の字になって寝っころがった。

「セツナさん」

「うん」

「本当は開けてほしいんでしょ」

「自分が開けたいだけでは?」

「そこはさぁ、もっとさぁ」

 ぐずる。ホコリがぶら下がるくすんだ天井に向けて唇を尖らせた彼を振り向いて、その間抜け面に思わず「ぷはっ」と吹き出す。そんな私に不満げな視線をよこし、その視線のせいで私はとうとう笑いが連続した。

「なにその顔」

「なにって、俺、結構生きてる間はモテてたんだけど」

「へえ、なんで?」

「え、なんで?」

 とくに深い意味はなかったが、彼は「なんで」を「なんでそんなんでモテてたの」に変換してしまったらしい。顔が不機嫌に歪んでいく。それにまた笑うと、彼は顔を赤くさせて起き上がり、定位置に戻ってしまった。今度は初めて会った時と同じように、自分をコンパクトサイズに縮めながら三角座りをした。

「もういい。俺は知らんよ」

 彼の首をうなだれる頭を支えられず、顔は膝に埋もれてしまった。その姿は推定同い年である彼よりもずっと若く幼稚で、私は純粋に面白がる気持ちと、どこかで胸が握られたように苦しかった。

 彼は、自殺したんだ。ケラケラと笑い、子どものような思考回路を持つ彼は、自分で自分を殺したのだ。誰がこんな無邪気な青年が自殺を考えると思うのだろう。私だって、彼によく似た人が教室で笑ってたとしても、何も気に掛からない。まさかその人が自殺するなんて思わないだろう。

 途端に静かになった私の何に怖気づいたのか、彼はゆっくりと顔を上げて、それでも鼻先はいまだ腕に隠したまま私を呼ぶ。振り向いた私に、彼は意地悪い笑みを浮かべる。

「本当は屋上に入りたいんだろ」

「うん」

「……今度はやけに素直だな」

「事実だしね」

「入れてあげようか」

「入れてほしい」

「じゃあ」彼が言う。「セツナさんはどうして死にたいのか、教えて」

 必死だった。彼は必死だったし真面目だった。だから私はまっすぐに答えるのが嫌だった。だから私は、その質問が失礼で野暮極まりないことを理解していながら言った。

「じゃあ、キミが死んでしまった理由を教えて」

 沈黙。二人して見つめ合い、彼に降りかかる夕日の色がずいぶんと薄くなっていることに気が付いた。夜がやってきてしまう。真っ暗闇の夜が――。

 先に沈黙を破ったのは、彼だった。彼はほんのすこし寂しそうに、そして困ったように笑った。そんな彼を見て、くだらない質問をしたことに後悔した。自分で自分が嫌になった。

「俺はべつにね、死にたくて死んだわけじゃあないんだ」

 彼は自分の過去には触れなかった。ただ、淡々と死んだ理由についてを述べていく。そのシンプルさはかえって彼を浮き彫りにした。

 彼が語る彼は、とても繊細な人だった。

「ただ、毎日のくりかえしが嫌だった。勉強して、帰ってまた勉強して――。ねえ、セツナさん。どうして世界は点数と外見ですべて決まるんだと思う? 俺はね、人は目に見える形で自分の価値がわからなくちゃ、安心できないんだ。でも俺は、それが嫌だった」

 もう一度、嫌だったとこぼす。

「だって、大多数の人間がそうであればあるほど、俺たちみたいな少数派は大多数に従わざるを得ないんだ。正論と個性は、綺麗事と数字に潰される」

 頭を振る。

「明日死ぬんだなァって思って行動した日は、なんだか気分が良かったよ。俺が『つらい』とか『死にたい』って言うたびに頭を小突いてきたヤツらも、甘えだと怒鳴った親も、全員に仕返しができるってね。でも、本当に俺が死んだところで仕返しになんかなるのかな」

 後悔してる? 問えば彼は否定した。

「俺は、どこにもいなかったんだ。誰に本音を話したところで意味なんかないっていつの間にか思って、誰にも正面から向き合わなかった。教室の隅で息を殺す努力をしていただけの俺が死んだところで、誰もなんとも思わない――そうなってしまうことが、怖かった。心の底から。どんな形であれ、自分が命がけで踏み出した一歩が無駄に消費されるのが、心の底から怖かった」

 自嘲的な乾いた笑みをこぼし、彼は喉を反らせて後頭部を扉につける。

「笑っていいよ」

「笑う話じゃないでしょ」

「そんなことで死んだの、バカじゃない。くらいなら言ってもいいよ」

「言わないよ」

「でもさ、これだけは言い訳させて」

 口を閉じた。静かを校庭に受け取った彼は、誰にともなく、きっとずっと抱えていたのであろう言い訳を落とした。

「この世界には、人が死ぬ理由なんてあふれかえっているよ。誰もがそれを綺麗事で覆い隠して、見ないフリをしているだけだ」

「どうしてキミは、自殺防止協会に入ったの?」

「早く消えたかったから」

「消えるまでに、何人の自殺を止めればいいの?」

 彼は押し黙った。その組織のつくりや責任者など、私には想像もできないが、きっと知らされてないのだ。ただ漠然と、そうしなくちゃいけないからそうしているだけで。それは彼に生前の苦しみをくりかえさせているも同然ではないのか。彼はきっと、純粋で繊細な人だ。そして感性が鋭く、頭がいい。しかしそういった類の人種は、可哀想な人でもある。こんな汚い世界に苦しめられるのは、彼のような人ばかりだ。私ではない。

「でも」と彼。

「これは賽の河原みたいなもんなんだと思うんよ」

「賽の河原……」

「親不孝をした子供たちの河原。さしずめ積み上げる石の代わりに自殺志願者で、積み上げる代わりに飛び降りようとする死にたがりの腕をひっぱる。そして蹴られ散った石の代わりは――」

 彼は力なく笑った。それを笑ったと形容していいのか疑わしいくらい、死人のように。

「なんだろうな」

 夕暮れが夜に食われ、彼は夜の闇に照らされる。その弱り切った表情は彼を幽霊に見せなかった。彼は幽霊であるまえに、ひとりの人間だったのだ。

 なにも言葉にすることができないまま彼をじっと見つめる私はさておいて、彼は突等に立ち上がって伸びをする。呻き声のあと、脱力して息を吐きだすと、そこにいるのはついさっきまでの彼だった。ケラケラ笑う、彼だった。

「ほら、早く帰らないとセツナさんのルーティーンが崩れちゃうよ」

 そして階段の先を指差す。私は頷き、立ち上がって階段をゆっくりと降りていく。踊り場に出ると、一度彼を向いた。彼は穏やかな表情で私を見送る。彼は夜の色が良く似合った。夜は幽霊の時間だからかもしれない。

「明日はセツナさんの話だかんな」

「ねえ」

 呼びかければ、うん? と首が横に傾ぐ。

「明日も、会える?」

「セツナさんが死ななければね」

 彼はケラケラと笑った。彼の話を聞いた今、私は彼がそうやってよく笑う理由がわかった気がする。だって、笑っていれば楽だもの。生きる上において。


   ***


 その日のわたしはと言えば、手汗がとにかくひどくて、胃の中にある朝食をすべて吐き出してしまいそうな気分に襲われていた。大声で泣き叫んだように頭がくらくらして、先生の声もうまく理解できない。なのにヒソヒソ鳴る悪意こもった声は鮮明に耳へはいってしまうものだから困った。どうやら人っていうものは、自分を傷つけることが本能で決められているらしい。

 異変に気づいたのは朝登校してからだった。いつも挨拶してくれる女子の大半がわたしを見つけるなり、耳打ちしあった。その顔がボールペンで潰されていることだけが救いだった。

 こうなってしまった原因はわからない。もとより関わりのない男子を除いて、いままで仲良くしてくれていた友達すべての態度が昨日とうって変ってしまった。今朝なにかしてしまったのか。いや、その可能性はゼロに近い。なぜなら今朝からこんな状態だったからだ。原因があるとすれば昨日。しかし昨日も昨日で何かをしでかした記憶はない。

 原因は当人より周りの人の方が良くわかっている。しかしわたしに「なにかした?」と聞きにいく勇気なんかなく、ただイスに貼り付けられたように固まって、机の上に組んで置いた手を睨んでいた。遠くの席から甲高い笑い声がする。それがわたしに向けられたものなのか、はたまた別の何かにわらっているのか。わからなくて手のひらに爪を立てた。長い長い休み時間。わたしの何が悪いのかわからなくて、どこかに逃げることも、何かすることすら怖くて、ただ息を殺してじっとしていた。

 給食も誰とも話さず無言で食べ、授業中もずっと教科書を読んでいるふりをした。幸い指名されることもなく、ただ肩をちいさくして存在を消す。誰にも何も見られないようにするので必死だった。初めてこんなに必死になった。五時間目、六時間目と終わりを告げ、掃除の時間がやってくる。わたしの担当は階段のほうきだった。

 階段掃除は唯一先生の見回りがやってこない場所で担当になったクラスメイトはいつも大喜びをした。掃除は子どもにとってはいささか面倒なことであって、しなくても、遊んでいても見つかることがない場所というのは楽園に近い。真面目に掃除をするのはクラスでも優等生と歌われる子たちだけだった。わたしは友達に誘われれば喜んで掃除を放棄したが、誘われなければ大人しく掃除していた。もちろん今日は掃除していた。だけど、いつもは真面目に掃除をしている子ですら今日は掃除をしなかった。ほうきでせっせとほこりや砂を運んでいるのはわたしだけで、そんなわたしの背中を刃物のような視線で女の子たちは睨んできた。わたしは気にしないふりをした。

 ――わたしが何をしたっていうんだ。

 清掃用具入れからチリトリを取り出す。階段掃除にはちびほうきがなかったから、普通のほうきでチリトリにごみを入れる決まりになっていた。左手でチリトリを固定し、ほうきを短く持ってごみたちを歩かせる。しかし本来は二人掛かりで行う作業なので、ごみはうまくチリトリの上まで乗ってはくれず、何度も何度もチリトリを引いて、掃いて、ごみを集めてをくりかえす。階段の上からくすくす笑う音が聞こえた。きっと上から見たわたしの姿は、それこそほうきひとつで簡単に吹きとばせてしまえるような、よわっちい姿になんだろう。くやしかった。下唇を噛んで頭をカァと熱くさせながら、夢中になってチリトリとほうきを動かす。

 ふと、ほうきが手から離れた。思わず見上げると、ぐしゃぐしゃ顔の彼女がわたしのほうきを持っていた。

「チリトリ、持ってて」

 久しぶりに思える会話に咄嗟に声を出すことができず、なんとか頷いた。彼女はどんな顔をしているのだろう。声だけでは思い描くことができず、わたしはうつむいてチリトリの中へ迷い込んでくる自分の姿を見つめた。取り残したごみは適当に端に寄せ、彼女は「おわり」とそっけなく言う。

「あの、ありがとう」

 そそくさと背中を向ける彼女は一度振り返り、階段を上っていく。掃除をしなかった女の子たちの輪に加わると、あからさまな大声がした。

「やさしいね、――ちゃん」

「あんな子に」

「――ちゃんすごいよ、あたしなら無理」

 ぐしゃぐしゃ顔のあの子は、朗らかに笑った。まるで悪意というものを一切理解していないように。

「うん、だって、可哀想じゃん」

 瞬間、ぴしゃりと雷が落ちたかのような衝撃に見舞われた。わたしの筋肉は固まって、指一本すら動かせなくなってしまった。どうしてだろう。どうして、わたしが可哀想なんだろう。

 彼女を取り囲んだ女の子たちは首を激しく前後に動かしながら「そうだね」だの「可哀想だもんね」と納得している。今この場で納得できていないのはわたしぼっちだけだった。可哀想? じゃあわたしを可哀想にしているのはどこのどいつなんだよ。可哀想という言葉は、憐れみだ。それはわたしを可哀想にしているお前たちが使う言葉じゃない。

 そんなこと、きっと彼女たちはわかっているのだろう。人は無邪気に思わせて人を惨めにさせる方法を熟知している。それをわたしはわかっている。彼女たちは「可哀想」をわたしに使うことで、わたしを本当に可哀想にしているのだ。

 掃除終了のチャイムが鳴り、彼女たちは黄色い声にひそひそを上手にブレンドして教室へ戻っていく。その後ろ姿を追うのはなんだかつらくて、わたしは遠回りの道を選んだ。彼女たちが席に着くよりも先に席に着けるように小走りで。とられないと約束された椅子取りゲームをしているみたいだった。


 そんな日々が何日も続いた。

 約束の日曜日。ほんのすこしの願いと期待込めて準備した部屋は努力の無駄となった。

 誰も、来なかった。


 ランドセルの肩掛けを握って帰り道のアスファルトを眺めると、思いのほか、道路の紺は綺麗な色をしていた。そんなことを今更になって気付いたのは、いつも前を見て歩いていたからだろう。地面を見ることこそあっても、こうしてじぃと細部まで見ながら歩いたことはなかった。なんだかんだ、わたしは恵まれていたのだ。こうしてうつむかなくていいくらいには。

 明日のことを考えてまた吐き気がこみ上げてきた。病は気から、気は環境から。そしてわたしの環境はいま最低最悪だ。明日からどうしよう。ひとりでいることに抵抗はないが、思ったより自分がひそひそ声に弱かったらしい。その声さえ聞こえなくなればいいのだが。

 ぽん、と肩を叩かれる。振り返ると、ボールペンでぐしゃぐしゃにされた顔があった。彼女だった。どうして彼女が。呆然と突っ立っているだけのわたしのとなりに彼女は並び、一緒に帰ろうと言い出す。わたしは頷くことしかできなかった。

 ふたりして無言のまま歩き出す。これを気まずいと思うのは果たしてわたしだけだろうか。そうしてずっと歩いていると、彼女が声を出す。それにすら肩が大きく跳ねあがってしまった。気付かれていないことを心の底から祈り、平然を演じて彼女の見えない顔を見た。彼女はひどく無感情な声で言うのだ。

「ゆきんこさ、どうしてみんなに無視されてるのか、わかってる?」

 心臓が止まるかと思った。言葉の形をした手は心臓を鷲掴みにして握りつぶそうとしてくる。

「ごめん、わかんない」

 絞り出した声に、彼女はすぐに返事を出さなかった。しばらくまた無言のまま歩いて、そしてまた声が鳴る。

「この間の道徳の授業のプリント、返されたじゃん」

 覚えてる? わたしは頷いた。意図が見えなかった。彼女はぐしゃぐしゃな顔を普通だったころのようにわたしに向けてはくれなかった。代わりに、いつも前ばかりを見ていたわたしが彼女の横顔を見ていた。そうして初めて、わたしは道徳の授業があった日の帰り道に彼女がこぼした不安の意味を理解した。

「あたしは大切な人の名前に、ゆきんこを書いたよ」

 思わず足を止めてしまった。ひゅうと喉が空気を受け付かず、奥からすっぱいものがこみ上げる。それを吐きだすことができたらどんなに楽だったのだろう。だけど、わたしにはそれができない。不器用に唾を何回も何回も飲み込む。なんでもないように、振り返った彼女を見つめた。彼女は大好きだと言ってくれたあの笑顔を消して、わたしを見ていた。わたしを、見ていたの、かな。彼女の視線がどこを向いているのか、正確にはわからない。それが怖い。そしてこれは、彼女がわたしに抱いていた気持ちと同じなんだ。

「でも、ゆきんこは」

 つまり彼女はわたしのプリントを見たのだ。自分の名前が書かれてることを期待して、信じて。しかし実際は自分の名前どころか、そのほかの人の名前すら書かれていなかった。


【問い】大切な人の名前をあげて見ましょう。

  (      自分       )


 そんな解答を見た彼女の心は、はたしてどんな音を立てたのだろう。どんな思いでわたしを見たのだろう。

「――あたしの名前を書いてはくれなかったんだね」

「ちがっ!」

「あたしの名前を呼んでくれないのも、大切じゃないから?」

 頭が真っ白になった。言い訳することも考えられないくらいにわたしは動揺して、右か左かすらわからなくなる。彼女の顔はぐしゃぐしゃだった。もしかするとわたしの顔もぐしゃぐしゃなのかもしれない。指先の体温がなくなった。立っている感覚がもうわからなかった。

 どこがうまくいっていたのだろう。完璧な笑顔をつくって、それで何がうまくいっていたのか。わたしは馬鹿だった。あの殺される夢を見て、そして人の顔が見えなくなってから。わたしはおかしくなってしまった。だって、わたしだってそうだったはずなのに。

 ――何にも期待なんかしてはいけなかったんだ。

 脳裏によみがえる冷たいもの。暗がりで焦点を失った瞳はおぼろげにわたしを見ていた。当時のわたしの背丈の倍はあるあの女。猫背がひどい、あの女。

 指先から侵食した凍りは手のひらへと、手首へと、腕、肩、胸と首へ。わたしの身体を凍らせていく。全身が凍ったとき、わたしの胸には表面からではまったくわからない巨大な空洞ができあがり、いままで詰まっていたものがガラララと崩れ落ちていった。

 彼女は一歩先でわたしの回答を待ち続けていた。彼女は何を望んでいるのだろう。わたしに「そんなことない、大切だよ」と言ってほしいのかもしれない。それが正解だったら、わたしはいつもの笑みを浮かべて彼女にそう言っただろう。でもきっと、それは違う。正解だとしても、彼女は予測の範囲内である行動はつまらないと、またわたしの低評価ボタンを押すのだ。名前を書けなかったその理由言えばよかったのかもしれない。でも、わたしにはわかる。

 彼女は元より、わたしの言葉を信じようとはしていない。

 だからわたしは、そんな面倒臭い性格をした彼女を一番ひどいやり方で傷つけてやろうと思った。だってそうだ、こいつがわたしのプリントを勝手に見なければ。クラスメイトのひそひそ声も、あのよそよそしい態度も、ひとりぼっちで膝に置いた手を眺めることもなかった。わたしの今日のつらさは、すべてはこいつのせいなんだ!

「ごめんね」

 素直でまっすぐな謝罪をしたわたしを、彼女は無言で顔を向ける。わたしはあの完璧な笑顔を浮かべた。

 そうしてようやく、わたしは彼女の名前を思い出した。彼女の瞳はおおきく見開かれ、口は綺麗な丸を描いて固まっていた。

「――ちゃんが大切なのはわたしじゃなくて、自分を大切にしてくれる人であればなんでもいいんだと思ってた。でもそっか、違うんだね」

 だって。

「自分が大切なわたしが、――ちゃんは嫌いなんだもんね」

 彼女の顔はかわいかった。白い肌とピンクの艶やかな唇。大きな瞳は黒目も大きく、まつ毛も長い。アイドルとしてテレビに出ていてもおかしくはない彼女ははたして、わたしのとなりにいて楽しかったのだろうか。なんで。唇が震える。彼女の顔がみるみるうちに青ざめていく。その様子が楽しかった。勝った。そう確信した自分に嫌気すら差さないくらいには、わたしは彼女を打ち負かせたかった。

「なんで、そんなこと、言うの?」

「わたしはわたしが一番大切だよ。だからわたしはわたしを大切にしてくれない子はいらない」

 あなたはいらない。言外の言葉を彼女はわかってくれただろうか。

「あたし、ゆきんこのこと」

「大切に思ってたの? 冗談でしょ」

 はっと笑えば、彼女は耐えきれなくなったようでかわいい顔をぐしゃりと歪めた。うつむき、袖で乱暴に顔を拭う。嗚咽が漏れた。――わたしは泣かなかったのに。明確な陰口をすぐ近くで聞かされても泣かなかったのに。お前はそんな簡単に泣くのか。それってずるくないか。どうして被害者ぶるんだよ。

 そんなに自分が大切にされたかったのか。

「ゆきんこなんて、友達じゃない」

 ヒステリックな叫びに周囲を行き交う人々がわたしと彼女を横目にうかがった。それを知らないふりして、わたしは笑う。

「友達だったら、プリントに自分の名前があるかどうかなんて、気にしないと思うよ」

 泣きながらその場から動こうとしない彼女の横を通り過ぎる。じゃあね、と無意識に別れの挨拶をかわしてわたしは家に向かった。彼女はわたしがいなくなってもしばらく固まっているだろう。そして明日の学校で「ひどいこと言われた」と泣いてクラスメイトに縋りつくのだ。

 ずいぶんと歩いてから、立ち止まる。車通りの多い高速道路の下の横断歩道。そこを左に曲がってずっとずっとまっすぐをいけば、海が見える。まだ夕日も上らない時間。わたしは何を思ったか、海へ向かって駆け出した。ランドセルが背中で弾み、足は疲れを知らず、呼吸は苦しくなることを知らなかった。小学生が帰り道に歩いて、あるいはわたしのように走って行くにはすこし遠い海。そこを知ったのは、昔母と授業参観の帰りに行ったから。

 あそこをクラスの子は知らない。正確には、海の存在を知っているが行く道は知らないのだ。あの砂浜はちいさく、観光も、夏の海水浴すらまともにできない。需要のない海。だけどわたしにとっては需要ある海。

 木々がしげる林のなかにある狭い道を走る。母はわたしに人差し指を立て、ここに来たことは秘密ね、と笑った。どうして? 無垢なわたしが問うと、彼女は穏やかに笑って教えてくれた。

「ここはね、大切な場所だからよ」

 林を明けるとオレンジの光に目がしみた。ハッキリした色のオレンジは夜の訪れをまるで拒むようで、わたしはただ呆然と、その場に立っていた。教室よりも狭い砂浜。周りは林の侵入を許して姿を失っている。唯一残った砂浜。母が大切と言った砂浜。その先にはよどんだ海がある。

 長いこと走った足はくたびれ、裏にできたマメがビリビリと痛い。夕暮れは夜に侵食され、頭上では深い闇が迫ってきていた。沈んで半分も見えなくなった夕陽。海は光の通り道をつくってきらきらキラキラ反射する。

 目を奪われたのだ。この光の道を通りたい。わたしは走り出した。靴のままゴミが投げ捨てられた汚い砂浜を駆け、服が濡れることも考えずに海へ入った。なのに。なのに進めば進むほど光の道は曖昧になっていく。ついに腰まで浸かって、髪が潮風にベタベタに絡まり、泥に潜ったように身体に何かがまとわりついて、ようやく足を止めた。わたしにとってそこは、光の道を失った海はあまりに心細くそして不安だった。怖かった。そう、わたしは心の底から怖かったのだ。

 空を見上げて声を上げて泣いた。わあんわあん、響く声は遠くにさらさらと消えてなくなる。それが救いだった。いつの間にか夕陽は落ちて、夜の闇が世界を包む。冷たい風が吹いて寒いと涙を止めたとき、ふと、その光景に気がついた。

 月があった。星があった。煌々ときらめく数多の光たちはわたしに降り注ぎ、真っ暗闇になった世界をちいさく照らす。

 ほら、光はあったじゃないか。

猫背女の卑屈な発言の数々を思い出して、わたしは心の中で悪態をついた。お前は間違っていたんだよと、そしてわたしに謝れと。光を見て笑った。しかしそのときのわたしは、わたしがずいぶんとあの女に似てきているなんてまったく気が付かなかった。

 光はキラキラと、儚く不安げに光る。わたしはあの女の言葉を、理解出来てしまった。


   ***


 屋上へ向かう階段を行く足は軽く、一段抜かしで彼のもとへ急ぐ。その速度も、彼の姿を実際に見ると途端に故障したかのように減速してしまうのだが。私はこの時間がなんとなく好きだ。約束していない約束。いつなくなるかもわからない不確定なものなのに、私は必ず彼に会えるのだと思いあがっていた。

 ブレザーのポケットに忍ばされていたピッキング道具はいつのまにか姿を消していて、私のとにかく屋上へ侵入したい欲も、どこかへ吹き飛ばされていた。

 彼は相変わらず屋上の固く閉ざされた扉の番人をしていた。しかし今日の背中が向く方向は扉ではなく私で、真後ろから見たらまるで首がないように映る彼の腕はもぞもぞ動いている。挨拶がてらに「幽霊さん」と呼べば、彼は私を振り向いて「よお」と口角を上げた。その作り慣れた笑顔に私も慣れ始めていた。

「コソコソなにしてんの」

「知育菓子で遊んでた」

「なにそれ」

「ねるねるねるね」

 手に持った容器を両手で持ち上げる。おぼんに二つのくぼみができたような容器のそのくぼみには、キラキラした結晶(たぶん、飴の類)ともう一方の方には紫色のわたあめとヨーグルトの中間である物体があった。彼は私がそれを見たとわかると、そそくさと付属されていたスプーンで激しく紫をかきまぜる。

「……たのしい?」

「うん」

 無邪気に目を輝かせ、その裏で知育菓子に対する本気度を浮かばせながら混ぜる手を止めようとしない。真顔のまま「うん」と首を前に倒す。あぐらをかく彼の前に正座して、もう十分すぎるほど回した紫をいまだに混ぜ続けた。

 彼がその動作に飽き始めると、すくった紫にとなりの結晶をいっぱい付けて口に運ぶ。

「あっま!」

「幽霊ってなに、万能なの?」

「いや、どこからそう思ったの?」

 飛べもしなければ、誰かを呪うこともできないぜ。そう言いながら再びスプーンですくう。食べる? と聞かれたので丁重に断った。彼は唇を尖らせ、乗った紫は自分の口に入れた。甘いな。その声はただの感想か、不満なのかはわからなかった。

「だって、それ、想像して得たとか、そういうんじゃないの?」

 知育菓子のごみを指差す。「ああ」と彼は頷いた。

「買ったんだよ」

「だって学校の地縛霊なのに、どうやって外に出歩いたの」

「簡単なことさ。学校に執着しなくなればいいんだ」

「それは簡単なの?」

「まさか」彼は笑う。自嘲するように。

「でも、いつまでも縛られるわけにはいかないだろ? 俺はたしかに学校に恨みも期待もあったけど、現実が変わることなんてないんだから」

「縛られてたら、身動き取れないのはしかたないよ」

「案外、小指を動かしただけで縄抜けできるかも」

「人生そんなうまくいかないよ」

「環境と他人がすべて?」

「よくわかってんじゃん」

 彼は肩をすくめて「光栄だ」と息を吐く。

「ところで」と私。なんの違和感もなく流してしまったが、あきらかに幽霊ができないことを彼は顔色一つ変えず、当たり前のように話していた。

「幽霊は買い物できるの、幽霊専用コンビニとか?」

「残念だけど、普通のコンビニだよ。夕方勤務の学生はほとんどが自殺志願者だからね。空いてるときにお買い上げだよ」

「お金はどうしたの?」

 盗った? 小声で聞くと、彼は「バレちゃったかぁ」と両手で顔を覆う。しかしそれを無に受ける人などここにはいない。乾いた笑い声に耐えきれなくなった彼は顔から手を離して「参ったな」と言う。隠していた傷跡を見つけた相手が心配に泣いてくれたときに浮かべるような、眉を寄せて口角を上げ、だけど目は笑えない。

 オレンジが差し込む。祝福を受けた私たちは光の中、互いの傷跡を見せ合う。触れるわけでも、慰めるわけでもない。ただ淡々と起きた事実を他人事のように語らう。そこに私たちはいない。あるのは事実だけ。私たちはその事実を語るだけの存在なのだ、たぶん。

 彼の迷った唇が、そぅっとガラス細工に触れるような慎重さで言葉を落とす。

「無生物は触れるからな。財布を取りに、家に帰ったんだ」

 俺の部屋は、まだ片付いていなかった。

 幾月前に死んだのか、俺は自分が死んだときのことはよく覚えていない。ただ学校へ向かう途中の駅のホームから飛び降りたことだけは覚えていた。そのときの感情も、鮮明に。どうして自殺したの? そう聞かれて第一声に出る答えはきっとこう、「死にたかったからさ!」。俺は胸を張って堂々と答える。

 明日が来ることが嫌だった。今日と同じ日々が永遠に続いて、毎日自分を押し殺して生きていくだけ。でも俺は、呼吸をしていればそれが生きていることになるとは思わない。心臓が止まったからと言って、それが死んでいるとも思えない。周りに合わせて、たいして面白くもない空気の文章を読んで、やらなくちゃいけないことばかりが増えていって、人に優しくできる余裕もなくなる。優先席に座れない老人や、腕の中の赤ん坊が泣きだして周りからの白々しい視線にうつむく母親の姿を見ても、人身事故による遅延に舌打ちするサラリーマンにも、何も思わなくなった。なんにも。なんにも、感じなくなった。何も感じなくなった自分を自覚するたび、明日こそ何か一つを成し遂げたい。誰かに優しくしたい。そう強く願う。

 なのに人っていうのはどこまでも不憫な生き物で、俺なんかは不憫さだけが人に誇れる長所だったかもしれない。つまるところ、俺は救いようもない馬鹿で臆病だったんだ。だから勝手に信用できると思っていた人たちに、そのことを話したんだ。友達と、親に。俺は優しくなりたい。無感動な自分はもう嫌だって。

「そうしたら、どんな返事が返った来たと思う?」

「そんな必要はない、とか」

「ああ、惜しい」

 偉いね。

 友達も親も、そう言った。偉いね。そう思えることが優しいよ。オレはワタシは、そんなこと考えたこともなかった。偉いね。偉いね。

「何回も何回も、俺は馬鹿だから、相談しちまったんだ。でも返ってくる答えは同じ。ねえ、セツナさん。セツナさんは、わかるだろう?」

 彼は縋り付くように泣きそうな目を向けてくる。いっそそこから雨が降ったなら、固い拳をつくるその手を伸ばすことができたなら、彼はどんだけ楽になれるのだろう。しかし彼は絶対にそんなことはしない。彼は他人に縋らない。ただ理解を求めるだけ。もとより理解されることすら期待していないのかもしれない。彼は、彼は自分が楽になるよりも、縋るために伸ばした手をなんでもないように気を付けの姿勢に戻されるのが怖かったのだ。

 私は声を忘れた人形のように「うん」と頷いた。彼は「ありがとう」と笑い、言葉を続ける。

「俺は俺にとって当たり前のことを、褒められたくなんかなかったんだ。だって自分がずいぶんと偉い人間に思えるだろう。当たり前のことをしているだけなのに。でも、結果いつも俺はなにもできなかったから、こうして文句を言う権利もないのかも」

 だけど、俺は嫌だったんだ。優しくなりたいと言う俺を褒める人が多くて、それがすごいことなんだと、周りの人と違うように思えてしまうことが。いつのまにか優しいと言われるのが嫌になった。俺は優しい人間なんかじゃないのに。そうして押し付けられた「優しさ」というレッテルは一つ一つが重すぎて、俺は、俺は他人の言葉ひとつひとつが怖くなった。だってすべての言葉たちが「俺は優しい人間」を前提として降ってくるから。言葉に応えるたびにレッテルは増え、その重石に――。

「俺は優しい人間なんかじゃないよ」

 俺が優しい人間なのは、お前たちが勝手にそう言うからだ。俺は普通の優しくない、無感動で頭の悪い臆病者でしかない。なにが「思ってた人と違うね」だよ「そういう人だと思わなかった」だよ。どうして軽蔑した目で俺を見るんだろう。お前たちが俺をつくったくせに!

 もう誰にも俺をつくられたくなかった。俺が俺であることを許してくれないのなら、俺は生きていたくなんかなかった。誰だってそうだろう? 他人に理解されたい。自分をもっと見てほしい。認めて、そのうえで褒められたいし怒られたい。そこに理解がないのなら、どんなに優しい言葉だって暴力だ。逆にそこに理解があるのなら、どんなに鋭い言葉も優しさだ。

そう、俺は死にたかった。誰もが理解してしまったニセモノの俺は、もう疲れてしまった。休む場所がもうなかったら、あとは天国に乞うしかない。だから、俺は、

「自分自身を押し殺して生きていくくらいなら、世界を捨てた方がマシだと思った」

 俺を育ててくれた親も、一緒にいてくれた友達も、全部捨てて選んだのは自分自身だった。俺が死んで、傷つけばいい。だって俺を見てはくれなかったんだから。本当に友達なら、親なら、傷ついてくれるだろう。でも、その逆だってありえる。その逆を俺は見るのが嫌だった。だからずっと家に、学校に帰らなかった。

「ねえ、セツナさん。セツナさんは、死んだらダメだよ」

 部屋が片付けられていなかった。親はいつも通り、俺が死ぬ前となんら変わっていなかった。仕事へ行って、家事をして。でも時々、ふと思い出したように進めていた手を止めるんだ。ぼぅと止まった手を見つめて、それはまるで本当に時間を止めてしまったかのように。そして、俺の名前を呟くんだ。呟いて、それでまた時間を動かす。家事の手を、仕事の手を進める。その声を聞いてしまった俺は、捨ててしまったものの大きさを身をもって知った。学校では友達が、授業中に俺のぽっかり空いた席をずっと見つめているんだ。部活も行かないで、放課後にはそのとなりの席にわざわざ来て、イヤホンを耳に詰めてまぶたを下ろすんだ。ひとりで。――ひとりで。

「つい昨日までは、俺は周りの奴らのせいで死んでやったと思ってた。それが正解だったとも。でも、いまじゃもう何もかもわからないね。あのときの俺はたしかに疲れ果てて死にたかったし、実際、それしか道はなかったんだと思う。でも、もしかすると、俺は――」

 自分を押し殺せばよかったのかもしれない。彼が続けたかった言葉はこうだろう。しかし彼は絶対に言わなかった。固く口を閉ざし、夜が迫るここに沈黙を鳴らす。だから、今度は私が口を開けた。沈黙が嫌だったわけではない。私が話すべきだと、そう思ったから。

「誰も間違ってないよ」

 彼が私を見た。知育菓子の紫は混ぜた直後のようなふんわり感は目に見えて失われ、どろっと汚くなっていた。

「幽霊さんも、キミの周りにいた人たちも。誰も間違ってないんだと思う。幽霊さん、あのね」

 後ろであの子どもが気持ち悪い笑顔を浮かべている気がした。しかし私は振り返らなかった。だって私は彼女を捨てたから。私は彼女と目を合わせたくなかったから。

「私は、キミみたいに世界を捨てるんじゃなくて、自分自身を捨てること選んだんだ」

 ゆきんこ。それがその子どもの名前。名前の中に「雪」の文字があったから。

 私は彼女が、心の底から嫌いだった。






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