第6話
モガは姉弟の囁きを聞き流していた。
密林での敵の接近などの、かつての傭兵稼業で鍛え抜かれた聴覚が勝手に拾ったのだ。自分を生存させている能力とはいえ、それは彼女を歯噛みさせるだけのものでしかなかった。
弦美も助かる気はないのだ。これまでの彼女とその家族に起きたあれこれを鑑みれば無理もないが、モガにはいささか、それが堪えた。
うつむいていたが、顔を上げた。自分がこの場でジェイクや敷居との人間関係を破壊してその場しのぎをしても、何も変わりはしない。
二人はヒガを逃がさないだろうし、責め苛み、ろくでもない収束へ呑まれて行くだけだろう。過去に沢山見て来た例の一つになるだけだ。
それなら、いっそ彼女らの望み通りにしてやった方が―
息をつき、モガはモロキュウに改めて問う。
「予想外の事が起こるかも知れません。外部からの新たな侵入者とかです。
その人達を外に抑えておく為に仲間を外に配置します。いいですか?」
「構いません。こちらの仕事は術式をきちんと最後まで発動させる事。
ジェイクさんと敷居さんのご希望をかなえるお手伝いもたまたまですが兼ねています。敷居さんとジェイクさんからそれぞれ料金も頂いています。
モガさんのご希望はそこの女の子を貴方と一緒に外に出す事でしたね。それも私が保証しましょう」
「あの」
弦美が口を挟む。モロキュウらが振り返る。モガの胸中に一抹の期待。
しかし、その内容はモガの予想通りだった。
「あの、あたしもここで死にます。ただ、弟と死にたいです。
絶対に逃げません。最後に二階のあたしの部屋で、弟と二人だけにして下さい」
ジェイクと敷居は、弦美へ真剣な表情を返して来る。
「本当に、それでいいのかい?」
太めの男の問いに頷いてみせる。細めの男が頷き、告げる。
「なら、そこの君らの期待を裏切った男にそれなりの歓迎をしてやるとしようじゃないか」
蘭と弦美の拘束が解かれ、ジェイクの広げた鞄の中を覗く。
見なくてもモガには想像がついた。大工用具か、もしくは食器だろう。人を責めるには何処を潰さなければ長時間持つかがポイントで、それを知っていれば素人でもかなりの事が出来るものだ。
そしてモガは、完全な被害者である弦美とそれに準じるポジションへ追い込まれた蘭、かつて楽しく会話をしていたジェイクと敷居らが陰惨な儀式に溺れる様を、見たくはなかった。
モロキュウが苦痛を長引かせるポイントをその四人に説明すると、続けて言う。
「以上の場所を避けて、お好きな道具でどうぞ。
ただ、忘れないで下さい? あなた方がそれに興じる今この瞬間から、あなた方も周囲の霊達の生贄なのです。
弦美さんと蘭さんの先ほどのご希望はよろしい、かなえさせて頂きましょう。しかし、ジェイクさんと敷居さん達が暴走した場合、弦美さんと蘭さん、私とモガさんはこの居間から外へ自動的に弾き出されます。
ですので、残念ながら彼を歓迎する時間はそれほどありません。
それを念頭に置いた上で、心置きなくどうぞ」
弦美らが頷く。父親の遺体を動かしている何かから絶叫しつつ逃れようとするヒガは、さすがに己の運命を悟った様子で、顔を引きつらせながら懇願した。
「悪かったって! ノリで言っただけだって!!」
自分で地獄を呼び寄せる才能のある男であるらしい。ヒガに対するモガの興味は完全になくなった。
彼らの母親が、死霊と思しきどす黒く汚れ果てた男達に着衣を破かれ、意識をいじられているのか、ふくよかな胸を、蜜の溢れるのもそのままにしている股間を、数多の崩れかけの手や逸物に蹂躙されている。肉を打つ音と嬌声が響く。
薬でもやっているかの様な、起き抜けの眼差しと、声を漏らしている口が別の逸物に塞がれ、死霊の陰に彼女の姿は見えなくなった。
恐らくもう、あの双眸に他人の姿は映っていない。そういう淫らな行為に及ぶ霊の事は映画や本で読んだ事がある。まさか自分で拝む羽目になるとは思わなかったが、ろくでもない経験なのは間違いない。
かつてモガも誠に不本意ながら似た様な経験をしたが、意識していない他人の肉体が身体を無遠慮に撫で回す不快感はどれだけの時間が過ぎても生々しく蘇り、陰鬱な気分で脳裏を満タンにしてくれるものだ。それは相手を殺害してもきっと消える事はないだろう。何せ自分にそれをしたくそったれな奴らは、別の作戦行動中に機銃でひき肉にされてしまったのだから。
主人と思われる男も首を傾げているのかと思ったら、その背後に立つしかめっ面の老人に手拍子を打たれながら、虚ろな瞳で虚空を見つめたまま下に首を回し、生木の折れた様な音と共に口から泡を吹き始めた。
わずかに意識があるのか、うめき続けるその身体はヒガの元へ引っ張られる様にスライドして行った。
ヒガが悲鳴を上げるが、震えている弦美と蘭の瞳からはまだ、確実なヒガへの怨嗟が感じ取れた。
両親は勝手に片付いてしまいそうだ。
モガはモロキュウに携帯を借りる。非常時に備えての番号のひとつに連絡した。また新たに用意しなければならないが、その手のデータを売り買いしている業者らが手頃な番号を幾らでも持っている。それはそれでツテを辿ろう。
伝言を入れて電話を切り、ややあって今の職場の親友から連絡が入った。事情を話すと、同僚らを連れてここにすぐ来てくれると言ってくれた。
モロキュウの張った結界の危険性と自分が安全に外へ出られる事、外に関係者の友達が来るかもしれないので引き止める様に伝えると、了解の返事と共に通話が切れた。
ヒガはうつ伏せにされ、改めて猿轡をかまされた。
揃えて伸ばされた両腕にジェイクが座り込む事で改めて動作を制限される。父の肉体を借りた何かにパンツまで下ろされ容赦なく尻穴を犯される激痛にのたうちながら、弦美と蘭、敷居らのそれぞれ手にした道具によって、小指側から足の爪をモガはゆっくりとはがされている。
「あがあああああああああああああああああああああああああああああっ!」
「ケツを犯される感覚はどうだい、兄貴。死にたくなる気分だろう?
滅茶苦茶痛ぇし、気持ち悪いってレベルじゃねえんだよ。漏れそうになるしな。
俺はそれをてめぇのした事が原因で、体力バカの脳味噌筋肉教師にやられた。嫌な奴が全員集合したその前でな。
たっぷりと味わえ、クソ野郎」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおああああああああああああああああああああぁァ……!」
『う、うぅ……ごぼら……ぶ……』
首が逆さになっている父親は、最早弦美や蘭達には、恐怖の対象どころか興味の対象ですらない様子だった。
物憂げな表情で、ヒガの爪を完全には削ぎ落とさず、ふたの様になったそれを上げ下げする事で反応を楽しんでいる。
同時に複数の場所を責め立てられれば、まず人は嘔吐する。そこを気にかけたのか、モロキュウが
「こみ上げて来るそれで、対象が窒息しない様に注意した方がいいですよ。意識が跳ぶか窒息死して、楽になってしまいます」
と注釈をする。
爪の激痛は想像がつくので、モガは深く考えない様にした。外が気になるし、ヒガの漏らすそれと入り混じった悪臭が、戦場で嗅ぐ羽目になった数多のそれ同様、スルー限界に来ている。
遺体の傷み具合にもよるが、死臭だったら即座に吐いているはずなので、
『どうやらかろうじてそれは混ざってはいないらしい』
と認識する。
モガは
『そこに来たのが自分で本当に良かった』
と思った。交代したもう一人の自分ならまた身を投げ出して、今度こそ確実に死ぬだろう。
物量でどうにかなる状況ではない事を、この場の空気と視界の端に映る、あり得ない連中の様子が示している。
家中から異臭がこの居間に集まっている気がした。意識をはっきり持っていてもマッサージされながらクロロフォルムを嗅がされているかの様な倦怠感に襲われる。
悲鳴を上げて逃げ、事態収拾の如何を問わず、結果的に助かる事の出来た怪奇体験の持ち主がうらやましい。モロキュウがいなければ、多分自分も長くは持たない。
ヒソヤマ家の外に別の大きめの白いバンと黒塗りの車が二台止まった。
密かにライフル弾や爆発物への対処を済ませてある、偽装したバンから降りて来たのは、イヤーカフタイプのインカムを付けた、スーツ姿の護衛の男ら数名に囲まれたトモ、ミキ、ミナの三人。そして、黒塗りの車から、こちらもトモの側の護衛に囲まれて降りて来たのは、トモが父のツテで呼んだ仕事屋だった。
それぞれが下校後という事もあって私服だったが、ほんの数十分前にトモの家にかかって来たうめき声交じりの電話の発信元を彼女が家の者に探らせた所、それがヒソヤマ家からのものであると判明し、
『一人で突っ走らないなら』
という条件で、ミナとミキに知らせた所、同行を求められ、こうしてここにいる。
仕事屋は何が起きているのかを調査させる為にトモの父が同行させた、裏社会の人間だった。
『大体の事は現場を見れば分かる』
との事で、経験は長いとの事だった。車は別だったが、護衛の者らとそれぞれの車中で携帯で連絡を取っていたのだが、後少しでヒソヤマ家に到達する、という辺りで、彼から不穏な知らせがあった。
『その家の周囲だけ、踏み込んではいけない空模様になっている』
というのだ。
トモら少女三人には普通の夜の帳が落ちかけている空模様にしか見えなかった。が、会話をオープンモードにした車内で仕事屋は言った。
「変な物件とかは沢山見て来ました。ですがね、ありゃあ訳あり物件の中でも持て余されて、取り扱う羽目になった奴でも、客にはそりゃ売りますけど、自分はとばっちりを避けて別の県に引っ越すレベルの危険物です。
私はたまたまどういう訳か、そういうのはピンと来る様になったんで自分でも避ける様にしてるんですが、
『空模様がそこだけ駄目だ』
ってのはそれはもうアウトな場所です」
トモが訊ねる。
「確かに変ですけれど、具体的にはどんな感じですか?」
「そうですね……天気予報などでその場所だけ集中豪雨があったりする土地なんかは間違いなく何かあったか、土地で誰かが変な亡くなり方をしています。治安も悪く、まず経営がしんどい不動産屋でなければ堅気のお客さんにはオススメしない。
そういう土地です。
何かの店を出すにしても、長続きはまず無理。そういう意味では使い捨ての場所にすらなりゃしないんですよ」
幾つかの土地の名前を仕事屋は挙げた。ミナやミキにもおぼろげながらそういうスレッドなどをネットで見た経験があるらしいので、イメージするのは容易かった様だ。
トモもネットで見た事がある。
「そういうのは見た事があります。確かに変な様子でした」
「他にも例えばその場所か近隣に、工事をしては駄目な場所があったり、お祭りをするだけでも地元で長い時間をかけて会議をしなければ、最悪人が沢山亡くなる場所というのがあります。
聞いただけでも星の数ほどありますし、今はコンビニでも文庫本で実話怪談本があるでしょう? ああいうのに具体的な情報は伏せつつも、話として載る様な場所、という事になります。
私らがこれから向かおうとしてる場所はまず間違いなくそれですね」
絶望的だった。ヒソヤマ家には不運が付きまとっているが、まさかそんな物まで背負っていたとは。
ミナやミキを見やるが、具体的な打開案などは出せる訳もない。
何せ、何があろうと突っ込んで行って報酬をもぎ取って来る危ない業界で飯を食っている人間の意見だ。こちらの提案など大体は経験済みで犠牲者が出ているだろう。
あえてトモは聞いた。
「そこに誰か知り合いがいて、連れ出さなければならないとしたら?」
仕事屋はうめいた。
「そういう場合ですか……ありゃあもう人がどうこう出来るレベルの代物じゃないんですよね……知り合いの業者や客でも、関わっただけで結構な数が行方知れずになったり、死んだり怪我をしていますよ。怪我で済めば御の字な物件ですね。
大体はお祓いをしても、微塵も効き目がないんです。
『名の知れた神主さんやお坊さんらがたらい回しにした上で保留にする程のヤバい代物』
と言えば、想像がつきますか?」
今度はトモがうめく事になった。他の相手なら自分も手を引くだろう。
しかし、その場にいるのは不憫な境遇から抜け出せそうなクラスメートとその家族なのだ。
本当にどうしようもないのだとしても、可能な範囲で手を打ちたいのが本音だった。
助手席にいる護衛の男が口を開いた。彼もまた通常なら海外との情報戦に身を置く立場だったが、現場経験の多さで、今回この場に呼ばれている人間だ。
「お嬢さん、我々の事は壁だと思って下さい。必要なら、邸内に突入します」
「私もです。状況内でそういう現場には幾度も遭遇し、おかしな事も沢山ありました。
しかし、今回はお嬢さんのお友達が中にいるのでしょう?
覚悟は決まっています」
そう、運転席の男が告げた。
思考に耽っていたと見える、深く息をついたミキが言う。
「あたしは、正直生きた心地がしない。膝が笑っちゃうんだよね……でもヒソヤマちゃんがあそこにいるんだとして、トモが行くって言うなら、あたしも行く」
ミナも、震える手をミキに握られながら告げた。
「私も行く。一人なら多分時間が過ぎるのを待ってしまうと思う。
でも、私も二人が行くって言うのなら行く」
場の雰囲気に選択を迫られながら、彼女らは現場に到着したのだった。
遅れて、別の人々が現場へやって来た。
一人は、ふくらはぎの下を撫でそうな程に黒く長いポニーテールをなびかせた、恐らく身長は180センチ台と思われる、グラマラスな白人女性。モデルかと思うほどには場違いだとトモは思ったが、
「お嬢さん。所属は分かりませんが、彼らもプロです。普通に歩いていますが、いずれも実戦経験が豊富ですね。
我々の後ろにいて下さい」
と、先程の助手席の男が彼らを見たままトモらに告げる。護衛のメンバーなりのフォーメーションを組む位置にそれぞれが立ち、ミナ、ミキ、仕事屋の盾になる。
『ポニーテールの女性は、堅気ではない仕事で食べていた過去がある』
と、彼は教えてくれたのだ。ハイネックの薄手のセーターに薄手のベストと襟を立てた寒空色のコートを羽織り、下は女性のファッションでも取り入れられる様になった黒のアーミーパンツと脛の上まであるごついブーツ。
『あのアーミーパンツ、厚さから見るに、多分防刃加工がしてあります。ブーツは安全靴仕様の可能性が』
と、助手席の男。
『鉄骨を落とされてもつま先はかろうじて平気』
という訳だ。
『指の先と爪が割れ、出血と共に中身が微量にはみ出る程度が平気だと言うなら』
だが。
着衣の主である女性の真ん中で分けた前髪の下の美貌と縁なしの眼鏡。その奥からアーモンド色の穏やかな瞳ながら、少し悲しげな印象の視線を飛ばして来るのが特徴的だった。
その脇を固める様に付いて来たのは、時代劇の下級役人か古参の大工の様なデザインの下履きを着用している(と、トモは見た)、漆黒の着物に紫色の羽織をまとった、地下足袋に紐付き布草鞋を履いているざんばらなボブカットの隻眼の日本人男性。両手にはめているのはメッシュの指貫グローブかと思ったがそういうデザインの手甲であるらしい。
右目は酷い火傷を負ったらしく、顎の下までの痕に迫力があり、閉じたまま開く気配がない。よく見れば両頬に、下から顔の中心を目掛けて二本ずつの、鮫の牙を逆さにした赤い文様が走っていた。何者なのかは想像もつかない。穏やかな表情だが、何処か達観した者の漂わせる哀愁の様なものがある。
運転席の男が、彼を見つめながら緊迫した雰囲気を漂わせ、言った。
「何処かの国で仕事をしている……にしては妙です。黒のスーツの女性と共に、我が国から出た者に何処かつきまとう気配がない。
そうか、あの長身の女性がわざと立てているであろうその足音しかしないんだ……例えるならですが、黒衣の二人の方は野武士みたいな感じがします」
彼がそう告げたもう一人は長身の女性の反対側の脇を固めていた。ウルフカットをそのまま伸ばしたと思われる、肉感的な肢体をパンツルックの黒いスーツ姿に収めた日本人女性だった。現実感のない美貌が、記憶に残りにくい。
特に黒衣の男女は見ているだけで何かもやがかかった気分になる。それを振り払い、代表としてトモと助手席の男がやり取りして判明したのは、彼らが今回の実行犯のネットでの知人、その仕事仲間だという事だった。
ポニーテールの女性はルビノワというらしい。男性は鬼岳沙衛門(きがく・さえもん)という、これまた古い印象の名前。残るウルフカットの女性は彼の連れで、
「るいと申します」
と自己紹介をされた。
こちらも芝居がかっているのではなく、日頃からそういう挨拶をしている者の態度である事をトモは見抜き、ミナらに告げた。
彼女らの話を信じればだが、中にいるモガという女性が今回のこれを知った時にはもうこの有り様だったのだという。その女性には主犯の男達は事情をはるか前の段階で伝えるのを止めていたらしい。
ルビノワが流暢な日本語で言う。顔を見なければ日本人のそれだとしか思えない程に、とても達者な日本語だった。逆に謎が深まる。
「『自分を巻き込むのを止めて、独走したのだ』
と、先程連絡を受けました。モガは仕事仲間ですけれど、それ以前からの親友なんです。
放っておけなくて駆け付けたら、あなた方と出会った訳なんです」
「ふむ……」
「俺からもいいだろうか?」
沙衛門が軽く手を上げただけで場の雰囲気が更に重いものになった。見れば反射的に助手席の男が懐の銃を取り出すべく手を左脇に差し込む手前で止めているのが分かった。下げていた手がそこに至るまでの動作が見えなかった事に、彼をよく知る立場のトモも驚愕した。
沙衛門が軽く息を吐き、軽く手を振って続ける。
「この口調は元々なのでご容赦願いたい。また、ルビノワ殿やるいと同様、お主らに危害を加えるつもりも毛頭ない。
中にいる大切な同僚を救出するのが俺達の目的だ。今回の事とハンドルネームにはびっくりしたが、俺達が知る彼女である事に間違いはないと思う。
こちらからは今、ルビノワ殿が明かしたのが把握している状況の全て。情報共有を希望したい」
そう告げると沙衛門は軽く頭を下げる。助手席の男は挙げた手を下げていない。自分の想像を超える範囲での沙衛門の攻撃を想定しての態度である事は分かったが、後ろにいる友人二人が吐息を漏らしたのをトモは感じ取った。
『そこまでしなくても』
と言いたいのだろう。
るいが口を開いた。
「私は長く彼の部下として仕事をしている者なんですが、その点は信用してあげて頂けないでしょうか。中にいるモガさんも、もう長い事、私達に良くしてくれている人で、親友なんです。
可能な限りの中の人を救出する方向で、協力を要請します」
「トモさん」
助手席の男は彼らを見たまま、運転席の男が指示を仰いで来た。
もしかしたら、状況が良い方向へ進展するかもしれない。トモ友人らを見やって、彼女らが頷いたのを確認してから頷いた。
「分かりました。こちらの情報を」
完全に夜になった。
家に到着する道路は二ヶ所。そちらにそれぞれ数名の護衛が立っている。仕事屋も交えて、現場であるヒソヤマ家の状況を整頓する。先程の車中での彼との会話の要所をピックアップして伝える。
「私からは、
『手の打ち様がない』
としか。逆にそれだけは確実に言える事です」
仕事屋の話にるいと沙衛門が唸った。沙衛門が彼に問う。
「失礼、つまり、お主にはこの近辺ではその怪しい空模様だけが見えている訳か」
その問いに何かを感じた様子で、仕事屋は頷いて問い返す。
「ええ。もしかしてあなたにはまた別の?」
「うむ。先ほどから巨大な熊の口の前にいるのと同じ危機感を感じておる。
家を取り巻く様に結界と思しき細工がしてあるのもな。恐らく周囲の家々からこの家だけを遮断したのであろうよ」
トモはまた驚いた。眼前にあるのは極一般的な一軒家だったからだ。
結界とやらも何処にあるのか見えない。とても信じられなかった。
「各々方に見えなくて幸いだった。あれは見たら動けなくなると思ったので、黙っていた」
「熊ですか?」
ミキが怪訝な顔をして沙衛門に訊ねた。
「左様。他にも気になる点はある。
まずそれが見えなかったとしても、作業をしている風景はあったはずだ。それならパトカーも来ているはず。
しかし、それはあったかな?」
確かにそんな作業をしていれば目立つはずだ。パトカーは去った後なのだろうか?
助手席の男や運転席の男を見やる。運転席の男が答えた。
「通常のパトロール以外で作業が行われたと思われる昼から今の時間まで、この近辺を回った警察車両は記録されてませんね」
「ふむ……まずそこからしておかしい。なので、モガ殿の話が正しければ、そちらに通じた誰かの手引きがあったと思われる。
作業風景そのものを隠せる程の何かを行える誰かだ」
「確かに」
「熊の前ってだけで、あたしは厳しいです。あの……」
ミキがトモに耳打ちした。トイレを借りたいそうだ。
運転席の男にそれとなく伝え、インカムで女性の護衛がやって来る。
「私もちょっと行って来ていいですか?」
ミナも緊張感に尿意を覚えた様子だった。頷いてやると二人は彼女に連れられ、近隣のコンビニを当たらせた。
「失礼、続きを」
「そして、遅れて来たとはいえ、俺達の車もそれらしいものを見かけなかった。
更にお主らが来て、俺達もこうして家の前で話し合っている。この様子は少なくともただ事ではないはずで、近隣の住民から何か問いかけて来るか、連絡が行っているとしても交番の警官が来ても変ではないはずだ。
しかし、いずれもないのであろう?」
「ええ、今申し上げた通りです」
沙衛門の問いに運転席の男が答える。
「家の中で騒ぎがあれば、物音も聞こえて来るはずだ。しかし、耳にはそこそこ自信のある俺やるい、ルビノワ殿、また、お主達も何か聞き取れたかな?」
護衛のメンバーを含む沙衛門以外の全員が否定を示す。
トモは異常な状況下で、少しじれったくなり、恐れていた疑問を口にした。
「仕事屋さんには
『この家の上空の空模様に異変がある』
って聞きました。
沙衛門さん、あなたには何が見えていますか?」
「住宅地のど真ん中に、少なくとも10階建て位のマンション規模の巨大な熊が横たわっているのが見えた。その鼻先が俺達を向いているのよ。
今、この瞬間にもな」
誰ともなしに怖気が走った様子で、非常事態にさえ慣れている、ベテランでの護衛の男らが身震いする。
「しかも、洞窟みたいに奥が見えぬ、大きな口を開けています」
るいが付け加えた。トモは想像したくもなかった。
戻って来たミナ達もそれを聞くと、身を震わせた。
『そんなものの鼻先で会話をしている』
という事実を受け付けるのを脳が拒否しているのだ。
「熊か……神社とかで
『奉られてる神様の巨大な姿を見てしまった』
っていう話は聞いた事がありますが、ここはそれでどうも、さっきから獣の臭いがしてたんだ……」
仕事屋には臭いが察知出来ていたらしかった。トモにはいずれも確認出来なかった。
少しまぶたを閉じてから、改めてルビノワが訊ねる。
「私にも見えません。ですけれど、だからこそ様子は確認しておきたいわ。
沙衛門さん、もう少し詳しく」
「簡単に言えば、あの家の玄関のドアが口で、二階の窓が目だと思ってくれればおおよそ間違いない。サイズは比較にならんほどでかいが、その熊が口を開いている。
しかし、新たに中への侵入を許すつもりはないと見える。一寸分かり易い例として石を投げてみていいだろうか?」
トモが許可すると、沙衛門は何処からか拾った様子の小石を手に立ち上がり、特に速度を出すつもりでもなさそうに、手首だけでドアへ投擲して見せた。緩やかな放物線を描いて、当たる寸前、それは乾いた音を響かせて空中で潰れ、見えなくなってしまった。
「えっ……」
「何、今の!?」
ミナとミキが手を取り合った。護衛達に絶望の気配。ルビノワの視線が鋭くなり、その唇から言葉が押し出される。
「垂直に押し潰された……?」
「その様子だ」
頷いて沙衛門が振り返り、
『お静かに』
とでも示す様に立てた人差し指を口元に当てて見せると、ミナらは今度こそ抱き合って震え上がった。トモにも滅多に見せない、本格的な恐怖を感じている。
トモにしても今見たものが何なのか分からない。クレー射撃の的みたいに散ったと思ったが、破片はどうなったのだろう?
そう聞くと、沙衛門は言った。
「俺とるいは夜間でも目の利く方だが、それらしいものが見えぬ。噛み潰されたのだ。破片も多分飲まれた。
ふん、熊の瞳が挑発的になったわ。だが、トモ殿。それと各々方。お主らは間違いなく逃がしてみせる」
改めて振り返った彼、そしてるいの瞳には決意の光があった。
「方法があるんですか!?」
ミキが訊ねると、沙衛門は頷いた。
「あれごと潰すだけならな。そして俺とるいに見えているこれが、本当の正体なのだとしたならば、だ。
奥の手があるかも知れぬ。その場合はまたやり合いながら手を考えなければならぬ」
ミナも訊ねた。
「『やり合いながら』
って、戦うんですか?」
「そうせざるを得んのよ。棒立ちでいれば瞬きする間に吹き飛ばされる。
で、俺はそうされるつもりはない。
今の様子から察するに、奴自身はダメージを受けずにこの辺り一体を潰して回るであろう。熊だしな。
恐らくは術者のレベル、それとそ奴がその修練の果てに繰り出した術式が収まるその瞬間まで」
ミキが呟く。
「熟練者だから、どれ位の時間がかかるかは見えないか……」
ミキは自身が所属するバレーボール部での練習量に例えてイメージしているのかもしれない。沙衛門が訊ねた。
「お主、何か運動の部活をしているな?」
「はい、バレーボール部です」
「なら例え易い。中でこれを操っている奴、体力だけではなく精神力も並ではあるまい」
ミキは額に手を当てた。軽い目眩がした様だ。支えるトモ、そしてミナにも言う。
「あちゃ~……精神力の鍛錬ってのは子供の頃から意識的にやらないと伸び代がそんなにないんだよ。
そこはトモも合気道だっけ。やってるから分かるよね?」
「ええ」
「ミナも絵を描く時の集中力、それがどれほど持つかで考えてみて。集中出来る時間が滅茶苦茶長い人の場合」
ミナもため息をつく。理解した様だった。
「ずっと没頭出来る人は計算してみても
『朝起きて、絵を描いていて気付いたら夜だった』
っていうのが少なくないの。15時間以上になる。そこまで行かなくても、絵を描くのが好きな人とかからはよく
『気付くとトイレと食事と睡眠を除いても、やっぱり10時間以上は過ぎてる』
って聞くよ……」
ミキは険しい表情で視線を伏せる。
「そっか……トモ、中にいる奴がそこをどうしたか分からないけど、これは長丁場間違いなし……」
「参ったわね……」
ミナが改めて沙衛門に聞いた。
「沙衛門さん達もその、おばけとか霊とかをお祓いしたりするお仕事の方なんですか?」
「いや、残念ながら業界が少し違う。俺達の流派は、先祖が山の神々と契約をして不思議な力を使える様になったとは聞いている。
その後は、今で言うジプシーみたいな生活をし、村々を作って移り住み、その後は各国の大名に取り入るべく、その血を伝えるべく、確実に行われた闇の歴史がある」
「近親結婚とか、ですか?」
その話題は憂鬱なのか、問いかけたトモに沙衛門は、瞳だけで反応してみせる。
「それらが行われ、およそ数百年。その果てにあるのが、俺達だ。
おかげでまあ、多少は祓う者らの真似事も嗜んでおる。修行のひとつだったのでな。なので専門ではない。
また、ミナ殿が言った様に
『色々な者を相手にせねばならぬ』
というのは間違っておらんが、あくまで武道なので、術式としてこれらを用いるレベルの祓う者には何処まで通用するか分からぬ」
「そうなんですか……あっ、いえ、ごめんなさい」
明らかな失念の声を漏らして慌てるミキとミナにも穏かな笑みを返す。紳士としてもかなりのやり手とトモは見た。
「常人の目に見えぬものだとしても、それすら、分かりやすく言えば偽装出来る。それがこの世ならざる者に関わって仕事をする連中の恐ろしい所よ。
そして、後々の為にも、少なくとも俺とるいは、まだこの術式がどうなって行くのか、それを突き止めなければならぬ」
「あやつ、舌なめずりしてから、また口を開け直しました」
沙衛門の押し殺した様な発声のせいと、るいの声が自然に闇に消えて行く事が更に得体の知れない恐怖を誘った。彼らにはそれが見えている。
トモが言った。
「つまり、じゃあ、中に入ろうとすれば」
「食い潰されるだけだ。分厚い氷河に体当たりする様なものかな。
また、今のは小石が潰れるだけで済んだ様だが、侵入を試みる事で中の面々の安否も保証出来かねる」
「なら、何で石なんか投げたんですか!?」
思わず声が荒くなるトモに沙衛門は吐息を漏らしてから、告げた。
「考えなしにやったのではないのだ。中にいるモガ殿が接触中の男が、ほぼ確実にこのシステムを作った奴なのだと思われる。仕事で引き受けたならそいつがある程度は制御していると考えた。
そういう手合いは自分が危機に陥っては話にならぬ。故に安全だと思った。
モガ殿の話によれば彼女とその男だけは外に出られるとの事だ。で、この熊がお主らには見えぬ。
下手に侵入されるよりは危なさとでかさを察してもらおうと思ったのだが」
「……ごめんなさい」
「構わぬ。当然の反応だ。
トモ殿と言ったか。友達思いなのは良い事だ。そのままでいて欲しいものだ。
それも含め、最悪の場合は俺とるいがここに残る。お主らは真っ先に護衛の案内に従って逃げるべきだ」
平常心を保つべくしてか、あくまで穏かに返して来る彼はやけに渋く見えて、トモは何故か顔が赤くなるのを感じた。るいはそのやりとりをこれまた穏かに微笑しつつ見守っている。
こういう現場に慣れ過ぎている。護衛の男達は沙衛門とるいを見て、そう判断した。何か打てる手があるかもしれない。
「それじゃ……とにかく私達は待つしかないって事ですか?」
「中にいる男には連絡は出来るみたい。ノイズがこちらからだととても酷かったけれど」
ミナの問いにルビノワが携帯電話を出した。ここに来る前に、中にいる男に借りた携帯でモガから連絡を受けたのだという。
どういう理屈でその番号だけが繋がるのか、説明出来る者がいない。そのモガという女性と男は助かるシステムという訳だ。
余波はその二人には行かないのかもしれないが、他の面々はどうしているのだろう。
トモは交渉するなら早い方が良いだろうと思った。まだ素性が探り切れていない沙衛門らに対する牽制として立っている護衛の男達も体力勝負を見越しているのだとしたなら、かける先はそれほどない。
「父に電話してみます。仕事屋さんとルビノワさん達で何か手が打てないか、ちょっと考えてみてもらえませんか?」
「待って。あなたやお友達と思われるそこの女の子達、それにあなたのガードをしている方々の物腰をさっきから想像していたんだけれど、大まかでいい、どういう勢力の人なのかを知りたい」
「えっ」
「『仲間が出て来た途端に口封じは御免だ』
という事よ。あくまで保険ね。
状況はお互いにとって大変にまずいものだと思うから、その辺はきちんとしておきたい」
「なるほど……じゃあ、直接話した方が多分早いです」
トモは携帯で父を呼び出し、手短かに現状を伝えると、そのままルビノワにそれを差し出した。受け取り、トモを見つめたまま、最低限の防衛行為なのか、少し耳から話しながら、ルビノワは電話の向こうとやり取りを始めた。
会話の内容から察するに、今は住み込みで家の管理をする仕事についており、彼女達自身は警察を困らせる手合いではないらしい。問題なのは相手側に困らせる手合いがいる事。そこはその勢力の情報を随時渡す事で、一種のルールをルビノワは築いた様子だった。トモはトモで、
『一般警察に話をするよりも一番上に話した方が後々楽だろう』
と考えたのだ。
それはどうにか上手く行った様子だった。
携帯を返しながら、ルビノワはトモに言った。
「まあ、聞いての通り。海外で銃を使う仕事に長く就いていたの。傭兵もしていた。
親とは上手く行っていないけれど、別にそれが原因で裏社会に入った訳でもない。傭兵時代の仲間でそちらに行った人はいるけどね。
結果的に仕事でかち合って、意思の疎通が上手く図れないままの相手や、ずっと恨んでいる奴もいる。
沙衛門さんとるいさんとは、今の仕事に就いてからの知り合いだけれど、数少ない私とモガの友達なの。命を救われた事も少なくない。
だから、時には非合法な手段を用いてでも、今の関係は続けたい。
『相手側の情報を渡すから、セルフディフェンスには目をつぶって欲しい』
って事で、あなたのお父様とは話がついた」
「『嫌な所に知り合いがいる一般人』
という所ですか」
「そう。本当に最悪。だけど、沙衛門さん達やモガがいたから今、こうしていられる。
雇い主とも今では大切な友達同士になれた。そういう関係って、代わりはそう簡単に見つけられる?」
トモは首を振った。自分達のそれを訊ねているのなら、それはNOだ。
偶然だが、トモは自分の未来像を前にしているのだと思った。父の立場を巡る権力闘争の気配はこれまでにも嫌というほど経験して来た。そんな自分、そしてミナやミキの進む先に待っているであろう可能性のひとつ。
それがルビノワであり、沙衛門であり、るいなのだと思った。
ルビノワは穏かな眼差しで言った。
「ありがとう。結果はどうなるか分からない。
なので、ここにいる面々だけでも最悪の場合は逃げる方向で」
「現状がこれですから……」
自分の友人らの期待に応えられない事で、また孤立する危険性が脳裏に浮かぶ。
ミナとミキだけは残ってくれた。それは奇跡的な事で、今回の事が原因で関係が崩壊したら、多分、当分立ち直れないだろう。
トモはミナとミキを見やった。ミキは頭をかいて言った。
「うーん、あれを見たら、トモを責めたりは出来ないよ……あたしらも腹をくくるしかないって事か」
「ええ……」
ミナも訊ねて来る。
「弦美ちゃんがどうなっちゃうのか心配だけど……様子を見るしかないんだね」
「そうなるわ。多分、ヒソヤマさんを助けられない可能性の方が高い」
ミキがヒソヤマ邸を見上げる。ぼんやりと見上げていたそのまなざしが、ぐっと険しくなった。
「……そうなったとしても、あたしはトモを一人になんかしない。薄情かもしれないけれど、あたしはそうなっても、二人と一緒にいたい。
まぁ……それはトモとミナが許可してくれたらの話だけど」
三人の中で一番背が低いミキが、最後の辺りは自信なさげに見やりながら、訊ねて来る。ムードメーカーだが、媚びる真似はせず、振り切ったつもりで陰で泣くのが、この幼馴染の少し困った所だ。
ミナはミキがポケットに突っ込んでいた手をそっと抜かせ、それからだらりと下げつつも握り締めていたトモの手を開かせ、それぞれを包み込む。成長した事で、今は三人の仲で一番背が高い彼女がそうしてくれると、何故かいつも安心出来た。
「私も、大した事は出来ないけれど、ヒソヤマさんが救えないのだとしても、二人を放り出したりしない。よく分からないまま二人までいなくなるのは嫌だから」
「ミナ……」
視界がにじんでしまうのをトモはうつむいて堪える。ミキは肩をすくめつつもまた深く息をつくと、ミナの手を軽く握り返しながら、その腕に抱き付く様に縋り付いた。
中にいる友人の惨状と覚悟をまだ知らない三人は、そうする事で自分達の方の覚悟を決めた。
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