第16話 生きすぎた慣性


 あの男との出会いを、私は片時たりとも忘れたことがない。

 剣から滴ったお父様の血。手負いのゴブリンのような血走った目。

 悪魔のようだとも思ったし、獣のようだとも思った。とにかく、何かとてつもなく悪辣なモノが、お父様の命を踏みにじったのだと、私は直感的にそう思った。


 ――殺さなければ。


 自分の発想に、少しも違和感を抱かなかった。

 そのために自分が生まれ育った城を、街を破壊することにも、やはり違和感は覚えなかった。


 ――そのくらいしてでも、コイツは殺さなくてはならない。


 何年も何年も何年も、時には互いに力尽き、時には他の魔神に邪魔されながら続いた殺害合戦の記憶は、今となっては夢のようにあやふやだ。

 ただ、そんな中でも、印象深い記憶はいくつかあった。

 例えば、他の魔神の邪魔を嫌って、空の上にまで出たときのこと。

 宇宙空間に漂うわずかな魔力を掻き集めて、今度こそ決着をつけようと全力で戦った。その結果、煽りを喰った月が砕けかけて、元《七天の勇者》の一人であるウラノスが大慌てで飛んできたのだ。


『二度と月見ができなくなったらどうしてくれるんじゃ馬鹿もんが!!』


 ウラノスは自称2000歳、九本の尾を持つ狐の獣人ライカンスロープで、何よりも月見酒が好きだった。

 それが高じて、私たちが転生する少し前に宇宙の果てへと旅立ってしまったのだが……その前には、故郷も家族も失った私の保護者を気取っていた。

 私にとって、元《七天の勇者》はみんな仇だ。しかしウラノスだけは、その奇妙な魅力で毒気を抜かれて、まるで母親のように感じてしまっていた。


 普段は温厚というか、飄々とした雰囲気の彼女にまさかのマジギレをされて、私はとてもショックを受けた。

 それはあの男のほうも同じだったようで、二人揃って10年振りくらいにやる気(殺る気)を失ってしまった。

 そうして、宇宙空間にふわふわと漂いながら、私たちは初めて、ある程度冷静に語らう場を持ったのだ。


『……宇宙って、暗いばっかでつまんねえなあ』


 と、彼は全方向に広がる星々を眺めながら言った。


『空の上には、もっと面白いもんがあるんだと思ってた。月だって、地上から眺めたらあんなに神秘的なのに、近付いてみたらただの岩の塊だし』

『……そうかしら』


 と、私は彼とは違う場所を見ながら返す。


『私には、とても神秘的に見えるけど。ほら、あんなに荒れ果てた、争いばかりの世界が、ここから見たらこんなに綺麗に見える』


 青く輝く星。

 私たちが生まれ育った世界。

 かつての繁栄を失い、終わりなき争乱の時代にある、やがて滅びを迎えるだろう場所。

 それがこんなにも綺麗に見えると――自分のしでかしたことが、少しだけ薄れて感じられる。


『……そうか。お前には、そう見えるのか』

『あなたは違うの?』

『オレには、あの青が血に見える』


 隣を見ると、星が放つ青い輝きが、彼の瞳の中に映り込んでいた。

 その顔は、何かをこらえるような、あるいは何かが抜け落ちたような、真っ白な無表情。


 その顔を見たとき、ああ、と私は理解した。

 魔神に堕ちた今でさえ、彼はやはり勇者なのだと。

 それは私にとって、どうしても理解したくなかったこと。

 だって、それを認めるということは、お父様の死が因果応報だったことを認めることになる。私の憎悪が見当外れだったことを認めることになる。


 だから、この瞬間から、私は残骸になった。


 憎悪は宛先不明で送り返され、かといって送り直す場所もなく、ただ復讐という目的だけが生き残った。

 人生のほとんどは慣性で進む。

 勢いのつきすぎた私の人生は、もはやルートの修正なんて不可能だった。理由に正当性がないとわかっていても、殺し合い続けるしか他に仕様がなかった。


 それから私は、ずっと慣性のままに生きている。

 宇宙で射放たれた矢のように。




※※※




 窓の外に見える《エドセトア・タワー》のデジタル時計が、『15:59』と表示した。

 第三テロの予告時刻まで、残り1分。

 リリヤ自身の殺害予告時刻までは、残り1時間と1分だ。


 リリヤは17時からの式典に備え、アンニカによるメイクアップを受けていた。2時間ほどをかけて、ようやく完成に至ろうとしている。

 15時に起こった第二テロについては、すでにアンニカから報告を受けていた。

 謎の少年が突如現れ、ダンジョン化した博物館をあっという間に突破し、逃げ遅れた人々を爆弾から守った――だそうだ。


(……どこまで行っても……)


 呆れ混じりにそう思う。人の性根というのはそう簡単には変わらないらしい。憎悪に支配されようと、新しい身体に転生しようと。

 ゆえにこそ、彼はリリヤを殺しに来るだろう。見知らぬ他人を守ることと、よく知る宿敵を殺すこととは、彼の中では同列だ。

 博愛主義者とは決定的に異なる。彼の博愛の対象は、大して知りもしない通りすがりの誰かに限られているのだから。

 お人好しという名の狂人。

 勇者などという肩書きは、そういう人間にだけ与えられる称号なのだ。


「……そろそろ16時ね。アンニカ――」


 第三テロについて、アンニカに調べさせようとしたときだった。

 エドセトア・タワーのデジタル時計に目を向けて、それに気がついた。

 15:59。

 時計が進んでいない。


「え――?」


 さっき見たときから、間違いなく1分以上は経っているはず。まさか故障か。


「アンニカ、いま何時――」


 そこで、あまりにも遅まきに、リリヤは気がついた。

 さっきから、後ろにいるアンニカが、一言も喋っていない。


 止まっていた時が動き出したかのようだった。

 リリヤが振り返ったその瞬間、アンニカの身体がその場にくずおれたのだ。


「アンニカ!?」


 急いで彼女を助け起こす。

 その身体は燃えるように熱く、しかし反比例して、顔色が土気色に青ざめていた。

 アンニカの手首に巻かれた腕時計を見る。16時4分――


「……え?」


 目に入った。

 視界に入った。

 目を疑うような光景が、そこにあった。

 アンニカの手。その指先。

 しなやかで細く、さっきまでリリヤの髪を整えていた、5本の指。

 その先端が――まるで木炭のように黒ずんでいる。


「……嘘でしょ……」


 尋常ではない高熱。何より、身体の一部が黒く染まるという呪いじみた症状。


「ありえない……! こんな、いきなり……!」


 可能性はひとつしかなかった。

 人としての名を失った魔神たちは、身に宿した神霊の名を織り交ぜた二つ名でそれぞれ呼び習わされる。

 リリヤに宿った神霊の名は《エンリル》。

 デリックに宿った神霊の名は《ゼウス》。

 それらは無論、神霊たち自身が名乗ったものではなく、その力の一端を目の当たりにした人間たちが、各々の信仰に当てはめて名付けたものだ。

 そんな中で。

 が身に宿した神霊は、元はとある現象を神格化したものだった。それに引きずられてか、彼女の魔神としての力もまた、その現象を操るものになった。


 それは神代において、人々が魔神よりも恐れたもの。

 風と動物に乗って世界を駆け広がった、絶対的な死の運び手。


 すなわち、《ペイルライダー》。

 またの名を、黒死病ペストと言う。





 倒れたアンニカを抱えて記念公園の医務室を訪れてみれば、すでに同じ症状の患者でパンクしていた。

 これほど一斉に発症する黒死病……リリヤは確信を深めた。


(《駆け広がる病害の馬ペイルライダー・パンデミック》……! 使いやがったのね、あいつ!)


 神代魔術は、魔力に満ち溢れた神代の霊子があってのものだ。それが地中で固まった《霊子結晶》なんてものもあるが、それは今のところ機械魔術でしか利用できない。神代魔術のエネルギー源にすることは不可能だ。


(一体どうやって……!? いや、そんなことより!)

「アンニカ。体内魔力の流れを意識して。それでちょっとだけ楽になるはず。いい?」


 医務室の空いた床にアンニカを寝かせて指示する。

 かろうじて意識があるようで、彼女は徐々に呼吸を落ち着けていった。

 彼女の黒ずんだ指先が、少しだが元に戻ったように見える。


(不幸中の幸いね……。現代魔術の発達で体内魔力のコントロール技術が確立されたおかげで、病害魔術の抵抗レジスト神代むかしより容易になってる)


 神代ならば、この魔術に一般人が抗することなど不可能だった。

 だが今は、体内魔力の量に優れる魔術師ならば、リリヤ同様倒れないで済んでいるようだ。


(だけど、むしろそれが厄介とも言える……。症状に抵抗できるってことは、昔よりも感染者の移動が多くなるってこと。《駆け広がる病害の馬ペイルライダー・パンデミック》の感染力は並じゃない。もし感染者たちがウイルスを持ったまま、あちこち動き回り始めたら……!)


 それがこの魔術の最悪たる所以である。

 とある地域の人間が次々と倒れて、身体が炭のように黒ずんでいくのを見れば、普通の人間なら恐れてその場を逃げ出そうとする。しかしその行動が、黒死病による死の領域を押し広げてしまうのだ。


 このままでは、エドセトアすべて――否、世界中が病に冒される。

 冗談抜きで、人類が滅亡する。

 神代でペイルライダーがこの魔術を使ったときは、彼女自身の裁量で魔術の行使を中止していた。しかし、今の彼女にそんな分別があるとは思えない!


(神代魔術で生み出されたウイルスを、現代の技術で駆逐できるわけがない。人類が生き残るためには、ウイルスをこの辺りに封じ込めるしか方法がない!)


「なんだよ……なんだよこれぇ……」

「く、黒くなってく……足が……足が……!」

「だっ、誰か来てくれっ! この人の、この人の顔が、こんなに腫れてっ……!!」


「聞きなさいっ!!」


 混乱する医務室の中で、リリヤは鋭く声を張り上げた。

 泣きそうな顔が、絶望に歪んだ顔が、何かが抜け落ちたような顔が、一様に我を取り戻してリリヤを見る。

 倒れないで済んでいる人間はエルフィア人が多かった。さすがは魔術大国、体内魔力量に優れた人間が多い。リリヤにとっては好都合だった。


「同じ症状になっている人を見つけたら、ただちにこの建物の中に運び込んで! 症状が出ていない人もこの建物の中で待機すること! 決して記念公園から出てはいけません!」


 その意味するところを、記念式典のため集まった優秀なエルフィア人たちは、たちどころに理解したようだった。

 これは強力な感染病なのだと。

 自分たちは、すでにそれに冒されているのだと。

 狂乱してもおかしくないような事実を前にして、しかし彼らは、ぐっと唇を引き結んで耐えてくれた。

 混乱こそが、最も恐ろしい敵だ。

 この危急の事態に対して、冷静ささえ失ってしまえば、あとには滅びしか待っていない。


「……わかったら、医術の心得のある人だけ残って、他は病人を助けに行ってくれる? それと、記念公園の関係者がいたら――」

「――あの……リリヤ様」


 警備の者らしきエルフィア人の男が、遠慮がちにこう尋ねてきた。


「助ける、というそれは……?」

「――――ッ!!」


 リリヤは拳を激しく壁に叩きつけた。

 ビクリと肩を跳ねさせるエルフィア人たちに、彼女は奈落の底から響くような声で告げる。


「……当たり前よ。こんなときに、私を怒らせないで……!!」

「――失礼しましたッ!!」


 男たちは、肩に拳を当てる敬礼をしながら深々と頭を下げ、医務室を飛び出してしまった。

 その背中を見送って歯噛みする。

 ……こんなときですら一つになれないのか、人間は。

 リリヤやデリックの親が目指している世界は、あまりにも遠そうだった……。


「……記念公園の関係者の方、いらっしゃるかしら? もしいらっしゃったら、放送機器のある場所に――」


 そのとき、建物の外から悲鳴が聞こえてきた。





 廊下を駆け抜け、入口から外に飛び出すと、そこに金属の塊が聳えていた。


「くっ……来るなっ……! ちくしょうッ!」

「お、落ち着けっ! 鉄人形ごとき魔術で……!」


 警備兵たちに伸ばされてくるのは、刺叉の化け物みたいな鉄の腕。

 警備兵たちは「ひいッ」と悲鳴を漏らしながら炎の精霊サラマンダーを飛ばした。

 鉄の肌にバチンッと炎が弾ける。それだけだった。冷たい金属に少しばかりの焦げ跡がついただけ。


「……警備ロボット……!?」


 入口を封鎖するように蠢くドラム缶状のロボットたち。赤いレンズをピカピカと瞬かせて、こちらに敵意を感じる視線を送っている。

 機械というもの自体に慣れていないリリヤには――そしてエルフィア人には、それは本能的な恐怖を喚起する光景だった。


(ペイルライダーね……!)


 確か『こんぴゅーたーういるす』などと言って、機械も病気に感染するのだ。

 さすがは病を司るペイルライダーか、現代のウイルスを早くも使いこなしている。

 しかし、ロボットの大きさはせいぜい小学生の子供程度――3フィートちょっとである。冷静になれば恐れるに足る相手ではない。


「落ち着きなさい! そんなのただの鉄の塊よ! 怖がることなんか何もない!」


 リリヤの叱咤で警備兵たちが動き出すが、まだぎこちない。


(そういう文化とはいえ、慣れてなさすぎるのも困りものね……! こんなんじゃ、もし――)


 ぬうっと。

 ロボットたちの後ろから、黒い山のようなものが顔を出した。

 警備兵たちがその偉容を見上げ、顔を青ざめさせる。

 大の大人二人分10フィートほどもある警備ロボット。刺叉のような形の腕が4本もついている。それらがかすかな駆動音を鳴らしながら動き、警備兵たちを狙っていた。


「うっ……うわあああああっ!?」

「鉄のっ……鉄の化け物っ……!?」


「もうっ……!」


 4本の腕が動き出すと同時、リリヤは飛び出した。

 周囲に5体の精霊が出現する。そのうち《第一精霊オベロン》に風撃を充填させながら、巨大警備ロボットの懐に飛び込んだ。


「どこにいたのよ、こんなやつっ!」


 至近距離から胴体に風撃をぶち込む。

 馬車何台分あるやらわからない重量がふわりと宙に浮き、けたたましい音を立てて石畳を転がった。

 腕が2本、足が1本千切れて転がったのを見て、無力化できたと判断する。

 さて、あとは小さい奴らを――




「――優雅さに欠けるんじゃなくて? お姫様?」




 ぐしゃりと、スクラップになった巨大警備ロボが踏み潰された。

 リリヤの足がわずかに跳ねる。雑木林の木々が揺れ、鳥たちが一斉に飛び立った。


「あ……あああ……!!」

「あなたたちは建物の中に!!」


 背後の警備兵たちに叫びながら、空を仰ぐ。

 青の中にまっすぐ引かれた白い雲。見る見る離れていく輸送機の軌跡。あれが今さっき、一機の怪物を公園に落としていったのだ。


 ひび割れた石畳の上に、巨人が立っている。

 巨人としかいいようがなかった。両方の手に岩山みたいな剣を携えていること以外は、人のシルエットに近かったのだ。

 高さにしておよそ25フィート。ビルで言えば3階か4階に相当する。

 そんな手足のついた鉄塊の頭の上に、銀色の髪の少女が腰掛けていたのだ。


「……そっちこそ、ずいぶん優美さに欠けた馬ね、ペイルライダー。1000年見ない間に、あんたもデリックの同類になったの?」

「べっつに? ちょっとドワーフィアの基地で宝探しをしてみたら、面白そうなのがわんさか埃を被ってただけ」


 レイヤの姿をしたペイルライダーは、くすくす笑いながら腰掛けたロボットを撫でる。


「この子はね、1分動かすのに一つの街から一週間夜を消し去れるほどの魔力が必要な失敗作。コードネームは《ホース・シュー》……実戦経験のないチェリー君だけど、ふふ、結構やってくれそうでしょう?」

「新人研修なら他を当たってくれるかしら?」

「やだ、若作りのくせに偉そうに。前世含めたら今年で何歳だったかしら?」

「じゅう・なな・さい、よっ!!」


第一精霊オベロン》に風撃を命じる。瞬時に充填された風が槍のように撃ち出される寸前、

 ピカッ――と。

《ホース・シュー》とやらの胸の中央が、光を放った。


「えっ……!?」


 その光に、まるで溶かされたかのようだった。

 周囲に浮いていた《五衛精》が、まとめて消滅したのだ。

 急いで魔力を注ぎ直すと、何事もなかったように復活した。


(何、今の……!? 強烈な魔力の波で、精霊の霊子構造がぐちゃぐちゃになった……!)

「《ホース・シュー》っていうのはね? 要するに『馬蹄』なのよ、エンリル」


 鉄巨人の頭の上で、ペイルライダーが酷薄に笑う。


「そういえばお姫様だったっけ? だったら知らなくても無理はないかしら――馬蹄にはね、古くから魔除けの力があると信じられているのよ?」

「……魔除け……!?」

「その名を与えられたこの子には、まさに魔除けの機能があるの――エルフィア人が使う精霊を、問答無用で破壊できる機能がね」


 また《ホース・シュー》の胸の中央が光り、《五衛精》が吹き飛ばされた。

 反射的に再構成するが、すぐには破壊されない。連発は不可能なのか。


「五族融和都市エドセトア、ねぇ……。まったくお笑いぐさだと思わない?」


 口元に拳を当ててくすくす笑い、ペイルライダーは《ホース・シュー》に巨大な剣を振り上げさせる。


「表では仲良しこよしに見せておいて、裏ではこの通り、相手を殺す算段を立ててるんだから。ほーんと、人間って薄情よね?」


 反射的に精霊で対処しようとしかけたが、かろうじて堪えて地面を蹴った。

 胸の中央が光る。精霊が吹き飛ばされる。

 石畳を巨剣が両断して、その礫がいくつかリリヤの身体に当たった。


「うくっ……!」


 太腿や二の腕が浅く切れる。軽く眉根を寄せながら起き上がり、顔をあげた。

 精霊に頼り切るな。あのくらいの鉄クズ、《五衛精》なしでも――


「ねえ、エンリル。どういう気持ち?」


 リリヤの思考を遮るように、ペイルライダーが笑い含みに言う。


「仲良くしようとしている相手が自分たちを殺そうとしてるって、どういう気持ち? ねえ、エンリル。どういう気持ちなの? エンリル、エンリル、エンリル! ねえ、答えてよ――」


《ホース・シュー》の巨剣が、何かに差し向けられた。

 その切っ先を目で追って、リリヤは奥歯を強く噛む。

 そこに倒れているのは、エルフィア人の警備兵たち。

《ホース・シュー》の攻撃の煽りを食ったのか、頭や足から血を流している。

 建物の中にって言ったのに――逃げ遅れたのか!


「――こいつらって、親の仇と結婚させられてまで、守る価値があるの?」


 ぎくりと、心が硬直した。

 ――助ける、っていうそれは……ドワーフィア人もですか?

 脳裏にさっきの声が蘇る。

 本気で戸惑った、ドワーフィア人を見捨てることを少しも不思議に思っていない表情が蘇る。


「わかってるのよね、エンリル……? あなたたちが律儀に結婚してみせたところで、こいつらはわかり合ったりしないわよ? 和解? 融和? するわけないない――別の種族のことなんて、同じ人間だとすら思ってないんだから。どれだけ死んだところで他人事よ。……ねえ、価値なんかあるのかしら? あなたが仇敵と結婚してまで守る価値、こいつらにあるのかしら?」


 くすくすくす……、という笑い声がリリヤの心の奥を撫で回した。


「こいつらさえいなければ――あなたは自由になれるわよね?」


 振り上げられた巨剣が、空気を轟然と割り砕く。


 ……確かに、リリヤとデリックが結婚したところで、彼らは何も変わらないかもしれない。

 世界は何も変わらないかもしれない。

 エドセトアの風景はステンドグラスのままで、マーブルに溶け合ったりはしないのかもしれない。

 知っている。

 そんな現実は知っている。

 ――それでも。


「……知らないわよ、価値なんて!」


 極限まで圧縮された大気の剣が、巨剣を受け止めていた。

《ホース・シュー》の光が《五衛精》を吹き散らすが、破壊と同時に再組成する。


「無意味かもしれない。無価値かもしれない。そんなの私のお父様も、デリックのお父様もわかっている。顔だけ笑顔で後ろ手にナイフ? そんなの珍しかないでしょう。私だってそうだもの。それでも仲良くなれるかもしれないのが、人間のいい加減なところでしょう!」


 バギッ、と巨剣に亀裂が走った。


「あなただってそうでしょ? 覚えてるわよ、ペイルライダー! 元《七天の勇者》の中でも、とりわけゼウスにベタベタだった甘ったれっ!!」


 大気の剣が巨剣を押し返すと同時、その剣身が微塵と四散した。

《ホース・シュー》がバランスを崩す。その隙にリリヤは《第一精霊オベロン》と《第二精霊ティターニア》に風を充填させた。

 放たれるは風の槍。岩をも貫く不可視の必殺。


《ホース・シュー》の胸の中央に、大穴が空いた。

 鉄の身体といえども、心臓部を空洞にされれば死は免れなかった。

 鉄の偉容が後ろに倒れ込む。

 その寸前、頭の上の人影が飛び離れて、初めて地面に降り立った。


「響かないわ」


 妹の姿をした古き同類、《駆け広がる病天のペイルライダー》は、虚ろな無表情でリリヤを見つめる。


「お姫様――あなたがそんなことを言ったって、まるで響かない」

「え……?」


 怪訝に思った、その瞬間だった。

 くらり、と意識が揺らぐ。

 気付いたときには、全身から力が抜けていた。視点が地面のすぐ近くまで落ちている。倒れた。くずおれたのだ。


(……何、これ……? 力が……意識が……)


 脳と身体を繋ぐ糸を、ぷつっと断ち切られてしまったかのようだった。

 すべての感覚に壁が一枚隔たっている。今、まさにここで起こっていることなのに、まるで画面の向こう側の出来事だ。

 痛くも、苦しくもない。ただ、自分という存在が、現実から引き離されていく。


「ようやく効いてきたようね?」


 ペイルライダーの足が見えた。


「《駆け広がる病害の馬ペイルライダー・パンデミック》はあらゆる経路で感染するわ。接触感染、飛沫感染、大気感染――そして霊子感染」


 ――霊子、感染。

 背筋に冷感が走る。


「《ホース・シュー》に精霊を壊されるたび、あなたは霊子と自分の体内魔力を交感させたわね? そのたびにウイルスが身体の中に入っていたの。現代魔術は、のウイルスにとっては恰好の的なのよ?」


 ウイルスが入りすぎていた。洗浄しきるには魔力が足りない。ただでさえ魔力が足りないのに、《ホース・シュー》に消費させられすぎたのだ。


「……さて」


 ズンッ! と地面が揺れて、リリヤの身体が軽く跳ねた。

 倒れたまま目だけを動かして、すぐ近くに出現した影を見上げる。


(……2体目の……《ホース・シュー》……)


 さっきようやく倒した鉄巨人とまったく同じ姿が、新しく聳え立つ。

 二振りの巨剣の影が、全身をすっぽりと包んだ。


「最後にゼウスからの伝言を伝えてあげる。とっても素敵なメッセージだから、よおく聞いてあげてね?」


 声と息とが、耳をくすぐる。

 鼓膜をこじ開けて、脳への道を開くように。

 だから、その次の声は、否応なしに脳の奥まで流し込まれた。



「――『飽きたからもういいや』だって! くすくすくすくすくす!!」



 ――飽きた。

 飽きた……?

 深々と、そのたった三文字が胸に突き刺さった。

 十数年に渡る殺し合い。

 宇宙で語らったこと。

 再会してからの7年。

 そのすべてが走馬燈のように一瞬で流れ去り――


「じゃあね、エンリル」


 ――知らず、一筋の涙がこぼれた。

 世界を、真っ黒な影が覆う。

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