第18話 兆し

 清々しい朝だった。山の朝はやはり肌寒い。見れば暖炉の火も消えていた。するりと肌掛けが肩を落ちていく。ぐっと伸びをして辺りを見回すと、寝起きのぼんやりとした視界が徐々に輪郭を確かにしていく。そんな、遅い朝のやわらかな時間。いまだ少しぼやけた映の目に入り込んできたのは、爽やかな日差しとは正反対の異様な光景であった。

 木板の張り合わされた床に、白いチョークで描かれたいびつな紋様。書き殴られたかのようなそれが、床のいたるところにえがかれている。それは、大小様々の魔法陣だった。淡く光る魔法陣は、地下坑を照らしていたものと似通っている。照明の紋章だ。落ち着いた私室が、まるで何かの儀式をり行う部屋のように、変貌へんぼうげている。そして、何よりも異様なのが、ベッドのふちに腰掛けているウィルマーの姿だ。目の下にクマを作り、ひたすら虚空をにらみつけている。

 映は、眉をひそめた。

「【ウィルマー、あなた何をしているの】」

「【……あぁ起きたのか】」

 憔悴しょうすいしきった様子のウィルマーは、背後の映をちらと見ると、握りしめていた短刀を手に、ふらふらと立ち上がる。

「【じゃぁ、俺はちょっと出てくるから、映はここにいてくれ……】」

 そう言って樹上の家ツリーハウスから出て行こうとするウィルマーを、映は呼び止める。

「【……私は、何をしているのか聞いているのよ】」

「【セバさんを探しに行くんだ】」

 うろんな目を向けてくるウィルマーに、映の声はとげを増していた。

「【そう言えば居ないわね。それで? この部屋の惨状は何?】」

「【≪闇の精霊エオーけだよ。効果があるか微妙だけど、無いよりましかと思って……】」

 時々ぐらりと倒れそうになりつつ、ひたいをおさえてかぶりを振るウィルマー。

「【全然わからないわ】」

 その言葉を、説明不足と捉えたのか、弱々しい口調で、必死に言葉をいでいく。

「【エオーは……、人の精神を操作する魔法が使えるんだ……。使役が制限されてはいるけど、たまに現れることもあって……、だから……っ】」

 ウィルマーの身体が、一際ひときわ大きくふらついた。

「【……ウィルマー、もしかしてあなた寝てないんじゃない?】」

 見たところ身体に傷は無く、部屋の中が荒らされているということも無いため、ここまでぼろぼろになっている所を見ると、そうとしか考えられない。

「【……行ってくる】」

 ウィルマーは、何か言い掛けた唇を閉じ、もう良いだろうとばかりにきびすを返す。映の眉間のしわがぎゅっと一気に深くなる。

「【待ちなさい】」

 思わず、立ち上がっていた。その手は、しっかりとウィルマーの腕を掴んでいる。

「【よく分からないけど、今の状態では、見つかるものも見つからないと思うわ。山道で転落でもしたらどうするの】」

「【はは……】」

 目を伏せ、ぼそりと小さな声でウィルマーがつぶやく。

「そしたら、日本に転移出来るかもな?」

「【……なに?】」

 ちら、と背後の映を見やるウィルマー。

「【……いや。ともかく、俺は行かなきゃ】」

 腕を掴まれていることをものともせず、玄関へと進もうとする。その腕を、映は強く引いた。

「【待ちなさいと言っているでしょう!】」

「【――セバさんは俺の大事な友達で恩人なんだよ!! 探しに行って何が悪いんだっ!? 異常な状況で失踪したんだぞ!?】」

 振り払い、にらみつけてくる緑の瞳。その時、映は心から思った。このまま、ウィルマーを外に出してはいけない、と。

「【寝なさい】」

 す、と映は目を細める。今のウィルマーは、あまりにも冷静さを失っている。

「【いつそれが起きたのかは知らないけれど、もう大分時間が経っているのなら、少し寝て落ち着いてからでも遅くは――】」

「【誰のために遅くなったと思って――!】」

 激昂げきこうしたウィルマーは、しかし、途中で口をつぐむ。ばつの悪そうな顔だ。

 ……おそらく、あの小人に何か奇怪な現象が降りかかったのだろう。そして、同じような現象が、私にも降りかからないようにと、身を砕いてくれたのだろう。映は、そう思った。

 しかし、だ。例えその通りだったとして、普段のウィルマーであれば、彼がカバーした他人の非や、自分の善意をあげつらうことなどしないはずだ。申し訳ないとは思わないが、ありがたいとは思っている。

 だから、彼のことは止めないといけない。

「『寝なさい』」

 まずは寝て、冷静さを取り戻しなさい。心からの願いとしての一言が、ウィルマーの身体を打った。

 反射的に食ってかかろうとした――、その瞬間。

「【俺は――っ!】」

 ウィルマーが、刈り取られるように意識を失った。受け身もなく倒れ込み、鳴るのは、木床を叩く重い音。

 まるで、糸が切れた操り人形の様相で、床に崩れ落ちているウィルマーを見て、映はぎょっとした。

 少し顔を近づけてみると寝息が聞こえ始めているので、寝ているのだろう。

(ね、眠気が限界だったのかしら……?)

 身体こそ震えなかったものの、がらにもなく驚いてしまった。と、映は小さく息を吐く。

(まるで術にでもかかったような感じだったけど……これが怪奇現象なのかしら……)

 火土竜サラマンドの幼態が大きな音に驚いたのか、うっすらと瞳を開けてぼんやりとしているぐらいで、辺りを見回すが、特に部屋に変わった所は何も無い。

 わからないのだ。誰も何が変わったのかを。

 ――そう、それは誰も認識が出来ない出来事。映の言葉がウィルマーの身体を打った瞬間。かすかに、男とも女ともわからない声が、映の声に混じっていた。それは、周囲の変化に敏感な赤子ですら気がつきはしないだろう。

 気配無き気配がうっすらと笑った声もまた、誰にも気付かれず、朝の静寂しじまへと消えていく。


       ◆


 少し落ち着きを取り戻した樹上の家ツリーハウス。日は昇り、時刻は昼に近づいていた。

 映は、溜め息をついて立ち上がる。

「【……まあ、それはそうとして。守られてばかりでは、私としても格好が付かないわ】」

 自分が使っていた肌掛けをウィルマーに掛けると、ベッドの脇机に乗っている本を見やる。それは、昨晩、ウィルマーとあの小人が勉強に使っていたこの世界の辞書だ。この単語は? この単語は? この単語は日本語でどういうのだ? とやっていたのを思い出す。

 手を伸ばし、ぱらりとページをめくる。映には読む事が出来ない本だ。だがしかし――、

「【この対応表と、今まで見聞きした単語をこの辞書で調べれば、なんとかなるでしょう】」

 ウィルマーが作った対応表を手に、ふ、と口の端を上げる。

「【何を探すにしても、まずは、通行証をどうにかしないとね――】」

 映は、困難なことにこそ、燃える性質たちだった。

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