第30話 最後の夜に


 ――ミシッ。 


 床が軋む音で、浅い眠りから覚める。

 ふと見れば茉莉花が、ダイニングの入り口に立っていた。

「どうした?

 眠れないのか?」

 茉莉花は入口にもたれ掛かったまま、それには答えない。

「今日で、最後の夜ね」

「ン、そうだな」

「……隣、座っても?」

 いささか面倒な気配を感じた俺は、茉莉花から視線を外し答える。

「これからが大事なその身体で、底冷えするダイニングへ来るのは感心しないな」

 茉莉花は俺の否定を意に介さず、歩みを進めて俺の前に立つ。

 しばらくして根負けした俺は、茉莉花を見上げる。

 暗い部屋の中では、その表情は伺えなかった。

茉莉花は勝手に隣の冷たい床へと座り込んでしまう。

 仕方なく俺は横にずれて場所をつくるよりなかった。

 冷えるダイニングと俺が言った以上、座り込んだ茉莉花を放っておくわけにもいかず、俺の毛布を分けてやる。

「はー、寒いけど、あったかい」

「冬はな、寒いと決まってんだよ」

「寒いから、肩を寄せ合うんでしょ」

 そう言ってグイッグイッと肩で押し、身体をこちらへと寄せてくる。

 せっかく自分の体温で温めた床を、壁を、すっかり茉莉花に奪われてしまう。

 そのまましばらく、沈黙が続いた。


「ねえ、明日……

 私帰っちゃうのよ」

「ン、そうだな。

あっという間の1週間だったな。

 けどまあ、いい休暇だったろ?

 議員先生になっちまえば、これからの人生、長い休みは取れないだろうしな」

「北見さんは、どうするの?」

「どうするかって?

別にどうもしないだろ。

 いつも通りだよ。

 1つ、仕事が終わる。

 あぁ、そうだ。

請求書の出し方と、荷物の送り先はくれぐれもよろしく頼むぜ。

 引き落とせないままじゃ水道が止まっちまうからな、それじゃ風呂も入れんよ」

 同じように壁にもたれていたはずの茉莉花は自分の体を起こし、俺の肘を掴んだ。

「ねえ、そうじゃないでしょ?

 そういうことは、聞いていないの」

次はいつ会えるのか、わからないのよ」

「ああ、そうだな」

「それでいいの?」


 茉莉花は俺がはぐらかすのが気に入らないらしい。

 いつになく、しつこい。

 

「……夢は見られたさ。

 凜々花にもいい思い出で、いい刺激になったことだろうと思う」

「そういうことじゃないの。

 ねえ、こんな夜更けに隣にきているのよ。

 わかるでしょう?」

「ああ、わかっているさ。

 眠れないんだろう?」

「ねえ?

どうして私と向き合ってくれないの?」

「隣あっている。

 それで十分だ。

 俺は世間に誇れるような、華々しく立派な人間じゃない。

 何か思うようなことがあったとしても、それは茉莉花の気の迷いだ。

 茉莉花のオヤジさんの代わりも、十分に果たしたろ?

 茉莉花も十分、1人で歩けるさ」

「どうして私の欲しいものは手に入らないのよ、もう」


 ――諦めるからだろ。

 そう心の中で答える。

 だが、それは俺も同じだ。

 俺の存在が茉莉花の障害になる未来は簡単に予想できるが、幸せにしてやれる未来は描きにくかった。

 俺も歳をとった。

 もう、言い訳上手な分別のある、たいそう立派な大人だ。


 もし……


 もしも仮に10歳若ければ、茉莉花だけを見たかもしれない。

 そうかもしれないが……


 歳を重ねてしまえば、茉莉花が置かれた環境がハッキリと見えてしまう。

 それに気後れするのは、自然なことだろう。

 果たしてそこに、異質な存在の俺が首を突っ込んで上手くいくだろうか?

 いや、いまさら俺は上手くいかなくてもいい。

 だが、俺のせいで茉莉花が上手くいかないなら、それは……なんとも困ったことだ。

 『俺が上手くいかない』のと『俺のせいで茉莉花が上手くいかない』は、大きな違いだ。

 だからやはり、俺も諦めているのだろうと思う。


「それ、寝るときもしているの?」

「それ?

あ、これか」


 それは俺がショッピングモールで買った、シルバーのブレスレットだ。

 西に茉莉花の身元『前首相の娘』ということを聞かされ、動揺していた自分を切り替えるために買ったものだ。

 それ以来、ずっとつけっぱなしにしたままだ。

 どうせ高価なものではない。

 だからこの仕事が終わるまで、茉莉花が帰るまで、そのままでいいかと思い身に着けている。

 ゲン担ぎというか、戒めというか、ただの成り行きというか……

「頂戴、それ。

 餞別に」

「これを、か?

 たいしたもんじゃないぜ」

「なら、代わりにあなた自身を私にくれてもいいけど?」


 そう言われては、是非もない。

 俺は右手のそれを外そうと、左手で留め金を外そうとした。


 ――!?


 すると茉莉花は俺の両手を掴んで押し下げる。

 よろめく俺は、なんとか手を突いて顔を上げ、バランスを取ろうとした。


 その一瞬に、茉莉花は唇を寄せてきた。

 あまりに予想外のことで、俺は抵抗する間もなく受け入れていた。

 唇を割って入ってくる、その舌を。

 冷え込むダイニングで、茉莉花の顔は、肌は、火傷しそうに熱かった。

 茉莉花は俺の口内を蹂躙して唇を離すと、湿った吐息と共に、耳元で囁く。

「タダで、というわけには……

 いかないでしょ」


 薄暗い闇の中、茉莉花の瞳が光っていた。

 俺はたまらなく、腹が立った。

 体がカッと熱くなる。

 こんなにも茉莉花を思いやり、身を引こうとしたのに。

 その努力を越え、俺の中に入ってくるなら、それもいいだろう。


 思いやるが故の怒りと、ただの誘惑され刺激される雄としての性欲。

 それぞれが混ざり合い、掛け合わさって、どうしようもない。

 その激情の向かう場所は、そこにしかない。

 ただ、茉莉花の中にある。


 俺は茉莉花を押し倒した。




 2人の未来は、いまだ見えない。


 ただ、今だけは、今夜だけは、互いが限りなく近い距離にいた。


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