第11話 終わりに 史料と情報化社会

 今なお、少し検索すれば、

「本当は義経は卑怯者だと知っていましたか?」

「水夫射ちという事実を知ったうえで、なお義経を英雄視できますか?」

という声は無数に出現してきます。

 何が本当で、何が事実なのか。

 当時にどんなルールがあり、人々がどんな声を上げていたか。

 私たちには分かりません。

 だからこそ、現存する史料に対しては、可能な範囲で誠実であるべきではないでしょうか。


 情報化社会は、玉石混淆の情報が溢れ返る社会でもあります。

 その中で、人々の耳目を引き付けるために、過激で求心力のあるヘッドラインが日々作られています。

 「本当は○○!」と、センセーショナルでショッキングなコピーが流布し、それを信じ込まされてしまうという現象は、場合によってはねずみ算式に起きてしまいます。

 「水夫射ち」は、そんな世の中でもっともらしく語られていることが「本当」とは限らないというひとつの例でもあります。

 「みんな知ってますか? こうだと思ってたでしょ? 本当はこうなんですよ! 学者さんも言ってますよ!」とあたかも知られざる真実を知っているかのように喧伝された話が、それこそ作り話のデマだった、ということもありえるのです。

 しかもその「真実」を前提として、人を「卑怯者」とおとしめることさえできてしまう。

 怖いですね。


 「水夫射ち」に関係なく、義経は卑怯者だとする意見もあるでしょう。

 鵯越の逆落としは「実際にあった」ということにして、「実行者は義経」ということにして、「それによって平家は負けた」ということにすれば、彼を卑怯者と判じることは可能です。

 たとえ根拠が何もなくても、「義経は水夫射ちをしたと信じ続ける」「高名な学者がそう言っているのなら、取り合えず信じる」というのなら、それもひとつの生き方です。

 私だって、物語や史料に何と書いてあっても個人的には義経は美形だったと信じていますし(端的に義経の顔の様子が書かれた史料はありませんが、敵から探された時に「チビで反っ歯(出っ歯)」と言われています。悪口ではありますが、目印にされた以上本当なのでしょう。また、『平治物語』では、義経の父である義朝が「うちの息子どう?」と人に聞いたら「かっこよくはありませんねえ」と返されたという記述もありますし…少なくとも美形ではないかな…)。


 それはそれでいいのです。


 歴史の流れの中に立つ無数の杭に、どんな意味を見出し、どんな思いを抱くか。

 何を想像し、何を喜び、何を悲しむか。

 それらは全て、同じく歴史の中に立つ、私たちの人格に与えられた自由なのですから。


 私がここで言いたいのは、「義経の水夫射ちには、根拠はない」というひとつだけの事柄なのです。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

源義経は水夫を射たのか!? @ekunari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ