紅色 ~傷~ 32

5限目の授業も難なく、突飛すべきことも何もなくご普通に終えた。

挙げることとしたら、僕のクラスの男子生徒の一人が保健室ほけんしつ行ったことぐらいか。

それでもやっぱりごく普通のことなので、特に何もなかった。前半、午前での出来事が強烈すぎてその後の出来事が色あせたように感じるのも仕方ないことだろう。

廊下ろうか──僕が今朝方、仰向けにぶっ倒れた白色のコンクリート製の廊下を額に汗を浮かべながら歩いている訳だが、何の理由もなくこの暑い日にクーラーのついた快適な空間から飛び出しているのにもトイレに行きたいと言うちゃんとした理由がある。

トイレに行こうと思うが、あの何とも言えない『できたら行きたくない』と恐らく誰でも一度は感じたことがあるはずだ。

だから、というだけではないのだが、それでも僕の足取りは重く、どこかぎこちない。

このままみやこ先輩の教室でも行って昼の件を早急に解決させた方がいいのでは?と廊下を歩く度に僕の脳裏によぎる。よぎりはするが僕は決めかねていた。

『このまま行くべき』か『このままトイレに行くべき』かを。どちらか両方をこなすことはできない。学校の休み時間はだいだいが10分が限界だ。例えば、このままトイレに行ったとして、恐らく時間は3分程しか残っていないだろう。

僕の身体がコミック忍者の如く影分身かげぶんしんができたなら万事解決だったが、そんな能力はとんでも能力を身に付けていない僕は、やはり選択しなければならない。

二者択一にしゃたくいつ。片方を取って片方を捨てる。

僕の心情に身を任せれば、京先輩の教室に行くことに一票入ることは間違いない。

間違いないのだが、僕はいまだに言葉を──謝罪の言葉を見つけていない。

ごめんなさい、と素直に純粋に謝ればいいのかもしれない、だがそれは流れに身を任せてただ謝っただけの形だけの謝罪になる。

京先輩に失礼だ。

こんなぼっちの僕の話し相手になってもらっている。それは、僕にとってこの学校での密かな楽しみでもある(京先輩には内緒だが)。京先輩──関西弁の面倒臭い先輩美少女に僕は無礼なことはできない。

無礼千番。即打ち首である。


「おっ」


胸辺りに違和感。

前方方向に注意を向けていなかったせいで、誰がとぶつかってしまったらしい。これは京先輩にはできなかった、早急に迅速に謝罪しなければいけないな。僕も一度間違えれば二度目の失敗は約五割の確率しない。

失敗をそのままにしない、復習する。

現役高校生の僕らしいお利口りこうな行為だ。


「ご、ごめんなさい」


それでも、誰かも知れない相手への謝罪は知り合いにするものとまた違った重みがある。


「大丈夫……です」


そう言って、こちらも早急に迅速にその場を離れて、走ってどこかへ行ってしまった。

特に顔を見ることもなくどんな相手だったかのもわからずじまいで、後ろ姿では何とも言えない。

うさぎを連想させる華奢きゃしゃ体躯たいく

栗色の髪の女の子で背が低く、唯一のチャームポイントはハート形の髪留めだけだったので探す場合、特定は難しいだろうな。


「それにしても、いい匂いがしたな……」


シャンプーかリンスか、香水か、はたまた髪の毛シュッシュの寝癖止めか、多分前者のいずれかだろう。

神愛かみあいさんもいい匂いしたなー。

良い思い出であり、強烈すぎて嗅いでいるこちらの方が心臓がバクバク鳴って大変だったけれど。


「……さて、……トイレに行こうかな」


僕は結局、トイレに行くことにした。

選択はした。正解か間違いかの選択は間違いなく、間違いだろう。

優柔不断の僕は今も悩む。

なやむ僕は何事もなく着いた。

トイレに着いてすることと言えば、少々汚いが用をたすしかない。

午後の時間、あと一限を残す僕は、やはりトイレ特有のアンモニア臭がうっすらと漂う場所で、ぼっちの僕でも友人が少ない青春を謳歌していない僕でも便所飯はしないと声を大にして訂正したい、そもそもこんな所で声を荒らげていたらそれこそ『キチガイ』のレッテルを貼られるが。

しかし、トイレは僕に平穏な心休まる安定した休息を与えてくれるのは、実にぼっちの僕らしい心のメカニズムだ。

ふと隣りを見た。男子生徒が一人。

胸の校章を見る限り僕と同じ2年生(僕の高校は学年で校章の色が上から赤、青、緑となっている)。

僕以外にこんなギリギリの時間帯にトイレに来るチャレンジャーな奴の顔を一目見てやろうと言う上から目線の理由なので、『ウホッ、イイ男!』とホモのお決まり定番な台詞セリフは僕には当てはまらない。

すると僕と隣の男子生徒の目が合った。


「……どうも」


「どうも」


どちらが先に声をかけたかはわからないが、こうして全く顔も名前も知らない相手と挨拶をかわせることが自然とできるトイレは偉大でコミュニケーションも行える場。

今度、果柱にもこの素晴らしさを伝えよう。


神無月かんなづき……、だよな?2年E組の」


「え、ああ、そうだけど」


……急に話しかけられた。

僕はこの男子生徒を知らない……、はずだ。

少なくとも、僕の記憶には彼に関する情報はない。ない、というか忘れているだけかもしれないが、印象に残る京先輩や神愛さんレベルの相手ではないことはわかる(彼女らと比較するのは流石にかわいそうだ)。


「あ、ああ、ごめん。急に話しかけて。俺、果柱の友達なんだ」


「果柱の……」


クラス内での活発グループに入る果柱に僕以外の友人がいないとは思ってはいなかったけれど、いつもは遠くからしか視認していなかったからこうして面と向かって顔を見るのは初めてのことだ。

何だかムズムズするな。


「昼休みの時間、教室で果柱と話してたんだけど、その時に……神無月の名前が出て、張り切って話すからどんな奴か気になって」


僕のことを知っていたのは果柱が言ったからだったのか。やれやれ、あのお喋りにも困ったものだ。僕の知らない所で話題に出すのはやめてほしいところだな。


「果柱の友人ってことはわかったけど、その友人が僕に何のようなんだ?ただ単純に話題に出てきた僕が気になったから、って訳でもないんだろう?」


話の話題──昼飯のお喋りのオカズとしてネタとして一度しか出てこなかった相手にわざわざ、トイレで話しかけてくることはない。

目の前の彼がどんな理由があるのかは見当もつかない。あのおちゃらけなお調子者の果柱がまた余計なことを言ったのか?


「要件といっても……、本当にただ単純に何も考えずに話しかけただけなのに……」


そう言って、便器から離れて水道で手を洗う彼は水で濡れた手をパタパタと振る。

そして、話題──ネタを思いだしたかのように何の文脈も脈絡もなく、


「『切り裂き魔』って知ってるか?」














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