第2話 追跡

「やっぱ、クルマはいいっすね。冷房効かせて、音楽聴いて、極楽、極楽」ハンドルを握るコータローは絶好調に見える。昨日、社長室で熱中症で倒れた後、三時間休んだだけで、会社の豊洲の駐車場に行ってクルマをピックアップしてきた。その時は、もう上機嫌だったが、今朝は、その3倍、機嫌がいい。


 コータローは世津奈がポロシャツの上にヨットパーカーを羽織っても寒いほど冷房を効かせ、カーステレオからは、世津奈の知らないロックナンバーをガンガン流している。ガキと言えばそれまでだが、世津奈はコータローのこういう所が嫌いではない。


 それに、この子は、運転が本当に上手い。混みあった市街地でも、ゆるやかに加減速し、極端なストップ・アンド・ゴーをしない。高速では相当飛ばしたが、世津奈が苦手なクルマに乗っていることを忘れさせるくらい、滑らかなで落ち着いた走りを見せた。クルマの性能に助けられている部分もあるだろう。ごく普通のファミリーカーに見えるこのクルマは、「京橋テクノサービス」専従メカニックの手でスポーツカー並みにチューンアップされている。


 世津奈たちは、奥多摩渓谷に沿って小河内ダムに続く曲がりくねった国道を登っていた。世津奈たちのハッチバックがカーブに近づくと、前を行くミニバンが山陰に姿を消し、カーブに入ると、また、姿を現す。ミニバンを運転しているのは、「深海技術センター」の栗林研究員で、助手席に妻、後部座席に四歳になる独り娘を乗せている。


 コータローの運転が上手いおかげで、こんなワインディング・ロードでも、世津奈はクルマ酔いの気配すらなかった。


 「会社のクルマとガソリン代でドライブして、ボクは、夏休みと同じですけど、宝生さんは、大変っすね。だって、今日、栗林さんは産業スパイと接触しませんよ。家族連れですもん。ダム見物ですって」


「わからないわよ。こういう発想かもしれないじゃん」世津奈は、シートの背中越しに後部座席を振り返った。チャイルドシートが据え付けられ、ママさん教室の育児指導に使うのと同じ本物感あふれる赤ん坊の人形がくくりつけてある。


 「ヘへヘ」とコータローが笑った。「栗林さんが、スパイと会うのをカモフラージュするために家族を連れてきたって言うんすか?栗林さんって、そんなセコイこと考える人ですかね?」


「じゃあ、チャイルドシート付きのクルマを尾行用に選んだコー君は、自分がセコいと認めるわけだ」


「えっ、ボクですかぁ?ボクは、宝生さんがこーいうクルマが気に入るだろうと思っただけっすよ。宝生さん、ごくフツーのクルマにしろって言ったでしょ。これなら、ボクらは赤ん坊連れの夫婦にしか見えませんからね。会社の豊洲の駐車場でこのクルマを見つけた時、『これだっ、宝生さんが求めてるクルマがあったぞ』って、叫んじゃいましたよ」


 それって、私がセコいって言いたいのかな?世津奈はちょっと引っかかったが、そんなことより、コータローが栗林研究員を「さん」づけで呼びつづけることに感心していた。今日に限らず、コータローは、調査対象者を決して呼び捨てにしない。調査の結果、その人間がクロだとわかっても、「さん」づけで呼び続ける。


 警察官時代の世津奈は、被疑者のみならず事件関係者全員を、当たり前のように呼び捨てにしていた。被疑者を荒っぽく呼び捨てにし、脅したりすかしたりして取調べる。シロだったと分かったら、申し訳のように「〇〇さん、申し訳ありませんでした」と、その時だけ「さん」づけて詫びて、相手の心にどんな傷を残したなど考えもせず、次の被疑者を追いかけていた。


 そんな世津奈に、コータローの態度は、初めは奇妙に感じられた。しかし、そのうちに、コータローがまともで、警察官の方がどうかしていると気づいた。被疑者は裁判で刑が確定するまでは、警察官と対等な市民だ。呼び捨てにされ、小突き回される理由はない。いや、刑が確定しても、それは、その人間の行為に対する罰であって、その人間そのものを否定することではないかもしれない。コータローはガキで抜けた所も多いが、「人の人に対する礼」をわきまえている。そこを世津奈は尊敬していた。


 「宝生さんの『家族カモフラージュ説』ですけど、機密漏洩はヤバいビジネスですよ。そこに奥さんならまだしも、4歳の娘さんを巻き込みますか?そんなことできたら『人でなし』ですよ」コータローの声のトーンが少し下がった。


「そうね。栗林が、あ、いや、栗林さんが、そんな人であって欲しくないわね」コータローと話していると、本当に、そういう気分になってくるから不思議だ。


 


 栗林研究員を監視することは、世津奈が柳田から聴取した結果、決まったことだった。柳田は、「情実で雇った女性を自分のそばに置くのは気が引けたから、栗林研究員の助手につけた」と言ったのだ。


 色々訊き出したところ、柳田は、女性研究員と期待したような関係はもてていなかったようだ。せいぜい、食事を共にするくらいで、あとは、のらりくらりとかわされていたらしい。機密情報を渡すような機会もなかったようだ。そこで、女性研究員との接触機会が圧倒的に多かった栗林研究員の方がより怪しいということになり監視することになった。


 栗林を監視対象にしたのには、もう一つ、理由がある。柳田の自宅の固定電話はもちろん、風呂場を除くすべての部屋から盗聴器が発見されていた。スパイ一味は、世津奈が柳田にかけた電話を盗聴していて、世津奈が柳田から事実を訊き出す前に柳田を拉致して、栗林に調査の目が向くのを遅らせようとしたと考えることができるのだ。


 ただ、女性研究員が連絡を絶った理由は分からない。調査開始を知って姿をくらましたのだとしたら、調査情報がコンソーシアムから漏れていたことになり、一大事だ。かといって、必要な情報を収集し終えたから撤収したのだとすると、補足するのが難しい。栗林が再度女性研究者と接触し、そこで栗林と彼女の身柄を抑えて聴取する。それが、世津奈たちにとっては、理想的な展開だった。



今までの中でも特にキツいカーブを抜けると、前方が、かなり長い直線路になっていた。「あれっ」とコータローが声を出す。栗林の車が、突然、右手に迫る山の中に消えたのだ。世津奈は、カーナビの画面をのぞく。国道から山中に入っていく狭い道路が一筋映っていた。


 「コー君、ちょっと停めて」世津奈は、コータローに車を停めさせ、栗林が折れて行った狭い道の先をカーナビで調べる。入口から1キロほどで道はY字型に分岐して、左の道は山中を多摩川の上流方向に進んで小河内ダムへ、右の道は下流方向に進んで、ここに来る途中で通り越したキャンプ場につながっていた。


 「栗林さんの本当の目的地はキャンプ場だったんすかね。通り越しちゃったことに気づいて、戻るつもりかなぁ?」コータローが言う。


「だったら、この国道の上で切り返してUターンすればいいじゃない」


「後ろにボクらがいるから、遠慮したんじゃないすか?」こういう場面で、コータローは、たいてい、他人の行為を善意に解釈する。人として好ましい性格だが、調査員としては、いかがなものか?もっとも、世津奈も、警察時代、周りから「お人好し」と言われていたから、対した違いはないかもしれない。


「この抜け道を使うと、小河内ダムまで、どのくらいかかるの?」


「30分くらいですか?ダムが目的地なら、このまま国道を走れば、あと15分で着くのになぁ。娘さんが山の中を見てみたいと言ったんすかね?」


 「あゝ、してやられた」と、世津奈は思った。苦いものが胸に広がってくる。


「違うわよ。栗林は、私たちの正体を確かめようとしているのよ」


「えっ、どういうことっすか?」


「私たちが赤ん坊連れでダム見学に来た夫婦なら、山の中を遠回りするのは変でしょう。もし、キャンプ場を通り越してしまって戻るのなら、私たちには後続車がいないんだから、この国道の上で切り返して戻ればすむことだわ」


「つまり、ボクらが後をつけてこの道に入ったら、ボクらが栗林さんを尾行していることがバレるってことですか?」


「そうなるわね」


「じゃあ、このままダムに行って、待ち伏せましょう」


「そうしたら、栗林はキャンプ場でスパイと接触するかもしれない」


「ボクらがダムに先回りしたなんて、栗林さんにわかるわけないっすよ」


「スパイに仲間がいて、ダムの近くで見張っていたら?いえ、仲間なんかいなくても、あらかじ国道とダムの交差点近くに監視カメラを設置しておけばすむことだわ」


「そうかぁ。じゃあ、ボクらがキャンプ場に先回りしたら、今度は、ダムでスパイと接触するわけですね。どうします?」


「どうもこうも、こうなったら、後について、この細道を行くしかないわ。私たちが尾行者だとバレて、今日は栗林とスパイの接触はなくなるけど、私たちが見ていない所で接触されても困るじゃない。コー君、クルマを出して。栗林のクルマを追いかけるわよ」


 コータローは、両側から森が迫り、対向車が来たら身動き取れなくなりそうな狭い砂利道に高速で突っ込んでいった。一刻も早く栗林のクルマに追いつかなければならない。タイヤが砂利を弾き飛ばす音が聞こえ、クルマが激しく上下に揺れる。世津奈の胸にクルマ酔いの不安が兆してきた。


 栗林のクルマが前方に見えてきた。砂利をはね上げながら、かなりのスピードで走っている。コータローは速度を落とし、車間距離を一定に保ちながら安定したハンドルさばきで追い始めた。こんな荒れた道だが、クルマがひどく揺れないようにコータローが丁寧に運転しているのが分かる。


「宝生さん、かなり揺れるけど、大丈夫すか?」コータローが尋ねる。


「うん、大丈夫。今日、気が付いたんだけど、私は、クルマが揺れても、同じ速度で走り続けていれば大丈夫みたい。多分、止まったり・走ったりを繰り返されると、気分が悪くなっちゃうのね」実際、世津奈が懸念したクルマ酔いは、まだ、起こっていなかった。


 「あっ、栗林さん、左に行きますね。ダムに向うんだ」コータローが言い、栗林のワゴン車がY字路を左に折れていった。世津奈たちは、その後に続く。5分も走っただろうか。栗林のミニバンの前方で狭い砂利道がより広い舗装道路に突き当っているのが見える。その先には、キラキラ輝く水面。小河内ダムだ。


「やられましたね。今日は産業スパイとの接触はなしですよ」コータローが、さすがに落胆した声を出す。「この後、どうします」


 「このまま、くっついていくのよ。行動監視って、そういうものでしょ」と世津奈が言うと、コータローが「はぁ」と気のない声を出した。世津奈は、警察官時代に、猛暑、厳寒の中、何の収穫もなしに被疑者の行動監視を続けることには慣れていた。


 この一件でで、世津奈とコータローの顔は栗林に知られてしまったと考えた方がいいだろう。すると、今後の監視体制をどうするかという問題が出てくるが、それについては、本社に帰って高山社長と相談するしかない。


 「コー君は、会社のガソリンとクルマでドライブできて楽しいって言ってたじゃない。それを続けるだけでしょ」世津奈がからかうように言うと、コータローが「まぁ、そうなんすけど。でも、心のどっかではスパイの顔が拝めるかなって、期待してたんすよ」とぼやいた。


 「たまには、ダム見物で気分転換するのもいいんじゃない」そう言い終えた瞬間、世津奈の頭に「ひょっとして」と一つの可能性がひらめいた。


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