ⅩⅨ 女神、再臨(2)

「――ハァ…ハァ…」


 そうして、メルウトを先頭にした奇妙な一団が巨大なライオン像を先導して町を駆け抜けて行くと、それほど時を置かずしてナイルの河原へと辿り着く。


 メルウトがよく水面を見つめに来ていた、彼女にとっては馴染み深いあの場所だ。


「謀反人メルウト! 最早、おまえに逃げ場はないぞ! おとなしくそのアンクとセクメトをこちらに渡せ!」


 ナイルの流れを背に、息を切らすメルウトを取り囲むようにして、追い着いたウセルエン達はじわじわと迫ってゆく。


「なに? こんなとこまでつれて来といて、どこにもセクメトないじゃない! ただの時間稼ぎか何かのつもり?」


 同じく到着したアルセトも辺りの様子をテフヌトの中から眺め、つまらなそうにそう呟く。


「……ハァ……ハァ……」


「セクメトはどこだ⁉ まさか、我らを謀ったのではあるまいな?」


 上がった息を整えるため、いまだ肩を大きく揺らしているメルウトに、何もない、ただナイルの運んだ黒い土だけが広がる河原を見回しながらウセルエンは詰め寄る。


「セクメトは、ちゃんとここにあります!」


 対してメルウトは力強くそう答えると、何を思ったか胸にかけたアンクの紐を首から外し、それを頭上高く天に掲げる。


「でも、正義マアトに反するあなた達に渡す訳にはいきません!」


 そして、きっぱりと彼らの要求を断ったかと思うと、かつて朗唱神官として神殿での儀式を行っていた時を思い出すかのように、高々と、よく澄んだ声でその名を唱えるのだった。


貴女あなたはセクメト女神。病と戦を司る者の女主人。戦う者の声に姿を現す者。我らに害なす敵を目の前にした時、我は貴方に呼びかける……貴女の分身たるラーの眼イレト・ラー・セクメトよ! 我がもとに参れっ!」


 メルウトの声に合わせて、黄金のアンクが七色に輝いた次の瞬間。


 突如、彼女の背後に巨大な水柱が噴き上がり、朝日に輝く水飛沫の降り注ぐ中、金色の牝ライオンがナイルの水上にその姿を現した。


「ガオォォォーン!」


 直後、金色の牝ライオン――ラーの眼イレト・ラー・セクメトは咆哮を一つ上げ、波打つ水面を蹴ってメルウトのすぐ脇へと降り立つ。


「なっ…!」


 あまりの突然なことに、ウセルエン達アメン神官団の兵は呆然と突っ立ったまま動くことができない。


 その隙を逃さず、メルウトは素早くセクメトの鼻先にアンクを押し当て、さらに胴体の下に滑り込むと、開いた胸の装甲板からその中へと乗り込んだ。


 円柱形のジェド柱室に入ったメルウトは、急いで黄金の玉座に腰を下ろし、眼前の神聖文字ヒエログリフの書かれたパレットの穴にアンクを差し込んで90°回す。


 そして、両脇の殻竿ネケク管と牧杖ヘカ管を握ると、静かに目を閉じて意識を後頭部の偽扉に集中させる。


 刹那、アンクが再び七色に煌めき、ジェド柱室の緑色の壁に様々な光る神聖文字ヒエログリフが浮かんでは消えた後、壁は水晶のように透き通って外界の景色を鮮やかに映し出す。


 続けて、前回乗った時と同じように、よく澄んだ女性の声が室内に響く。


〝セクメトと女主人ネベト人格バー、接続完了……セクメトと女主人ネベト霊体カー、接続完了……〟


 自身の意識が、目に見えない肉体が、セクメトと同調していくのをメルウトは感じる。


人格バー霊体カー結合開始、アクに移行……セクメトと女主人ネベトアク、完全に連環リンクしました〟


 さらにそのセクメトと繋がった意識と肉体が再び結合する感覚に襲われ、メルウトは自分がこの巨大な牝ライオンと一つになったことを実感した。


「……ああ、そういうこと。町に被害を与えないよう、ここまであたしを誘い出したって訳ね。この期に及んでなんともお優しいこと……でも、そんな所に隠しておくなんて、なかなか考えたじゃない。あ! なるほど。ナイルを使ってセクメトを運んでたのね。それでナイルの流れに沿って逃走を……」


 目の前に現れたもう一体のラーの眼イレト・ラーを見つめ、アルセトはどこかうれしそうに独りごちる。


 テフヌトもそうだが、ラーの眼イレト・ラーはある程度の近距離であるならば、その操縦者として登録されたラーの眼イレト・ラー女主人ネベト・イレト・ラーによって歩かせるくらいの遠隔操作ができる……アルセトが推測した通り、メルウトは自身がナイルの川沿いを進むとともに、セクメトは遠隔操作で川底を移動させ、人の目から隠しつつ、なおかつ自分の目の届く範囲内に置いて運んでいたのである。


 まさか、そんな超古代の巨大兵器が水面の底にあるとは誰も思わないだろうし、ナイルが増水し始めた今の時期ならば、セクメトが見つかる可能性は極めて少ない。


「ま、そうこなくっちゃね。せっかくテフヌトに乗って来たのにおもしろくないわ」


 アルセトは不敵な笑みを浮かべて独り嘯くと、セクメトに向けてテフヌトを一歩前進させる。


「くそう……こうなることだけは避けたかったのに……」


 一方、恐れていた不安が現実のものとなり、ウセルエンは歯軋りをして金色の牝ライオンを睨みつけていた。


「かくなる上は……皆の者、弓に矢をつがえよ!」


 それでも、彼は恋人の危険を回避しようと、武装した兵達にセクメトを攻撃するよう指示を飛ばす。


「ウセルエン、闘いの邪魔よ! あなた達は下がってなさい!」


 だが、弓を構える彼らの耳に、テフヌトからそんなアルセトの声がかけられる。


「しかし……」


「生身の人間がラーの眼イレト・ラーに敵うと思ってるの? あなた達もセネブアペドの二の舞になるわよ!」


 ウセルエンは反論しようとするが、アルセトの言葉にセクメトを捕えようとして全滅させられた同僚のことを思い出す……確かに、自分達が戦いを挑んだとしても、それはただの自殺行為というものである。


「くっ……皆、退けいっ! 安全な場所で待機だ!」


 仕方なく、悔しい思いを噛みしめながら、ウセルエンは兵達を撤退させた。


「さあて、それじゃ邪魔者がいなくなったことだし、そろそろ始めましょうかね」


 ジェド柱室の透明な壁を通して小さなウセルエン達が前方より消えたのを確認すると、アルセトは得物を見つけた肉食獣のように眼を輝かせ、さらに一歩セクメトの方へと足を踏み出す。


「セクメトは絶対、あなた達に渡さない……例えそれが同じラーの眼イレト・ラーだろうとも、もしそれを倒さなくちゃセクメトを守れないというのなら、わたしはもう一度、このセクメトに乗って闘う!」


 セクメトの中のメルウトも、闘う意思を固めた瞳でテフヌトをしかと見据え、巨大なライオンの前脚でそちらへと歩み出る。


 二体の視線を遮るものは何もなく、金と銀に輝く二匹の牝ライオンの間には、他者が縄張りテリトリーに侵入した時の獣の如く、ビリビリとした緊張感が走っていた。


「アルセト……」


 その様子を遠くから、自分の無力さを呪い、彼女の無事を祈るような気持ちでウセルエンは見つめる。


「おい! ライオンが二体になってるぞ!」


「なんかヤバそうな雰囲気だけど……いったい何が始まるんだ⁉」


 河原にはアメン神官団の兵達以外にも、騒動の顛末を確かめに来た野次馬達によって、いつの間にやら二体のラーの眼イレト・ラーを遠巻きにする聴衆の山ができあがっている。


「ついに、ラーの眼イレト・ラー同士が相見えるか……」


「メルちゃん……だいじょぶかな……?」


 その中には、太陽神殿からメルウトの後を追って来たジェフティメスとウベンの姿もあった。


「敵対する二つの者が同じくラーの眼イレト・ラーを所有すれば、遅かれ早かれこのようなことになるのは必定……ラー人の遺産ラーの眼イレト・ラーがこの世に復活したことで、すでに世界は変わり始めておる。最早、誰にもそれは止められん……それに、これは彼女が選んだ道でもあるしの。今はあの子を信じて見守るしかあるまい」


「はい……うん。そうっすよ! きっとメルちゃんならだいじょぶっすよ!」


 険しい表情で二体のライオンを見つめて言うジェフティメスに、ウベンは無理に笑顔を作って、不安な自分の心を振り払った。


「悪いけど、あたしが手柄を立てるために、あなたにはここで死んでもらうわ」


 そうして多くの人々がそれぞれの想いで見守る中、アルセトはテフヌトの中で、その眼に鋭い殺気を宿らせる。


「わたしが、セクメトを守らなくちゃ……」


 メルウトもセクメトの玉座に座り、その胸に闘志を漲らせる。


 今まさに、まだラー人のいた時代にも経験したことのない、ラーの眼イレト・ラーラーの眼イレト・ラーという史上初の闘いが始まろうとしていた。


※挿絵↓

https://kakuyomu.jp/users/HiranakaNagon/news/16817330669083729346

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