願い事は何

吾妻栄子

願い事は何

「ヒロ叔父ちゃん、早く早く!」

 五歳の茉奈まなは真っ赤な着物の肩を揺らして笑う。

 これは姉が小学校に上がるくらいの年に着ていたお古だ。まるで子供に戻った姉に手を引かれている気がする。

「下駄だから、足元に気を付けてね」

 年の瀬に二人目が生まれたばかりの姉はまだ床から離れられず、母親も赤ん坊の世話、父親も痛風で足の調子が悪いとあっては、自分がこの姪の相手をするしかない。

「おみくじ、絶対引こうね!」

 小さな子って楽しみがあれば寒さを感じない機能でも付いてるんだろうか。

 新春の晴れ空の下、三十三歳にもなる自分には「寒い」「早く帰りたい」が先に来る。

 そもそも、正月の近所の神社になど行きたくない。


*****

「まだ、ちょっと待つけど大丈夫?」

 緩やかに動く列の中で繋いだ小さな手に確かめる。

「おみくじ引くから大丈夫!」

 言葉の額面よりも髪に挿した朱色の花飾りを震わせる笑顔が何よりの答えだろう。

 列の最後尾ではないが、真ん中よりも明らかに後方だ。

 あと、どのくらい待つのだろう?

 と、参拝を終えて帰ってくる人たちの中に、見覚えのある顔が浮かび上がった。

「あ……」

 相手も「おや」という表情になる。

「ヒロ!」

 先に呼び掛けたのは向こうだ。

「お久し振りです」

 中高で一緒だった、二つ上の岡田先輩だ。

 もっとも、目の前の相手は記憶の中の「岡田先輩」よりもそのお父さんの姿に近くなっている。

 俺も向こうの目には「随分おっさんになった」と映っているかもしれないが。

「娘さんか?」

 相手は笑顔で赤い着物の茉奈を指し示す。

 その背後では赤ちゃんを抱いた女性も微笑んでいた。

「いや、姪っ子です」

 岡田先輩にはちゃんと奥さんも子供もいるのだ。

「うちの姉の子です」

 相手の目にふっと寂しい笑いが浮かんだ。

茉莉まりちゃんの子なんだ」

 中高時代、この先輩が同級の姉を好きらしい空気は何となく感じていた。

「お母さんに似てるね」

 幼い笑顔が大きく頷く。

「マナはママそっくりなの!」

 それをしおに先輩一家はまた緩やかに歩き出した。

「じゃ、また」

 穏やかだが何かを諦めた風な笑顔で相手は振る。

「気を付けて」

 どう返すべきか迷って出た言葉はそれだった。

 人の波がまた静かに動く。

 先輩一家の姿はすぐに紛れて見えなくなった。


*****

「おみくじ、何て書いてある?」

 幼い目が陽に透けるほど薄い紙片ごしに自分を見上げている。

「初めは辛いことがたくさんあってもいい子にしていればいいことがあるんだって」

 別れた妻と去年ここで引いたくじも大体、似た文面だった。

 引いたのは自分か相手か忘れたが。

「いい子にしてればいいことあるの?」

「そうだよ」

 ずっと楽しそうだったのに、今になって、どうしてそんなに寂しい顔をするのだろう。

「もう帰る」

 俯くと、艶やかな黒髪に挿した朱色の花簪まで萎れて見える。

「もういいのかい」

「うん」

 こちらの手を握ってくる小さな手は思いの外、冷えきっていた。

 これでやっと帰れるのに、何故か嬉しくない。

「やだ」

 参拝を終えて出口に向かう列に紛れて数歩も行かぬ内に茉奈は小さな顔をクシャッと歪める。

「おうち帰るのやだ」

 大きな目から涙が伝った。

「いい子だから帰ろうよ」

 結婚中は子供が欲しかったはずなのに、今はこの子の世話が日常でなくて良かったと思う。

「いい子、いやだ」

 真っ赤な晴れ着に涙の粒が落ちて滲みる。

 列から離れ、屈み込んでハンカチで涙を拭こうとすると、幼い相手はイヤイヤする風に小さな両手で目を覆った。

「おうち、赤ちゃんがいる。ママ、具合悪くて遊んでくれない」

 この子は大人の顔色を窺う。

 そう語ったのは、姉ではなく母だ。

 茉莉よりあんたの小さい頃に似てる、とも。

「おばあちゃんのうち、もうやだ」

 姉の夫が海外に長期出張したために秋口から姉は子連れで里帰りしてずっと実家にいた。

 だが、五歳のこの子にとっては飽くまで「おばあちゃんのうち」で「我が家」ではないのだろう。

「帰るのやだ」

 自分も一人になった部屋で鬱々としているのが嫌で、年末は早々に実家に帰省して、今はこの子の世話すら持て余して、行くも帰るもならない。

「あっ、マナちゃん!」

 不意に背後で声がした。

 参拝待ちの列に紺のフリースを着た五歳くらいの男の子がいる。

「ユウトくんだ」

 茉奈は泣き止んで男の子を見やる。

 男の子の傍らに立つキャメルのコート姿の女性も眼差しを向けた。

実紗みさちゃん」

 思わず呼び掛けてから、この呼び名はもう馴れ馴れしいかもしれないと思い当たる。

 相手は一瞬、凍り付いた風に切れ長の目を見開いたが、すぐに遠慮がちな、よそゆきの微笑を浮かべた。

「高野くん」

 涼しげな目も、柔らかそうな栗色の髪も、彼女と手を繋いだ男の子はそっくりだ。

「マナちゃんのお父さん、来たの?」

 男の子は人懐こく笑ってこちらを示す。

 昔、実紗ちゃんが俺に見せてくれた笑顔と同じだ。

「ううん、これはヒロ叔父ちゃん!」

 実紗ちゃんは俺が子供もなく離婚したばかりだと知っているだろうか。

 まだなら、少なくとも今は知られたくない。惨め過ぎる。

「よく遊ぶお友達なの?」

 男の子に尋ねる彼女の横顔に、最初目にした瞬間には気付かなかったやつれが微かに認められた。

「そうだよ、おばちゃん」

 おばちゃん?

 一瞬、間を置いて「叔母ちゃん」と頭の中で変換される。

「うちの弟の子なんだけど、私、昨日、帰ってきたばっかりだから、普段は全然分からなくて」

 自分と同じ三十三歳の彼女はもはや「叔母ちゃん」どころか「伯母ちゃん」なのだ。

「私は子供どころか相手もいないのに、弟の所はもうすぐ二人目が生まれるって」

 あれ?

 実紗ちゃんは確か他県に就職して、六、七年前にそこで結婚したのではなかったか。

 自分も当時、別れた妻と婚約中で母からその話を聞いたのだ。

「俺も、そんな感じだよ」

 彼女はまた驚いた風に目を見張る。

「一緒に遊ぼうよ!」

 幼い少女の声に少年は列を飛び出す。

 キャメルのコートの彼女もそれに続いた。

「いいのかい?」

 寒い中、せっかく並んだ初詣の列なのに。

「私はもう、神頼みはいいかな」

 空を見上げて彼女が笑う。

 そこで、今日はこんなに青く澄んだ、高い空だったと改めて気付く。

「足元に気を付けなよ」

 前を小走りに駆けていく幼い二人に声を掛けつつ、自分と彼女は知らず知らず肩を並べて歩き出していた。(了)

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