第15話 夜明け前

「ハッサ教授、だいぶ落ち着かれましたよ。今はすっかり眠り込んでいます」


 気つけにボールペンで自傷した足のケガを風呂場で手当てするマイルズに、ルーシーがそう声をかけた。

 治癒促進の魔術紋を施し、きつく包帯を留めなおしたマイルズはうなずく。


「ありがとう。でも、わざわざ伝えに来なくていい。ハッサ教授から目を離さないでくれ」

「そんな……いえ、はい。そうですね」


 自身も一服盛られ、ただごとではないと理解しているルーシーはマイルズの指摘に顎を引く。

 あれからマイルズは、疲れで失神したハッサを家に連れ戻し、魔導外殻を使って事故車両を片づけた。すべてを片づけて泥を落とすころには、夜明け前になっていた。

 流血に汚れた洗い場を流し、血染めの服を捨てる。マイルズは表情を曇らせるルーシーに努めて明るく声をかけた。


「台風に紛れてはるばるきたんだ。きっとややこしい事情に俺たちを巻き込みたくないと思ったんだろう。相手はハッサ教授だ、あの状態でも意識を取り戻すなり逃げだしかねない。監視した方がお互いのためさ」

「わかっていますよ。……ありがとうございます」


 薄く苦笑して、二人はハッサ教授を寝かせる客間に入る。

 敷かれた布団で眠り込んでいるハッサ教授の顔は青白く、まるで病人のようだ。化粧と演技で隠されていた疲労が色濃くにじみ出ている。

 ひとまず逃げていないことを確認したマイルズは、布団の脇に広げたタブレットモニタを覗き込む。


「チップの解析は?」

「芳しくありません。特殊な情報集積方式なので、読みだすだけでも設備の地力が足りないんです」

「そうか……全容は分からなくてもいいから、手掛かりだけでも拾いたいな」


 床に胡坐をかく。ルーシーも隣に腰を下ろし、マイルズの腕に肩を寄せた。


「ハッサ教授は、いったいなにに巻き込まれているのでしょう」


 ろくでもないことには間違いない。

 ハッサは優れた研究者であるとともに、研究を指揮する海千山千の経営者でもある。

 彼女が所属した研究所は、それぞれの分野で重要な成果をあげると言われるほど彼女の手腕は確かだ。

 その彼女が裸足で逃げ出し、情報をリークするという強引な手段に打って出ている。

 あまつさえ、それを己の命で隠蔽しようとしたのだ。おそらくは、人為的に引き起こした土砂崩れに巻き込まれ、事故死と扱われることで。

 駆け引きを超えた直接的な事態。暴力の臭い。きな臭さにマイルズは鼻にしわを寄せる。


「マイルズ?」


 黙り込むマイルズをルーシーが不安げに窺っていた。

 軍人の表情を隠して、いつもの軽薄な笑いを貼りつける。


「……せっかく俺たちを頼ってくれたんだ。後悔させてやろう」

「後悔、ですか?」


 ルーシーは冷ややかに目をすがめた。いつもの彼女。

 訝しげな視線を受けて、マイルズは胸を張った。


「俺たちを見くびって逃げ出したことだよ。まどろっこしい工作をする必要はなかった。最初から事情を説明すればよかった、ってな」


 ふふ。ルーシーは声を漏らしてうなずいた。


「そうですね。きっと後悔させてあげましょう」


 そして青い目をハッサに向けて目を伏せる。


「……私たちは、世間から離れすぎていましたね。研究所が今、どんな状況にあるか、皆目見当もつきません」

「仕方のないことだ。覚悟のうえで出てきたんじゃないか」

「マイルズはそうかもしれません。私は……ちゃんと分っていなかったんだと思います」


 ルーシーは自分の胸に右手を当て、左手でマイルズの腕をつかんだ。強く握る。


「私は今、自分をとても情けなく感じています。分からないことが歯がゆいんです。ハッサ教授のおっしゃったとおり、私が副主任となっていたら……せめて、教授ひとりを苦しませることにはならなかった。力になれたかもしれないと思うと……私はくやしい」


 うつむく頭に、マイルズは手のひらを乗せる。

 小さい頭と柔らかな金髪は鍛えられた手のうちに収まってしまう。ぽんぽんと優しくなでる。


「大人になるってことは、それだけ何度も間違えるってことだ。きみは、またひとつ大人になった」

「……そう言いながら、子ども扱いするのはなぜです」

「大人を子どもみたいに扱うのは、倒錯的な心地よさがないか?」

「変態」


 ばっさり切り捨てられて肩をすくめる。

 その拍子に、ぐきゅると腹が鳴った。


「死に物狂いで逃げたから腹が減ったな……。ハッサ教授を見ていてくれ。冷蔵庫を物色してくる」


 立ち上がろうとしたマイルズの手を、ルーシーが引いた。


「座っていてください。足のケガは浅くないんですから。私が簡単に作ります」

「そうか? じゃあ甘えさせてもらおう」


 台所に向かうルーシーを見送って、マイルズはハッサを見た。

 白み始めた空にあってなお、台風一過の月明りは冴え冴えと強い。細面は死人のようにやつれ、人形のように儚げだ。


「本当に、どうしてなんだ。なぜ素直に頼らなかった。なぜ、死ななければならなかった……?」


 思い悩む矢先に、また腹が鳴る。

 考えるにも体力がいり、体力を使うには食事がいる。

 漂ってくる甘やかな香りに、マイルズは首を伸ばした。


「いい匂いだ。これは卵雑炊かな」


 腹持ちはよくないが、吸収しやすく体に優しい。夜食としてなら最適だろう。くそう、とマイルズは笑顔で歯噛みする。腹が減った。

 台所の音色に耳を澄ませて、


「マイルズっ! きゃあっ!?」


 鍋が床に跳ねる騒音が響く。

 床板をブーツが踏みつける、重くこもった足音も。

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