第14話 化粧

 マイルズは目を開けた。

 納屋の小さい採光窓が群青に染まっている。

 台風は夜のうちに通り抜けて、台風一過の晴れ渡った月夜が訪れていた。

 衣擦れの音に体を起こす。勝手口をくぐって母屋に上がった。物音を追って廊下を歩く。


「あら。起こしてしまいましたか」


 ハッサが居間に座っている。

 十二単にも似た、重ね着の着物だ。髪をアップにまとめてかんざしで留めており、ほっそりとしたうなじが月明りに浮き上がっていた。

 廊下に立ち尽くしたままのマイルズは、我に返って声をかける。


「なにをしているんだ?」

「さて、なんでしょう。私にもよくわかりませんわ」


 芝居がかったしぐさで肩をすくめた。

 唇に紅を差し、目じりに筆を乗せる。化粧をしたハッサは大人びており、息を呑むほど現実離れしている。

 化粧筆をケースにパチリと仕舞い、しずしずと立ち上がる。無言のままマイルズの前まで歩み寄ってきた。

 マイルズは怪訝に顔をしかめる。


「それは一体どういう仮装だ?」

「おめかしですよ。恥ずかしい格好で歩けないでしょう?」

「出かけるのか。こんな時間に」

「はい。そして、いいえ」


 ハッサはおかしそうに口の端を吊り上げる。今にもマイルズを頭から喰らってしまいそうな笑み。


「帰ってきてほしかったとは言いましたが。結果的には、あなたがたがここに留まってくれて助かりました」

「なぜだ?」

「そのうち分かります」


 煙に巻くハッサの顔を、マイルズは覗き込む。


「なにを考えてい……むっ?」


 しぃ。立てた人差し指に口づけをして、ハッサは魅力的に笑った。

 マイルズの口に押しつけた欠片から手を離す。剥がれ落ちる親指の爪ほどの固い板をマイルズは慌てて捕まえた。


「なんだこれは?」


 情報集積チップだ。通常の規格ではない、膨大な容量の特別製。


「お土産ですわ。大事にしてくださいね」


 水が流れるような流麗な後じさり。着物の裾を払う。背を向け、玄関におりた。


「おい、どこに行くんだ」

「私は急ぎますので。マイルズはまた眠ってください」

「なに……?」


 チップを窓辺に置いた途端。

 くら、とマイルズの視界がゆがんだ。唇を舐める。甘い。チップに何か塗られていた。

 にんまりと。満月を映す湖面のようにハッサは笑う。


「さようなら、にゃ?」


 ゆるく握った手首を曲げて、猫招き。

 マイルズは歩こうとして膝をつく。視界と平衡感覚が結びつかない。体が傾く。肘をついた。体が倒れている。

 かろうじて首だけねじり上げた。月明りを背に立つハッサが見える。


「ま……て」


 ハッサは玄関を開け、通り抜けて、後ろ手に閉めていく。

 玄関に差し込む青い光が帯になり、糸になり、途絶えて消えた。

 マイルズは起き上がろうとして失敗する。芋虫の這うような動きしかできない。壁に這い寄り、


「くそ、がァ!」


 壁に頭を打ち付けた。

 拳を握って床を殴る。痛む。目がくらつく。少しばかり気つけになった。

 玄関まで這ったマイルズは震える手で靴箱のうえのボールペンをつかむ。荷物のサイン用に置いてあるもの。ペン立てが床に落ちて見失った。構う余裕はない。定期的に膝から力が抜ける。

 ペンを固く握りしめた。


「ッぐぁあああぁああああああ! ぎ、はぁ……っ! 畜生ッ!」


 足に突き刺した。目の前が眩む。ぬるいものが溢れ、濡れた下穿きがふくらはぎに絡みつく。


「ルーシーは!?」


 慌てて振り返り、居間の向かいにある寝室を覗き込む。

 敷かれた布団にお行儀よく眠る彼女は、この騒ぎでも起きる気配がない。

 マイルズ同様、一服盛られたのだろう。ハッサとルーシーは一緒にいた。チャンスはいくらでもあったはずだ。

 涙が浮かぶほど目を凝らして、胸が規則的に上下しているのを見て取った。息をつく。


「なに考えてやがる、クソ狐」


 悪罵して、足を引きずるように玄関に下りた。扉に手を突き損ねて肩から衝突する。体を預けたまま押し開けた。

 表にハッサの姿はない。

 強烈な月明りが、地面に刻まれたわだちに影を作っている。


「車? そうか、ここまで車で来たのか。台風のなか、川みたいになってる山道を歩いてこれるはずがない」


 薬が効いているのか、唇や舌の根が乾いていた。唾を呑む。喉が渇いた。


「ったく、こんな即効性の薬を分量計りもせずに……後遺症残ったらいろいろむしり取ってやる」


 ふらつきながら、マイルズは納屋の隅にあるSUVに乗り込んだ。腰を下ろすと吐き気がこみあげる。唾を吐き捨てて、顔をゆがめた。


「新車のシートを自分で汚しちまった。クソっ、クリーニング代も請求してやる」


 キーを回す。燃料式の魔力炉を始動させるかすかな魔力消費だけで、背骨がねじ曲がるような悪寒が走った。ハンドルにかじりつくように握る。


「いい眠気覚ましだ」


 こめかみからごうごうと血の気が引くのを感じながら、マイルズはギアを入れて走り出す。

 この辺りには山と田んぼと空き地しかない。マイルズはハンドルを切り、主幹道路に入る。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ! 対向車が来たら死ぬな、俺」


 呼吸が浅い。ハンドルをまっすぐ保つことすらできない。SUVは落ち着きなく揺れて、たびたびセンターラインを越えた。

 道路のど真ん中をゆらゆら走ったあたりで、荒れ果てた田んぼの向こう、山沿いの小道に停まる車を見つける。

 グレーのミニバン。ブレーキランプがついている。マイルズは直感した。ハッサだ。


「見つけたぞオラァ!」


 ハンドルを切ってアクセルを踏み込む。

 路肩を乗り越えたSUVは田んぼに飛び込む。激しく跳ねる車の底からゴリッとえげつない音が響いた。シートを揺らし、SUVは果敢に泥と雑草の海をかき分けていく。


「あああ、ああああっ! 新車が! 俺の車が!!」


 泣き言と悲鳴をあげながらも、マイルズはアクセルを緩めない。一気に田んぼを突き抜け、不審車の前に飛び出した。


「な……マイルズ!?」

「やっぱりだ!」


 ミニバンの運転席で目を丸くしているのはハッサだった。

 化粧に着飾ったままの彼女は怒りに眉を逆立てて、激しい剣幕で怒鳴る。


「馬鹿! 今すぐここを離れなさい!」

「誰のせいでこんなところに来たと!?」


 マイルズは止まりきるのも待たずSUVを飛び降りて、足を貫く激痛に倒れた。

 ボールペンで足を突き刺したのは自分だ。後頭部とこめかみが脈動して、アドレナリンが吹き出すのを感じる。脂汗と笑みを滴らせながら這い上がり、ハッサの車にすがりついた。

 ハッサは豪華な着物に気合十分な化粧をして、安っぽい車のシートに収まっている。その取り合わせに思わず笑うマイルズを、ハッサは怒鳴りつけた。


「こら、すぐ戻りなさ……バカたれ! 死にますよ!?」

「いきなり薬嗅がされて、事情も聴かずに逃がせるか! ……死ぬだと?」


 マイルズの背中に泥水がはねた。振り返れば、崖から水が流れている。

 先ほどまで流れていなかったのに。

 濃密に吹きつける泥の匂い。


「あぁ、もう……!」


 絶望に打ちひしがれた声に、マイルズはハッサの車を振り返る。


「下がれ!」


 鍛え上げた腕を振り上げ、マイルズは肘でミニバンの窓を叩き割った。引きちぎるように破り、内側に腕を入れて鍵を開ける。ドアを開けた。息を呑むハッサを押しのけて運転席に滑り込む。

 ギアをバックに入れてアクセルを踏みにじった。

 ミニバンは驚いたように飛び退る。閉まりきらなかったドアが風圧で全開になった。

 ヘッドライトに照らされる目の前で、山の斜面が泥に濡れていく。

 どん、と森がどよめいた。

 木々の間から、げっぷのように泥が噴き出す。


「崖崩れ……!」


 マイルズはうめいた。

 地面にはねる泥水は、溜まるどころか勢いを増す。瞬く間にソウルレッドのSUVを押し流して泥に沈めた。


「ああああ俺の車!」

「自業自得ですにゃ!」


 嘆きながらもマイルズは微塵も速度を緩めない。

 片手でドアを閉め、片手だけでハンドルを操作しながらリアガラスをにらみつけた。車体下部に備えられた魔力炉が甲高い咆哮をあげている。

 流れる泥水は意思を持って追いかけているかのように、車の鼻先まで滑ってくる。下がっても下がっても距離は開かない。それどころか、前輪が泥を跳ね散らす音がバンパーに響き始めた。


「マイルズマイルズマイルズ!」

「連呼しなくても俺はここだ!」


 パニックに陥ったハッサがマイルズの肩を叩く。

 最大回転を続ける魔力炉から、ざりざりと尖った音がする。

 道が二股に分かれていた。山に分け入る上り坂と、麓を回るカーブ。


「ちょっと、マイルズちょっと!」

「わかってる!」


 マイルズはハンドルを切った。

 急な操作にスリップした車体は、上り坂に後輪を添えて鼻先を山道に振り向けていく。ギアをドライブに叩き込む。離したアクセルを蹴り込んだ。

 息継ぎをした魔力炉が甲高く吠える。泥を蹴散らした。


「あああああ!」

「にゃああああ!」


 急な転回でバランスを失ったミニバンは、上る途中であっけなく片輪を浮かせた。道を外れて森にダイブ。ハンドルとダッシュボードが白く爆発する。

 ミニバンは植え込みに埋まって、ずぶずぶと減速していった。

 あふれた泥は山道のふもとで迷うように溜まり、その侵蝕を止める。

 きぃいいいん、と衝撃の名残が遠く響いて消えていく。

 マイルズは鈍くうなって、痛む体を揺らした。腕が埋まっている。目の粗い布のような白。

 エアバッグに潰されている。

 頭痛にうめいて、マイルズは驚いたようにつぶやいた。


「……生きてる?」


 狭苦しい首を動かして隣を見る。

 ハッサは乱れた髪を散らして首をあげた。簪は髪に絡まってぶら下がっている。

 彼女もまた呆然とマイルズの目を見返した。


「……気のせいでなければ、生きていますにゃ」

「なるほど。どうやって確かめる?」

「ひとつ、いいアイデアが」


 言って、ハッサはマイルズに顔を寄せた。

 唇が近づく。


「むぐ」


 マイルズは手のひらでハッサの細い顎を押さえ込んだ。


「どうやら生きてるみたいだな」

「むぐぐ」


 マイルズは疲れた息を吐きだす。

 緊急時に落ち着くこと。それもまた世に聞こえる王国騎士団の仕事だ。

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