稲光颯太/ライト

 二十代半ばのその女、早希さきは独りベッドの上で横になっていた。

 金曜の深夜、先程まで続いていた会社の飲み会の所為で身体が怠い。自宅に帰ってすぐ、服を着替えないままベッドに飛び込んだものだからこれ以上無駄に動きたくない。カーテンはもう閉めたし、このまま寝ちゃおうかな。明日は休みだし。

 それでも、白いシャツとスーツのスカートのまま寝ようとする自分はどうなんだろうか。服に対する心配ではなく、女として。あまり良いことではないのかもしれないけど、眠いし。仕方ない。

 女子力なんていう言葉を頭の中から払いのけて、代わりに布団を被る。今は十月の下旬。早くも羽毛布団の暖かさが嬉しい。

 何もしなければすぐに深い眠りに就けるのに、敢えて週末のことを考えてみる。今日の飲み会の終わり辺りで、同僚の京子きょうこ明美あけみは日曜に彼氏とデートの予定があるって言っていた。私に彼氏がいないことは分かりきっているはずだが、それでも自慢してくるのは単に嬉しいからなのか。はたまた嫌がらせか。正直どちらでも構わないが、なんとも羨ましい限りだ。

 早希は二年前、大学に入ってからすぐに付き合い始めた彼氏と別れたっきり男っ気のない暮らしを続けてきた。別れたキッカケは彼氏の浮気。それを知った早希はすぐに別れを告げることにした。

 あの時、他の女と一度デートしただけだという彼の言葉を寛容に受け入れていれば今頃どうなっていただろう。もしかしたら今週の日曜は実家の父と母の元へ挨拶に行こうなんていう話になっていたかもしれない。そうなっていたら、今より幸せだと思えてるのかな。

 しかし、人生で初めて出来た彼氏に、早希はとにかく綺麗さを求めていた。なるべく長く純粋と言える状態でいたかった。そんな彼女に浮気なんてものは、限りなく黒に近い紫のような色をしていて気持ちが悪かった。

 寝返りを打って、壁の方を向く。

 あの時の彼は必死で謝っていた。その姿を見た時は、それまで頭を支配していた怒りが一瞬にして消え、可哀想だと思ってしまったのを覚えている。

 今もできるなら純粋さを信じて生きていきたい。当然、汚いよりも綺麗な方が私は嬉しい。でも、自分も含めた社の女性たちが軽くセクハラまがいな事をされたり、世の中の性犯罪に手を染める男性たちが多くいる事を知ってしまった今では、あの時の彼がした事はそんなに嫌悪するような事では無かったのかもしれない、と最近何度も考える。

 もしかしたら私が綺麗さを求めるあまり、気づかないうちに彼を束縛してしまっていたのかもしれない。束縛に耐えられなくなったことで、一度逃げ出したいと思った彼は浮気を…。

 部屋だけでなく、頭の中にも静寂が訪れる。白い壁がニヤリと笑った気がして、悪寒が体を走る。

 私が悪かったのかなぁ…。

 再び、三秒間の静寂。

 いや、ここで弱気になっては駄目だ。客観的に見ても完全に彼が悪い。浮気された方にも非があると言う人はよく居るが、彼らは自分が浮気された経験がないからそんなことを言えるのだ。もしくは浮気されても大して悲しくない程度の恋だったとか。私はそんなんじゃない。本気だったし、幸せだったのだ。

 早希の一人文句は止まらない。深夜の部屋に音を伴わない叫び声が響いていた。

 そのうち、現実には五分も経っていないはずだが、早希には二十分以上も文句を言い続けている気がしてきた。楽しくない時間は長く感じる。文句ばかり言っていると、自分が京子や明美をひがんでいるようになってきて楽しくない。

 もうやめだ、と布団をバサっと頭まで被らせて本格的な眠りの体勢に入った。

 こんな日はもう寝ちゃえ。寝れば大抵の嫌なことは忘れられる。明日の朝になれば、休みであることを呑気に喜んでいる私に戻っているはずだ。ほら、もう難しいことは考えられてなくなってきた。

 敢えて抗い続けてみた眠気もいよいよ我慢出来ないものになってきた。今にも眠りに落ちそうなギリギリの感覚が早希は好きなのだが、流石に我慢出来そうにない。それならば今思うことは、いい夢を見たいな…。

 その時、微かながら物音が聴こえた気がした。本当に大した音ではなかったのだが、眠り際の早希の注意を得るには充分なものだった。その音は玄関の方から聴こえたように思われた。

 閉じていた目を開けて、物音に耳をすましてみる。何も聞こえない。大丈夫だ、誰も居ないはずの場所から音が聴こえるなんて、案外よくある。

 だが、もう一度目を閉じようとした時だった。早希の背中の方、つまり部屋のドアの方からカチリ、というような音が聴こえた。そう、丁度、ドアノブを下まで下げると鳴るようなあの音だ。

 この時の早希は不思議と恐怖なんてものを感じなかった。何か考えたりする前に体が勝手に寝返りを打っていた。謎の音が聴こえたら正体を確かめなければいけない、と言っているようだった。

 その義務を果たすが如くドアの方を見た早希は絶句した。音がした理由は本当にドアが開いたから。開ききるわけでもなく、微妙に出来た隙間からはリビングから溢れる暗闇だけが見えている、はずだった。実のところほとんどがそうだったのだ、ある一点に浮かぶ物体を除いては。

 それの大きさは直径約二・五センチ。白と黒、そして微かに左右から走って来る細い赤の三色で構成されている。黒い部分は一点に固定されたまま、じっと動かない。それの丸さと色合いは、夜空に浮かぶ満月を連想させないでもなかった。ただし、あんなに高尚なものではない。全体から気分を害するような何かが滲み出していた。

 目だ。人の目。早希がそれに気づいた時は先程とは違う意味で難しい事を考えられなくなっていた。

 何で?誰?どうするの?どうすればいいの?怖い?面白い?気持ち悪い。逃げたい。動けない。ヤバい。

 あらゆる文字が頭に浮かんで、言葉になる前に消えていった。その所々で「混乱」という字が彼女の状態を表すように浮かんでいた。

 早希はしばらくの間どうすることも出来ないまま、ただただ一つの『目』を見つめていた。その『目』が小刻みに二回瞬きした時、やっと我に返って正常に思考を開始することができた。

 とりあえず声を上げろ。隣の部屋の人が気づくくらいに大きな声を。隣に住んでいるのはどちらも男性だからなんとか助けてもらえるだろう。

 そう決心して口を僅かに動かした時だった。早希を見つめる『目』の少し下に二つの物体が現れた。

 一つは早希も見慣れた、スマホ。その画面には大きめの文字だけが映し出されている。

“声を出すな”

 その左側、早希から見て左側にはカーテンの隙間から僅かに差し込む月明かりを反射している物が。あまり料理をしない早希にとっては見慣れているとは言い難い、台所の包丁が握られていた。

 青白く光るその刃は、刃こぼれの気配など微塵も見せていない。ドアの向こう側に居る相手は冗談でこんな事をしてるんじゃない。下手すれば、今日は私の人生最後の日になるのかもしれないと早希は恐怖が湧き上がるのを感じた。

 そんな状況であるから、勿論声は出せない。動きについては指示を受けていないのだが、それでも早希は動くことができなかった。じっと、布団に包まれたまま『目』を見つめる。

 このまま何もせずにじっとしていれば良いのか。この『目』の持ち主は何をしたいのだろうか。とりあえず命だけは、こんなところで奪われないように行動するしかない。混乱しているはずだが早希は意外にも自分の取るべき最善の行動を考えることが出来ていた。それは人間の防衛本能によるものなのかもしれない。

 そのまま、早希と『目』はしばらくの間お互いに行動を起こさなかった。その間にも『目』は数回瞬きをしてみせ、ドアの向こうには生きている人間がいることを証明し続け、早希は死なないことだけを考えた。

 早希には永遠と思える程の長い時間が経って、おもむろに『目』が持っているスマホが動いた。早希は身体を強張らせる。

 一度消えたスマホが再び現れ、早希に新しい指示が与えられた。

“服を脱げ”

 その文字を見た時、不思議と早希はホッとした。別に彼女がそのような命令をされるのが好きという性癖を持ち合わせていたのではない。露出狂であったわけでもない。

 ただ純粋に彼女はその時、恐怖に囚われていた。ドアの向こうの相手が一体どんな指示を今後出してくるのか。もしかしたら、死に至る寸前まで早希を苦しめるような指示を出してくるかもしれないと思っていたのだ。それに比べれば、服を脱げというのはありきたりで、『目』の持ち主が男だったら当然選ぶであろう選択肢のように思えて、ほんの少しだけだが安心出来てしまった。

 ただそれは本当に一瞬で、自分が今から服を脱がないといけないことをはっきりと認識した時、先程までとは別種の恐怖が心を侵食していくのを感じた。

 その恐怖に死は関係ない。それでも女として存在するこの身体を、見ず知らず(で、あるはず)の男(と、思われる)に自由にされるのは恐ろしかった。もしかしたら服を利用して首を絞めたりして抵抗することを相手は恐れたのかもしれない。ただ純粋に早希を犯そうというのかもしれない。そんなのはどちらでも良かった。この身体は早希なりに大事に守ってきたつもりだった。今まで、なるべく傷など残らぬよう、なるべく男には触らせぬよう大切にしてきた身体だった。それが今から、今から知らない誰かに壊されるかもしれない…。死の恐怖の前にやってきた、女としての恐怖だった。

 そんなわけで、早希はすぐには行動を起こせなかった。そこには誰かが助けに来てくれないかというあり得ない希望も僅かに含まれていたが、恐怖によって身体が硬直してしまっていたことが一番の原因であった。

 そんな早希の態度が気に入らなかったのか、『目』は包丁の柄の方で壁を二回叩いて早希を急かした。皮肉なことに、その行為により発せられた音で早希の身体は動くようになり、急かされるがままに服を脱ぎ始めた。

 僅かな希望を抱きながら、まずはシャツだけを脱いでみた。下は履いているし、上は下着を着けている。この状態で相手が満足するならまだマシだ。

 その姿のままベッドの上に座りながら『目』の方を見る。できるだけ媚びるような表情を作りながら、相手の機嫌を取るように。

 しばらくは寒さを我慢しながらそうしていたが、『目』は何をしているんだ、と言うようにスマホを振って画面に映された文字を強調してきた。

“服を脱げ”

 分かってるわよ、と頭の中だけで文句を言いながら慎重に、できる限り時間をかけてスカートを脱いだ。それでもすぐには下着を見られないよう、スカートで隠しながらベッドの奥の方に移動する。

 そしてまた、できる限り時間をかけながらスカートをベッドの下に置いた。ゆっくりと時間をかけて『目』の様子を伺うが何も反応はない。強いて言えばまぶたが少しだけ下がった気がする。目を細めただけなのかもしれないが、いずれにせよ先程までよりは笑っているように見えた。

 全貌が露わになった白いふくらはぎに鳥肌が立つ。当然のことだ。寒さ以外にも要因がありすぎた。

 自分の鳥肌を見るのをやめ、顔を上げると『目』に変化が起きていた。二つに増えたのだ。

 よく考えると元から二つないとおかしいはずの物ではあるのだが、早希は今まで違和感を感じてはいなかった。ドアの向こうに居る相手はずっと片目だけで見ていたのだろう。なぜか『目』は二つある方が違和感を感じる。一つの方が良かったのにと思った時、早希はこの状況に慣れ始めていた自分に気がついた。それもまた、恐ろしいことだった。

 そんな恐ろしさに怯えつつも『目』の様子を伺ってみる。少し遠慮がちに相手を見続けてみるが動く気配を見せない。この調子で朝まで時間を稼げば自分は助かるのではないか。根拠のない希望が湧いてきた。

 そのまま三十分、これは早希の体感時間で本当は三分が経って『目』の方に動きが見えた。

 先程まで服を脱ぐように指示をしていたスマホを一度暗闇の方に戻し、何か新しい指示を出そうとしているようだ。その間にも包丁はしっかりこっちを向いているが、今ならなんとか反撃に出られるだろうかとも思う。勢いよく飛び出して相手を突き飛ばしてベッドでドアを塞げばなんとかなるかもしれない。でも『目』の持ち主は男性のようだし、第一そんなに上手く事が運ぶとは思えない。チャンスは今だけなような気もするが何よりも大切なのは命だしな…。

 そんな風に反撃するか否か決めあぐねていると再びスマホが顔を出した。早希の身体が異常に驚いた反応をしてみせる。こんなにビビってちゃ反撃なんて駄目だ。そう思いながらとりあえず新しい指示を読んでみる。

“下着も抜げ 全部だ”

 スマホに書かれた文字を小声に出して読みながら、早希の全身には鳥肌と悪寒が走って行った。

 何よこいつ。下着姿でも相当恥ずかしいのに、それじゃあ満足してくれないわけ?男ってみんなそうなの?最低。


 さて、どうしようか。やはりここは指示に従うしかないのだろうか。本当に嫌だ。嫌だ。でも命は守りたい。

 早希はやはり、すぐには動き出すことが出来なかった。同じ状況に立たされたら恐らく多くの人が同じように動けなくなるだろうと思う。早希も例外ではなかった。

 とりあえず時間を稼ぐことが今の彼女には重要だった。朝が来れば助けがくると信じ切っていた。

「ちょっと、下着姿じゃ満足出来ないわけ?この変態」

 時間を稼ぐ手段として、禁じられてはいたが話しかけることを彼女は選んだ。相手の“声を出すな”という指示はマンションの隣人たちに気づかれたくないから出したわけで、もちろん早希もそのことは分かっていたので小声で話しかけた。

 それでも『目』の方に反応はない。相手は変態と自覚した上でこんな脅迫めいた事をしてきているのかもしれないと思うと、先程の言葉は全く効果がないものに思えた。

「じ、じゃあ今から脱ぐからちょっとあっち向いててよ。流石に恥ずかしいからさ」

『目』が動きを止める。さっきから動いてはいないのだが早希にはそう感じられた。

 こんな要求通るわけがない。それは分かってる。だから、せめて時間稼ぎだ。こんな感じの小さい時間稼ぎを続けていって、朝を待つのだ。

 ふと、一瞬の瞬きの間に『目』が消えた。消えたと思った瞬間に再び現れたので相手も瞬きしたのだと気づく。瞬きのタイミングが合ってしまったことに早希は嫌悪感を抱いた。

 再び開かれた『目』は先程より大きく見えた。それにより白い球体はより正円に近づいて、見てる側からすると気持ち悪い。人間の目なんて基本そんなに丸く見えないのだ。日々の疲れと年季で先の尖った楕円のようになっているのが普通。

 早希がそんな風に考えながら意識を少し別のところに持って行ってると、スマホの横に浮かぶ包丁が少し揺れた。

 と思った瞬間、その包丁はスマホの画面に強く傷を付けだした。相手が苛立ってきているのは明らかだ。ここらが潮時と、早希は下着を脱ぐ覚悟を決める。

「分かった、脱ぐ。脱ぐから怒らないで」

『目』の機嫌を取るように上目づかいで言いながら後ろに手を回した。中々ブラのホックが外れないふりをしながらゆっくり胸を露わにしていく。

 とりあえずはブラだけを取って腕で胸を隠した。すると予想はしていたように『目』は包丁を持った手で隠すな、と言うようなジェスチャーをしてきた。早希はおとなしく従う。

 その動作の余韻を少し作って、次は下を脱ぐ動作に移る。

 下着に手を掛け、チラッと『目』を見てみると五回程続けて瞬きをした。さっきからやたらと瞬きが多い気がする。こんな事をさせておいて、こいつ、もしかしたら緊張してるのか?それならば相手は余裕の無い人間だと直感し、早希にも余裕が無くなる。最終的に殺すのが目的でなければ良いのだが。

 それから早希はかなりの時間をかけて全ての衣服を脱いだ。こんなに時間をかけて裸になったのは人生で初めてだった。

 裸になってまずは体育座りでベッドの上に座った。隠さなければいけない所は隠して。直ぐに『目』が不機嫌になるかと思っていたが、その考えとは裏腹に『目』は満足気に細くなった。そういえばどっかのアイドルがこのような格好でグラビアを撮っていた気がする。男はこんなのが好きなのか。

 そのまましばらくは沈黙が流れた。自分でも聴いたことがない程心臓の音が大きく聴こえてきた頃、『目』の持つスマホが動きを見せた。

 一度暗闇に消えたスマホは再び早希の目の前に現れ新しい指示を出す。

“ベッドから降りて、気をつけをしろ”

 なんてこと。遂に私の身体の隅から隅まで見ようと言うのか。覚悟は決めたはずの早希だったが、それでもいざその瞬間が来ると動かなくなった。この日、早希は恐怖を感じると動かなくなるタイプであることを何度も自覚させられた。

 自分はやるときはやる女だと思ってたのにな、と少し自分に落胆しながらゆっくり足を床に降ろしていく。必然的に『目』、及び包丁との距離が近くなっていくことに改めて恐怖を感じる。なんだか刺す気があまり感じられなかった包丁もやる気が出てきたのか青白く光っている。月の光の反射なんかではなく、自ら光を放っているように見えた。

 そして、とうとう早希は覚悟を決め、たのではなく阿保みたいに頭の中を真っ白にして直立不動の姿勢をとった。その方が恐怖や恥じらいを感じ難くて済むと、この窮地で気づいたのだから早希は決して阿保ではない。

 その様子を見て『目』は少し驚いたようにも見えた。目の前には大人の女性の裸体、しかも何処も隠そうなんてせずに堂々と立っている。恥じらいがある方がまだ楽しく見れるように思える。

 しかし、それでも『目』はこれ以上にない嬉しそうな表情(と言っていいのだろうか)を浮かべた。ここまで目だけで感情を表せる人がいるなんて。早希は立場を忘れて素直に感心してしまった。

 その間にも『目』は文字通り早希のことを隅から隅まで眺めていた。ああ、ダメ。やっぱりどうしても恥ずかしい。汗なのか何なのか、身体中の表面が何かしらの液体で濡れてきた。裸婦像はいつもこんなにも恥ずかしい思いをしているのだろうか。視界の悪い夜には少しホッとしたりするのだろうか。いや、彼女達は美術だ。美しいからいいのだ。じゃあ、私はどうなの?

 極度の恐怖と緊張から現在考える意味のないことばかり頭に浮かぶ。人間、ある程度のところで現実逃避しないとダメになるのかもしれない。

 相変わらず『目』は嬉しそうに早希を眺めている。よくもまあこんなに瞳だけで感情表現が出来るものだ。私が今まで出会ってきた人たちとは異質なものを感じる。特に元カレとは。彼は付き合い始めてしばらく経つと目がいつも退屈を物語っていた。この『目』とは別の出会い方をしていれば良い関係を築けたのかもしれない。早希は世の中の上手くいかなさに、なんだか哀しくなった。

 そんなことを考えているとまたもや新しい指示が出された。

“ベッドの上で四つん這いになれ”

 その指示を見た時、早希の胸の内に漠然とした大きな不安が出現した。このまま指示に従っていても助かるイメージが湧かなかった。やはり最後はあの包丁で心臓を一突きにされるのではないか。

『目』が包丁を軽く振り回す。早希は慌てて指示通りの格好をする。

 その際、ベッドまで移動する間に早希は気づかれないように相手の姿を見ようとした。しかし、カーテンの隙間から溢れる僅かな月明かりが照らすのは、ただ一つ、『目』だけだった。

 『目』の周りくらい見えてもいい気がするけどな、と別に知りたくもない相手の顔を彼女は気にしてみた。その合間にも指示通りのポーズを取り続ける。命だけは奪われないように。

 何分か経って、いきなり『目』がスマホを包丁で叩いた。驚いて見ると新しい指示が出ていた。早希が気づかなかっただけのようだ。

“仰向けに寝ろ”

 少し忘れかけていた、ゆっくり動くという事を意識しながら指示通りの体勢になる。ドアの向こう側からカチャカチャと金属の触れ合うような音が聴こえた気もするが無視した。

 それからと言うもの、『目』は何度も指示を出した。

“壁に手をついて腰を突き出せ”

“さっきの体育座りになれ”

“座って足を出来るだけ広げろ”

“俺を誘惑するつもりでポーズを取れ”

 だんだん要求はエスカレートしていった。早希は、自分も変態になるようでなければ苦痛でしかない要求にひたすら従うしかなかった。しかし、そんな早希の頑張り(と呼んでもよいのだろうか)虚しく、『目』の様子は退屈そうなものへと変わっていった。

 始めは恥と希望を交互に抱きつつ行っていたポージングも、今では終わりの見えない恐怖だけしか感じられなくなってきた。と、早希が思うようになった頃、『目』が出す指示の間隔が長くなり、遂には十分程スマホの画面は見えなくなった。その沈黙の後、『目』が出した要求は違和感を感じるものであった。

“声を出すな”

 声を出すな?何でわざわざ最初に出したのと同じ指示を。ここらでもう一度釘を刺しておこうとでも言うのだろうか。それにしても異質に感じる。

 それから『目』は何かに迷っているような素振りを見せた。躊躇っているようにも見える。それから、一つ長めのため息をつき決心を固めたようにこちらを見た。

 そして、音を立てず、しかし勢いよく『目』はドアを開き部屋に入って来た。早希は指示に従うまでもなく、呆気に取られて声が出せなかった。

『目』の持ち主はやはり男だった。大きな喉仏を見れば分かる。顔には黒い目出し帽を被っていて、なるほどこれなら小さな月明かり程度では顔を見ることが出来ないわけだ。

 男は足音を立てずに早希のベッドのすぐ横まで移動した。そして、「ごめんな」と一言だけ小さく呟いた。

 ああ、そうか。そうだったのか。だとしたらもう終わりだなぁ。

 聴き覚えのある声をこんな場面で聴いてしまったことを思いながら、早希は意識を失った。



「以上が僕の見たものです。すいませんね刑事さん、お話だけになっちゃって。カメラは海に捨てちゃったんですよ。でも彼女のことは二年間も見続けたので結構分かってるつもりですよ。今の話の早希さんの心情は全て想像ですけど、だいたい合ってると思います。僕、結構文才もありますし。いや〜しかし、元カレが別れた元カノを腹癒せで殺すってのはよく聞きますけど、実際に見るといいものじゃないですね。屑ですよ、この元カレは」

「しかしまだ元カレという確証は得てないしなぁ。……え、なに、自白したって?ああ、そう…」

「ほら、言ったじゃないですか。僕の証言のお陰で犯人逮捕に至ったんですから、盗撮魔だって役に立つでしょう?感謝状貰って、盗撮を公に認めてもらいたいくらいですよ」

「何言ってんだ、お前も逮捕だ」


〈終わり〉


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